奈落の歓喜
1.奈落の歓喜
2.ネフィリム
3.主を崇拝している者を苦しめ悩ますことが極めて楽しい
4.悪霊は人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいない
5.涜神の歓び
6.ドレックス教授
7.真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしない
8.奈落の者らは遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする
9.たぶらかす
10.ドラキュラに噛まれるとドラキュラになる
11.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び
12.マーリン・キャロザース
13.悪霊らはその時その歓喜を覚える
14.危害を加える歓喜以外の歓喜を何ら持ちはしなかった
15.地獄の外に生きるよりは地獄の中に一千倍も生きていたい
16.奈落の楽しさがヤコブの子孫を支配した
17.結婚を解消し、破壊しようとする不断の努力
18.支配への愛の歓喜は世の凡ての歓喜にまさる
19.残酷
1.奈落の歓喜
天界の秘義1680
奈落の者らは人間各々を破壊する以外には何事も欲求してはいないのであり、彼らは他の者を責め苛む快楽に優った快楽は何ら認めはしないのである。
悪霊が持っており、また悪霊が極度に愛している生命は自己への愛と世への愛と幾多の欲念の生命であり、引いては復讐と残酷との生命であり、悪霊はそれ以外の生命にはいかような歓びも在り得ないと考えている。彼らはこうした欲念の歓喜に生命の凡てを置いて、こうした生命が唯一の生命であって、それを失うときは自分は全く死滅してしまうとのみしか考えない人間のようなものである―なぜなら彼らは人間であったのであり、人間であった時、その生命からこうした信念を得ているからである。しかし彼らの愛している生命はいかような性質を持っているかは他生におけるこのような性質の者らから明白であり、そこではそれは悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、彼らはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである、このことは820、954番に経験から述べられたことから認めることが出来よう。
天界の秘義6192
このこともまた彼らがその人間を害わないようにとの理由によっているのである。なぜなら地獄から来て人間のもとにいる霊たちがそれらのものがその霊たち自身のものであると信じない限り、彼らは凡ゆる方法を以てその人間の身体と霊魂とを破壊しようと試みるからである。それはそのことが奈落の歓喜そのものであるからである。
天界の秘義6574[2]
この凡てからこの節の言葉の内意に意味されていることが明白である、すなわち、試練をもたらす霊共のように、真理と善から離反している者らは悪以外には何ごとも意図しないが、しかし神的なものはそれを善に変えられ、しかもそのことは永遠から秩序に順応しており、そこから善の真理の中にいる者たちに生命が発しているのである。なぜならこのように善良な者を悩ますことを許されている奈落の霊どもは悪以外には何ごとも意図しないことを知られたい、なぜなら彼らはその全力を尽して彼らを天界から引きずり下ろして、地獄に投げ込もうと欲しているからである、それは凡ゆる者の霊魂を破壊することが彼らの生命の歓喜そのものであるためである。しかしいかように小さいものでも、善がそこから生まれるという目的がないなら、すなわち、試練におかれている者たちのもとに真理と善とが形作られて、強められるという目的がないなら、主は彼らには許されはしないのである。全霊界を主から発生している目的が支配しているが、それはいかようなものであっても、最小のものでさえも、善がそこから生まれることが出来ない限り、何一つ生じないということである。ここから主の王国は目的と用との王国と呼ばれている。
天界の秘義6666〔2〕
「地獄から来ている悪い者のもとに存在しているような、征服しようとする意図については、私はまた以下のことを知ることが出来たのである。善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したものである、なぜなら彼らは凡ゆる悪意、凡ゆる狡知と詐欺、凡ゆる欺瞞と凡ゆる残忍とを用い、それらはもしその一部のみを語るにしても、世では殆どたれ一人それを信じることも出来ないといった性質を持った凄まじいものであり、その術策たるや実に狡猾と技巧と呪詛とに満ち満ちたものである。約言すると、これらの奈落の者はこれにはいかような人間も、実に天使すらも到底抵抗できはしないし、ただ主のみがこれに抵抗されることが出来るといった性質のものである。彼らがこうした努力と意図に取りつかれている理由は、彼らの生命の歓喜の一切は、かくて彼らの生命そのものは悪を為すことに在り、それでそれ以外のことは彼らの思いを占めておらず、従って彼らはそれ以外何事も意図してはいないということである。彼らは善いことを行うことには反感を覚えているため、そのことは全く出来ないのであり、もし善いことを行うなら、自己のためであり、かくてそれは自己のために為されるのである。」
天界の秘義6667
「残酷に」。これは無慈悲を意味していることは解説の要もなく認めることが出来よう、なぜなら今し方取り扱った者らは隣人を全く愛しないで、ただ自己のみしか愛しはしないため、慈悲を全く持たないからである。彼らの許に現れる隣人愛は自己愛以外の何ものでもない、なぜならたれか他の者が彼らに好意を示す限り、即ち、その者が彼らのものである限り、その者は愛されはするが、しかしその者が彼らに好意を示さない限り、またはその者が彼らのものでない限り、その者は斥けられ、もしその者が以前友達であったなら、嫌悪されるからである。こうしたものが自己愛に隠れていて、世では明らかにされはしないが、しかし他生では明らかにされ、そこで爆発するのである。それがそこで爆発する理由は、外なるものはそこで取り去られ、その時その人間は内部ではいかようなものであったかが明らかにされるということである。
天界の秘義7032〔3〕
それがそうしたものであることは世では現れていないのは、世では彼らは自己への愛と世への愛とにより抑制されているためである、なぜならもし彼らが悪を公然と行おうとすると、世評を悪くし、その結果利得と名誉を失ってしまうことを恐れるからである。更に法律が、また生命を失う恐れが彼らを抑制しているが、もしこうしたものに妨害されないと、彼らは彼に与しない者には凡て襲い掛かって、これを滅ぼし、その凡ての財産を掠奪し、たれでも無慈悲に殺害しようとするのである。人間は内的にはそうしたものである、即ち、この世ではいかほどそうしたものではないように見えるにしても、その霊の方面ではそうしたものである。このことは他生の彼らから非常に明らかに見ることが出来るのである、なぜならその時世ではそうした者であった者らから外なるものが取り去られて、彼らはその意志に委ねられ、かくてその愛に委ねられ、そうしたものに委ねられると、彼らには悪を為すこと以上に歓ばしいものは何一つ無くなり、またその悪を、前に言ったように、刑罰によらなくては、後には幾度も地獄へ沈められなくては決して断念しない程の頑迷さをもって行うからである。この凡てから隣人に対する仁慈を何ら抱いていない人間はいかような者になるかを見ることが出来よう、また各人の生命がその者を待っていることを、(即ち)世では外なるものであり、外面的なものであった社会的な生命がその者を待ってはいないで、内なるものであって、外には現れなかった霊的な生命がその者を待っていることを見ることが出来よう。
天界の秘義7280〔3〕
この凡てから、恐怖は拘束する唯一の手段であり、刑罰に対する恐怖である外なる恐怖は悪い者を抑制するただ一つの手段であり、これが地獄の悪い者らを苛責する原因であることが今や認められることが出来よう。なぜなら悪い者は他生に入ってくると、また世で持っていたその外なる拘束を取り去られて、その欲念〔の自由〕に委ねられると、その時は彼らは野獣のようになり、主権を得ることと、自分を支持しない者をすべて破滅させることにまさって何一つ求めはしないからである。これが彼らの生命の最大の歓喜である、なぜならたれであれ、自分自身を愛するに応じて、自分を支持しない者を憎み、(他を)憎むに応じて、(これを)破滅させる歓喜を覚えるからである、しかし世ではこのことは隠れている。
天界の秘義7392[3]
世で隣人のために隣人に益を与えないし、己が国のために、己が国にも益を与えないし、また教会のために教会にも益を与えないし、(たんに)自分自身のためにのみ益を与える者は、かくて真理と善とのために真理と善とを行わない者は凡て他生では害を加えることに歓びを感じるのである。彼らが害を加えることに歓びを感じることは世では明らかではない、なぜなら外なる人がそれを隠しているからである、しかし他生で外なるものが取り去られつつあり、またその人間が内的なものに委ねられると、そのときはこの歓喜が現れて来て、明らかになるのである。彼らが地獄にいるのはそのことから起こっている、なぜならそこにいる者はすべて危害を加えることを愛するに反し、天界にいる者はすべて益を与えることを愛するからである。
天界の秘義8223[2]
しかし他生におけるこの法則の実情はさらに以下のようになっているのである。それに似たもの、または報復が悪である時は、それは悪い者により加えられて、決して善良な者により加えられはしないのである、即ち、それは地獄から来て、決して天界からは来ないのである。なぜなら地獄は、またはそこにいる悪い者らは他の者に悪を為そうとする欲念に絶えず燃えているからである、なぜならそれが彼らの生命の歓喜そのものであるからである。
それで彼らは許されるや否や、相手が悪いものであろうが、善いものであろうが、友であろうが、敵であろうが、意に介しないで、これに悪を加えるのであり、従って、悪は悪を意図する者に帰ってくることが秩序の法則から発しているため、その法則により許されると、彼らは彼らに襲い掛かるのである。このことは地獄にいる悪い者により行われて、決して諸天界にいる善良な者によっては為されはしないのである。なぜならこの後の者たちは、他の者に善を為すことがその者たちの生命の歓喜であるため、そのことを絶えず願っており、それで機会があり次第、敵にも友にも、善を為しており、実に悪に抵抗もしないからである。なぜなら秩序の法則は善い真のものを擁護し、防御するからである。それで主は言われている、『目には目を、歯には歯を、と言われていることをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、悪に抵抗してはならない、と。あなたはあなたの隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われていることを聞いている、が、わたしはあなたらに言う、あなたらの敵を愛し、あなたらを呪う者を祝し、あなたらを憎む者に益を与えなさい、それはあなたらが天のあなたらの御父の子となるためである』(マタイ5・38,39,43−45)。
追補 真の基督教 遺稿(『真の基督教の増補』に併録)8
17、地獄にいる凡ての者の歓喜は隣人を害うことであり、また神を冒涜することであり、この歓喜は彼らの心、または意志から湧き出ている。しかしながら、彼らはその歓喜に従って行動することを刑罰により抑制されている。
18、天界にいる凡ての者の歓喜は隣人に善を行うことに、また神を賛えまつることに、実に、心または意志から、同時に行為により賛えまつることに在る。
2.ネフィリム
天界の秘義1267
彼らの中でその地獄から執拗に外へ這い出そうと試みる者らはその仲間からむごく取り扱われる、なぜなら彼らは凡ゆる者に対し、その仲間に対してさえも、彼らを殺しかねない憎悪にとりつかれているからである。彼らの最大の歓喜は互に他の者を服従させて、互に他の者を屠殺してしまうことである。他の者よりもさらに執拗にあくまでも外に這い出ようともがく者らはその霧のような岩の下へさらに深く追い落されてしまう、なぜなら彼らを駆り立てているものは、すべての者を破壊しようとするその生来の狂った熱情であるからである。彼らはその出会う者らをことごとく捕えてしまうために、その者らを布片の中に包み込んで、その者らには一種の海のように見えるものの中へその者らを投げ込んでしまうか、それともその者らに残酷な仕打ちを加えるかしている。
3.主を崇拝している者を苦しめ悩ますことが極めて楽しい
天界の秘義7097〔4〕
このようなものになった者らは宇宙の創造者である父を承認はするが、主を承認はしないのである。主についてはここのパロがエホバについて、『エホバとはたれか。私はエホバは知らない』と言うように言うのである。否、天界のスフィアはことごとく主を承認し、主を愛することで満ちているように、地獄のスフィアはことごとく主を否定し、主を憎悪することで満ち、主の御名が語られるのにも堪えることも出来ないのである。奈落の者らは勧告と威嚇により断念する底のものではない、正しい者に取り憑いてこれを悩まし、主を承認し、主を信じることから彼らを離反させることにおける彼らの生命の歓喜は非常に大きい。この彼らの生命の歓喜そのものは断念を促す勧告により更に増大するのである、なぜならそのことによって彼らは、自分たちが今取り憑いて悩ませている者たちはやがて全くお手上げになると信じるようになるからである。それでこうした者が『パロとエジプト人』により特に意味されている者らである。
アタナシウス信条についてP78
しかし凡ての地獄は主に反抗しているのである。彼らは主の御名を口にすることを欲していないし、また口にすることも出来ない、彼ら凡ての者にとっては、主を崇拝している者を苦しめ悩ますことが極めて楽しいのであり、この彼らの楽しさは極端なものである(例えば、ジレンボルグである)。主に反抗するスフィアは凡ゆる地獄から放出されており、主を拝するスフィアは凡ゆる天界から放出されており、ここから均衡が起こっている。
4.悪霊は人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいない
天界の秘義905
「箱舟から出なさい。」(創世記8・16)
これは自由を意味していることは前に言われたことから、また文の前後の関連そのものから明らかである。ノアは箱舟の中にいて、洪水に取りかこまれている限り、その意味は彼は捕らわれていたということであり、即ち、幾多の悪と誤謬とにより、またはそれと同一の、悪霊らにより翻弄されていたということであった。ここから『箱舟を出る』ことは自由を意味するということが生まれてくる。
主の臨在は自由を含んでおり、その一方は他方に続いて起っている。主が臨在されるに比例して益々人間は自由となるのである、すなわち人間は善と真理との愛の中に止まるに比例して益々自由に行動するのである。かくのごときが天使たちを通して注がれる主の流入である。しかし他方悪霊らを通して注がれる流入は強制的であり、性急であり、威圧しようと力闘する、なぜならこうした霊どもは人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいないからであり、そしてその霊どもが一切のものとなった時、人間はその悪霊どもの中の一人となり、否それですらなくなるのである。なぜなら彼らの眼前には彼は全く何ものでもないからである。それ故主がその人間を彼らの主権[支配]と軛から解放されつつある時、争闘が生まれるのである。
しかしその人間が解放されたときは、すなわち再生したときは、彼は主により天使たちから仕えられて、軛または主権のいかようなものも何一つないほどにも穏やかに導かれるのである。なぜなら彼は彼の歓喜と彼の幸福とにより導かれ、また愛され尊重もされるからである。これが主がマタイ伝に教えられるところであり―
わたしの軛は易く、わたしの荷は軽い(11・30)、
そしてこれは悪霊の軛の下に置かれている時の人間の状態とは正反対のものである。なぜなら彼らは、今述べたように、その人間を無価値なものとして考え、得べくば、各瞬間毎に彼を責め苛もうとしているからである。このことを多くの経験により私は知ることが出来たのであって、そのことについては主の神的慈悲により後に述べよう。
神の摂理296(ロ)
「邪悪な人間はその者自身の悪へ益々深く自分自身から突入して行く」。我々が自分自身からと言うのは、悪は凡て人間から発するからである、なぜなら、前述したように、彼は主から発する善を悪に変えるからである。悪い人間が悪へ自分自身を更に深く突入させる真の理由は、彼は悪を意志し、為すことにより、地獄の諸々の共同体に益々密接に深く自分自身を導き入れ、かくて悪における彼の歓喜は増大し、彼の思いを占め、遂には彼の主要な歓喜となるということである。地獄の諸々の共同体に益々密接に益々深く自分自身を導き入れた者は、謂わば縄で縛られた者のようになるが、しかし彼は世に生きている限り、この縄を感じない、それは気持ちの良い手触りの柔かい羊毛か、または滑らかな絹の糸にも似ているが、死後この縄は柔かくも、気持ち良くもなくなって、固い、擦りむくようなものになる。悪の歓喜は絶えず増大することは、窃盗、強盗、掠奪、復讐、貪欲などの場合から知られる。誰がそうしたことに成功し、また欲しいままにそれに惑溺するに従って、歓喜も増して行くのを知らないであろうか。盗人は窃盗にこのような歓びを感じ、そこから遠ざかることは出来ず、奇妙なことには、彼は与えられた十個の貨幣よりも、盗んだ一個の貨幣を喜ぶことはよく知られている。もし姦淫はその濫用の甚だしさに従って、精力の喪失を伴うことが定められていないなら、その悪もそのようなものになるであろう。しかしそれにも拘らず依然として多くの者はこれに就いて考えたり、語ったりする歓喜を持ち続けており、少なくとも、接触の欲望は残っている。しかし、これは、その悪が意志と理解との同意を得て為されるに応じ、人間は地獄の共同体へ自分自身を益々内的にまた深く導き入れることから発しており、もしその悪が単に人間の理解のみにあって、その意志にないならば、彼は未だその悪の結果として奈落の社会にはいないが、その悪が意志にもまた在る時は、そこに入ることは知られていない。もし彼がこの悪は十戒の誡命に反していることを知り、その誡命を神的なものとして認めているならば、その時は彼は悪を深重に犯しており、そのことにより深淵に沈み、そこからは純粋な悔改めによらない限り、引き上げられることは出来ない。人間は凡てその霊の方面では霊界の或る共同体に居り、すなわち悪い人間は地獄の共同体に、良い人間は天界の共同体に居り、ときとして、深い瞑想にふけっている間は、そこに見られることに注意しなくてはならない。また言葉の音声は自然界の空気中に拡まるように、情愛も思考と共になって霊界の共同体の間に拡まることに注意しなくてはならない。それらのものの間には相応もまた存在している、すなわち情愛は音声に、思考は言葉に相応しているのである。
5.涜神の歓び
真の基督教570
悪魔共は答えた。「凡ゆる者は、たとえ善人、或は悪人と呼ばれるにしても、その者独自の歓喜を持っている。すると天使たちは尋ねた「君達は何を歓ばれますか。」 彼らはそれは姦通、復讐、詐欺、涜神の歓びであると語った。更に彼らは尋ねられた「然しこれらの歓びの性質は如何なるものですか。」 彼らは自らが他の者から排泄物、腐敗した屍体、腐りかかった尿から発する臭気として認められると語った。彼らは問われた、「で、これらは君達には歓ばしいのですか。」 彼らは語った、「さよう極めて歓ばしい」。 「では」と天使たちは語った、「君達はそのような物の中にころげまわっている不潔な獣のようなものです。」彼らは答えた、「そうかもしれない、とにかくこれらの物は我々の鼻には気持ちが良い。」 次に天使たちは尋ねた、「他に何か。」彼らは答えた、「各人は若し善良な霊と天使とを悩まさない限り、己が歓びを、実に彼らの所謂、最も不潔な歓びをすら楽しむことを許されている、然し我々はこの歓びに強いられて彼らを悩ます故、労役所に閉じ込められて、苦しい思いをするのである。この楽しさを失うことが地獄の苛責と呼ばれる内的苦痛を生むのである」。天使たちは更に尋ねた、「何故君達は善良な者を苦しめるのですか」。 「それを抑えることが出来ないからである」と彼らは答えた、「我々は天使を眺め、その周りに主の神的スフィアを認めると、憤怒に駆られるのである」。 この言葉に我々は語った、「それでは君達は野獣のようなものです。」 彼らはその新米の霊が天使たちとともに居るのを眺めると、憤怒の発作が憎悪の火のように彼らを襲った。それ故、彼に危害を加えないように、再び彼らは地獄に投ぜられた。
天界の秘義5390
不潔な排泄物に相応している他の霊もまた、すなわち、世では執拗に復讐を求めた者もいる、これらの者は左の方の前面に私に現れた。この不潔な排泄物にはまた霊的な事柄を不潔な地的な物に引き下げる者らが相応している。このような霊どもが私のもとへ来て、汚らわしい思いを持って来た、彼らはその思いから汚らわしい事を語り、また清潔な事柄を不潔な事柄に歪曲して、そうしたものに変えもした。こうした種類の多くの者は世では最低の階級の者に属していたが、或る者は高い地位の人々に属していた、彼らはその身体の生命の間では人前には実際そうしたことは語りはしなかったものの、それでもそうしたことを考えていたのである、何故なら彼らは恥辱を受け、友情、利得、名誉を失いはしまいかと恐れて、その考えたままを口にすることを控えさせたからである。それでも彼らは互に似通った者の間では、自由になると、最低の階級の者のように語り合い、否、彼らよりも更に汚らわしいことを語り合ったのである、何故なら彼らは一種の知的な能力を持っていて、それを濫用して、聖言と教義の聖い事柄をさえ汚したからである。
6.ドレックス教授
天使館/天使のパン16号P38
『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1973年5月4日早朝の主の御言葉
この時代の腐敗や荒廃、神無しとする状態のために勇気を挫かれている人々に対して「勇気と喜びを持ち続け、恩寵を保ち続けなさい!」と私の言葉と御旨を知らせたいと願っている。多くの人々に信仰を捨てさせようと、この世の霊たちが貴方たちを悩ましているが、天の御父の子供であり、御子によって贖われ、聖霊の賜物を与えられている貴方たちは、こうした物事すべてによって貴方たちの霊魂と人生の幸せを暗くしてはならない。
7.真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしない
天界の秘義6677
「もしそれが娘であるなら、彼女を生かしておかなくてはならない」(出エジプト記1・16)。これは、彼らはもしそれが善であるなら、そのようなことをしてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘』の意義は善であり(489−491、2362番)、『生きること』の意義は破壊されないことである。エジプトの王が息子は殺さなくてはならないが、娘は殺してはならないと言った理由は、内意から明らかであり、その内意は、彼らは真理を破壊しようと企てはするが、しかし善を破壊しようと企てはしないということである、なぜなら奈落の者は取り憑いて悩ます時は、真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしないからである。その理由は真理は攻撃されることの出来るものではあるが、善は攻撃されることの出来ないものであり、善は主により守られており、奈落の者が善を攻撃しようと企てると、地獄に深く投げ込まれるということである、なぜなら善の一切には主が現存されているため、彼らは善の現存に耐えることは出来ないからである。そこから天使たちは善の中にいるため、一人の天使でも数千の奈落の霊どもを支配することが出来る程の権能を彼らに対しては持っているのである。善の中には生命が在ることを知られたい、なぜなら善は愛のものであり、愛は人間の生命であるからである。自己と世を求める愛のものであって、そうした愛の中にいる者らには善として現れている悪が、天界の愛のものである善を攻撃するなら、その一方の生命が他方の生命と戦うことになり、そして天界の愛の善から発している生命は神的なものから発しているため、自己と世を求める愛から発している生命が前の生命と衝突するなら、それは消滅し始めるのである、なぜならそれは窒息してしまうからである。かくて彼らは死の苦悶にある者のように苦しみ、そのため真逆様に自らを地獄に投げ込み、そこに着くと再び生命を回復するのである(3938、4225、4226、5057、5058番)。このことがまた善は魔鬼と悪霊によって攻撃されることが出来ず、かくて彼らは敢えて善を破壊しようとはしない理由となっている。真理にあってはそうではない、なぜなら真理はそれ自身の中に生命を持たないで、善から、即ち、主から善を通して生命を持っているからである。
8.奈落の者らは遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする
天界の秘義7738
奈落の者らは悪から発した誤謬の中にいるに応じて益々真理に反抗し、遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする程にもなるのである。なぜなら誤謬の源泉となっている悪は彼らの生命の歓喜であるため、真理は誤謬に反し、誤謬は彼らには楽しいものであり、それで彼らは真理を、それが彼らの生命の楽しさと歓喜とに反しており、またもし彼らがそれを聞くなら、責め苛まれるため、その心から全く斥けてしまうからである(7519番)。
9.たぶらかす
天界の秘義7356
理論が欲念の歓喜の中へ入ることにより、誤謬から論じ、かくして他の者を欺き、たぶらかすことが彼らの生命の歓喜となることが意味されているのである。更に誤謬を拡げ、それを確認し、真理を嘲笑し、特に他の者をたぶらかすことは悪い者の主要な歓喜の一つとなっているのである。
天界の秘義761
人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしない、それを生み出すと同時にその人間にその人間が自分自身からそれを行っているのであると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。かくの如きが彼らの悪意である。更に、私は多くの経験から確認することが出来るのであるが、彼らはこの信念を注ぎ入れ、強制していると同時に人間を訴え、罪に定めるのである。主に対する信仰を持っていない者は自分は自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることは出来ない、それで悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊共のようなものになる。これが人間の実情である。
天界の秘義9348〔6〕
霊的な意義では『罠』は自己への愛と世への愛の歓喜を通して誘惑し、欺くことを意味し、かくて悪の誘惑と欺瞞を意味し、そしてこのことはこれらの歓喜を甘やかす感覚の迷妄〔妄想〕から発した理論を通して行われていることはたれにでも明らかである、なぜなら罠にかけることと落とし穴に陥れることはそれ以外の源泉からは発していないからである。悪魔の一味も人間の中に在る何かこうしたその人間の愛によらなくては攻撃はしないのであり、この愛を彼らはその人間が捕えられるまで凡ゆる可能な方法で歓ばせるのであり、その人間が捕えられると、その人間は真理に反抗して誤謬から論じ、悪から善に反抗して論じるのである。その時彼はまたそのことに満足はしないで、他の者を誤謬と悪へ陥れ、いざなうことに歓びを覚えるのである。彼がまたこうしたことに歓びを感じる理由はその時は彼はその悪魔の一味の一人になっているということである。
11.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び
天界の秘義2261[3]
真理の生命は、かくて信仰の生命は生命そのものであられる主から専ら発している。主の生命は慈悲であり、それは全人類に対する愛の慈悲である。信仰の真理を告白してはいるものの、自分に比較して他の者を軽蔑し、自分の自己への愛と世への愛との生命に抵触すると、隣人を憎悪し、その隣人が富を、名誉を、名声を、生命を失うことを歓ぶ者らは主の生命には些かも与ることはできないのである。しかし信仰の諸真理により人間が再生するということがその諸真理の実体である。なぜなら真理は善を受容する器官そのものであるからである。それで真理のあるがままに、その諸真理の中の善があるがままに、またその真理と善とが連結しているままに、その結果他生で完成されることができるままに、そのように死後の祝福と幸福との状態もなるのである。
天界の秘義2380[3]
他方、悪の中にいる者は何ら良心を持っていない、なぜなら彼らは公正で公平なものを心に留めることによってそれを心に懸けているように見えるという世評を得ることが出来る限り、それを心に懸けはするが、そうしたことが無いなら、何らそのものを心に懸けはしないからである。霊的な生命に影響を与える善と真理とはいかようなものであるかを彼らは知らないし、それを全く生命の無いものとして斥けさえするのである。更にそれ以上にも進んで、彼らは隣人については悪く考え、その者が危害を受けるようにと願いもし、その隣人が自分を支持しないなら、その隣人が友であったにしても、その隣人にまた危害を加え、それを行なうことにより歓喜を覚えているのである。万が一彼らが何か善を行なうにしても、それは報酬を目当てにしているのである。教会内のこうした者は秘かに主を否定しており、それで名誉、利得、世評または生命が害われない限りそれを公然とやってのけるのである。
天界の秘義4225
先ずたれが巨大人の中にいるか、またたれがその外にいるかを述べなくてはならない。主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいて、隣人に対してはその者の中にある善に応じて善を行い、公正で公平なものの良心を持っている者たちはすべて巨大人の中にいるのである。なぜならこれらの者は主の中におり、従って天界にいるからである。しかし自己への愛と世への愛とそこから派生してくる欲念の中におり、単に法律のために、自分の名誉と世の富とそこから生まれてくる名声のためにのみ善いことを行い、かくて自分自身と世とのために隣人に対しては内的には無慈悲であり、憎悪と復讐の中におり、隣人が自分に与しない時はその危害を歓んでいる者は凡て巨大人の外にいるのである、なぜならこれらの者は地獄にいるからである。これらの者は身体の中のいかような器官にも肢体にも相応しないで、その中に起ってくる種々の腐敗と病気に相応している、そのことについてもまた私は主の神的慈悲の下に、以下の頁に経験から語ることにしよう
天界の秘義4317[5]
それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(即ち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらは跳ね返されるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識[善と真理を認識すること]は全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。
カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約
480 平和に関して、主は一人ひとりの人に何を求めておられますか。
「平和を実現する人は幸い」(マタイ5・9)と宣言される主は、心の平和を求め、怒りの罪を退けておられます。怒りは、受けた悪に対して報復を切望することです。また、憎悪の罪を退けておられます。憎悪は、隣人の不幸を望むように人を仕向けます。このような態度は、重大なことがらについて意図し、また同意する場合、愛に背く大罪となります。
12.マーリン・キャロザース
マーリン・キャロザース/モアパワー/P58
サタンの最終目的は、私たちの信仰を損うことです。
マーリン・キャロザース/モアパワー/P59
サタンは、私たちが他の人たちについて悪い考えをもつと喜びます。
13.悪霊らはその時その歓喜を覚える
天界と地獄399
私はまた、こうした者が天界の社会に近づくのみで、ちょうどそれに応じて、その社会にいる者たちの楽しさは減退し、しかも驚くべきことには、その悪霊らはその時その歓喜を覚えるのであると言われた。
或る一つの地獄から来ている者らが、そこから他の地獄へ移されるために、数百の数に至るまでも送り出され、その際その性質に従って行動することが彼らに許された。たちまち、彼らは、幻想により、高い所へ登り、そこから見下ろし、何処であれ、結婚愛が在る所で、その結婚愛を消滅させようと躍起になり、そのことをまた彼らは高い所で躍起になることから案出し、後に悪をやってのけようと試みた。その際彼らは以下のことを思い出しはしたものの、即ち、彼らは地獄の中で互いに、もし自分らが外へ出ることを許されるなら、自分らは他の者らのように賢明に生きるであろう、と互いに話し合ったことを思い出しはしたものの、今は奈落の輩の業を他の者ら以上にも振る舞っているのである。後で、私は彼らと話そうと願ったが、しかし彼らは、ちょうどその地獄の中にいたときのように、幻想の中にいるため、理解することが出来なかった。彼らは真理の光がさしている談話には、それはいかようなものであれ、甚だしく拷問にかけられ、それでその拷問の前から逃げ去ったのである。こうしたことは幾度も起ったが、そのことは私が以下の真理を確認するためであったのである。即ち、地獄にいる者らは真理の光には耐えることは出来ず、従って、理知と知恵とに耐えることは出来ないのであり、もしその中に留め置かれると、拷問にかけられるのである。彼らは、あなたは私らを傷つける、と言った。私は、理解を与えようと願っているのであるが、それがあなたらを拷問にかけるものである、と答えた。その際私は明らか以下のことを認めた、即ち、地獄へ入る者はそこに永遠にとどまるのであり、彼は決して理知が存在するところには、かくて天界の光がさしている所には生きることは出来ないのである。彼らもまた、自分らは地獄の外に生きるよりは地獄の中に一千倍も生きていたい、とも言ったのである。以下のこともまた確かめられた、即ち、彼らは、その見ることが出来る者に一人残らず、敢えて、また可能な限り、危害を加える歓喜以外の歓喜を何ら持ちはしなかったのである。
霊界日記5830
地獄へ入る者はそこに永遠にとどまるのであり、彼は決して理知が存在するところには、かくて天界の光がさしている所には生きることは出来ないのである。彼らもまた、自分らは地獄の外に生きるよりは地獄の中に一千倍も生きていたい、とも言ったのである。以下のこともまた確かめられた、即ち、彼らは、その見ることが出来る者に一人残らず、敢えて、また可能な限り、危害を加える歓喜以外の歓喜を何ら持ちはしなかったのである。
霊界日記2617
こうした奈落の楽しさがヤコブの子孫を支配したのである。彼らは異邦人を拷問にかけることにまさった楽しさを認めはしなかったのであり、そのことはまたダビデについて記されているのである、すなわち、彼はアンモンの子孫をそのようにして拷問にかけ―サムエル前書12・31―そこにはそうした事柄が理解され、また同じようにすりつぶすことが意味されているが、しかしそれらは奈落のものであって、決して命じられはしなかったのであり、(後略)
霊界日記2618
ヤコブの子孫はこうしたものであったため、彼らは異邦人に残酷なことを行い、そこから彼らの最高の楽しさを得たのであり、それで彼らは極めて残酷であり、その言っているところでは、復讐を行う以外の目的からではなく、また聖い事柄の旗印の下にそうしたことをやってのけはするものの・・・・、ただそうした性質の欲念のみしか持たなかったのである、そのことは彼らがさらに悪い偶像崇拝家になった際彼らについて話されている事柄から明らかになるのである。彼らに、その女に、妻に、また幼児に凡ゆる残酷な振舞いをやってのけることを許されていると考えたのであり、そのこともまたナバルに対するダビデの敵意からも明らかであり、ナバルはそれでも彼らの兄弟たちの一人であったのである。さらに彼らは掠奪し、凡ゆる物を持ち去り、彼らの間の生き物をことごとく殺してしまうこと以外のことは何ら求めはしなかったのである。
霊界日記2619
彼らは、それは命じられたのである、と時として私に話したが、しかし彼らにそれは命じられたのではなくて、あなたらはそうした性質のものであるため、許されたのである、と答えることが与えられた。こうした許しは、ヤコブの時代以来そうしたものが在ったため、彼らには命じられているように思われるのである、なぜならこうした人間は、こうした事柄は命じられているとしか把握はしないからであり、それで外観に応じ、また彼らの感覚の迷妄〔妄想〕に従って、これらの事柄ではそのようにもまた話されているのである。それは神的なものではなく、または主から命じられはしなかったことは以下のことから極めて明白となるであろう、すなわち、それは天界の愛に、人間相互の愛に反し、または対立しており、その愛については主は極めて幾度も話されたのであり、主は愛そのものであられ、主のみから諸天界における天界の愛がことごとく、結婚愛が両親の子供たちに対する愛が流れ出ているのである。1748年〔60歳〕7月16日。
天界と地獄384
地上の結婚は人類の、また天界の天使たちの苗床であるためー天界は、すでに述べたように、人類から発しているーまたそれは霊的な起原、即ち、善と真理との結婚から発しているため、また主の神的なものは第一次的にはその愛の中へ流れ入るため、それは天界の天使たちの眼には最も聖いものである。他方姦淫は結婚愛に反しているため、それは天使たちから汚れたものとして認められている。なぜなら彼らは結婚の中に天界である善と真理との結婚を見るように、姦淫の中に地獄である誤ったものと悪いものとの結婚を見るからである。それで彼らは姦淫が口に出されるのを聞くのみで、面をそむけてしまう。これがまた人間が歓喜から姦淫を犯すとき、天界はその者に閉じられ、彼はもはや神的なものを承認せず、また教会の信仰を何一つとして認めない理由である。地獄にいる者は凡て結婚愛に反抗していることはそこから放出されるスフィア[霊気]から私は認めることができたが、それは結婚を解消し、破壊しようとする不断の努力に似ていた。そのことから地獄を支配している享楽は姦淫のそれであり、姦淫の享楽はまた善と真理との連結をーその連結が天界であるがー破壊することを楽しむものであることが明白となった。従って姦淫の享楽は奈落の享楽であり、天界の楽しさである結婚の楽しさとは正反対のものであることが生まれている。
*8。姦淫は汚れたものである、9961、10174。天界は姦淫に対しては閉じられる、2750。姦淫の中に歓喜を認めた者らは天界に入ることは出来ない、539、2733、2747−49、2751、10175.姦淫は無慈悲であって、宗教上の主義も持たない、824、2747、2748.姦通者の考えは汚れている、2747、2748。他生では彼らは汚れたものを愛し、汚れた地獄にいる、2755、5394、5722。聖言では姦淫により善の不善化が意味され、淫行により真理の歪曲が意味されている、2466、2729、3399、4865、8904、10648。
神の摂理215(ロ)
私は自己への愛から発する支配への愛の歓喜の性質と範囲とを感じることを許された。それは私がそれを理解するために私に起ったのであるが、私はそれが世の凡ての歓喜にまさるのを知った。それは全心をその最内部からその最も外なる部分までも満たしたが、しかし身体では心をのびのびさせる快適で愉快なものとしてしか感じられなかった。そして私は姦淫、復讐、詐欺、瀆神、悪行全般のような凡ゆる悪の歓喜がその歓喜から、泉から迸り出るように迸り出るのを感じさせられた。いかような手段によってでも他人の財産を得ようとする愛とそこから由来する欲念にもまた同じような歓喜がある、しかしその歓喜は、その愛が自己への愛と結合しないかぎり、それほど強くはない。しかし高貴と富をそれ自身のためでなくて、用のために愛する愛については、それは高貴と富への愛ではなくて、それにより遂行される用への愛であり、それは天界的愛である。しかしこの主題については後に更に多くのことが語られるであろう。
天界の秘義1742[2]
悪霊が持っており、また悪霊が極度に愛している生命は自己への愛と世への愛と幾多の欲念の生命であり、引いては復讐と残酷との生命であり、悪霊はそれ以外の生命にはいかような歓びも在り得ないと考えている。彼らはこうした欲念の歓喜に生命の凡てを置いて、こうした生命が唯一の生命であって、それを失うときは自分は全く死滅してしまうとのみしか考えない人間のようなものである―なぜなら彼らは人間であったのであり、人間であった時、その生命からこうした信念を得ているからである。しかし彼らの愛している生命はいかような性質を持っているかは他生におけるこのような性質の者らから明白であり、そこではそれは悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、彼らはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである、このことは820、954番に経験から述べられたことから認めることが出来よう。
天界の秘義6667
「残酷に」。これは無慈悲を意味していることは解説の要もなく認めることが出来よう、なぜなら今し方取り扱った者らは隣人を全く愛しないで、ただ自己のみしか愛しはしないため、慈悲を全く持たないからである。彼らの許に現れる隣人愛は自己愛以外の何ものでもない、なぜならたれか他の者が彼らに好意を示す限り、即ち、その者が彼らのものである限り、その者は愛されはするが、しかしその者が彼らに好意を示さない限り、またはその者が彼らのものでない限り、その者は斥けられ、もしその者が以前友達であったなら、嫌悪されるからである。こうしたものが自己愛に隠れていて、世では明らかにされはしないが、しかし他生では明らかにされ、そこで爆発するのである。それがそこで爆発する理由は、外なるものはそこで取り去られ、その時その人間は内部ではいかようなものであったかが明らかにされるということである。