復讐

 

 

申命記32・35

 

わたしが報復し、報いをする

彼らの足がよろめく時まで。

彼らの災いの日は近い。

彼らの終わりは速やかに来る。

 

 

詩篇94・1

 

主よ、報復の神として

報復の神として顕現し

全地の裁き手として立ち上がり

誇る者を罰してください。

 

 

箴言25・21−22

 

あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。

渇いているなら水を飲ませよ。

こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。

そして主があなたに報いられる。

 

 

ローマ12・19−20

 

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 

 

旧約聖書続編エズラ記(ラテン語)16・48−54

 

彼らが町々や家や財産やわが身を飾れば飾るほど、彼らの罪のためわたしの怒りは激しくなる。」主は言われる。売春婦が純潔で善良な婦人を激しく憤らせるように、正義は、不正が自分を飾るとき、激しく憤る。そして、地上のあらゆる罪を吟味する正義を擁護する方が来られるとき、正義は、面と向かって不正を告発する。だから不正も、その業もまねてはならない。なぜなら、見よ、間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。罪人は、自分が罪を犯さなかったと言ってはならない。「わたしは神とその栄光の前に罪を犯しませんでした」と言う者の頭の上には炭火が燃えるからである。

 

 

天界と地獄584

 

 地獄は、至る所に、山や、岡や、岩の下にも、平原や、谷間の下にもある。山、岡、岩の下にある地獄へ通じている入口、または門は、穴や岩の裂目のように目に見え、あるものは拡がって、広く、あるものは窮屈で、狭く、その多くは凸凹が激しい。凡ては、その中を覗き込むと、暗く、また薄暗く見えるが、しかしその中にいる奈落の霊らは燃えている石炭から発してくるような光の中にいる。彼らの眼はそうした光を受けるのに適しているが、それは、彼らは世に生きている間、神的真理を否定することによって、その真理に対しては暗闇におり、誤謬を確認することによって、その誤謬に対しては一種の光にいたという理由によっている。そのため彼らの眼の視覚はこの光に適合するゆおになっており、またその同じ理由から天界の光は彼らには暗闇となり、それで彼らはその穴から出てくると、何一つ見えない。これらの事から、人間は神を承認して、天界と教会の物を自分の中に確認するに応じて天界の光の中に入り、神を否定して、天界と教会の物に反したことを自分の中に確認するに応じて、地獄の暗闇に入ることが明らかにされたのである。

 

 

天界と地獄585

 

平原や谷間の下に在る地獄に通じた入口、または門は色々な外観を見せて現れており、あるものは山、岡、岩の下にあるものに似、あるものは穴やほら穴に似、あるものは大きな裂目や渦巻きに似、あるものは沼に似、あるものは湖に似ている。凡てのものは覆われていて、霊たちの世界から悪霊が投げ込まれる時以外には開かれもしないが、それが開かれると、そこから、燃えている建物から空気中に現れるような、煙まじりの火のようなものか、煙のない焔のようなものか、または燃えている煙突から出てくるすすのようなものか、または霧と密雲のようなものかが吐き出される。私は以下のことを聞いたのである。すなわち奈落の霊らはそうした物を見ないし、また認めもしていない。なぜなら彼らはその中にいると、自分自身の大気中にいるように感じ、かくて己が生命の歓喜を覚えるからであり、これはそうした物が彼らの持っている悪と誤謬とに相応している為であり、すなわち、火は憎悪と復讐に、煙とすすはそこから発する誤謬に、焔は自己への愛の悪に、霧と密雲はその誤謬に相応しているためである。

 

 

 

天界の秘義956

 

 復讐に執着し、自分自身を他のたれよりも偉大なものと考え、他の者を自分自身に較べて何ら取るに足りぬ者とみなしている者どもは以下のように引き裂かれる刑罰を受ける、すなわち、彼らは人間的なものが何ら残らなくなるまでも身体と顔を切り刻まれ、顔は広くて、まるでケーキのようになり、腕はぼろ布のように見え、しかもそれが引きのばされて、その人間は高い所をぐるぐると、絶えず天の方へ向って旋回させられる一方では、その品性は凡ての者の面前で布告され、ついには恥辱が彼の心髄までにも滲み通るようになる。かくて彼は哀願者となって、彼に口授される言葉で赦免を乞うように強制される。その後で彼は汚れたエルサレムの近くに在る泥沼に連れて行かれ、その中へ突っ込まれて、泥人形のようになる迄もひきづりまわされるが、しかもそれが繰返し行われて、ついにはこのような欲念も取り去られてしまう。この泥沼には膀胱の領域に属した邪悪な女連がいる。

 

 

 

天界の秘義2590

 

異邦人でも道徳的な生活を送って従順であり、相互愛に生き、その宗教に応じて何らかの種類の良心を受け入れた者は他生で受け入れられ、そこで天使たちから入念な配慮の下に信仰のいくたの善と真理とを教えられるのである。彼らは教えを受けている間、つつましく、理知的に、賢明に振る舞い、容易に教えを受け、またそれに滲みこむようになるのである。なぜなら彼らは、悪い生活を送った多くの基督教徒とは異なって、取り払ってしまわなくてはならない信仰の諸真理に反した原理を自ら形作ってはいないし、ましてや主に対し彼らを躓かせるものは何一つ形作ってはいないからである。さらにこのような者たちは他の者を憎まないし、危害を加えられても復讐もしないし、また術策や詐欺をたくらみもしない。いな、彼らは基督教徒に善意は抱いているが、これに反し基督教徒は彼らを軽蔑し、為し得る限り暴行を彼らに加えるが、しかし彼らは主により彼らの無慈悲から遠ざけられて、守られているのである。

 

 

 

天界の秘義8223[]

 

悪霊が善良な者に悪を加えようと欲するとき、痛ましい刑罰を受け、他の者に加えようと意図したその悪がその者自身に帰ってくることが再三他生で起こっているのである。その時はそれはそれが恰も善良な者により復讐であるかのように見えるが、しかしそれは復讐ではなく、また善良な者から発していないで、悪い者から発しており、その悪い者にそのとき秩序の法則から機会が与えられるのである。 否、善良な者は彼らに悪を欲しはしないが、それでも刑罰の悪は取り去ることはできないのである。それは彼らはそのとき善い意図の中に留めおかれているためである―それは丁度犯罪人が罰せられるのを見るときの裁判官にも似ており、または自分の息子がその教師から罰せられるのを見るときの父にも似ているのである。刑罰を加える悪い者はそれを悪を行う欲念から為すが、しかし善良な者は善を行う情愛からそれを為すのである。この凡てから、前のような、マタイ伝の、敵に対する愛に関わる主の言葉の意味と、主から廃止されはないで、説明をされた報復の律法に関わる主の御言葉の意味を認めることができよう。すなわち、天界的な愛の中にいる者たちは報復、または復讐に歓喜を覚えてはならず、益を与えることにそれを覚えなくてはならないのであり、また善いものを守る秩序の法則そのものは、悪い者らを通して、それをその法則そのものから遂行しているのである。

 

 

 

 

(復讐の痛ましい刑罰について)

 

霊界日記944

 

もっともらしい理由から、例えば、復讐は王者に似つかわしく、自分の威儀には適わしいことであり、または自分はそれは正当なことである、と考えている、といった理由から復讐の精神を身につけた者らは、その不潔な、汚れた性質を認めるようにと、苛烈な刑罰を受ける。