知ろうと願わない
内意を斥ける者/耳を塞ぐ者は災い/聖言が閉じられている/荒し/
見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである(マタイ13・13)/
1.聖書
2.彼らは霊的なという言葉を殆ど進んで聞こうとは欲しない程にもそのことについては知ろうとはしない
3.永遠の生命に属しているものについては何ごとも知ろうとは願わないし、そうした生命について聞くことさえも嫌忌を抱く
4.彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことは出来ない、ましてその中へ入ってその楽園の中を歩き回ることは出来ない
5.スウェーデンボルグが「インド、日本、アフリカから来たのか」と聞いた霊は知ろうとしなかった
6.信仰のみによる教義を生活をもって確認した者は主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しない
7.教会の内なる事柄については何ごとも知ろうとは欲しなかった
8.聖言の内的なものについてはいかようなことも聞こうとしない霊
9.心で主を承認しないし、心で隣人を愛さない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかない
10.聖言の内意は僅かな者にしか把握されはしないことについて
11.内意が在ることを聞こうとさえもしない、口に言われることをさえも嫌忌する
12.偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重する・・・パウロ
13.人間は欲しさえするなら、真理を理解して、合理的なものになることが出来る
14.人々は全能の主に対する畏敬を知ろうとしないし、怠っているのです・・・聖母(アグレダのマリア/『神の都市』)
15.良心を持たない者は自分の行うことは不正であり、悪であることを知りつつも、教えられるにしても、知ろうとはしない
16.悪い者らは善いことを理解はするものの、その意志とその中の悪とは抵抗するため、理解しようとは欲しない
17.理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言う
18.人間は悪から遠ざからない限り、主から霊的な善を供えられることは出来ない
19.誤謬を確認した者らは、霊的な物を何ら把握しようとも欲しない
20.悪から発した誤謬の中にいるに応じて遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする
21.マリア・ワルトルタ
22.ペリシテ人
23.主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しない
24.彼らはまた良心の何であるかを知らないし、その何であるかを教えられるにしても信じないし、ある者は知ろうとさえもしない。自分自身と世のために凡てのことを行う者らはこのようなもの
1.聖書
詩篇14・1−4
神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。
皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。
悪を行う者は知っているはずではないか。
パンを食らうかのようにわたしの民を食らい
主を呼び求めることをしない者よ。
詩篇82・5
彼らは知ろうとせず、理解せず
闇の中を行き来する。
詩篇92・6−7
主よ、御業はいかに大きく
御計らいはいかに深いことでしょう。
愚かな者はそれを知ることなく
無知な者はそれを悟ろうとしません。
詩篇94・8−11
民の愚かな者よ、気づくがよい。
無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
目を造った方に見えないとでもいうのか。
人間に知識を与え、国々を諭す方に
論じることができないとでもいうのか。
主は知っておられる、人間の計らいを
それがいかに空しいかを。
箴言1・22
いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。
箴言1・29−30
彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。
だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。
浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。
わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。
マタイ13・13―15
だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔改めない。わたしは彼らをいやさない。』
マルコ4・23
聞く耳のある者は聞きなさい。
ヨハネ1・5
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネ3・19−21
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
ヨハネ8・43−47
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。
ヨハネ10・26−28
わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
ヨハネ14・17
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
2.彼らは霊的なという言葉を殆ど進んで聞こうとは欲しない程にもそのことについては知ろうとはしない
天界の秘義5006[2]
しかし霊的なものでない自然的な真理が霊的な自然的な真理に連結しようと欲したと言うことは何を意味し、また何を含んでいるかは現今では秘義である、それは主として霊的な真理とは何であるか、霊的でない真理とは何であるかを知ろうと切望し、または願う者は殆どいないためであり、彼らは霊的なという言葉を殆ど進んで聞こうとは欲しない程にもそのことについては知ろうとはしないのである、なぜなら彼らはその言葉を聞くのみで悲哀とともに憂鬱感に襲われ、嫌悪の念が掻き立てられ、かくしてそれは斥けられてしまうからである。こうしたことは実際起こることもまた私は示されたのである。私は心でこうした事柄を考えていると、基督教国から幾人かの霊たちがその場に現れたが、彼らはその時彼らがかつて世でその中にいた状態の中へ入れられたのである。彼らは霊的な善と真理とを単に考えるのみで悲哀を感じたのみでなく、反感から非常な嫌悪を覚えて、自分たちは世でへどを吐かせるようなものを自分たちの中に感じると言ったのである。しかし私は以下のように彼らに話すことを与えられたのである、それはあなた方の情愛が単に地的な、身体的な、世的な物に固定されてしまった結果である、なぜなら人間はそうしたものに溺れてしまうと、天界のものを嫌悪するからである、あなた方は聖言が読まれている礼拝所に再三行かれたが、それは天界のものである事柄を知ろうとする願いからではなく、幼い子供時代から身につけた何か他の願いからであったのである、と。このことから現今の基督教国の性質のいかようなものであるかが明らかとなったのである。
3.永遠の生命に属しているものについては何ごとも知ろうとは願わないし、そうした生命について聞くことさえも嫌忌を抱く
天界の秘義4286[5]
しかしこれまで言ったこうした事柄は特に以下の理由から必然的に漠然とした事柄のように思われるに違いない、即ち、霊的な人とは何であるかは僅かな者にしか知られていないのであり、天的な人とは何であるかは殆どたれにも知られていないのであり、従って霊的な人と天的な人との間に何らかの区別があることは知られてはいないのである。このことが知られていない理由は愛と仁慈の善はまた信仰のものである真理は明確に認識されてはいないということであり、そしてこれらのものは純粋な仁慈がもはや何ら存在していないため認識されてはおらず、何ものも存在していないところには何ものも認識されはしないのである。他の理由は人間は死後の生命に属している事柄については、かくて天界の事柄については殆ど関心を持ってはいないで、身体の生命に属している事柄については、かくて世に属している事柄については非常な関心を持っているということである。もし人間が死後の生命に属している事柄について、かくて天界の事柄について関心を持つなら、彼は右に言われたことをすべて容易に把握するであろう、何故なら人間はその愛しているものは容易に吸収し、把握もするが、愛していないものを吸収し、把握するのは容易ではないからである。
天界の秘義6201
感覚の事物の中で考える者らは感覚的なものと呼ばれ、その者に似た霊たちが彼らに接合しているのである。こうした霊は人間のもとでは、その人間の知覚に降ってくるもの以上のものは殆ど把握しない、なぜなら彼らは他の凡ての霊よりも粗雑なものであるからである。人間は感覚的なものの中にいて、そこから高揚されない時は、身体と世とに属しているもの以外のものは何一つ考えはしないし、その時は永遠の生命に属しているものについては何ごとも知ろうとは願わないし、そうした生命について聞くことさえも嫌忌を抱くことが認められている。
4.彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことは出来ない、ましてその中へ入ってその楽園の中を歩き回ることは出来ない
天界と地獄270
彼らはまた第三の天界の天使たちの知恵を有用な凡ゆる物で満ち、周囲の至る所に楽園があり、その楽園のまわりにも多くの種類の壮麗な物の在る宮殿に譬えたのである、その天使たちは、知恵の諸真理にいるため、その宮殿の中へ入って、凡ゆる物を見、またその楽園の中を凡ゆる方向に向って歩き回って、凡ゆる物を楽しむことが出来るのである。しかし真理について論じる者は、特にそれについて論争する者はそうではない、これらの者は、真理を真理の光から見ないで、他の者からか、または内的に理解していない聖言の文字の意義からか、その何れからか得ており、それは信じなくてはならないものであり、信仰をそれに働かさなくてはならないと言って、それを内的に見ることを欲しないのである。これらの者については天使たちは言った、彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことは出来ない、ましてその中へ入って、その楽園の中を歩き回ることは出来ない、なぜなら彼らはその最初の一歩で立ち止ってしまうから。真理そのものにいる者はそうではない。これらの者は何ものにも妨げられないで前進し、また無限に進歩して行く、なぜなら彼らは何処に行こうと、その見る真理が彼らを導き、広々とした野へ連れて行くからである、それは真理の各々は無限の広がりをもって、他の色々なものと連結しているからである、と。
5.スウェーデンボルグが「インド、日本、アフリカから来たのか」と聞いた霊は知ろうとしなかった
霊界日記857
それで私は、あなたはどこから来られたか、あなたはこの地球に住んでいる者たちの一人であられるか、インド、日本、アフリカ、または他の何処から来られたか、を私に告げてくれるようにと、彼に求めたが、しかし私はそれを知ることは出来なかった。そのため私は未だこれらの言葉に何ら答えを与えることは出来なかった、なぜなら霊たちはその生きている時の間のその信仰の方面の事情に従って教えられねばならないからである。それで彼は自らを更に遠くへ移して、自分は宇宙の創造者以外のたれが主であるかを他の者たちから知らされたいと言った。私は、依然彼と話すことが出来たため、たれ一人真の信仰がなくては救われることは出来ない、と言った。すると彼は信仰とは何であるかについて、従って、いかようにして人間は救われるかについて尋ね、しかもそれもまた自信を持って尋ねた。遂に彼は、御子を信じない者は宇宙の創造者である一人の神を信じることは出来ない、なぜなら天と地における力はことごとく御子に与えられているからである(マタイ28・18)と話された。しまいには彼は神の子により意味されていることを、またはそうした存在が在ることを知ろうとさえもしなかった。なぜなら彼はそのことを理解することは出来なかったし、またたれか神の子が在り得ることを理解することも出来なかったからである。それで私は、信仰に属したそうした事柄はあなたらにはアルカナであって、例え私たちはそれを理解はしなくとも信じなくてはならないのであり、もし私たちが御子を信じないなら、地獄に断罪されることを決して避けることは出来ない、と答えた(マタイ16・16)。しかし彼は、自分は理解しない、それで自分は信じはしない、と主張した。その間私は、一団の悪霊らがいて、彼はその悪霊らに被術者〔被派遣者〕として仕えており、実情のいかようなものであるかを充分に知ってはいたものの、そのように偽り装うようにと派遣されていたことに気づいたのである。その間、いつものように、彼らから、即ち、その一団の者から、同じような信仰がその仲間に吹き込まれていて、それはそのスフィア全体が同じような見解または誤謬に半ば満ちているといったものであった。
6.信仰のみによる教義を生活をもって確認した者は主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しない
黙示録講解732[2]
新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後にはさらに多くの者たちの間に在り、ついに充分な状態に達するには幾多の理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることは出来ないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることが出来るのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。
第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることは出来ず、そこから受け入れられることは出来ないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。
7.教会の内なる事柄については何ごとも知ろうとは欲しなかった
天と地の何らかの物に似たものを作ることがかくも厳しく禁じられた理由は、主としてヤコブから出たその民族は外なるものを拝することに非常に心が傾きがちであったという理由からであった。その原因は彼らは主に対する信仰と愛とに属し、また隣人に対する仁慈に属しているところの、教会の内なる事柄については何ごとも知ろうとは欲しなかったということであった。それでもし彼らが(色々な)物に似たものを作ることを許されたとするなら、その時はそれらの物に身をかがめて、それらを神々として拝しもしたであろう。このことは彼らがかくも多くの奇蹟の真っ只中においてさえも彼ら自身のために作った金の子牛から非常に明白であり、また彼らが神礼拝から偶像崇拝へと再三離反し去ったことからも明白である。にも拘らず内意にはこうした物は意味されてはいないで、前に示したことが意味されているのである。
8.聖言の内的なものについてはいかようなことも聞こうとしない霊
天界の秘義1774
聖言の内的なものについてはいかようなことも聞こうとしない霊がいて、彼らはそれを例え理解するにしても、依然それを欲しないのである。彼らは主として業に功績を置いていて、それで自己を求める愛から善を行った者であり、かくて主の王国のためには善を行わなかった者である。他生ではこうした者は他の者にも勝って天界へ入ろうと欲しているが、しかしその外側に止まっている。なぜなら彼らは進んで真理の知識に浸透し、かくして善に感動しようとはしないからである。彼らは自分の思いつきに従って文字から聖言の意味を解釈し、また自分の欲念を甘やかすものをすべてその文字に同意させて持ち出すことによってそれを解釈しているのである。
天界の秘義1877
霊たちの世界にいる霊魂たちまたは霊たちは、特に邪悪な者らは、身体の生命の中で得たものを、即ち、地的な、形体的な、世的なものを最初保有しており、またそれと共に彼らが取り上げた原理を保有している。これらの霊らの間には聖言の内意についてはいかようなことも聞こうとはしないで、只文字の意義についてのみ聞こうと欲し、その文字の意義に固守するあまり、十二使徒は十二の王座に坐って、イスラエルの十二の種族を審く筈であり、また貧しい者、悲惨な者、迫害を受けた者以外には何人も天界に入ることは出来ないと信じている者がいるが、しかし主の中に仁慈と信仰に生きた富んだ者も権力者も天界にいるのである。そうした人物は自分の功績のために天界を自分自身のために要求しているため、私は彼らがあちらこちらと走りまわっているのを見たのであるが、彼らはその行く先々で、聖言の内意に属した事柄を以下のような理由から嘲ったのである、即ち、それは彼らは天界に価して、他の凡ゆる者にまさって栄誉へ上げられることを願っているのに、内意に属したものはこの彼らの信念と欲念とに反しているということである。しかし彼らは血液に流れ入って静脈と動脈とに拡がって、血の大部分を不潔なものにしてしまう腐敗した有害なものに似ているのである。
天界の秘義2027 [2]
彼らは時としてその顔は小さな松明のように輝くが、しかしそれは自己義認から発している幻想[妄想]の火から発しており、事実は彼らは冷ややかである。彼らは時折走りまわって、聖言の文字の意義から自己の功績を確認しているのを見られる、なぜなら彼らは内意に属している真理を憎悪しているからである(1877番)。彼らのスフィアは自己顧慮のスフィア[霊気]であり、かくて自己を一種の神性者として認めない観念をことごとく破壊するのである。こうした種類の多くの者のスフィアは共になると、そこには敵意と憎悪以外には何ものも存在しない程にも互に反発し合うのである、なぜならたれもが同一のことを、即ち、仕えられようと欲する時は、彼は他の者を心の中で殺してしまうからである。
天界の秘義8928〔2〕
先ず、霊的な教会に属している者たちは自分たちは光の中にいると信じてはいるが、しかし彼らは真理の神的なものについては明確ではなく、否、暗闇(の状態)に置かれていることは以下の事実から明白である、即ち、彼らは教会の言っていることが真であることを何ら内なる確認から知らないで、単に教会がそのように言っているという事実からのみ知っており、そのことをそれが誤っていようが、真であろうが、自分自身のもとで確認しているのであり、真理の神的なものを何ら内的に認識しない者は暗闇の中におり、または、それと同じことではあるが、彼には神的な真理は暗闇となっているのである。例えば、霊的な教会に属している者たちは聖言には何か内意が在ることを知らないし、また知ろうともしないし、何かのことでたまたまそれを信じるにしても全くそれはそれがそうであると内的に認めているからではなく、何か他の源泉から説得されてのことなのである。
9.心で主を承認しないし、心で隣人を愛さない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかない
天界の秘義3427[2]
聖言の内意の実情は以下のようである、即ち、単なる知識の中にいて、『ペリシテ人』と呼ばれている者らは、また『ゲラルの谷間の羊飼い』と呼ばれて、単なる信仰の教義的なものの中におり、隣人に対する何らの仁慈の中にいない者らは、聖言の内意が在ることを否定しないわけにはいかないのである。その主な原因は、彼らは唇では主を告白するものの、心では主を承認しないということであり、また隣人に対する愛を口では告白しているものの、心では隣人を愛さないということであり、心で主を承認しないし、心で隣人を愛さない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかないのである、なぜなら聖言はその内意では主に対する愛と隣人に対する愛以外には何ものをも取り扱ってはいないからであり、それで主はこの二つの戒めに律法と予言者とが、即ち、聖言全体がかかっていると言われているのである(マタイ22・37−40)。これらの者は聖言の内意を如何に甚だしく否定しているかもまた私は他生におけるこのような人物から認めることを許されたのである、なぜなら文字の意義に現れてはいない聖書の内意が在って、それは主と隣人に対する愛を取り扱っていることが彼らの前で単に口に出されるのみで、彼らによる否定のみならず、反感と嫌忌とが認められるからである。これがこの否定の主要な原因である。
天界の秘義3472
聖言には人間が文字から把握するよりも深い物が含まれていることを聞くことは全く人間の反感を買い、それには天使たちの知恵にのみ専ら適応しているところの、把握することの出来ない事柄が含まれていると言われる時は、更にその反感を買い、それには天使の理解をも無限に超絶している神的なものそれ自身が含まれていると言われる時は、実にそれ以上の反感を買うのである。基督教界は聖言は神的なものであることを実際承認はしているものの、それでもそれがこのような意味で神的なものであることを、唇ではなくとも、心では否定しているのである、このこともまた、人間が現今抱いている地的な思いは崇高な性格を持っている事柄を把握しないし、また把握しようとも願わないからには怪しむに足りないのである。
天界の秘義5648[3]
さて聖言の内意は主として霊界にいる者たちのために存在しているため、彼らのために存在し、彼らに楽しく、歓ばしいようなものがここの内意に記されているのである。それでもこうしたものが内的なものであればあるほど、それらは世と身体に属する物のみが楽しみであり、歓ばしい人間には益々把握されないものとなっており、そうした場合、彼らは内意に属している霊的なものを軽蔑し、また嫌悪するのである。
天界の秘義5702
「これはエジプト人には忌まわしいことであるからである」(創世記43・32)。
これはそれらのものは対立していることを意味していることは以下から明白である、すなわち、エジプト人の表象は転倒した秩序の中にいる者であり(5700番を参照)、ヘブル人の表象は―このヘブル人と共に食べることはエジプト人には忌まわしいことであったが、そのヘブル人の表象は―純粋な秩序の中にいる者であり(5701番)、かくて彼らは相互に対立しており、そこから反感が生まれ、遂にはいまいましい感情が生まれるのである。このいまいましい感情については以下のことを知らなくてはならない、即ち、転倒した秩序の中に、即ち、悪とそこから派生してくる誤謬の中にいる者は遂には教会の善と真理には甚だしい反感を抱くようになり、それを聞くと、特にその内的なものを聞くと、恰もめまいがして、吐気を感じる程にも甚だしい忌ま忌ましさを感じるのである。このことは私が基督教界は聖言の内的なものを何故受けいれないのかと怪しんだ時、私に告げられ、また示されもしたのである。基督教界から来た幾人かの霊らが現れたが、彼らは聖言の内的なものを聞くことを強いられると、非常な嫌悪を掻き立てられて、吐き出したいような気持ちがすると言ったのであり、これが現今の殆ど凡ゆる所の基督教会(の状態)であると私は話されたのである。それがそうしたものである理由は、彼らは真理のために真理を求める情愛の中にはおらず、まして善から善を求める情愛にいないということである。彼らが聖言から、または彼らの教義から何かを考え、話すことは子供時代の初期から得られた習慣と確立された形式から来ており、かくてそれは内なるものを持たない外なるものである。
10.聖言の内意は僅かな者にしか把握されはしないことについて
聖言の内意は僅かな者にしか把握されはしないことについて
霊界日記4841
夢の中で私は多くの祭司たちの群れの中にいて、その際聖言の内意について一人の者と話したが、彼は、自分はそのことについては何ごとも知ってはいない、と言った。しかし彼は多くの事を、たとえそのことを理解することは出来ないものの、知ろうとしたため、そのことについて多少のことを知りたいと願っているように見えた。それが示されると、彼は、そこにいる多くの祭司たちにそれを伝達するように求められた。しかしその凡ての者の中でも―そこには多くの者がいたが―一人すらもそうした事柄を把握することが出来ないことが認められた。そのことは、彼らは聖言を単に感覚的にのみ把握しようと願っているという理由のため、その合理的な心は閉じられてしまっていたからである。私は自分自身の中に反感と嫌悪とを認めた。その後で他の者らが来た、彼らは異なった気質の者らであった。なぜなら彼らは把握する能力のために、また色々な事柄を知って覚える満足感から、他の者らにもまさって、多くの事柄を知ろうとしたからではあったが、しかし凡ては無意味なものとなってしまったのである。嫌悪が感じられたが、それは内意は天界の光から発しているという理由のためであり、その内意が世の光と熱とから遠ざかって天界の光と熱の方へ近づくにつれ、それは抵抗したのであり、しかもそのことは色々な方法で行われたのである。しかし、それでも、単純な者たちは、善の中にいるため、把握したのであり、彼らは天界の幾多の社会と共になることが出来るため、天界の中へまた挙げられたのであるが、他の者らは、天界の思考と情愛とはいかようなものであるかを知らないため、天界の社会とは共になることは出来ないで、世の社会とのみ共になることが出来たのである。
11.内意が在ることを聞こうとさえもしない、口に言われることをさえも嫌忌する
天界の秘義3769[4]
例えば、仮にもたれかが、天界を開いたり、閉じたりする力はペテロに与えられたのではなく、愛の信仰に与えられたのであり、その信仰がペテロの鍵により意味されていると言うにしても、自己への、また世への愛はそれに対立するからには、彼らは決して、それを容認しようとはしないのである。また仮にもたれかが聖徒を拝してはならない、主のみを拝さなくてはならないと言うにしても、彼らはそれをもまた受け入れはしない。または仮にもたれかが聖餐のパンとぶどう酒とにより全人類に対する主の愛と主に対する人間の相互的な愛とが意味されていると言うにしても、彼らはそれを信じはしない。またはたれかが仮にも信仰はそれが信仰の善でない限り、即ち、仁慈でない限り、何の効力も持たないと主張するにしても、それを彼らは逆に説明するのであり、そのことは他の凡ての事柄にも言われるのである。このような性格を持っている者たちは聖言に在る真理を些かも見ることは出来ないし、またそれを見ようともしないで、自分自身の教理に頑なに止まって、聖言の神聖さと栄光とが宿っている内意が在ることを聞こうとさえもしないのであり、それがそうであることを告げられる時ですらも、それに対する反感から、単にそれが口に言われることをさえも嫌忌するのである。このように聖言は、それが天界に向ってすらも開いていいて、天界を通して主に開かれているような性質のものであるのに閉じられてしまっており、それは、人間がその生命の目標の点で自己と世への愛の幾多の悪の中におり、その結果誤謬の原理の中にいるに応じて専らその人間に関連しては閉じられているのである。このことから大きな石が井戸の口の上に置かれていることにより意味されていることが明白である。
12.偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重する・・・パウロ
霊界日記4413
己が業に功績を置こうとするため、聖言の内なる意義を何ら意に介しない或る一人の者がいた(それはパウロである)。彼は長い間私から遠ざかっており、また最悪の部類の霊共の間にいた。彼は今は最悪の悪魔共と交わり、今自らのために霊共の或る天界を形作って、これに彼自身から楽しさを、しかし欲情と快楽との楽しさを与えようとした、そのことをまた彼は企てもしたが、彼はそのため更に悪いものとなり、投げ落されてしまった。その際私は彼に、それは天界ではなく、地獄であると話したが、実際それは黒い地獄に変わったのである。特に彼はその周りに偽善者らを得ようと願ったが、その者らについて私は彼らと話したのであり、私のもとに数日にわたって偽善者らがいたが、そのことを私は歯の痛みにより知ることが出来たのである、即ち、彼らは声も立てないで絶え間なく私を脅迫したが、そのことはパウロから来ていることが認められもしたのである、彼は聖言の内なる意義を憎んでおり、その憎しみの怒りの結果彼の周りに偽善者が引き寄せられているのである、事物はこのように関連付けられているのである、なぜなら偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重するからであるが、そのことは彼らがそこから多くの事柄を取り出し、それを用いて一般人を説得し、かくして自らが敬虔なものとして見えることが出来るためである。
13.人間は欲しさえするなら、真理を理解して、合理的なものになることが出来る
天界と地獄455
合理的でない人間はそれらを理解しない、それは幾多の理由によっているが、その中で主要な理由は、それらは彼が自分の真理とした彼の誤った観念〔考え〕に相反しているため、それらを進んで理解しようとはしないということである。そうした理由から進んで理解しようとしない者はその者の合理的な能力に対して天界の道を閉じ込めてしまっているのである―それでもその道はもし意志の抵抗がないなら、尚開かれることが出来るのではあるが(前の424参照)。人間は欲しさえするなら、真理を理解して、合理的なものになることが出来ることは多くの経験により私に示されたのである。(中略)私はまた若干の奈落の霊が、自分たちは自分たちの為していることは悪であり、自分たちの考えていることは誤っていることは知っており、また認めてもいるが、自分たちは自分たちの愛の楽しさには、引いては自分たちの意志には抵抗することが出来ない、その楽しさに引かれて自分たちの考えは悪を善として、誤ったものを真理として見るのであると言っているのを聞いたのである。このことから以下のことが明らかになった、即ち、悪から誤謬にいる者らは理解して合理的なものになることは出来るのではあるが、しかも彼らはそれを欲しないのであって、彼らがそれを欲しない理由は誤謬を真理よりも愛しているということである、なぜなら誤謬が彼らの抱いている悪に和合しているからである。
14.人々は全能の主に対する畏敬を知ろうとしないし、怠っているのです・・・聖母(アグレダのマリア)
アグレダのマリア/神の都市/P18
この三点に関し、至聖なる童貞は答えられました、「世の中はこの教義を必要とします。人々は全能の主に対する畏敬を知ろうとしないし、怠っているのです。この無知に対する主の正義は人々を懲らしめ、遜らさせることになるでしょう。人々は不注意で暗黒の中にいますから、安心と光明をどのように探すべきかを知りません。人々はなすべき畏敬と畏怖に欠ける以上、当然の運命に会います。」
15.良心を持たない者は自分の行うことは不正であり、悪であることを知りつつも、教えられるにしても、知ろうとはしない
天界の秘義9121
これらの例から良心を持たない者の性格を推測することが出来よう。彼らはそれとは対立したことから知られるのである。彼らの中で、自分自身の利益のために公正でないものを公正なものとして見せ、悪いことを善いものとして見せかけようとする者は、またその逆に公正なものを公正でないものとして、善いことを悪として見せかけようとする者は何ら良心を持っていないのである。彼らの中で、自分の行うことは不正であり、悪であることを知りつつも、それを行う者は、教えられるにしても、知ろうとはしないのである。凡ゆることを自分自身と世のために行う者らはこうしたものである。
16.悪い者らは善いことを理解はするものの、その意志とその中の悪とは抵抗するため、理解しようとは欲しない
天界の秘義9399〔3〕
世で健全な理性を持った人間はことごとく悪から遠ざかるに比例して、真理の神的なものを理解する能力を持っており、従ってそれを受ける能力を持っていることは多くの経験から私は知ることが出来たのである。なぜなら他生では凡ての者は、悪い者も善い者も、例外なしに真のものを、また誤ったものを、また善いことも悪いことも理解することが出来るが、しかし悪い者らは善いことを理解はするものの、その意志とその中の悪とは抵抗するため、理解しようとは欲しないからである、それで彼らは彼ら自身に委ねられると(真で善いものを理解はするものの)元のその悪の誤謬へ落ち込んで、その理解した真理と善とを嫌悪してしまうのである。こうした人物は世でもそれと同じであったのであり、彼らは世では真理を理解することは出来たものの、それを斥けてしまったのである。この経験から発出している神的真理は絶えず人間の心へ流れ入って、真理を受け入れるようにその心を調節しており、真理は自己への愛と世への愛との悪が遠ざけられるに比例して受け入れられることが明白となったのである。
天界の秘義9780〔9〕
ハバクク書には―
いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木には産物もなく、オリーブの労苦は偽り、畠は食物を生産しないであろう(ハバクク3・17)。
ここではいちじくの木も、ぶどうも、オリーブも、畠も意味されてはいないで、それらのものが相応している天界の事柄が意味されているのである、そのことをまた、聖言は天界と教会とに属し、かくて霊魂に属した事柄を取り扱っていることを自分自身から承認することが出来る者はたれでも認めることが出来よう。しかし世の、地の、身体の事柄を除いては何ごとも考えない者は内なる事柄を認めないし、またそれを認めようと願いさえもしない、なぜなら彼らは自分自身の中で、霊的な事柄とは何か、天的な事柄とは何か、と言い、それで天界の食物とは何かと言うからである。彼らはこれらが理知と知恵とに属した事柄であることを、それがそのように言われる時は実際知りはするが、しかしそれらが信仰と愛とに属していることを望んではいないのである、それは彼らはその生命にこうした事柄を浸透させておらず、それで天界の真理と善との理知と知恵とに到達しないという理由によっている。
神の摂理96
人は意志するに応じて、即ち、理解することを愛するに応じて理解することが出来ると我々は言うのである、なぜなら意志と愛とは一つのものとして働くからである。実際、これは背理のように思われるが、しかし理解することを愛さない者、従って理解しようとしない者にのみそのように思われるのであって、理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言うのである。
18.人間は悪から遠ざからない限り、主から霊的な善を供えられることは出来ない
天界の秘義8307
「あなたは慈悲をもってこの民を導かれた」(出エジプト記15・13)。これは、悪から遠ざかって、善を受け入れた者たちにおける神的流入〔神の流入〕を意味していることは、『慈悲をもって導くこと』の意義から明白であり、それは神的なもの〔神のもの〕を受け入れることであり、悪から遠ざかる者たちが神的なものを受け入れるため、その者たちにおける神的な流入が意味されているのである。主から発している慈悲については、実情は以下の如くである。主の慈悲は各々の者のもとに不断に注がれているのである、なぜなら主は凡ゆる人間を、その人間がたれであろうとも、救おうと望まれているからである。しかしこの慈悲は、悪が遠ざけられない中は流れ入ることは出来ない、なぜなら悪とそこから派生した誤謬とはそれに対立し、それを妨害するからである。しかし悪が遠ざけられるや否や、慈悲が流れ入ってくる、即ち、主から発した慈悲から善が流れ入り、その善とは仁慈と信仰である。このことから主の仁慈は普遍的なものであり、即ち、凡ゆる者に注がれており、また悪から遠ざかっている者には特に注がれていることを認めることが出来よう。人間は自分自身から悪から遠ざかることが出来るが、自分自身からは善を受けることは出来ない。人間が自分自身から悪から遠ざかることが出来るのは、主はそうした努力をもって絶えず人間の意志の中へ流れ入られ、かくてその自由の中に悪から遠ざかり、また同じく自分自身を善へ向けることを植え付けられるからである。主はまた人間に真理を理解する能力を与えられているが、しかし人間が理解しないのは、人間が理解しようと願わないためであり、このことは生命に属している悪のためである、なぜなら誤謬は悪を防禦し、真理は悪を非難する〔罪に定める〕ためである。かくて人間は悪から遠ざからない限り、主から霊的な善を供えられることは出来ないのであり、かくて慈悲を通して導かれることは出来ないのである。
19.誤謬を確認した者らは、霊的な物を何ら把握しようとも欲しない
聖書24
聖言の霊的意義を与える相応の知識がその時代以後の時代に明らかにされなかった理由は、原始教会の基督教徒は非常に単純で、彼らにはそれは明らかにされることは出来なかったということである、なぜならそれは彼らには役に立たなかったであろうし、また理解もされなかったからである。彼らの時代の後で、法皇の主権の結果、暗黒が全キリスト教界を覆い、その主権に属して、その誤謬を確認した者らは、霊的な物を何ら把握しようとも欲しないし、従って聖言における自然的な物と霊的な物との相応の何であるかを把握も出来ないし、また把握しようとも欲しないのである。なぜならそのことによって彼らは『ペテロ』によってペテロが意味されてはいないで、岩としての主が意味されることを悟らされるからであり、また聖言はその最内部までも神的なものであって、それに比較すると法皇の法令など取るに足らぬものであることも悟らせられるからである。一方、宗教改革以後、人々は信仰と仁慈とを区別して、三人格の一人の神を拝し始め、かくて三人の神の一人の神を拝して、三人の神が、一人の神であると考え始めたため、天界の諸真理は彼らから隠されてしまったのであり、もしそれらが明らかにされたにしても、彼らはそれらを誤謬化して、信仰のみに応用し、その一つも仁慈と愛とに応用はしなかったであろう。かくて彼らは彼ら自身に天界を閉じてしまったであろう。
20.悪から発した誤謬の中にいるに応じて遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする
天界の秘義7342
「彼はそのことさえも心に掛けなかった」(出エジプト記7・23)。これは意志から抵抗し、そこから必然的に頑迷になることを意味していることは、何かを『心に掛けないこと』の意義から明白であり、それは注意しないことであり、悪い者にあっては神的な事柄に注意しないことは意志の抵抗から発しているため、それでそのこともその同じ言葉により意味されており、物事を『心に掛けないこと』は『固くなること』と同じことを意味しているため、それで(前の7272、7300、7338番のように)頑迷もまた意味されているのである。意志から抵抗することについては、意志は人間を支配しているものであることを知られたい。理解が(人間)を支配していると信じている者もいるが、理解は意志がその理解に傾かない限り支配はしないのである、なぜなら理解は、それ自身において観察されるなら、意志の形以外の何ものでもないため、理解は意志を支持するからである。意志のことが言われるときは、愛の情愛が意味されるのである、なぜなら人間の意志はそれ以外の何ものでもないからである。この情愛が人間を支配するものである、なぜなら愛の情愛が人間の生命であるからである。もし人間の情愛が自己と世を求める情愛であるなら、そのとき彼の全生命はそれ以外の何ものでもなく、また彼はそれに抵抗することも出来ないのである、なぜならそれは自分自身の生命に抵抗することとなるからである。真理の原理は何ごとも遂行はしないのである、もしこれらの愛の情愛が主権を持っているなら、それは真理を己が側に引き入れて、それを誤謬化してしまい、もしその真理が充分にそれを支持しないなら、それを斥けてしまうのである。ここから、主が霊的な愛を、即ち、隣人に対する愛の情愛を導入されない限り、真の信仰の原理も人間のもとには何ごとも全く遂行はしないのであり、その人間がこの情愛を受け入れるに応じて、信仰の諸真理も受け入れるのである。この愛の情愛が新しい意志を作るものである。この凡てから今や、もし意志が抵抗するなら、人間はいかような真理も決して心に掛けはしないことを認めることが出来よう、従って奈落の者らは悪を求める情愛、または欲念の中にいるため、信仰の諸真理を受けることは出来ないのであり、従って匡正されることは出来ないのであり、そこからまた悪い者は為し得る限り真理を誤謬化してしまうことが起こっている。
天界の秘義7738
奈落の者らは悪から発した誤謬の中にいるに応じて益々真理に反抗し、遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする程にもなるのである。なぜなら誤謬の源泉となっている悪は彼らの生命の歓喜であるため、真理は誤謬に反し、誤謬は彼らには楽しいものであり、それで彼らは真理を、それが彼らの生命の楽しさと歓喜とに反しており、またもし彼らがそれを聞くなら、責め苛まれるため、その心から全く斥けてしまうからである(7519番)。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P136
「今日、偶然あなたに会えるとは!」
「偶然? なぜ神のおかげと言わないのですか」
「ヘブライ人の神が真の神であるというわけですか。だれからも愛されていないヘブライ人のような神だったら、負傷者もあわれんでくださらないでしょう」
「真の神はヘブライ人と同時にローマ人、ギリシャ人などすべての人たちの神です。存在するのは唯一の神だけなのに、多くの人はそれを知らないし、知ろうともしません。それを知っていれば、互いに兄弟のようになれるから、憎みも、ざん言も、仇討ちも、淫乱も、盗みも、人殺しも、姦通も、詐欺もあるはずはありません。真の神を知っている私は、その神を知らせるために来たのです」
天界の秘義3420
「ペリシテ人はアブラハムの死後それらをふさいでしまった」(創世記26・18)。これは単なる知識の記憶知の中にいた者らがそれらの真理を否定したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『ふさぐこと』の意義は知ろうと欲しないことであり、またそれと同じことではあるが、それらを否定することであり、かくてそれらを抹消することであり(それについては前の3412番を参照)、ペリシテ人の表象は単なる知識の記憶知の中にいる者たちである(そのことについては前の1197、1198、3412、3413番を参照)。信仰の教義的な事柄の中にはいるが、知識の、または教義的な事柄の真理を知ろうとは欲しない者は知識の記憶知の中にいるのである。知識の、または教義的な事柄の真理は生命のものであって、隣人に対する仁慈と主に対する愛とに関わっているものである。これらの教義的な事柄と知識とが属している虚偽は単にそのことを教えているに過ぎないのであり、それで何を行わねばならないかを教えはするが、それを行わない人間は真理を知ろうとは欲しないのである、なぜならその真理は彼の生命[生活]に相反しており、その生命に反しているものを彼はまた否定してしまうからである。古代教会で教義のすべてのものであったところの愛と仁慈との教義的な事柄が抹消されているのはこうした原因から来ているのである。
23.主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しない
黙示録講解732[2]
新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後には更に多くの者たちの間に在り、ついに充分な状態に達するには幾多の理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることは出来ないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることができるのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。
第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることは出来ず、そこから受け入れられることは出来ないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。
24.彼らはまた良心の何であるかを知らないし、その何であるかを教えられるにしても信じないし、ある者は知ろうとさえもしない。自分自身と世のために凡てのことを行う者らはこのようなもの
新エルサレムの教義137
これらの例から良心を持たない者らはいかような性質を持っているかを結論づけることが出来よう。即ち、彼らはその反対のことから知られるのである。かくて利得のために不正なものを正しく見せ、悪いものを良く見せ、またその反対のことを行う者らは良心を持ってはいない。彼らはまた良心の何であるかを知らないし、その何であるかを教えられるにしても信じないし、ある者は知ろうとさえもしない。自分自身と世のために凡てのことを行う者らはこのようなものである。