逆様

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

1.聖書

 

逆様に見る者

 

イザヤ5・30

 

災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。

彼らは闇を光とし、光を闇とし

苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。

災いだ、自分の目には知者であり

うぬぼれて、賢いと思う者は。

災いだ、酒をのむことにかけては勇者

強い酒を調合することにかけては

豪傑である者は。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界と地獄479

 

時々私は、ある単純な善良な霊が悪い霊に真理と善とを教えようとしたが、悪い霊はその教えからはるか遠くへ逃げて行き、自分自身の仲間のもとへ来ると、自分の愛に一致した誤謬を大喜びで受け入れるのを見ることが出来たのである。

 

 

天界の秘義4674[2]

 

 これらの事柄の実情は以下のごとくである、すなわち、教会(すなわち、教会の中にいる者たち)の誤謬と悪とはその中にいる者には現れていないのである、なぜなら誤謬の原理のもやが真理を完全に隠蔽し、悪の生命が真理を消滅させてしまうため、誤謬は誤謬からは見られはしないし、悪も悪から見られはしないからである。誤謬の原理も悪の生命も、誤謬が真理であり、真理が誤謬であり、善が悪であり、悪が善であるという外観を生み出すのである。それがそうであることは色々な経験から明白である。しかし教会は、または教会の中にいる者たちは、天界ではそれとは全く異なって現れている、なぜなら、天界では主から発している神的真理が在り、天界の神的真理は光であって、この光の中には彼らの性質が明白になるからである。なぜなら人間各々はその霊魂または霊の方面では天使の社会か、または悪魔の社会か、その何れかの社会の中にいるからである。人間の思考はそこに存在しているが、しかしその者の言葉と行為とは人間の間に在って人間と種々に交わっているのである。

 

 

天界の秘義6884

 

人間もまた(自分に)言われる事柄を自分の考えを凡て占めているものに再三変えており、かくて不潔な物の中にいる者は不潔なものに、清潔なものの中にいる者は清潔なものに変えてしまうのである。

 

 

天界の秘義7519〔2〕

 

こうした事柄における実情のいかようなものであるかは啓示されなくては知られることは出来ないのである、なぜならそれらは他生で起るものであって、世では知られていないからである。悪霊、または奈落の霊は天界から、即ち、天界に存在している愛の善と信仰の真理から遠ざかり、または分離している限りは、彼らは自分たちが悪と誤謬との中にいることを知らないのである、なぜなら彼らはその時誤謬は真理であり、悪は善であると信じているからであるが、しかし天界が、即ち、天界の或る一社会が彼らに近づくや否や、彼らはその誤謬と悪とに気づくのである、なぜならその時流れ入って来る信仰の真理は彼らにその誤謬を気づかせ、流れ入ってくる愛の善は彼らにその悪を気づかせるからであり、その天界が近づくに応じて、またはその天界の愛の善と信仰の真理とが更に身近に流れ入るに応じて、彼らはそれらに堪えることが出来ないため、益々彼らは痛烈に自分自身の悪と誤謬を咎められるのである。

 

 

天界の秘義7680

 

「終日、終夜」。これは、取り憑いて悩ます者らにおける、明確でない、また明確でないことはない〔明確な〕認識の凡ゆるものの中に、を、即ち、(そこに)破壊が行われたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『日』の意義は明確でないことはない認識の状態であり、『夜』の意義は明確でない認識の状態である、なぜなら一日の時―朝、昼、夕、夜は理知と知恵とに属しているところの(5672、6110番を参照)、かくて認識に属しているところの照示の状態〔明るくされた状態〕に相応しており、日と夜も全般的に同じくそのことに相応しているからである。ここに『認識』と言われて、『照示の状態』と言われていないのは、取り憑いて悩ます悪い者は何ら照示を持たないが〔何ら明るくされてはいないが〕それでも認識を得ているためであるが、しかし彼らは教会の中に生活していて、その教会から真理と善とを知っており、その真理と善との何らかの知識が彼らのもとに残っている限りにおいてのみ認識を得ているのである、なぜなら彼らは真理と善とにより天界にいる者たちに交流しているからである。しかし彼らはこれらの知識を奪われると―そのことは彼らが剥奪されてしまった時行われるのであるが―その時は彼らは最早いかような認識も持たないのである。奈落の者は実際その悪を確認して、またその誤謬も確認することが出来るが、しかしこれは認識ではない。認識とは真理が真理であり、善が善であり、また悪が悪であり、誤謬が誤謬であることを認めることであるが、しかし真理を誤謬として、善を悪として認めることは、またはその逆に、悪を善として、誤謬を真理として認めることは認識ではない。こうしたことを行う者たちは、認識は持たないで、幻想〔妄想〕を持っており、幻想は認識の外観を生み出し、そのことによりこうした者は、感覚に明白であって、欲念を支持するようなものにより誤謬と悪とを確認する方法を知っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

真の基督教570

 

その理由は、主は主自身より発する愛と智慧の流入によって、天使、霊、人間の霊魂と心に於ける凡ゆる物を活動させ給うということです。この流入は、それが如何なる名称を以て呼ばれるに致しましても、凡ゆる歓喜の能動的原因であり、普遍的な意味に於ける善の原因であります。然し、奈落の霊等は凡ゆる物を歪曲させます。かくて彼らは善を悪に、真理を虚偽に変化させますが、歓喜は依然残っています。何故なら、歓喜無くては、彼らは意志も、知覚も、生命も持たないからです。これが天界と地獄との歓喜の性質と起原とを明らかにするに違いありません。