自己愛
自己崇拝/
1.隣人に対する憎悪
2.不潔な愛
3.蛇
4.トマス・ア・ケンピス
5.レギオン
6.高貴な者より卑賤な者を、富んだ者より貧しい者をより動かす
7.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている
8.自己愛がほしいままにされた時のその性質
9.自己愛はすべてのものを破壊する
10.支配を求める愛
11.悪魔的な形
12.自分自身を愛する者は、他の何人にもまさって心が安まらず、容易に苛立ち、猛烈に激怒する
13.自己愛が悪魔と呼ばれる
14.意志的な自己性は本質的には自己への愛であり、知的自己性はその愛から発する誇り
15.神メシアに対する憎悪が潜んでいる
16.エゴイズム
17.政治的な自己愛と教会的な自己愛との真の性質
18.地獄の三つの主要な原理
19.地獄の政治
20.残酷、無慈悲
21.自己への愛と世への愛とは人間のもとに地獄を作る
22.自分自身と自分に属している者のみを顧みる
23.自分自身に較べて自分の隣人を軽蔑する
24.主を殺そうとさえする欲望に燃え上がる
25.天使たちには自己愛がない
26.自己愛は自己のみ良かれと欲し
27.自己愛の中にいて、何であれ凡ての善に反抗している者らは、最も深い、それゆえ最も痛ましい地獄にいる
28.真の基督教
29.新しいエルサレムの教義
30.この輝きは知的な誇りであって、それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている
31.卓越は普通自己愛を生み、豊かさは世を愛する愛を生む
32.本来の自己への愛と世への愛
33.彼らは主を嫌忌する
34.自己への愛から発する支配への愛の歓喜は世の凡ての歓喜にまさる
1.隣人に対する憎悪
天界の秘義33
何らかの愛が無くては如何ような生命も可能ではなく、愛から流れ出るものを除いては喜びも可能でないことは、各人の力により極めて良く知ることが出来よう。しかし愛の如何に生命が応じ、喜びも応じている、もしあなたらが愛を、またはそれと同一の願望を―なぜならこれは愛に属しているからである―取り去るなら思考はたちまち停止し、あなたらは死人のようになるであろう。そのことはそのままに私に示されたのである。自己と世を求める愛は生命と喜びに類似したものを多少その中に持っているが、しかしそれらは人間が凡ての物に勝って主を愛し、自分のように隣人を愛することから成っている真の愛には全く反しているため、愛ではなくて、憎悪であることが明白となるに相違ない、なぜなら人間は自己と世とを愛するに比例して、隣人を憎み、それによって主を憎悪するからである。それゆえ真の愛は主に対する愛であり、真の生命は主から発する愛の生命であり、真の喜びはその生命の喜びである。真の愛は一つしか在り得ないのであり、それゆえ真の生命も一つしか在り得ないのであり、そこから諸天界の諸天使の喜びと幸いのような真の喜びと真の幸いとが流れ出ているのである。
天界の秘義1047
「そしてわたしが地の上に雲をもたらすとき」。これは人間の意志の部分の人間自身のもののために仁慈の信仰が現れない時を意味することは、今し方地について、または人間の意志の部分の人間自身のものについて言われたことから明白である。即ちそれは人間の知的な部分の中へ、不明確なものを、または誤ったものを絶えず注ぎ込むといった性質のものであり、その不明確なものが『一面に雲となってかげらすもの』であって、凡ゆる誤謬の源泉となっているのである。このことは自己を求める愛と世を求める愛が―それらは人間の意志に属したものであるが―憎悪以外の何ものでもないという事実から充分に明らかである。なぜならたれでも自分自身を愛するに応じて益々隣人を憎むからである。そしてこれらの愛は天界的な愛に極めて対立しているため、相互愛に反したものが必然的に絶えずそこから流入し、この凡てのものが知的な部分の中で誤謬となるからである。ここからその暗黒と明確でないもののすべてが発している。黒雲が太陽の光を曇らすように、誤謬は真理を曇らせる。そして誤謬と真理とは丁度暗黒と光のように、共になることが出来ないため、その一方は他方が来ると去ってしまうことが明らかに生まれてくる。そしてこうしたことがそれでここに『わたしが地の上に雲をもたらす時』と言われているのである、すなわち意志の部分の人間自身のものを通して、仁慈の信仰が、または真理がそこから派生する善とともに現れず、まして善がそこから派生する真理と共に現れない時、と言われているのである。
天界の秘義2327[3]
卑下の状態は礼拝の本質的な状態そのものであることは、心が卑下するに比例して、自己愛とそこから生まれるあらゆる悪は止んでしまい、それが止むに比例して、善と真理とが、即ち、仁慈と信仰とが主から流れ入ってくるという事実から生まれている、なぜならそれらのものを受容する上に妨げとなるものは主として自己愛であり、自己愛には自己に比較して他の者を軽蔑する思いがあり、もし自己が名誉をもって扱われないなら、憎悪と復讐とがあり、また無慈悲と残酷とがあり、かくて凡ゆるものの中でも最悪の悪があって、これらの悪の中へ善と真理とは決して導き入れられることは出来ないからである、なぜならそれらは対立したものであるからである。
天界の秘義2884
自己と世を求める愛とその幾多の欲念の自由は完全な奴隷であって、決して自由ではないが、しかし依然それは丁度愛と情愛と歓喜が両方の意味で自由と呼ばれているように、自由と呼ばれている、それでも自己と世を求める愛は決して愛ではなくて、憎悪であり、その情愛と歓喜も同様に憎悪である。それらはその外観に従ってそのように呼ばれているのであって、その実体に従っているのではない。
天界の秘義4750[5]
自己愛の悪は、一般に考えられているように、誇りと呼ばれているかの外なる高慢ではなくて、隣人に対する憎悪であり、そこから復讐に対する燃えるような欲望であり、残酷における歓喜である。これが自己愛の内部である。その外部は自己に比較して他の者を軽蔑することであり、また霊的な善の中にいる者たちに対する嫌悪であり、これには時として明白に高慢または誇りが伴うこともあるが、伴わないこともある、なぜなら隣人をこのように憎悪する者は、自分自身を除いては、また自分自身と一つのものとなっているものと見倣している者たちを除いては内的には誰一人も愛していないのであり、かくて彼は彼自身の中に彼らを、また彼らの中に彼自身を、ただ自己のみを求めて、愛しているからである。
天界の秘義4750[6]
ユダによりその対立した意義において表象されている者らの性質はこのようなものである。ユダヤ民族は最初からでさえもこのような愛の中にいたのである、なぜなら彼らは全世界の凡ての者を最も卑しい奴隷として見なし、また自分自身に較べては無価値な者として見なし、また彼らを憎み、あまつさえ、自己と世を求める愛から相互に連結しないときは、自分の交友と兄弟たちさえも同じ憎悪をもって迫害したからである。こうした気質は依然としてその民族のもとに残っているのである、しかし彼らは今は外国の土地で黙認の下にお情けで住んでいるため、それを隠しているのである。
2.不潔な愛
天界と地獄401
自己と世への愛にいる人間は、身体の中で生きている限り、そうした愛から楽しさを感じ、またそこから発してくる色々な快楽の中に楽しさを感じている。しかし神に対する愛と隣人に対する愛の中にいる人間は身体に生きている限りは、そうした愛から、またそうした愛から発する善い情愛から、楽しさを明らかに感じはしないで、単に祝福を感じるのみであり、それも殆ど認めることも出来ないものである、なぜならそれは彼の内部に貯えられて、身体に属する外部により覆われ、世の心配事のためで鈍くされているからである。しかし死後その状態は一変する、自己と世への愛の楽しさはそのとき苦しい、凄惨なものに変化するが、それは奈落の火と呼ばれているようなものに変化するからであり、また交互に彼らの不潔な快楽に相応した汚れた、不潔な物に変わるからであり、驚くべきことには、そうした物がその時彼らには楽しいものとなるのである。しかし世で神に対する愛と隣人に対する愛とにいた者のもとにあった漠然とした楽しさと、殆ど認められもしなかった祝福感とは、そのとき天界の楽しさに変化し、その楽しさは完全に認められまた感じられもするのである、なぜなら彼らが世で生きていたときその内部に貯えられて、隠れていたあの祝福はそのとき明らかに示されて、明らかに知覚されるからである、それは彼らはそのときその霊の中にいて、それが彼らの霊の楽しさであったためである。
天界の秘義2045
自己への愛と世への愛の中にいる者らは、その者らが実際その中にいるような汚れた不潔なものの中に自分たちがいるとは決して信じることは出来ないのである、なぜなら彼らをなだめ、甘やかし、誘い、彼らにその生活を愛させ、それを他のすべての生活よりも好ませ、かくてその中には何ら悪はないと思わせるところのある種の快楽と歓びとがあるからである、なぜなら何であれたれか人間の愛とそこから派生してくる生活に組するものは善であると信じられるからである。ここからまた合理的なものが同意させ、誤謬を、即ち、確認し、また天界的な愛はいかようなものであるかが些かも認められないような盲目を生み出す誤謬を考えつかせるのであり、またその天界的な愛が認められるにしても、そうした愛の中にいる者らはその心の中で、それは何か惨めなものであり、または全く無意味なものであり、または病気の時のように、何か心にとりつく幻想のようなものであると言うのである。
天界の秘義2045 [2]
しかし自己を求める、また世を求める愛の生命は、その幾多の快楽と歓喜と共になって、汚れた、不潔なものであることは、たれからでも、もしその者がその与えられている合理的な能力から進んで考えようとするなら、認められることが出来よう。自己への愛は公民社会を破壊する凡ゆる悪の源泉である。そこから不潔な坑から発してでも来るように、凡ゆる憎悪が、凡ゆる復讐が、凡ゆる残酷が、否、凡ゆる姦淫が発して来るのである、なぜなら自分自身を愛する者はその者に仕えない、またはその者を尊ばない、またはその者に組しない他のすべての者をあざけり、罵り、または憎み、そしてその者が憎むときは、その者は復讐と残酷以外には何ものをも呼吸しないのであり、しかもそれはその者がその者自身を愛している度に比例しており、それでこの愛は社会と人類とを破壊してしまうからである。(こうしたものがその性質であることはそれについて第一部693、694、760、1307、1308、1321、1506、1594、1691、1862番に言われていることからもまた認めることができよう)。他生では自己を求める愛〔自己愛〕は極めて汚れたものであり、それは天界を構成している相互愛に真っ向から対立したものであることは主の神的慈悲の下に以下の記事に述べられるであろう。
天界の秘義2045〔3〕
自己愛は憎悪、復讐、残酷、姦淫の源泉であるため、それは罪、邪悪、憎むべきこと、冒涜と呼ばれている凡ゆるものの源泉であり、それでこの愛が人間の合理的な部分の中にあって、その外なる人の幾多の欲念と幻想の中にある時は、主から発している天界的な愛の流入は絶えず跳ね返され、歪められ、汚されるのである。それはすべての甘美な芳香を消散させる、否、汚してしまう不快な排泄物のようなものであり、絶えず流れ入ってくる光の光線を暗い、不愉快な色彩に変えてしまう物体のようなものであり、愛撫されることをことごとく跳ね返し、食物を差し出す者に噛み付き、毒で殺してしまう虎かまたは蛇のようなものであり、または他の人間の最良の意図さえも、またその親切そのものをさえも非難すべきまた悪意を持ったものに変えてしまうたちの悪い人間のようなものである。ここからこれらの愛は―自己を、また世を求める愛は―切り取らねばならなかった陽の皮〔包皮〕により表象され、意味されているものであることが明白である。
3.蛇
天界の秘義257
『蛇の頭』により全般的に悪の主権[支配]が、とくに自己愛の主権[支配]が意味されていることはその性質から明白である、それは単に主権を求めるのみでなく、地上の凡ゆるものを治める主権をさえ求める程にも恐るべきものであり、それはそれにもまた満足しないで、天界の凡ゆるものを支配しようとさえ渇望し、さらに、それにも満足しないで、主御自身をさえ支配しようと渇望し、しかもその時でさえも満足しないのである。これは自己愛の一閃光の中にさえそのことごとくに潜んでいるのである。もしそれがほしいままにされて、拘束から解放されるならば、それはすぐにも爆発して、その渇望している高きにさえも成長することを我々は認めるであろう。かくて『蛇』はまたは自己愛の悪は主権を行使しようといかに望んでいるか、その支配を拒む者を凡ていかに憎悪するかが明らかである。これがそれ自身を高める『蛇の頭』であり、直ぐ前の節に記されているように、主から地にまでも『踏みにじられ』かくて『腹ばって行って塵を食う』蛇の頭である。イザヤ書に『ルシファ』と呼ばれている『蛇』または竜もまたそのように記されている ―
ああルシファよ、おまえは心の中で言った、わたしは天に登り、わたしの王座を神の星の上にも上げ、北側の集会の山の上に坐り、雲の頂きの上にも登り、至高者に等しいものともされよう、と。しかしおまえは地獄へ、坑の側へ落とされるであろう(イザヤ14・12−15)。
『蛇』または『竜』がその頭を高くする方法もまた黙示録に記されている―
大きな赤い竜。彼は七つの頭と十の角を持ち、その頭には七つの冠をつけていた。しかし彼は地に投げ落とされた(黙示録12・3、9)。
ダビデの書には―
エホバはわたしの主に言われた、わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右手に坐りなさい、とエホバはあなたの強い棒をシオンから送り出されるであろう。かれは諸々の国民を審判かれるであろう、かれは屍を満たされた、かれは多くの地を治める頭を害われた、かれは途すがら小川から飲まれるであろう、それでかれは頭をもたげられるであろう(詩編110・1、2、6、7)。
神の摂理211
神的摂理は何人もその存在を殆ど知らない程に秘かに働く理由は人間が滅びないためである。なぜなら人間の意志である人間の自己性は神的摂理とは決して共力せず、人間の自己性はそれに対して生れ乍らの敵意を持っているからである、なぜならこれが最初の両親を誘惑した蛇であって、それについては、『私はおまえと女との間に、おまえの裔と女の裔との間に敵意をおこう、彼はおまえの頭を砕くであろう』(創世記3・15)と言われているから。
蛇は凡ゆる種類の悪を意味し、その頭は自己愛であり、女の裔は主であり、人間の自己性と主の間には、それ故また人間の深慮と主の神的摂理の間には敵意が置かれている、なぜなら人間自身の深慮は絶えずその頭をもたげ神的摂理は絶えずそれを押さえつけられているからである。もし人間はそれを感じるなら、彼は神に向かって怒り、憤激し、滅びるであろう、しかし彼はそれを感じないため、人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激することは出来るが、しかしそのために滅びはしないのである。この理由から主はその神的摂理により絶えず人間を自由の中に導かれ、この自由は人間には全く人間自身のものとして見えている。
4.トマス・ア・ケンピス
キリストに倣いて/3・27・2
もし自分の利益を計り、自分の我意を通そうとして、このことかのことを求め、あるいはここかしこにいることを望むならば、あなたは決して心が安らかにならず、心配を免れないだろう。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・3
いまあなたが自分を大事にして、肉に従えば従うほど、あなたはますます後日(のち)の苦しみをひどくし、煉獄の燃料をたくさん積み上げるのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・27・1
わたしの子よ、あなたはいっさいを得るためにいっさいを捨て、何物をも自分のものとしてはならぬ。
自分を愛する心は、この世のいかなる物よりも、あなたに害があることを知るがよい。どんな物でも、あなたがそれを愛したり好んだりする程度に従って、多少あなたを束縛するのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・27・2
もし自分の利益を計り、自分の我意を通そうとして、このことかのことを求め、あるいはここかしこにいることを望むならば、あなたは決して心が安らかにならず、心配を免れないだろう。なんとなればどんな物にも何か欠点があり、どんな所にもだれかあなたに反対する者がいるだろうからである。
5.レギオン
真の基督教533
凡ての人々を支配せんとする愛と、凡ゆる富を所有せんとする愛の二種類の愛は長く人類に深く根を下ろしてきた。この二つの愛は、抑制されない時には、何らの制限も知らず、前者は天界の神たらんとの欲望を吹き込み、後者は世界の神たらんとの欲望を吹き込むのである。他の凡ての悪しき愛はこの二つの愛に従属し、その名はレギオンと呼ばれる。
6.高貴な者より卑賤な者を、富んだ者より貧しい者をより動かす
真の基督教533
支配への愛と富への愛は高貴者よりも卑賤な者を、富んだ者よりも貧しい者を、王よりも従臣を動かしている。何故なら、王は支配と富とへ生まれ、遂にはこれを貧しい者、卑賤な者がその家の持ち物を見るように見るに過ぎないからである。しかし他の国々を支配しようと渇望する王侯はこれとは異なっている。
真の基督教661
この悪魔は、世に在った時は、単にある家の家令に過ぎなかったのであるが、(後略)
(前略)世に在っては君は単なる一祭司に過ぎなかったのである。
7.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている
天界の秘義390
悪と誤謬の中にいる者は、モーセの書に以下のように記されているように、絶えず殺されはしないかと恐れている―
おまえらの地は荒廃し、おまえらの都は荒れはてるであろう、またおまえらの中で残された者にはその敵の地でわたしは恐れを抱かせよう。彼らは木の葉の動く音にも驚いて逃げ、剣を避けて逃れるようにも逃げ、また追う者もないのに倒れるであろう、彼らは追う者もないのに、剣の前にあるかのように、互いにその兄弟に躓いて、その上に倒れるであろう(レビ記26・33、36、37)。
彼らは彼らを守ってくれる者をたれ一人持っていないため、凡ての者を恐れている。悪と誤謬の中にいる者はすべてその隣人を憎悪し、凡て互に他を殺そうとしている。
天界の秘義391
他生にいる悪霊の状態は、悪と誤謬の中にいる者が凡ての人を恐れていることを示している。自分自身から仁慈をことごとく剥奪した者はさまよって、彼方此方へと逃げて行く。凡て彼らの行く所ではそれがいかような社会であっても、その社会の人々は彼らが単に近づいてくるのみで直ぐさまその性格を認めるのである、なぜなら他生に存在する認識はそうしたものであるからである。彼らは彼らを放逐するのみでなく、激しく罰し、実に彼らを殺しかねないような憎悪を以って罰するのである。悪霊は互に他を罰し、責め苛むことに最大の喜びを感じており、それが彼らの最高の満足となっている。悪と誤謬そのものがその原因であることは今まで知られていなかったのである、なぜならたれでも人が他の者に望むことは凡てその人自身に帰ってくるからである。誤謬はそれ自身の中に誤謬の刑罰を持っており、悪はそれ自身の中に悪の刑罰を持っており、従って、彼らは自分自身の中にこれらの刑罰の恐怖を持っているのである。
8.自己愛がほしいままにされた時のその性質
天界の秘義1304
「私らは都と塔とを私らに作ろう。」
これは彼らが教義と礼拝とを形作ったことを意味していることは『都』の意義から、また『塔』の意義からも認めることが出来よう、それについては間もなく記そう。教会は隣人に対する仁慈が去って、自己愛がそれに代って起ると、信仰の教義はそれが自己礼拝に変えられることが出来ない限り無価値なものとなり、いかようなものもそれが自己のためにならない限り、引いてはそれが自己礼拝にならない限り、礼拝の中に聖いものとして考えられないといった性質を持っているのである。自己愛は凡てこのことを伴っている、何故なら他の者に勝って自分自身を愛している者は自分に服従しない者を凡て憎悪し、その者が自分に服従するようになった時以外にはその者には何ら恩恵を示しはしないのみでなく、更に何かにより抑制されない限りは、自分自身を神の上にさえ挙げるまでも突進するからである。これが自己愛がほしいままにされた時のその性質であることが、そのあるがままに私に示されたのである。これが『都』と『塔』により意味されるものである。自己愛とそこから派生してくる欲念はことごとく凡ゆる物の中でも最も不潔なものであり、また最も汚れたものであり、奈落のものそのものであり、ここからたれでもかくも絶対的な奈落のものを内に持った礼拝の性質はいかようなものであるに違いないかを結論付けることが出来よう。
天界の秘義7375
この二つの愛は、それがほしいままにされるに応じ、またその人間がその愛の中へ拉し去られるに応じて増大し、遂には法外に増長して、自分自身の国の一切の物のみでなく、その外に在る物をも、実に地の端までも支配しようと欲し、否、この愛は、拘束されない時は、宇宙の神のもとへさえも昇るのであり、即ち、この愛に取りつかれた者は神の玉座までも登って、神御自身に代って拝されようと欲するほどの高さにまで昇るのである、このことはルシファについてイザヤ書に記されており、ルシファとはこうした愛の中にいる者らのことであって、『バベル』と呼ばれているのである―
おまえはその心の中で言った、私は諸天へ昇ろう、私は神の諸々の星の上までも私の王座を上げよう、私は北の側の、集会の山に坐ろう、私は雲の高根の上にも昇って、至高者のようにもなろう、と。が、おまえは地獄へ投げ落とされるであろう(イザヤ書4・13−15)。
9.自己愛はすべてのものを破壊する
天界の秘義2045 [2]
しかし自己を求める、また世を求める愛の生命は、その幾多の快楽と歓喜と共になって、汚れた、不潔なものであることは、たれからでも、もしその者がその与えられている合理的な能力から進んで考えようとするなら、認められることが出来よう。自己への愛は公民社会を破壊する凡ゆる悪の源泉である。そこから不潔な坑から発してでも来るように、凡ゆる憎悪が、凡ゆる復讐が、凡ゆる残酷が、否、凡ゆる姦淫が発して来るのである、なぜなら自分自身を愛する者はその者に仕えない、またはその者を尊ばない、またはその者に組しない他のすべての者をあざけり、罵り、または憎み、そしてその者が憎むときは、その者は復讐と残酷以外には何ものをも呼吸しないのであり、しかもそれはその者がその者自身を愛している度に比例しており、それでこの愛は社会と人類とを破壊してしまうからである。(こうしたものがその性質であることはそれについて第一部693、694、760、1307、1308、1321、1506、1594、1691、1862番に言われていることからもまた認めることができよう)。他生では自己を求める愛〔自己愛〕は極めて汚れたものであり、それは天界を構成している相互愛に真っ向から対立したものであることは主の神的慈悲の下に以下の記事に述べられるであろう。
天界の秘義2219〔2〕
更に第一部の色々な所に自己愛の性質は如何ようなものであるかを、即ち、それは秩序に―人間はこの秩序へ創造られたのであるが、その秩序に―真向から対立したものであることを示しておいた。人間は各々の者が全般的にもまた個別的にも、他の者に善かれと願って善いことを行うようにとの目的から、合理的なものを与えられているということにより獣に勝ったものとして区別されているのである。これが人間がそれに向かって創造られている秩序であり、従って人間の生命とならねばならないものは、また人間がよってもって獣から区別されなくてはならないものは神に対する愛と隣人に対する愛である。これがまた天界の秩序であり、その秩序の中に、人間は世に生きている間にいなくてはならないように、かくて主の王国の中にいなくてはならないように意図されたのであって、この王国に人間は、地上で彼に役立った身体を脱ぎ去った時に入り、そこで絶えず天界の完全さにおいて向上して行く状態へ昇って行くのである。
しかし自己愛はこのすべてのものを破壊する第一次的な実に唯一のものであるが、世への愛はそれほど甚だしくはない、なぜならこの愛は実際信仰の霊的なものに反してはいるが、しかし自己愛は愛の天的なものに真向から対立しているからである、なぜなら自分自身を愛する者は他の者をたれ一人愛しはしないで、いかようなものであれ、自分に敬意を払わない者を破滅させようと努め、また自分自身の一部であるか、または自分の欲念と幻想とを謂わば接種されたもののように、自分自身の一部となるほどにも捕えられることが出来る者を除いては、いかような者にも善かれと望んで、善いことを為しもしないからである。ここから、自己愛への愛から凡ゆる憎悪が、凡ゆる復讐と残酷が迸り出ることが、また同じく凡ゆる忌まわしい佯りと詐欺とが迸り出ることが、かくて人間社会の秩序と天界社会の秩序に反した凡ゆる忌むべきものが迸り出てくることが明白である。
天界の秘義2219〔4〕
否、自己愛は、その束縛が緩められると、すなわち、気ままに振舞うことが出来る機会がそれに与えられると、最低の境遇に置かれている者らのもとにおいてすら、迸り出てきて、隣人や近くにいる者のみでなく、宇宙を、実に至高の神的なものそれ自身をすら支配しようと欲する程にも憎むべきものとなるのである。このことをその人間はその人間にはよくは知られていない束縛により抑えられているため、実際知りはしないが、しかし前に言ったようにこれらの束縛が緩められるに応じて、彼らは突進して行くのであり、このことは私は他生における多くの経験から知ることが出来たのである。こうしたものが自己愛に隠れているため、自己愛の中にいて、良心の束縛を与えられていない者は、他のすべての者にも勝って主を憎悪し、従って信仰の凡ゆるものを憎悪するのである、なぜならこれらのものは主の王国の秩序の法則そのものであるからであり、これらのものを彼らは嫌忌するほどにも斥けるが、そのこともまた他生に明らかに現れてくるのである。この愛はまた『蛇の頭』であり、これを『女の裔』(すなわち主)が踏みつけられるのである(このことについては第一部257番を参照)。
天界の秘義2219[5]
しかし自己愛は必ずしも、誇り、傲慢として外なる形の中に現れるものではない、なぜなら時折こうした人物は隣人を慈しむことが出来るからである、なぜなら或る者にはこのような外なるものは生まれながらに備わっており、また或る者には早期に取得されるからであるが、しかし後には征服されてしまって、しかし外なるものは依然残っているからである。しかし他の者を軽蔑し、自分自身に比較して他の者を取るに足らない者とし、共通の善を、それが自分の益にならない限り、何ら顧慮しない者は自己愛の中におり、その者ら自身が、謂わば、その自己愛なのである、特に自分に好意を持たず、また仕えもしない者をことごとく憎み、迫害し、能う限り、その者らの財産を、名誉を、名声を、また生命をすら奪う者は自己愛なのである。こうしたことを意図の中に息づいている者らは一際自己愛の中にいることを知られよ。
天界と地獄399
天界の楽しさはいかに大いなるものであるかは、ただ以下のことのみからでも明白となるであろう、即ち、天界の凡ての者には自分の楽しさと祝福とを他に伝えることが楽しいのである、諸天界の凡ての者はそうした性質を持っているため、天界の楽しさはいかに無限なものであるかが明らかである、なぜなら前に言ったように(268)諸天界では凡ての者は各々の者に伝え、各々の者は凡ての者に伝えているからである。こうした伝達は、前に言ったように、主に対する愛と隣人に対する愛である天界の二つの愛から流れ出ている。この愛がその楽しさを伝えるのである。主に対する愛はそうしたものであるのは、主の愛は主が持っておられる凡てのものを凡ての者に伝えようとされる愛であるためである、なぜなら主は凡ての者の幸福を願われるからである。主を愛する者各々の中にもそうした類似の愛があるのは、主がその者たちの中におられるからである、そこから天使たちはその喜びを互に他に伝え合っているのである。隣人に対する愛もまたそうしたものであることは以下の記事にも認められるであろう。これらの事柄からその愛はその歓喜を伝えるものであることが明白となるであろう。自己と世への愛はそうではない。自己への愛は他の者から喜びを引き出し、奪い去って、それを自分自身の中へ引き入れる。なぜならそれはそれ自身の幸福のみを望み、世の愛はその隣人のものが自分自身のものとなるように望んでいるから。それ故これらの愛は他の者の楽しさを破壊する。もしそれが己がものを伝えるならば、それは自分自身のためであって、他の者のためではない。それでそれは他の者に対しては他の者の楽しさが自分自身と関連を何か持たない限り、己がものを伝えるのではなくて、他の者の楽しさを奪い去るのである。これが自己と世への愛が支配するとき、その愛の性質であることを私は生きた経験から再三認めたのである。世で人間として生きていた頃そうした愛にいた霊が近づいてくる度毎に、私の楽しさは遠のき、消滅したのである。私はまた、こうした者が天界の社会に近づくのみで、ちょうどそれに応じて、その社会にいる者たちの楽しさは減退し、しかも驚くべきことには、その悪霊らはその時その歓喜を覚えるのであると言われた。従ってこうした人間の身体内の霊の状態はいかようなものであるかが明白になった。なぜならそれはその霊が身体から分離した後のその霊の状態に似ているからであり、即ち、彼は他の者の楽しさとまた善を欲し、または渇望し、それを得るに比例して楽しむのである。これらの事柄から自己と世への愛は天界の喜びを破壊し、引いては己がものを伝える天界の愛とは全く対立していることを認めることが出来よう。
10.支配を求める愛
スウェーデンボルグ/続 最後の審判61/(静思社/最後の審判とバビロンの滅亡P127)
人間はその両親から植え付けられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られているが、しかしそれは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それは迸り出て、遂には凡ての者を支配し、しまいには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上がりさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。
あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4,5)。
それゆえ人間が手綱を緩められてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言に属する神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的であるゆえ、その手段は単に彼に役立つためにその心に在るに過ぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くに我慢の出来ない者がいるのである。
神の愛と知恵141
天界的な愛の凡ての頭であるところの、またはその凡ての愛が関係しているところの愛は、主に対する愛であり、奈落的な愛の凡ての頭であり、またその凡ての愛が関係しているところの愛は自己への愛から発する支配への愛である。
神の愛と知恵142
主に対する愛にいる者は凡て主により導かれることを何物にもまさって愛し、主のみが自らを支配されることを願うため、これに反し自己への愛から発する支配への愛にいる者は、自分自身により導かれることを何物にもまさって愛し、自分自身のみが支配することを願うため、彼らは反対の方向に面を向けている。これは自己への愛から発する支配への愛と呼ばれるが、それは用を遂行しようとする愛から発する支配への愛も在るからである。この用を遂行しようとする愛から発する支配への愛は隣人に対する愛と一つのものとなっているため、霊的な愛である。しかもこれは支配への愛と呼ばれることは出来ず、義務を遂行しようとする愛と呼ばれ得るものである。
11.悪魔的な形
天界の秘義2363[3]
自己への愛と世への愛のこの生命の性質について(またはそれと同一のものであるところの、誇り、貪欲、羨望、憎悪、無慈悲、姦通の生命の性質について)明らかな考えを得るために、たれでも才能のある人はその人自身でこれらの悪の中の何れか一つを人格化されてみられよ、または、もし出来ることなら、その人が経験と知識と理性からその悪について思いつくことが出来る考えに応じて、その目の前にそれを絵に描いてもみられよ、その時その人はその人が描写し、また画いたものの力強さに応じて、これらの悪はいかに恐るべきものであるかを、またそれらは内に何ら人間的なものを持っていない悪魔的な形のものであることを認められるであろう。こうした悪に己が生命の歓喜を認める者はすべて死後このような形に実際なるのであり、その者らのその悪における歓びが大きければ大きいほど、益々その者ら自身の形は恐るべきものとなるのである。
天界の秘義2363[4]
他方その同じ人にその人自身で愛と仁慈とを人格化させて、それを記述させてみられよ、またはそれをその人の目の前に何らかの形の下に表現させてみられよ、その時はその記述し、描写する力に応じて、その人はその形が天使的なものであり、祝福と美で満ちており、またその内部が天界的な神的なもので浸透していることを認めるであろう。この二つの形が共に住むことが出来るとたれが信じることが出来ようか、またはその悪魔的な形が脱ぎ棄てられて、仁慈の形に変わることが出来る、しかもそれがその生活に反している信仰によって行われることが出来るとたれが信じることが出来ようか。なぜなら死後も各々の者の生命は、またはそれと同一のものであるところの、その者の情愛は残っており、その時それに彼の思考はことごとく順応し、従って彼の信仰も順応するのであり、かくてそれは、それがかつて心の中にあったままに明らかにされるからである。
天界と地獄553
地獄の霊らは凡て、天界の何らかの光の中に見られると、その者の悪の形をとって現れる、なぜなら各々はその悪の映像となっているからであるが、それは各々の者のもとでは、内部と外部とは一つのものとなって、内部は、顔、身体、言葉、動作である外部の中にそれ自身を示して[他から]見られるようになっており、それでその性質はそれが見られるとすぐに認められるのである。全般的に彼らは他を軽蔑し、自分を尊敬しない者を威嚇する心の形であり、色々な種類の憎悪の形であり、また色々な種類の復讐の形である。狂猛と残酷とが彼らの内部からそうした形を通して現れているが、しかし他の者から尊敬され、礼拝もされると、その顔は整って、楽しさのあまり喜ばしそうに見える。僅かな言葉でその凡ての形をその現れているままに記すことは不可能である、なぜなら一は他とは似ていないから。ただ類似した悪におり、それで類似した奈落の社会にいる者らの間には全般的に似たところがあって、そこから、それを共通の基礎として、凡ての者の顔はそこでは一種の類似したものをもっている。
全般的に彼らの顔は恐ろしく、死人の顔のように生気がない、ある者の顔は黒く、ある者の顔は小さな松火のように燃えており、ある者の顔はにきび、いぼ、ただれで、醜く、ある者には顔は見えないで、それに代わって、髪または骨のようなものが現れ、ある者のもとでは歯のみが見える。彼らの身体もまた怪物のようであり、言葉は怒り、または憎しみ、または復しゅうの言葉の様である、なぜなら各々の者はその誤謬から語り、その語調はその悪から発しており、約言すれば、彼らはすべてその者自身の地獄の映像となっているから。地獄そのものの形は全般的にはいかようなものであるかは私は見ることは出来ず、ただ以下のようにのみ言われたのである、天界全体はその総合体では一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象しており、同じくまた一人の悪魔の映像をもって表象することが出来よう、と(前の544番参照)。
しかし地獄は、または奈落の社会は個別的にはいかような形をとっているかを、しばしば私は見ることが出来た、なぜなら地獄の門と呼ばれているその入口には、普通怪物が現れていて、それがその内にいる者らの形を全般的に表象しているからである。そこに住んでいる者らの猛々しい情欲も同時にその時恐ろしい、残虐な物により表象されているが、私はそれをここに記すことは控えよう。しかしながらこれは奈落の霊らが天界の光の中で見える形であって、彼ら自身の間では人間として現れており、これは主の慈悲から起っており、互いに他に対しては、天使たちの前に現れるような醜悪な形をとって現れないためであることを知らなくてはならない。
しかしそうした外観は妄想である、なぜなら天界からの何らかの光線が流れ入るや否や、彼らの人間の形は、前に記したように、彼ら自身のあるがままの形である怪物の形に変化するからである。なぜなら天界の光の中では凡ゆる物はそれ自身においてあるがままに現れるからである。これがまた彼らは天界の光を避けて、火のついている石炭から発しているような光のような、ときには燃えている硫黄から発している光のような、彼ら自身の光の中へ自分自身を投げ込む理由であるが、しかしその光もまた、天界から何らかの光がその上に差し込むと、ただ暗闇に変化するのである。ここから地獄は暗闇と暗黒の中にあると言われ、暗闇と暗黒とは、地獄にあるような、悪から由来した誤謬を意味している。
天界と地獄554
地獄の霊らのそうした怪物のような形を点検することにより―その形は、私が言ったように、凡て他の者を軽蔑し、また自分を尊敬しない者たちを威嚇する心の形であり、また自分に好意を示さない者たちを憎悪しこれに復讐する心の形でもあるが―彼らは凡て全般的には自己への愛と世への愛との形であり、彼らが各々その形をもって示している悪はその二つの愛から発していることが明白となったのである。私はまた以下のことを天界から告げられもしたが、多くの経験からも証明されたのである。すなわち、自己への愛と世への愛であるその二つの愛は、地獄を支配し、同じく地獄を作っているが、しかし主に対する愛と隣人に対する愛とは天界を支配し、同じく天界を作っており、また地獄の愛であるその二つの愛と天界の愛であるその二つの愛は、互いに正反対のものである。
12.自分自身を愛する者は、他の何人にもまさって心が安まらず、容易に苛立ち、猛烈に激怒する
神の摂理250(ロ)
偉大な人間の高貴も、王または皇帝のそれすらも、たった一年後にはありふれたものとして認められ、最早彼の心を喜びで膨らませることもなくなり、その目には無価値なものとすらならないか。これらの人間は、農夫やその召使のような、低い、または最低の地位にある者よりも更に大きな幸福をその高貴から得ていようか。農夫や召使は何事もうまく行って自分の運命に満足している時は、更に大きな幸福を楽しむことが出来よう。自分自身を愛する者は、特に自分がその心の誇りに応じて尊ばれないときは、また、その好みと欲望に応じて成功しない時は、他の何人にもまさって心が安まらず、容易に苛立ち、猛烈に激怒する。それ故高貴は目的または用に何ら貢献しないならば、観念以外の何であろう。そしてこのような観念は自己と世とを目標として、この世が凡てであって、永遠は無意味であると仮定する考え以外のいかような種類の考えに在ることが出来よう。
13.自己愛が悪魔と呼ばれる
神の摂理302
かくて天界の形は美しい人間の形であり、その霊魂は神的な愛と知恵であり、それ故主であり、地獄の形は醜悪な人間の形であり、その霊魂は自己への愛と自己の理知であり、それ故悪魔である。なぜならそこを只一人で支配する悪魔はいないし、自己愛が悪魔と呼ばれるからである。
14.意志的な自己性は本質的には自己への愛であり、知的自己性はその愛から発する誇り
神の摂理298(ロ)
「もしその時人間の理解が真理を見るなら、それはそこから遠ざかるか、またはそれを誤謬化するかする」。
人間は意思的な自己性を持ち、意思的な自己性は悪であり、知的な自己性はそこから発する誤謬であり、後者はヨハネ伝1・13の人の意志により、前者は肉の意志により意味されている。意志的な自己性は本質的には自己への愛であり、知的自己性はその愛から発する誇りである。この二つは結婚した匹偶(つれあい)に似、その結婚は悪と誤謬との結婚である。この結婚は凡ゆる悪霊の中に、その霊が地獄に入る前に行われ、彼は地獄に入ると、善とは何であるかを知らなくなる。なぜなら彼は悪が歓ばしいものに感じられるため、それを善と呼び、かくて真理から遠ざかり、またそれを見ようとも欲しないため、眼が美しいものを見るように、悪に一致した誤謬を見、耳が調子の整ったものに聴き入るように、それに聴き入るからである。
15.神メシアに対する憎悪が潜んでいる
霊界日記69
自己を、また世を求める愛の最小のものの一切の中にも宇宙を所有しようとする野望が潜んでおり、かくて神メシアに対する憎悪が潜んでいる。
16.エゴイズム
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P50
今、同じことが起きている。大規模において小規模において、社会的にも、あるいは個人的にも、九十パーセントは当時のファリサイ人のように生きており、同じ方法で行動している。金銭欲、傲慢、非情な心、淫欲、貪欲、飽食など、あらゆる形のエゴイズムがあなたたちの生活基盤、行動規範である。イシマエルの頑なさに怖じ気を振るってはならない。あなたたちも、あなたたちにもはや役立たない者に対して同じように振る舞っている。あなたたちのうちでは、愛徳も愛徳も死んでいる。あなたたちは自分自身しか愛していない。
17.政治的な自己愛と教会的な自己愛との真の性質
真の基督教661
自己への愛から支配することは、生来悪であって主とは正反対である自我性から行動することである。それ故、人間はその悪に深く沈むに従い、益々神をまた教会の諸々の聖なる物を否定し、自らと自然を礼拝するのである。この愛に溺れている者は自らを点検されよ。然すれば、その人たちは認めるであろう。この愛は抑制されない限りは、更に高く登ろうとの野望を生み、最早遠くへ行くことの出来ない時にのみ嘆くのである。政治家にあっては、それは全世界を支配し、王の王、主の主と呼ばれようとの欲望を作り出し、教職者にあっては神となり、天界を支配しようとの欲望を作り出すのである。このような人間は、以下に見られるように、無神論者である。
真の基督教661
私は後に彼らの地獄を見た。自らを王と称える輩は眼のぎらぎら光る野獣のように見え、その地獄は不潔なものに満ちていた。自らを神と称える輩の地獄もこれに似、更にそれは彼らの諸々の迷妄に相応するところのオヒムとイジムと呼ばれる夜鳥に付き纏われていた。これによって、私は政治的な自己愛と教会的な自己愛との真の性質を悟ったのである。即ち、前者はこれに恣(ほしいまま)に耽るならば、王侯になろうとする野望を生み、後者は神になろうとする欲望を生むのである。
続 最後の審判61/(静思社/最後の審判とバビロンの滅亡P127)
人間はその両親から植え付けられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られているが、しかしそれは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それはほとばしり出て、ついには凡ての者を支配し、しまいには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上がりさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。
あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4,5)。
それゆえ人間が手綱を緩められてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言に属する神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的であるゆえ、その手段は単に彼に役立つためにその心に在るにすぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くに我慢の出来ない者がいるのである。
18.地獄の三つの主要な原理
真の基督教661
彼らは主を見上げた後語った。「地獄には三つの主要な原理があり、それらは天界のそれとは正反対の物であり、地獄のそれは自己への愛から発する支配への愛、世への愛から発する利得への愛、而して姦通愛であります。天界の主要原理は用への愛から発する支配への愛、用への愛から発する富、所有の愛而して真の結婚愛であります」彼らはこのように語ると、私はこれに謝し、家に帰った。
19.地獄の政治
天界と地獄220
地獄にもまた政治がある、なぜなら政治が無い限り、彼らは閉じ込めておかれないから、しかしそこの政治は凡て自己愛の政治であって、天界の政治に対立している。そこの各々の者は他の者を支配して、他よりもはるかに傑出しようと願っている。彼らは彼らに与しない者を憎み、これを復讐しようと憤怒の対象となっている、なぜならそれが自己愛の性質であるから。それゆえ、〔他よりも更に〕邪悪な者が統治者として彼らの上に置かれ、これらに彼らは恐怖から服従している。しかしこのことについては、後に地獄を取扱うようになる時述べよう。
20.残酷、無慈悲
天界の秘義6667
「残酷に」。これは無慈悲を意味していることは解説の要もなく認めることが出来よう、なぜなら今し方取り扱った者らは隣人を全く愛しないで、ただ自己のみしか愛しはしないため、慈悲を全く持たないからである。彼らの許に現れる隣人愛は自己愛以外の何ものでもない、なぜならたれか他の者が彼らに好意を示す限り、即ち、その者が彼らのものである限り、その者は愛されはするが、しかしその者が彼らに好意を示さない限り、またはその者が彼らのものでない限り、その者は斥けられ、もしその者が以前友達であったなら、嫌悪されるからである。こうしたものが自己愛に隠れていて、世では明らかにされはしないが、しかし他生では明らかにされ、そこで爆発するのである。それがそこで爆発する理由は、外なるものはそこで取り去られ、その時その人間は内部ではいかようなものであったかが明らかにされるということである。
21.自己への愛と世への愛とは人間のもとに地獄を作る
天界の秘義7255
善は人間のもとに天界を作り、悪は地獄を作るからには、善とは何であるか、悪とは何であるかを知ることは最も重要である。善は主に対する愛と仁慈とに属するものであり、悪は自己への愛と世への愛とに属するものであることはすでに言ったところである。そこから、善とは何であるか、悪とは何であるかが知られるのはその愛によっており、その愛のみによっていることが生まれている。
天界の秘義7366
自己への愛と世への愛とは人間のもとに地獄を作ることは前に述べた、で、今、人間が自分はそうした愛の中にいるか、否かを知るために、従って地獄か、または天界か、その何れが自分の中に在るかを知るために、―なぜなら人間自身の中に天界か、または地獄か、その何れかが在るからである―これらの愛の性質を話さなくてはならない。神の国は人間の中に在ることは主はルカ伝17・21に教えられている、従って地獄もまた人間の中に在るのである。
天界の秘義7369
人間は自己への愛の中に止まるに応じて、隣人への愛から自分自身を遠ざけるのであり、従って人間は自己への愛の中に止まるに応じて、天界から自分自身を遠ざけるのである、なぜなら天界には隣人への愛が在るからである。このことからまた人間は自己への愛の中に止まるに応じて、地獄の中にいることが生まれている、なぜなら地獄には自己への愛が在るからである。
天界の秘義7376
この凡てから今やこの二つの愛は凡ゆる悪の起原であることを認めることが出来よう、なぜならそれらは隣人に対する愛と主に対する愛とは正反対のものであり、かくて主に対する愛と隣人に対する愛とに支配されている天界とは正反対のものであるからである。従って人間のもとに地獄を作るものはこれらの愛であり、即ち、自己への愛と世への愛である、なぜならこの二つの愛が地獄を支配しているからである。
22.自分自身と自分に属している者のみを顧みる
天界の秘義7367
人間は、その考え、為すことにおいて、その隣人を顧みず、かくて社会を顧みず、まして主を顧みず、ただ自分自身と自分に属している者のみを顧みる時は、従って凡ての事を自分自身と自分に属している者のために為す時は―例え社会と隣人のために為すにしても、それは単に体裁のために過ぎない時は―自己への愛が彼を支配しており、即ち、その者は自己への愛の中にいるのである。
天界の秘義7368
『自分自身と自分に属している者』と言ったのは、彼はそれらの者と共になって、またそれらの者は彼と共になって、一つのものとなっているからである、丁度たれかが自分の妻、子供、孫、婿、または嫁のために何かを為す時は、彼はそれを自分自身のために為しているのである、なぜなら彼らは彼のものであるからである。自分の愛していることを支持して、自分と連結してくれる親類や友のために行う者も同じである。なぜならこうした連結により彼らは彼と一つのものとなっており、即ち、彼の中に彼ら自身を、また彼ら自身の中に彼を顧みているからである。
23.自分自身に較べて自分の隣人を軽蔑する
天界の秘義7370
自分自身に較べて自分の隣人を軽蔑し、もしその者が自分を支持し、尊敬しないなら、これを自分の敵とみなす人間は自己への愛の中におり、そのため隣人を憎んで迫害する者は、更に自己への愛の中におり、それで彼に対する復讐心に燃え、その破滅を求める者は、それよりも更に自己への愛の中にいるのである。こうした人物は遂にはその隣人に向かって荒れ狂うことを愛し、もしその者がまた姦通者であるなら、残酷にもなるのである。
天界の秘義7371
こうした人間がそうした事柄の中に認める歓喜は自己への愛の歓喜である。人間におけるこうした歓喜は奈落の歓喜である。愛に従っている物はすべて歓ばしいものであり、それで愛の性質は歓喜から知ることが出来るのである。
天界の秘義8318
「恐怖と畏怖とが彼らに臨んだ」。これは、彼らが支配しようとの希望を全く持たないことを意味していることは『恐怖と畏怖』の意義から明白であって、それは、そのことが『エドムの長とモアブの力強い者』により意味されているところの、自己愛とそこから生まれてくる誤謬と悪の中にいる者らについて言われている時は、彼らが支配する希望を持たないことである、なぜなら自己愛の悪の中にいる者らは絶えず威圧しようと望んでいるが、しかし敵が勝利を得たために恐怖に襲われると、威圧の望みも無くなってしまうからである。
天界の秘義8318〔2〕
悪は二つの起源から、即ち、自己への愛から、また世への愛から発していることを知られたい。自己愛から悪の中にいる者らは自分自身のみを愛して、自分自身と一つになっている者以外の者は軽蔑しており、自分自身と一つになっている者を愛しても、それはその者を愛しているのではなくて、自分自身を愛しているのである、それは彼らはその者の中に彼ら自身を見出しているためである。この起原から発している悪は凡ゆるものの中でも最悪のものである、なぜならその悪の中にいる者らは他の者を凡て自分に較べて軽蔑するのみでなく、また彼らを毒舌をもって弾劾し、些細な原因からでも彼らに憎悪を抱き、これを破滅させようと息づくからである。このようにして復讐と残酷とが彼らの生命の歓喜となっている。この愛の悪の中にいる者らはその愛の質と量とに応じて地獄の深い所にいる。
天界の秘義8318〔3〕
しかし世への愛から悪の中にいる者らもまたその隣人を軽んじて、これをただその富からのみ尊重し、かくてその富を尊重はするが、その人間を尊重はしない。これらの者はその隣人に属するものを凡て得ようと望み、こうした欲念にとりつかれると、そのときは仁慈と慈悲とを全く失ってしまう、なぜならその隣人の財産を奪うことが彼らの生命の歓喜であり、特にあさましいまでに貪欲な者の生命の歓喜であり、即ち、金銀を金銀のために愛して、そこから生まれる用のために愛さない者らの生命の歓喜であるからである。この愛の悪に支配されている者らもまた地獄にいるが、自己愛の悪の中にいる者ほど深い地獄にはいない。この二つの悪の起原の他にまた第三のものがあり、それは誤った宗教の原理から悪を為すことであるが、しかしこの悪は自己と世への愛にいる者らのもとでは悪い性格を持ってはいるが、隣人に対する、また神に向かっての愛の中にいる者たちのもとではそうしたものを持ってはいない、なぜなら目的が善であって、その目的が他の凡てを和らげてしまうからである(8311番を参照)。
天界と地獄562
自己愛にいる者らに属している悪は全般的に他の者に対する軽蔑であり、羨望であり、自分を支持しない者凡てに対する憎悪であり、そこから発する敵意であり、色々な種類の憎悪、復讐、狡猾、詐欺、無慈悲、残酷であり、宗教的な事柄については、神と、教会の真理と善である神的な物とを軽蔑するのみでなく、それに向って怒ることである。この怒りはその人間が霊になると、憎悪に変わり、そのときは彼は今記した事柄を聞くに堪えることが出来ないのみでなく、神を承認し、礼拝する者凡てに対し憎悪に燃え上がりさえする。私はかつて、世では権威を持った人間であって、自分自身を過度に愛した或る一人の霊と話したが、彼は神と言われるのを聞いたのみで、特に主の御名が言われるのを聞くと、怒りから発する憎悪のあまりに、主を殺そうとさえする欲望に燃え上がったのである。その当人もまた、その愛の手綱がゆるめられると、自己愛から絶えず天界を悩ませようとして、悪魔そのものになろうと欲したが、これもまた、教皇派の者の中で或る者が、他生で主が凡ゆる権能を持たれて、自分自身は何らそれを持っていないことを認める時、その抱く欲望である。
25.天使たちには自己愛がない
天界と地獄272
天使がかくも偉大な知恵を受けることの出来る理由は―それもまた天界では主要なものではあるが―天使たちには自己愛が
ないということである、なぜならたれでも自己愛を持たなくなるに応じて、神的な事柄において賢くなることが出来るからである。主と天界に向かって内部を閉じ、外部を開いて、それを自己に向けさせるものはその自己愛である、そうした理由からその愛に支配されている者は凡て世の事柄の方面ではいかほど光の中にいようとも、天界の事柄の方面では暗闇にいる。しかし、天使たちはそれに反し、自己愛を持たないため、知恵の光の中にいる、なぜなら主に対する愛と隣人に対する愛であるところの、その抱いている天界的な愛は、主から発し、また主御自身がその愛の中におられるため、その愛は内部を開くからである。これらの愛は全般的に天界を作り、個別的には各々の者のもとに天界を形作ることは、前に見ることが出来よう(13−19)。天界的愛は主に向かって内部を開くため、天使たちは凡てまたその顔を主に向けている(142)、なぜなら霊界では愛が各々の者の内部を愛自身に向け、そしてその愛がその内部を向けるところに、また顔をも向けるからである、それはそこでは顔は内部と一つのものとなり、内部の外なる形となっているためである。愛は内部と顔とを愛自身に向けるため、それはまたそれ自身を内部と顔とに連結させている、それは愛は霊的に連結させるものであって、内部と顔とにその愛自身のものを伝えるためである。その向けることとそこから生まれる連結と伝達から、天使たちはその知恵を得ている。霊界の連結は凡てその向くことに応じていることは前に見ることが出来よう(255)。
天界と地獄556
自己愛は自己のみ良かれと欲し、自己のためでないなら、他の者の益を願わず、教会、国家、または人間社会の益さえも願わず、また自分自身の名声、名誉、栄光のためにのみそれらに益を与えることにある。
27.自己愛の中にいて、何であれ凡ての善に反抗している者らは、最も深い、それゆえ最も痛ましい地獄にいる
天界の秘義4750[4]
地獄もまたこの二つの愛に従って明確に区別されている。自己愛の中にいて、何であれ凡ての善に反抗している者らは、最も深い、それゆえ最も痛ましい地獄にいるが、しかし世への愛の中にいて、何であれ凡ての善にそれほど反抗していない者らは、それほど深くはない、それでそれほど痛ましくはない地獄にいるのである。
28.真の基督教
真の基督教400
(四)「個別的な自己への愛と世への愛」。
(1)自己への愛は自己自身の善を望み、自己のためを除いては何人の善をも望まないことから成り、教会の、国家の、人類社会の、或いは同胞の善をすら望まないことから成っている。善は単に名声、栄誉、卓越のためにのみ為され、これが他に善を為すことによって得られない限り、次のような思いが生ずる。「何故自分はそれをしなくてはならぬか。それは自分にどう役立つというのだ。」かくして、何事も為されない。それ故、自己への愛に取りつかれた者は教会も、国家も、同胞も、如何なる真の善も愛さないで、ただ自分自身と自分自身のものを愛するに過ぎない。
真の基督教400(2)
人間はその思考と好意とに於いて隣人にも公衆にも何らの関心をも持たず、まして、主に対して、何らの関心をも持たず、ただ自らと自らの人々にのみ関心を持つ時は、自己への愛に取り憑かれ、もし、彼が公衆のために何事かを為すならば、それは体裁のためであり、隣人のために何事かを為すならば、それは彼への好意を確保しようとの目的からである。
我々が、「自らの人々」なる語を用いるのは、自らを愛する者はまた自らに属する者、特に自らの家族を、また一般的には友情に於いて自らと結ばれている者を凡て愛するからである。しかしこれらの者への彼の愛は自己への愛以外の何ものでもない。何故なら彼は彼らとの交わりに於いて絶えず自己自身を考えているからである。彼が彼の友人と呼ぶ人々の間には彼を称賛し、崇め、彼におもねる者が数えられなくてはならない。それ以外の者を凡て彼は無用の長物以上の者としては認めない。
真の基督教400(4)
隣人が自分に諂(へつら)い、尊敬を示さぬ限り、これを軽蔑する者は凡て自己への愛に取り憑かれる。彼は彼らを敵として認めるか、更に悪くなると、彼らを憎み、迫害し、更に最悪に至ると、彼らに対し復讐の念に燃え上がり、その破滅を欲する。かかる人間は遂に残酷を喜ぶに至る。
真の基督教400(5)
自己への愛の真の性質は天界的な愛と比較することによって明瞭に見られることが出来よう。教会、国家、人類社会、或いは同胞のために為される用のために用を愛すること、或るいは善のために善を愛することは天界的な愛の性質であるが、これを自己自身のために為す者は、それが自己に役立つために為すに過ぎないのである。それ故、彼は教会、国家、人間社会、同胞に仕えるよりは、彼らが彼自身に仕えることを欲し、彼自身を第一位に、彼らを第二位に置くという事が推論される。
真の基督教400(6)
天界的な愛の中にある者、即ち、善を為すことと他に役立つことを喜ぶ者は、主によって導かれる。何故なら、主はこの愛の中に住み、その愛を御自らの周囲に注ぎ給うからである。しかし、自己への愛に取り憑かれている人間は自己自身によって、或いは悪以外の何ものでもない自己によって導かれる。何故なら、それは神にも勝って、自己を愛し、天界にも勝って世を愛することの中に在る彼の遺伝悪であるから。
真の基督教400(7)
自己への愛は外的な拘束物−法律とその刑罰の恐怖、世評、名誉、利得、職務或いは生命の損失−から解放される時、単に世界のみならず、天界および実に神御自らをさえ支配する主権を持つ生涯を熱烈に欲するのである。それは節度も制限をも知らない。この傾向は自己への愛に取りつかれている凡ゆる人間の中に潜んでいるが、それは世に対しては明白でないかもしれないのは、上述の拘束物によって押さえられ、打ち勝つことの出来ぬ障害に面接するときは、それが取り除けられるまでは、静止しているからである。これがこれらの人々はこのような狂的な、無拘束な欲望が自己の中に潜んでいることを知らない理由である。しかしながら、その真理はこのような抑制物、拘束物或いは打ち勝ち難い障害に従わず、これを飛び越え、諸州と諸王国とを征服しようと試み、無制限の力と栄光とに憧れる支配者と王たちによって示されている。それは自己の支配を天界にまで拡大し、主の神的力を僭取する者らの中に更に明白に認められる。何故なら、彼らの権力に対する渇望は決して消滅しないから。
真の基督教400(8)
支配には二つの相反する種類が在り、それは隣人への愛の支配と自己への愛の支配である。隣人への愛によって支配する者は、凡ての者の善を欲し、他に仕え、彼らの役立つ事を愛する以上に、何ものをも愛さない。何故なら、善意を以て彼らに仕えることは彼の愛であり、その心の喜びであるから。彼は卓越した地位に挙げられる時、その高貴の故でなく、彼が更に完全に有効に果たし得る用の故に喜ぶのである。かくの如きが、天界に行なわれる主権である。しかし、自己への愛によって主権を行使する者は、彼自身と彼自らの人々以外の何人にも善を欲しない。彼が遂行しようと心にかける唯一の用は、彼自身の尊敬と名声とを増加するものである。彼は重要な地位を占めることを望むのは、その為し得る善のためではなく、その心の喜びである顕職と高貴とを確保するためである。
真の基督教400(9)
支配への愛は死後各人の許に止まる。その支配が隣人への愛によって動かされた人々は、その時天界に権能を与えられるが、その時、支配するものは彼らではなく、彼らの愛する用と善とである。これらのものが支配する時、支配する者は主である。反対に、自己への愛によって支配した者は次の世に解職され、奴隷に引き下げられる。今や何人が自己への愛に取りつかれているか否かが明白であるに違いない。外観の姿では彼らは高貴であり、或いは謙譲であるかもしれないが、真に重要であるものは、内なる人である。而してこれを大半の者は隠すことを学び、彼らの真の性質に相反している公共的精神と、隣人愛とを外面的に示そうとする。彼らは公共的精神と、隣人愛とは人間の心情を刺激し、その尊敬を促すことを知っており、これを自己のために行うのである。隣人愛と公共精神がこの力を持つのは、天界はそれらの中に在るからである。
真の基督教400(10)
自己への愛に付随する悪は、一般的に、他を軽蔑すること、羨望、反対者に対する敵意、反感、憎悪、復讐、狡猾、詐偽、無慈悲、残酷である。而して、これらの物のある所にはまた神と教会の神的真理と善に対する軽蔑があり、もし、彼らはこれらの物を尊敬するならば、それは単に唇を以てするのみであり、心を以てするのではない。これからの凡ての悪に、それらに結ばれている虚偽が附加されなくてはならない。
29.新しいエルサレムの教義
新しいエルサレムの教義75
自己への愛[自己愛]にいる者らに属した悪は、全般的には、他の者に対する軽蔑、嫉妬、自分に好意を示さない者に対する恨み、そこから起きる敵意、色々な種類の憎悪、復讐、狡猾、詐欺、無慈悲、残酷であり、そしてこうした悪が在るところにはまた、神的なもの[神]と教会の真理と善である神的なものとに対する軽蔑がある。もし彼らがこれらのものを尊ぶならば、それは単に口先のみのことで、心からのものではない。そしてこうした悪はそこから発しているため、それに類似した誤謬もある、なぜなら誤謬は悪から発しているから。
30.この輝きは知的な誇りであって、それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている
神の摂理233(ヘ)
善を汚すことは聖言では姦淫により示され、真理の誤謬化は淫行により示されている。これらの汚辱と誤謬化とは悪にいる自然的な人間により行われ、また聖言の文字的な意義の外観を確認することによって示される理論により行われる。凡ての悪の源泉である自己への愛は善を不善化し、真理を誤謬化するその巧妙さでは他の愛にまさり、これを善人であれ悪人であれ、凡ゆる人間が主から得ている合理性の濫用により行っている。それは巧妙な理論により悪を善のように、誤謬を真理のように見せかける。それは幾多の議論を提出して、自然はそれ自身を創造し、次に人間を創造し、各種の動植物を創造し、また自然はその内なる自己から発する流入により人間を生かして分析的にまた賢明に考えさせると証明することもできるのに、何が出来ないことがあろうか。自己への愛はその好むものを何であれ極めて巧妙に証明するのは、虹色の光の一種の輝きで、その外の表面が作られているからである。この輝きは知的な誇りであって、それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている。
天界の秘義6481
他生に入ってくる霊たちは、神的摂理[神の摂理]は全般的なものではあるが、個々のものの中には働いてはいないという意見を抱いてくる。この意見の原因は、彼らは悪い者が名誉を与えられて、金持ちになり、成功の栄冠をつけるのを見、それをこうした者らはその者ら自身の賢明さに帰してはいるが、以下のことを知ってはいなかったということであった。即ち、神の摂理は人間の永遠の救いをその目的としており、かくて、この世の人間の幸運を、即ち、人間の豊かさと卓越とを目的としてはいないのであり、大半の人物はその身体の生命の間では幸福そのものをその豊かさと卓越とに置いているが、事実はそうしたものではない。なぜなら卓越は普通自己愛を生み、豊かさは世を愛する愛を生み、かくて神に対する愛と隣人に対する愛とに反したものを生むからである。それでこうした物は悪い者に与えられ、また善い者にも、もしそれが不適当なものでなく、彼らを天界から引き出さないなら与えられるのである。更に主は善い者を通してのみでなく、また等しく悪い者を通してもその御目的に備えられているのである。なぜなら主は悪い者をその者の愛そのものを通して動かして、隣人に、国に、教会に良いことを為させられるからである。なぜなら悪い者は卓越することを求め、自分自身の益を求め、そしてそうした物のために、他から正しい熱意のあるものであると見られようと願い、そうした願いから、恰も火で焚き付けられるように、気質の善良な者よりも更に強く動かされてそうしたことを行うからである。悪い者にはまた、凡ての物は彼ら自身の悧巧さから生まれ、神の摂理などは無い、あってもただ全般的なものしかないと信じることも許されているのである。彼らはそれ以外のことは認めようとはしないため、また彼らが公共の善に資する事柄を遂行するようにと、成功もまた彼らの企画に応じて彼らに与えられているが、その成功は、彼らがそれを彼ら自身に帰しているという事実から、彼らを更に刺激するのである。
32.本来の自己への愛と世への愛
神の愛と知恵396
自己への愛と世への愛とは奈落的な愛であるのに、人間はその中へ入って、自分の中に意志と理解とを覆すことが出来た理由は以下のようである、即ち、創造による自己への愛と世への愛は天界的な愛である、何故ならそれらは基礎が家に仕えるように、霊的愛に仕える自然的な人の愛であるから。何故なら人間は、自己と世への愛から、自分の身体の幸いを求め、食物、着物、住居を欲し、家族の幸いを切望し、用のために職業を確保し、また服従のために、その司っている事柄の貴さに従って尊敬されることをさえ求め、世の享楽の中に歓喜と休養とを得ようと求め、しかもその凡ては用でなくてはならない目的のために求めているのである。何故ならこれらの物を通して人間は主に仕え、隣人に仕える状態にあるからである。しかし主に仕え、隣人に仕える愛がなくて、単に世によって自己自身に仕える愛のみが在るとき、その愛は天界的なものではなくなり、地獄的なものとなる、何故ならその愛により人間はその心と性質とを人間自身のものに沈ませ、そしてその人間自身のものはそれ自身では全く悪であるから。
神の愛と知恵144
自己への愛から発した支配への愛は主への愛に全く相反しているゆえ、その支配への愛にいる霊は顔を主に背けて後ろ向きにし、それ故霊界の西の方位に眼を注ぎ、かくて身体は反対の位置に在るため、東を背にし、北を右にし、南を左にしている。彼らは主を嫌忌するため、東を背にし、妄想と妄想から発する誤謬を愛するため、北を右にし、知恵の光を軽蔑するため、南を左にしている。彼らはいかほど自分自身を回転させても、その周囲に見る凡ての物は己が愛に類似ているように見える。こうした者は凡て感覚的な自然的なものであり、その或る者は自分のみが生きていると考えるような性質を持ち、他の者を像のようなものに見なしている。彼らは実際気が狂っているものの、自分は他の凡ての者以上に賢明なものであると信じている。
34.自己への愛から発する支配への愛の歓喜は世の凡ての歓喜にまさる
神の摂理215(ロ)
私は自己への愛から発する支配への愛の歓喜の性質と範囲とを感じることを許された。それは私がそれを理解するために私に起ったのであるが、私はそれが世の凡ての歓喜にまさるのを知った。それは全心をその最内部からその最も外なる部分までも満たしたが、しかし身体では心をのびのびさせる快適で愉快なものとしてしか感じられなかった。そして私は姦淫、復讐、詐欺、瀆神、悪行全般のような凡ゆる悪の歓喜がその歓喜から、泉から迸り出るように迸り出るのを感じさせられた。いかような手段によってでも他人の財産を得ようとする愛とそこから由来する欲念にもまた同じような歓喜がある、しかしその歓喜は、その愛が自己への愛と結合しないかぎり、それほど強くはない。しかし高貴と富をそれ自身のためでなくて、用のために愛する愛については、それは高貴と富への愛ではなくて、それにより遂行される用への愛であり、それは天界的愛である。しかしこの主題については後に更に多くのことが語られるであろう。