歪曲

 

奈落の歓喜地獄尿排泄物逆様

低次元の霊魂

 

 

 

天界の秘義794

 

「そして水は非常に甚だしく地に強められた。」これは誤謬の幾多の信念がこのように増大したことを意味していることは『水』について直ぐ前に言われ、示されたところから、すなわち、洪水の水または氾濫は誤謬を意味しているということから明らかである。ここには、誤謬または誤ったものの信念がさらに増大したため、『水は非常に甚だしく強められた』と言われているが、それは原語では最上級となっているのである。誤謬とは誤ったものの原理であり、信念であり[誤ったものを原理とし、それを信念としたものであり]これらが洪水以前の人々の間に甚だしく増大したことは前に彼らについて言った凡てから明白である。(その誤った)信念は人が真理を欲念に混ぜ合わせる時、または自己と世を求める愛を真理に支持させる時、無限に増大するのである、なぜならその時無数の方法で彼らは真理を歪曲し、これを強制して(自己と世を求める愛に)一致させるからである。なぜなら自分自身のために誤った原理を吸引した者であって、または形作った者であって、たれがその原理をその者が学んだ多くの物により、実に聖言によってさえも、確認しないであろうか。異端であって、その異端を確認するためにこのように幾多の物を把えないものがあろうか。また(その異端に)一致していないものを、それが一致するように、それをこじつけ、色々な方法で説明し、歪めさえしないものがあろうか。

 

 

 

天界の秘義798

 

人間のもとにある残りのものについては、事実は既に述べたように、誤謬の諸原理は、ましてや洪水以前の人々の許に在ったような誤謬の信念は、その残りのものをそれが持ち出されることが出来ないほどに、また持ち出されても、直ぐに誤謬化されてしまったほどにも全く閉じ込め、隠し去ってしまったということである。なぜならそれが信念の生命であって、それは凡ゆる真理を斥けて、誤謬をことごとく吸引するのみでなく、近づいてくる真理をことごとく歪曲してしまうからである。

 

 

 

天界の秘義2284[2]

 

善いものは一つとして、また真のものも一つとしてそれが主から発していなくては存在しないのであり、また善い、真のものであるものは主から人間の中へ絶えず流れ入っているが、しかしそれは色々な方法で受け入れられており、事実悪の生命に順応して、また人間が確認した誤謬の原理に順応して受け入れられていることは良く知られている。これらのものが主から絶えず流れ入っている善と真理とを消滅させるか、窒息させるか、または歪曲するか、するものである。それで善が悪に、真理が誤謬に混入しないように、(もしそれらが混入するならばその人間は永久に死滅してしまうからである)、主はそれらを分離され、その人間が受け入れるその諸善とその諸真理とをその者の内的な人の中に貯えられて、主はその人間が悪と誤謬の中にいる限り、その善と真理とがその内的な人から現れてくるのを決して許されはしないで、ただその者が聖い状態の中に、または何か不安、病気、または他の困難な状態の中にいるといった時にのみそのことを許されるのである。主がこのように人間のもとに貯えられたものが『残りのもの』と呼ばれるのであって、それについては聖言に夥しく記されているが、しかしこのことがその意味であることは未だたれにも知られてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義3938[5]

 

しかし誤謬と悪とはこれらの歓喜を受け、窒息させ、歪曲し、そこから愚鈍と狂気とが発生してくるのである。

 

 

 

天界の秘義5390

 

 不潔な排泄物に相応している他の霊もまた、即ち、世では執拗に復讐を求めた者もいる、これらの者は左の方の前面に私に現れた。この不潔な排泄物にはまた霊的な事柄を不潔な地的な物に引き下げる者らが相応している。このような霊どもが私のもとへ来て、汚らわしい思いを持って来た、彼らはその思いから汚らわしい事を語り、また清潔な事柄を不潔な事柄に歪曲して、そうしたものに変えもした。こうした種類の多くの者は世では最低の階級の者に属していたが、或る者は高い地位の人々に属していた、彼らはその身体の生命の間では人前には実際そうしたことは語りはしなかったものの、それでもそうしたことを考えていたのである、何故なら彼らは恥辱を受け、友情、利得、名誉を失いはしまいかと恐れて、その考えたままを口にすることを控えさせたからである。それでも彼らは互に似通った者の間では、自由になると、最低の階級の者のように語り合い、否、彼らよりも更に汚らわしいことを語り合ったのである、何故なら彼らは一種の知的な能力を持っていて、それを濫用して、聖言と教義の聖い事柄をさえ汚したからである。

 

 

 

天界の秘義4317[5]

 

それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(即ち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらは跳ね返されるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識[善と真理を認識すること]は全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。

 

 

 

天界の秘義7437〔2〕

 

 悪から進んで誤謬を考えることについては、悪の中にいる者らは悪から進んで誤謬を考えないわけにはいかないことを知られたい、なぜなら悪は彼らの意志のものであり、従ってその愛のものであり、誤謬は彼らの思考のものであり、従ってその信仰のものであるからである。なぜなら人間はその意志する〔欲する〕ものを愛し、その愛するものを確認もし、弁護もし、悪は誤謬によらなくては確認も弁護もされることは出来ないからであり、それで聖言では、悪が都に譬えられているところでは、誤謬は都の周辺の城壁に譬えられているのである。悪の中にいる者らは誤謬を考え出し、その誤謬によって悪を弁護することは、悪は彼らの生命そのものとなっているほどにもその生命の歓喜そのものとなっているためである。それで彼らはそれが悪であることを他の者たちから悟ると、その時はそれがそうしたものに見えないように、誤謬を案出し、その誤謬によりその悪が悪であるとは信じられないようにしむけるのであるが、もしその悪が誤謬を通して敢えて現れようとしないなら、それは内部に隠れており、法律を恐れる思い、または利得のために、または名誉を得るために(自分の)世評を悪くはしないかと恐れる思いが無くなってしまう時以外は現れもしないのであり、そうした恐れが無くなると、その時はその悪は策略の形をとって、または公然とした敵意の形をとって迸り出てくるのである。

 

 

 

天界の秘義7437〔2〕

 

 この凡てから悪の中にいる者らは悪から進んで誤謬を考えないわけにはいかないことを認めることが出来よう。善の状態の中にいる者たちもまた同じであり、彼らも善から進んで真理を考えないわけにはいかないのである。なぜなら善と真理とは連結しており、また悪と誤謬も連結していて、そのことは、たれかが善の中にいることを知っている者はそのたれかはその善の真理の中にいることを知ることが出来る程にもなっており、また悪の中にいる者はその悪の誤謬の中におり、その者は推理し、歪める資質に長じているに応じ、また利得と名声とのために世評を悪くしはしないかと恐れるに応じ、また悪を行う自由の中にいようと望むに応じ、そうした誤謬の中にいる程にもなっているのである。言うも奇妙なことではあるが、こうした人物はしばらくの間誤謬により悪を弁護した後では、遂には悪は善であり、誤謬は真理であると自分自身に説きつけるのである。

 

 

 

天界の秘義10187

 

なぜなら悪は善のスフィアには決して堪えることができないため、それは善には近づくことができないからである。(中略)しかし真理については、それには悪が近づくことができるのである、なぜなら悪は真理を誤った解釈により歪曲し、かくて悪自身の欲念を支持するようにそれを利用するからであるが、しかし真理の中に善が存在しているに比例して、真理に近づくことはできないのである。

 

 

 

天界の秘義9809[10]

 

悪と善とは互いに他を嫌悪しているため、悪は到底善に接合されることが出来ない。

 

 

 

真の基督教570

 

その理由は、主は主自身より発する愛と智慧の流入によって、天使、霊、人間の霊魂と心に於ける凡ゆる物を活動させ給うということです。この流入は、それが如何なる名称を以て呼ばれるに致しましても、凡ゆる歓喜の能動的原因であり、普遍的な意味に於ける善の原因であります。然し、奈落の霊等は凡ゆる物を歪曲させます。かくて彼らは善を悪に、真理を虚偽に変化させますが、歓喜は依然残っています。何故なら、歓喜無くては、彼らは意志も、知覚も、生命も持たないからです。これが天界と地獄との歓喜の性質と起原とを明らかにするに違いありません。

 

 

 

真の基督教754

 

人は彼らの影響の下に自らを神として、世を天界として認め、かくして教会の凡ゆる真理を歪曲するであろうことは明白である。何故なら真の真理は単なる自然的な人間によっては知られることは出来ず、または認められることは出来ず、また神によって彼に与えられることも出来ないからである。それが与えられるならば、それは歪曲され、虚偽化される故である。この二つの愛の他に真理と善との崩壊、それ故教会の崩壊の他の原因があるが、しかしそれらは第二次的なもの、従属的なものである。

 

 

 

天界の秘義6884

 

人間もまた(自分に)言われる事柄を自分の考えを凡て占めているものに再三変えており、かくて不潔な物の中にいる者は不潔なものに、清潔なものの中にいる者は清潔なものに変えてしまうのである。

 

 

 

天界と地獄479

 

時々私は、ある単純な善良な霊が悪い霊に真理と善とを教えようとしたが、悪い霊はその教えからはるか遠くへ逃げて行き、自分自身の仲間のもとへ来ると、自分の愛に一致した誤謬を大喜びで受け入れるのを見ることが出来たのである。