感覚の迷妄
1.人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である
2.内なる人が考え、見る
3.聖言における多くの事柄は外観に応じて、実に感覚の迷妄に応じて言われているのである
1.人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である
天界の秘義1735[2]
愛を除いては何ものにも存在が属性づけられることはできない。凡ゆる生命の存在そのものが、すなわち生命そのものがこの愛から―それが愛の中に、または愛そのものにぞくしているため―発している。そしてエホバのみが愛であられるため、かれのみが生命の存在であられ、または生命そのものであられるため、一切のものはことごとくそこからその存在と生命とを得ているのであり、また何人もエホバのみによらなくては、すなわち主のみによらなくては、自分自身からは存在し、生きることはできないため、人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である。
天使たちは主の愛の中に生きているため、主の生命の存在そのものの中に生きているからには、かれらは自分たちが自分たち自身から生きているのではなくて、主から生きていることを明らかに認識しているのである。しかしそれでもかれらにはかれらはかれら自身から生きているという外観が言いつくしがたい幸福とともに他の凡ての者にもまさって与えられているのである。それでこれが主の中に生きることであって、それはわたしたちが主の愛の中に、すなわち、隣人に対する仁慈の中に生きない限り、決してありえないのである。
2.内なる人が考え、見る
天界の秘義3679〔2〕
真理の善を通して連結することについては自然的な善が考えたことにより意味されていることは把握できるように充分に説明することはできないが、しかしそれでも簡単に説明しなくてはならない。自然的な善が考えることは内なる人が自然的なまたは外なる人の中で、実にその自然的なまたは外なる人の善から考えることである。なぜなら考えるものは合理的なまたは内なる人であって、自然的なまたは外なる人ではなく、前の者または内なる人は天界の光の中に在って、光の中に主から発している理知と知恵とが存在しているが(3195、3339、3636、3643番)、しかし外なる人は世の光の中に在って、その中には理知はなく、生命すらも存在しておらず、それで内なる人は外なる人の中で万が一考えない限り、考えることは全く不可能となるからである。それでも考えることは、人間は感覚によって入り、また世にぞくしているところのものにより考えているため、人間の外なる人の中に在るように人間には見えるのである。
天界の秘義3679〔3〕
これは目の視覚の場合と同一である。感覚的な人間は目が目自身から見ていると考えはするが、それでも目はたんに、内なる人が身体の外に在る物を、または世に在る物を見る手段となっている身体の器官にすぎないのである。言葉の場合も同一である。感覚的な人間は口と舌とがそれ自身で話すのであると考え、多少なりと深く考える者は喉頭と内的な器官とが肺臓から呼吸によって語っていると考えもするであろうが、それでもこれらの器官により語っているものは思考である、なぜなら言葉は語っている思考[考え]にほかならないからである。感覚にはこのような多くの迷妄[妄想]が在るのである。外なる人における外観的な生命の凡ての場合も同じであり―それは外なる人の中にそれをその物質的な形体的な器官として存在している内なる人の生命である。
3.聖言における多くの事柄は外観に応じて、実に感覚の迷妄に応じて言われているのである
天界の秘義1408[3]
このことは以下の事実のみからでも各々に明白になるであろう、即ち、聖言における多くの事柄は外観に応じて、実に感覚の迷妄に応じて言われているのである、例えば、種族は怒られる、主は罰し、呪い、殺される、その他そういった多くの事柄が言われているが、それでもその内意ではそれらは全く反対のことを意味しているのである。即ち、主は決して怒られはしない、罰しられはしない、ましてや呪ったり、殺したりはされないことを意味しているのである。それでも単純な心から聖言を文字の中で把握しているように信じている者たちには、その者たちが仁慈に生きている限りは、何の危害も加えられはしない。その理由は聖言は人間は各々隣人とともに仁慈の中に生き、主を凡てのものにも勝って愛さなくてはならないということ以外には何ごとも教えはしていないということである。そのことを行う者たちはその者自身の中に内なるものを持っており、それで彼らのもとでは文字の意義から得られた迷妄[妄想]は容易に払いのけられるのである。