容器
1.愛されるものは用、用は知恵と愛との容器
神の愛と知恵297
多少明るくされて考える者は凡て、愛は用を目的として、それを意図し、知恵により、それを生じさせることを認めることが出来る、なぜなら愛は愛自身によって用を生じさせることは出来ず、ただ知恵を媒介としてのみそれを生じさせることが出来るからである。愛される物がないならば、事実、愛は何であろう。その愛される物とは用である、用は愛されるものであって、知恵により生まれるため、用は知恵と愛との容器であることが推論される。愛、知恵、用のこの三つのものは、縦の度に応じ秩序を以て続き、最も外の度は先在的な度の合成体、容器、基底であることはすでに示されたところである(209−216その他)。この凡てから愛の神的なもの、知恵の神的なもの、用の神的なもののこの三つのものは主の中に在って、その本質は主であることを認めることが出来よう。
主の聖言もまたそうしたものである、その形体的な物は文字の意義に属したものであり、心がこれらの物にとらわれている時は、内なるものは全く見られはしないが、しかしそれでも文字の意義の事柄は、人間が身体の内にいる間はその人間のもとにある事柄に、すなわち、知覚される物から入って来る記憶のいくたの知識に類似していて、それらはその内に内的な、または内なる事柄を容れる全般的な容器となっている。このことから容器とその容器の中に容れられている本質的なものとは別種のものであることを知ることができよう。その容器は自然的なものであるが、その容器の中に容れられている本質的なものは霊的なものであり、天的なものである。聖言の歴史的なものもそうしたものであり、聖言における表現はことごとく全般的な、自然的な、実に物質的な容器であって、その中に霊的な天的なものが宿っているが、しかしこれらのものは内意によらない限り、決して明らかにされはしないのである。
このことは以下の事実のみからでも各々に明白になるであろう、即ち、聖言における多くの事柄は外観に応じて、実に感覚の迷妄に応じて言われているのである、例えば、種族は怒られる、主は罰し、呪い、殺される、その他そういった多くの事柄が言われているが、それでもその内意ではそれらは全く反対のことを意味しているのである。即ち、主は決して怒られはしない、罰しられはしない、ましてや呪ったり、殺したりはされないことを意味しているのである。それでも単純な心から聖言を文字の中で把握しているように信じている者たちには、その者たちが仁慈に生きている限りは、何の危害も加えられはしない。その理由は聖言は人間は各々隣人とともに仁慈の中に生き、主を凡てのものにも勝って愛さなくてはならないということ以外には何ごとも教えはしていないということである。そのことを行う者たちはその者自身の中に内なるものを持っており、それで彼らのもとでは文字の意義から得られた迷妄[妄想]は容易に払いのけられるのである。
天界の秘義1874
私は善良な霊たちと話し合ったさい以下のように言った、即ち、聖言には多くのものが、実にたれも信じることが出来ないほどにも多くのものが外観[現象]に応じて、また感覚の迷妄[妄想]に応じて言われている、例えばエホバは邪悪な者に怒りを、憤りを、狂憤を発しられる、かれは彼らを破滅させ、破壊することに楽しみを感じられる、かれは彼らを殺しさえされると言われているのである。しかしこうした事柄が言われているのは、幾多の信念と欲念とが破壊されないで、たわめられためである、なぜなら人間が理解しない方法で(即ち、外観、迷妄、信念によらないで)話すことは水の中に種子をまくようなものであったろうし、またすぐにも斥けられることを言うようなものであったであろう。それでもこうした形の言葉はそのうちに霊的なものと天的なものとが入れられることの出来る全般的な容器として役立つことが出来るのである、なぜならその容器の中へすべてのものは主から発しているということが徐々に入れられ、それから主は許されるということが入れられるが、しかし悪は全く悪魔的な霊どもから発しているということが入れられ、後には悪が善に変わるように主は供えられ、処理されるということが、最後には主からは善以外には何ものも発してはいないということが入れられるからである。かくて文字の意義はそれが上昇して、霊的なものとなり、次に天的なものとなり、遂には神的なものになるにつれ、消滅して行くのである。
天界の秘義3079
「水おけを肩にのせて」。これは真理を受容することと努力とを意味していることは以下から明白である、すなわち、『水おけ』の意義は記憶知であり、かくて真理の容器であり(3068番を参照)、『肩』の意義は力そのものであり、かくて努力である(1085番を参照)。『水おけ』または『水がめ』は、また容器は全般的に(記憶知と知識は真理に対し容器であるように、また真理そのものが善に対し容器であるように)、その内意では容器の位置にあるものを意味していることは、聖言の多くの記事から認めることができよう。
天界の秘義3079[3]
容器は霊的なものの外なるものを意味していることはまた聖言の他の記事からも明白である、例えばイザヤ書には―
イスラエルの子孫がその捧げ物を清い器に入れてエホバの家に持ってくるように(イザヤ66・20)。
ここには主の王国がとり扱われている。『清い器の中の捧げ物』は内なる人に関連した外なる人を表象しており、捧げ物をもってくるものは内なる人であり、『清い器』は(内なる人に)一致している外なる人であり、かくてそれは、記憶知、知識、教義的なものであるところの、外なる人の中に在る事柄を意味しているのである。
天界の秘義3079[4]
エレミア記には―
エルサレムの叫びは上った、その貴族はその子供たちを水のもとへつかわして、かれらは坑に来た、しかし水を見つけなかった、かれらは器を空にして帰った。かれらは恥じている(エレミア14・2,3)。
『空ろな器』は真理が何ら宿っていない知識を、また善が何ら宿っていない真理を意味している。さらに―
バベルの王ネブカドネザルはわたしを食いつくし、わたしをなやまし、わたしを空ろな器にした(エレミア51・34)。
ここにも『空ろな器』は類似した意義を持っている。それは荒廃させるバベルであることは前に見ることができよう(1327番の終り)。モーセの書には―
谷間のように、水のほとりの園のようにかれらは植えられている、水はそのバケツから流れ出て、その裔は多くの水のあたりにいるであろう(民数記24・6,7)。
これはヤコブとイスラエルとにかかわるバラムの予言であり、『そのバケツから流れ出る水』は真理が知識から流れ出ることを意味している。
天界の秘義3079[5]
十人の処女のたとえの中に、その中の五人はその器の中に燈とともに油をとったが、愚かな者たちはそれを取らなかった(マタイ25・4)。
『処女』により情愛が意味されている。賢い者たちが『その器の中に油を取った』ことは真理の中に善が在り、かくて信仰の中に仁慈が在ったことを意味している。『油』は善を意味していることは前に見ることができよう(886番)、『燈』は愛を意味している。
天界の秘義3164
『銀の器』は特定的には記憶知である、なぜなら記憶知は真理の受容器官であるからである、『金の器』は真理である、なぜなら真理は善の受容器官であるからである。