真理の外観

 

外観の法則

 

 

天界の秘義3207

 

「彼女はヴェールをとって、身を蔽った」。これは真理の外観を意味していることは、花嫁たちが初めて花婿を見ると顔にかけたヴェールの意義から明白であって、それは真理の外観である。なぜなら古代人の間では花嫁は真理の情愛を、花婿は善の情愛を表象し、またはそれと同一のことではあるが、花嫁は真理の情愛から『花嫁』と呼ばれた教会を表象し、主から発している善の情愛は花婿であって、そこからすべて聖言には遍く主御自身は『花婿』と呼ばれている。花嫁は真理の外観を表象するため、初めて花婿のもとに来ると顔をベールでかくしたのである。真理の外観はそれ自身では真理ではなく、真理として見えるのであり、そのことについては下記を参照されたい。真理の情愛は真理の外観を通さなくては善の情愛には近づくことはできず、またそれは連結しつつあるまでは外観をはぎとられもしないのである。なぜならそれが連結しつつあるときそれは善の真理となり、善が純粋であるかぎり、純粋になるからである。

 

 

 

天界の秘義3207[2]

 

善それ自身はそれが主から発している神的なものであり、人間の中の高い道からまたは門から流れ入るため、聖いものであるが、しかし真理はその起源にかかわっているかぎり、聖いものではない、なぜなら真理は低い道または門から流れ入って、最初は自然的な人にぞくしているからであるが、しかしそれがそこから合理的な人へ向って高揚されるとき、それは徐々に清められるのであり、それは善の情愛を一見するとすぐに、記憶知から分離されて、真理の外観を着け、かくして善に近づくのであり、このことは、そうしたものが真理の起源であることを示しており、また真理は花婿の部屋に入り、すなわち善の聖所に入って、連結が成就されるまでは、神的善を一見することにすら堪えることができないことを示しているのである、なぜならそのときは[連結が成ったときは]真理はもはや外観からまたは外観を通して善を眺めはしないし、善から外観をはなれて眺められるからである。

 

 

 

天界の秘義3207[3]

 

 しかしながら人間のもとでも、また実に天使のもとでもいかような真理も決して純粋なものではないことを、すなわち、外観を欠いてはいないことを知られよ、なぜならすべてのものは全般的にも個別的にも真理の外観であるからであるが、にも拘らずそれらはもし善がそれらの中に在りさえするなら真理として主により受け入れられるのである。主にのみ純粋な真理がぞくしているが、それはそれが神的なものであるためである、なぜなら主は善そのものであられるように、真理そのものであられるからである。しかし真理とその外観とについて述べられたところを参照されたい、すなわち天幕の覆いとベールとは真理の外観を意味したのである(2576番)、人間のもとに在る真理は迷妄[妄想]に汚れた外観である(2053番)、人間の合理的なものは真理の外観である(2516番)、真理は外観の中に在る(2196、2203、2209、2242番)、神的善は外観の中へ流入し、迷妄の中へすら流入する(2554番)、真理の外観は恰もそれが真理であるかのように主により適応させられる(1832番)、聖言は外観に応じて記されている(1838番)。

 

 

 

天界の秘義3207[4]

 

 しかし外観の何であるかは、聖言が外観に応じて語っているところのそれらの記事から明らかに認めることができよう。しかしながら真理の外観には幾多の度が存在している。自然的な真理の外観はその大半は迷妄[妄想]である、しかし善の中にいる者たちのもとでは、それらは迷妄[妄想]と呼ばれてはならないで、外観と呼ばれなくてはならず、或る点では真理でさえあるのである、なぜならそれらのものの中に在って、神的なものを宿している善はそれらのものの中に他の本質を存在させるからである。しかし合理的な真理の外観は益々内的なものとなっていて、その中に幾多の天界が、即ち、幾多の天界にいる天使たちがいるのである(2576番)。

 

 

 

天界の秘義3207[5]

 

 真理の外観の何であるかについて何らかの観念が形作られるために以下の例をとって説明してみよう。(1)人間は自分は信仰の真理を通して改良され、再生すると信じているが、しかしこれは外観である、彼は信仰の善を通して、即ち、隣人に対する仁慈と主に対する愛とを通して改良され、再生するのである。(2)人間は、自分が学んだ真理に従って生きるとき、真理は善に導くのであると信じているが、しかし真理に流れ入って、真理を善自身に導き入れるものは善である。(4)真理が善を完成するように人間には見えるが、それでも善が真理を完成するのである。(5)生命の善は信仰の果であるように人間には見えるが、しかしそれは仁慈の果である。こうした僅かな例から真理の外観のいかようなものであるかが或る程度知ることができよう。このような外観は無数である。

 

 

 

天界の秘義3387[2]

 

 真理または真理の外観は、神的善が人間の知性を形作り、かくてその人間そのものを形作ることができるようにとの意図の下に人間に与えられるのである。なぜなら真理は善が流れ入るようにとの目的のために存在するからである、なぜなら善は 容器または受容器官がないならば、善は善事態に相応した状態を見出さないため、何ら善の場所を見出さないからである。それで真理がない所には、または真理が受け入れられない所には、合理的なまたは人間的な善はなく、従って人間は霊的な生命を持っていないのである。それで、それにも拘らず人間が真理を持ち、そのことにより霊的な生命を得るために、真理の外観が各々の者にその者の把握に応じて与えられており、その外観は神的な事柄がその中に在り得るものであるため真理として承認されるのである。

 

 

 

天界の秘義3387[3]

 

 外観とは何であるかがしられるために、またそれは真理の神的なものに代って人間に役立つものであることを明らかにするため、例を取って説明しよう。もし天界には場所の観念はなく、かくて距離の観念もなく、それに代って状態の観念が在るとかりにも言われるなら、これは到底人間により理解されることはできないであろう、なぜならそれはかりにもしそうであるならそこでは何物も区別されはしないし、凡ゆる物は混乱してしまい、すなわち、凡てのものは一つのものの中に存在し、または共になって存在すると信じさせるからであるが、それでもそこでは凡ゆる物は何物もそれ以上明確に区別され得ない程にも区別されているのである。(自然界に存在している場所、距離、空間は天界では状態であることは、前の3356番に見ることができよう)。ここから聖言に何であれ場所と空間とについて、またそれらのものから、また、それらのものによって言われていることはことごとく真理の外観であることは明らかであり、それがそのような外観により言われない限り、それは些かも受け入れられはしないし、従ってほとんどいかような意味も持たないであろう、なぜならかれは世に、すなわち、空間と時間の中にいる限り、空間と時間との観念は、全般的にも個別的にも、人間の思考のほとんど凡てのものの中に存在するからである。

 

 

 

天界の秘義3387[4]

 

 聖言の言語は空間の外観に応じていることはその中のほとんど凡ゆる物から明らかである、例えばマタイ伝には―

 

 イエスはかれらにたずねて言われた、それではダビデはどうしてこう言うのですか、主はわたしの主に言われた、わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右手に坐りなさい、と(マタイ22・43、44)。

 

 ここに『右手に坐る』ことは場所の観念から来ており、かくて外観に応じているが、それでもここに記されているものは主の神的な力の状態である。さらに―

 

 イエスは言われた、今から後あなたたちは人の子が力の右手に坐って、天の雲に乗って来るのを見るでしょう(マタイ26・64)。

 

 ここにも同じく『右手に坐ること』とまた『雲に乗って来ること』は人間における場所の観念から由来しているが、しかし天使にあっては主の力が考えられているのである。マルコ伝には―

 

 ゼベダイの息子たちはイエスに言った、わたしたちがあなたの栄光の中に、一人はあなたの右手に、他の一人はあなたの左手に坐るようにして下さい。イエスは答えられた、わたしの右手にまた左手に坐ることは、そのことが備えられている者たちをのぞいては、わたしの与えるものではない(マルコ10・37、40)

 

このことから、弟子たちは主の王国についていかような種類の考えをもっていたかが、すなわち、それは主の右手にまた左手に坐ることであると考えたことが明らかであり、かれらはそのように考えたため、主もまたかれらの把握に応じて、かくてかれらに思われたことに応じて答えられたのである。

 

 

 

天界の秘義3387[5]

 

ダビデの書には―

 

「かれは花婿がその部屋から出てくるようであり、また強い人間がそのコースを走るように喜んでおられる。かれは天の端から出て行かれ、その端までもめぐられる」(詩篇19・5,6)。

 

これは主について語っているが、主の神的な力の状態はここに空間にぞくしているような物により記されているのである。イザヤ書には―

 

「ああルシファよ、暁の子よ、なんとおまえは、天から落ちたことであろう!おまえはおまえの心の中で言った、わたしは天に登ろう、わたしはわたしの王座を天の星の上に上げよう、わたしは雲の高い辺りの上方にも昇ろう、と」(14・12、14)。

 

ここに「天から落ちること」と「天に登ること」と「天の星の上に王座を挙げること」と「雲の高い辺りの上の方にも昇ること」はその凡ては聖いものを冒涜する自己への愛を記している表現であるが―凡ては空間または場所の観念と外観とから生まれているのである。天的な事柄と霊的な事柄とは人間に現れているような物により、またそのような物に応じて人間の前に示されているため、それで天界も高い所に在るものとして記されているが、それでも天界は高い所に在るのではなく、内なるものであるものの中に在るのである(450、1380、2148番)。

 

 

 

天界の秘義3391

 

かくて『窓越しに外を眺める』ことは、全般的には外なる人に属しているような知識であるところの現れている事柄を内なる視覚により認識することである。合理的な事柄は、または、それと同一のことではあるが、真理の外観は、すなわち、霊的な真理は知識ではなくて、知識の中に存在しているのである、なぜならそれらは合理的なものに属していて、かくて内なる人に属しており、外なる人のいくたの事柄を注視するものは、かくて知識の内に在る真理を注視するものは内なる人であるからである。なぜなら知識は自然的な人のものであるため、それは合理的な事柄を受け入れる器であるからである(真理の神的なものは合理的なものに流入し、合理的なものを通して自然的なものに流入し、この自然的なものの中に、鏡中に多くの物の映像が示されるように現示されることは、前の3368番に見ることができよう)。