荒し

 

奈落の歓喜低次元の霊魂ファラオ

狂気歪曲憎しみ・憎悪神を憎む同性愛不潔冒涜

良心を持たない者はこのようにとりつかれてしまっている

彼らには悪が善悪は決して休まない幼児虐待

悪魔への対処法知ろうと願わない

彼らは知ってもいないのに、知ったふりをして話す

 

 

 

1.ちょうちんアンコウ

2.善の中にいない者たちのもとでは真理は殆ど虚無に近い

3.悪い者らはまた善い者たちのいる場所に侵入しようと絶えず努めており、その場所が善い者たちにより満たされていないと直ぐにそこに実際侵入もする

4.善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したもの

5.エジプトの王

6.頑迷

7.彼らの生命の歓喜そのものは断念を促す勧告により更に増大する

8.良心を持たない

9.奈落の自由

10.彼らの生命の最大の歓喜

11.彼らは、棄て置かれると、彼ら自身から遠ざかる

12.マリア・ワルトルタ

13.凡ゆる方法で姦通を持ち込もうと努めている悪魔について

14.無神論者は悪魔そのもの

 

 

 

 

出エジプト記20・13

 

殺してはならない。

 

 

 

出エジプト記20・15

 

姦淫してはならない。

 

 

 

出エジプト記20・15

 

盗んではならない。

 

 

 

出エジプト記20・16

 

隣人に関して偽証してはならない。

 

 

 

出エジプト記20・17

 

隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

 

 

 

エレミヤ4・20−22

 

「破壊に次ぐ破壊」と人々は叫ぶ。

大地はすべて荒らし尽くされる。

瞬く間にわたしの天幕が

一瞬のうちに、その幕が荒らし尽くされる。
いつまで、わたしは旗を見

角笛の響きを聞かねばならないのか。
まことに、わたしの民は無知だ。

わたしを知ろうとせず

愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく

善を行うことを知らない。

 

 

 

 

エレミヤ5・7−9

 

どうして、このようなお前を赦せようか。

お前の子らは、わたしを捨て

神でもないものによって誓う。

わたしは彼らに十分な食べ物を与えた。

すると、彼らは姦淫を犯し

遊女の家に群がって行った。
彼らは、情欲に燃える太った馬のように

隣人の妻を慕っていななく。
これらのことを

わたしが罰せずにいられようかと

主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。

 

 

 

エレミヤ8・8−13

 

どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で 主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き それを偽りとした。 賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら どんな知恵を持っているというのか。 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に渡し 彼らの畑を征服する者に渡す。身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。 彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに「平和、平和」と言う。 彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず 嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ 彼らが罰せられるとき、彼らはつまずくと 主は言われる。 わたしは彼らを集めようとしたがと 主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは 彼らから失われていた。

 

 

 

1.ちょうちんアンコウ

 

 

天界の秘義10227[3]

 

賢明になる能力により記憶知から真理と善とについて論じる能力が意味されているのではなく、また自分の好むことを何なりと確認する能力も意味されてはおらず、真で善いものを識別し、適当なものを選んで、それを生命の用に適用する[用いる]能力が意味されているのである。主に凡ゆるものを帰している者たちは識別し、選び、適用するに反し、主に帰しはしないで、自分自身に帰する者らは単に真理と善とについて論じる方法を知っているに過ぎないのである、彼らはまた他の者から発しているものを除いては何ごとも認めもしないが、そのことも理性から発しているのではなくて、記憶の活動から発しているのである。

彼らは真理そのものを認めることが出来ないため、外側に立って、何なりとその受け入れるものをそれが真であれ、誤りであれ、確認するのである。記憶知から学者流にこうしたことをすることの出来る者らは世から他の者以上に賢明なものであると信じられているが、しかし彼らが凡ゆるものを彼ら自身に帰すれば帰する程、かくて自分自身から考えることを愛すれば愛するほど、益々発狂してしまうのである、なぜなら彼らは真理よりもむしろ誤謬を、善よりはむしろ悪を確認し、しかもそれは彼らが世の妄想と外観以外のいかような源泉からも光を得ておらず、従って彼らは天界の光から分離した、自然的な光と呼ばれる彼ら自身から光を得ており、その光は、そのように分離すると天界の諸真理と諸善については暗闇そのものとなるためであるからである。

 

 

 

2.善の中にいない者たちのもとでは真理は殆ど虚無に近い

 

 

天界の秘義5478

 

かくて善の中にいる者たちの側では真理は絶えず真理を真理に連結させているが、善の中にいない者の側では真理は非常に多くの迷妄を、また誤謬を真理に連結させているのである。そのことの理由は善の中にいる者たちのもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向って拡げているが、他方善の中にいない者のもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向って拡げはしないということである。ここから善にいる者たちのもとでは真理は満ち溢れているが、善の中にいない者たちのもとでは真理は殆ど虚無に近いのである。この充満とこの虚無とは人間には、人間が世に生きている限りは、明らかではないが、しかし天使たちには明らかである。善に連結した諸真理の中にはいかに多くの天界が在るかを人は知りさえするなら、彼は信仰については非常に異なったことを感じるであろう。

 

 

 

 

3.悪い者らはまた善い者たちのいる場所に侵入しようと絶えず努めており、その場所が善い者たちにより満たされていないと直ぐにそこに実際侵入もする

 

 

天界の秘義8054〔3〕

 

悪い者らはまた善い者たちのいる場所に侵入しようと絶えず努めており、その場所が善い者たちにより満たされていないと直ぐにそこに実際侵入もするのであり、その努力をしばしば私は認めることを許されたのである。これらの領域は、世で悪い者が増大して、善い者が減少する時、このように占領されるのである。なぜならそうした場合には悪霊らは人間に近寄って来て、善い霊たちは人間から後退し、この霊たちが後退するに応じて、人間に最も近い領域は悪い者らにより占められるからである。こうした事態が全般的なものとなると、これらの領域に住む者は全く変化してしまうのである。教会がその終りに至ると、こうした事態が生まれてくるのである、なぜならその時は悪と誤謬とが支配するからである。しかし教会の終り頃には悪い者らは投げ落とされて、その占めていた領域は、その間天界に入る備えをなしていた善良な者たちに与えられるのである。これがヨハネの書の以下の言葉により意味されているのである―

 

 天に戦いが起った、ミカエルとその天使たちは竜と戦った、竜とその使いらとは戦った、が、彼らは勝たなかった、彼らの所も天には最早見出されはしなかった(黙示録2・7、8)。

 

この天界の状態はカナンの地により、即ち、幾多の国民がそれを占領していたことにより表象され、またイスラエルの子孫により、即ち、彼らがその幾多の国民をそこから放逐したことにより表象されたのであった、なぜなら『カナンの地』により、前に引用した記事から認めることが出来るように、主の王国が意味され、かくて天界と教会とが意味されているからである。

 

 

 

4.善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したもの

 

 

天界の秘義6666〔2〕

 

地獄から来ている悪い者のもとに存在しているような、征服しようとする意図については、私はまた以下のことを知ることが出来たのである。善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したものである、なぜなら彼らは凡ゆる悪意、凡ゆる狡知と詐欺、凡ゆる欺瞞と凡ゆる残忍とを用い、それらはもしその一部のみを語るにしても、世では殆どたれ一人それを信じることも出来ないといった性質を持った凄まじいものであり、その術策たるや実に狡猾と技巧と呪詛とに満ち満ちたものである。

 

 

 

5.エジプトの王

 

 

天界の秘義6907〔2〕

 

 誤謬の中にいて、エジプトの王により表象されている者らが真理の中にいる者たちに自分自身を対立させる実情のいかようなものであるかを話さなくてはならない。世では誤謬の中にいる者らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させはしないのである、なぜなら外なる拘束により彼らは抑えつけられているからであって、その拘束とは自分が国家と教会との律法に反抗していると見えはしないか、それで自分は善良な市民であるように見えることが出来なくなりはしないか、という恐れである、なぜならこの世ではたれでも外形では公正で真実なものであるように思われたいと願っており、邪悪な者は気質の善良な者よりも更にそのことを願っているからであるが、それは彼らが他の者の心を捉えて、利得と栄誉のために欺こうとするためである。(そうした外形)にも拘らず内部では彼らは自分自身を対立させているのである、なぜなら彼らはたれかがその務めの上からではなくて、熱意から教会の真理を告白するのを聞くと必ず、心の中で嘲笑しており、もし外なる拘束から抑制されない時は、公然と嘲るからである。こうした者は他生へ入ると、最早外なる拘束物により抑制されはしない、なぜならこうした拘束はその時彼らから取り去られて、各自の真の性格が現れ、その時は彼らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させて、凡ゆる方法を尽くして彼らにとりついて悩ますからである。その時そのことが彼らの生命の歓喜そのものとなり、そうしたことを為さないようにと警告されても―なぜならもしそれを慎まないなら、彼らは遂には全く引き離されて、地獄に投げ込まれるからであるが―それには一顧も与えないで、絶えず以前のように(他の者)にとりついて悩ませ続けるのであり、誤謬から発した生命の歓喜の中に甚だしく浸って、それに全くとりつかれているため、理知に属したものは何一つ容認はしないのである。これらが『エジプトの王はあなたらの行くのを許さないであろう』という言葉により意味されているものであり、パロが再三彼自身を対立させたことにより表象されているものである。こうした霊どもを遠ざけて、地獄へ投げ込むことが、パロとエジプト人とがスフの海に死滅したことにより表象されているのである。

 

 

 

6.頑迷

 

 

天界の秘義7032

 

「わたしは彼の心を頑なにしよう、それで彼はその民を去らせないでしょう」。これは頑迷を、そのため未だ解放されないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『頑なにすること』の意義は頑迷であり、『心』の意義は意志であり(2930、3888番を参照)、かくてこれらの言葉により意志から発した頑迷が意味され、従って悪を為す歓喜から発した頑迷が意味されており―なぜなら意志に属したものは歓ばしいものであり、そのことは愛から発しているからである―『民を去らせないこと』の意義は進んで自由にしようとしない頑迷であり、かくて未だ解放されないことである。ここにまた以下の記事に『エホバはパロの心を頑なにされた』と言われている。このことは外観から、また神的なものが凡ゆる物を為されるという普通の考えからそのように言われているのであるが、しかしこれは悪とか怒りとか、狂憤とか、剥奪とか、そういったものがエホバまたは主に帰せられている時と同じように理解されなくてはならないのである(2447、6071、6991、6997番を参照)。

 

 

 

天界の秘義7032〔2〕

 

 誤謬とそこから派生してくる悪の中におり、また悪とそこから派生してくる誤謬の中にいる者らの頑迷さについては、その頑迷は言葉では表現出来ないものであることを知られたい、なぜなら彼らは甚だしい刑罰とそこから起ってくる恐怖によらなくては決して断念しないからであり、彼らの生命の歓喜は悪を為すことであるため、勧告も威嚇も全く何の効果ももたらしはしないからである。彼らはこの歓喜を世におけるその生命の間に、特に彼らが自分自身のみを愛して隣人を愛さないし、かくて基督教の仁慈を何ら持たなかったという事実から得たのである。こうした種類の人々は主から導かれることに堪えることが出来ないため、遺伝により、また実際の生活により悪であるところの、彼ら自身の意志から行動しており、自分自身の意志から行動する者らは愛から悪を為すのである、なぜなら意志から発するものは愛から発しており、愛から彼らは悪を為す歓喜を得、そしてこの歓喜の中に止まるに応じて、頑迷の中にも止まるからである。

 

 

 

天界の秘義7032〔3〕

 

 それがそうしたものであることは世では現れていないのは、世では彼らは自己への愛と世への愛とにより抑制されているためである、なぜならもし彼らが悪を公然と行おうとすると、世評を悪くし、その結果利得と名誉を失ってしまうことを恐れるからである。更に法律が、また生命を失う恐れが彼らを抑制しているが、もしこうしたものに妨害されないと、彼らは彼に与しない者には凡て襲い掛かって、これを滅ぼし、その凡ての財産を掠奪し、たれでも無慈悲に殺害しようとするのである。人間は内的にはそうしたものである、即ち、この世ではいかほどそうしたものではないように見えるにしても、その霊の方面ではそうしたものである。このことは他生の彼らから非常に明らかに見ることが出来るのである、なぜならその時世ではそうした者であった者らから外なるものが取り去られて、彼らはその意志に委ねられ、かくてその愛に委ねられ、そうしたものに委ねられると、彼らには悪を為すこと以上に歓ばしいものは何一つ無くなり、またその悪を、前に言ったように、刑罰によらなくては、後には幾度も地獄へ沈められなくては決して断念しない程の頑迷さをもって行うからである。この凡てから隣人に対する仁慈を何ら抱いていない人間はいかような者になるかを見ることが出来よう、また各人の生命がその者を待っていることを、(即ち)世では外なるものであり、外面的なものであった社会的な生命がその者を待ってはいないで、内なるものであって、外には現れなかった霊的な生命がその者を待っていることを見ることが出来よう。

 

 

 

7.彼らの生命の歓喜そのものは断念を促す勧告により更に増大する

 

 

天界の秘義7097〔4〕

 

 このようなものになった者らは宇宙の創造者である父を承認はするが、主を承認はしないのである。主についてはここのパロがエホバについて、『エホバとはたれか。私はエホバは知らない』と言うように言うのである。否、天界のスフィアはことごとく主を承認し、主を愛することで満ちているように、地獄のスフィアはことごとく主を否定し、主を憎悪することで満ち、主の御名が語られるのにも堪えることも出来ないのである。奈落の者らは勧告と威嚇により断念する底のものではない、正しい者に取り憑いてこれを悩まし、主を承認し、主を信じることから彼らを離反させることにおける彼らの生命の歓喜は非常に大きい。この彼らの生命の歓喜そのものは断念を促す勧告により更に増大するのである、なぜならそのことによって彼らは、自分たちが今取り憑いて悩ませている者たちはやがて全くお手上げになると信じるようになるからである。それでこうした者が『パロとエジプト人』により特に意味されている者らである。

 

 

 

天界の秘義7301

 

「彼は彼らに聞かなかった」。これは誤謬から発した悪の中にいた彼らは受け入れはしなかったことを意味していることは前に言われたことから明白である(7224、7275番)、なぜならここに『彼は聞かなかった』と言われているパロにより、誤謬の中にいて、取り憑いて悩ますに応じ、誤謬から発した悪の中にいるからである、なぜなら取り憑いて悩ますことは悪から発し、誤謬により行われるからである。

 

 

 

8.良心を持たない者らの醜い歓喜

 

 

天界の秘義5145[4]

 

これらの終結[終結したもの]が在るか、従って面が在るか、否かを知ることは全く可能である、なぜなら善と真理との認識が、また良心の認識がこれを示しているからである。(中略)良心そのものは神的な善の流入がその中に終結する面である。しかし良心を持たない者らはこの流入を受ける面を全く持ってはおらず、これらの人物のもとでは善は外的な自然的なもの、または自然的な感覚的なものにまでもふるいを流れ通っているように流れ下って、前に言ったようにそこに醜い歓喜に変化するのである。

 

 

 

9.奈落の自由

 

天界の秘義1947

 

 人間は再生しつつある間は、彼は主から与えられている自由から、自己を強制し、またその者の合理的なものがそれ自身を服従させるために、その合理的なものを卑しくし、また苦しめさえもし、そのことにより彼は天界的な自分のものを受けるのであって、その天界的な自分のものはその後主により徐々に完成され、益々自由になり、かくてそれは善の情愛となり、そこから真理の情愛となって、歓喜を得、その自由の中にも歓喜の中にも天使たちの幸福に似た幸福が存在するのである。この自由がヨハネの書に語られているものである―

 

真理はあなたたちを自由にするでしょう、もし子があなたたちを自由にするならあなたたちは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・32,36)。

 

この自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない、なぜなら彼らは自分が好きなように行い、誤ったことをほしいままに考えたり、話したり、ほしいままに悪いことを欲したり、行ったりして、強制したり、卑しくしたりはしない、ましてやこうした欲望を苦しめたりはしないことに自由があると考えているが、真理はその逆そのものであるからであり、そのことを主もまた同じ福音書に教えられているのである―

 

罪を犯す者はことごとく罪の奴隷である(ヨハネ8・34)

 

この奴隷的な自由を彼らは彼らと共にいて、それを注ぎ入れる奈落の霊どもから受けており、彼らはこれらの霊の生命の内にいる時は、また彼らの愛と欲念の中にもいて、不潔な、排泄物のような歓喜が彼らに吹き込まれ、そしていわば激流に流されるかのように流されて行く時は、自分自身が自由の中にいると考えているが、しかしそれは奈落の自由なのである。この奈落の自由と天界の自由との間の相違はその一方は死のそれであって、彼らを地獄に引きずり降ろすに反し、他方はまたは天界の自由は生命の自由であって、彼らを天界へ引き上げるということである。

 

 

 

10.彼らの生命の最大の歓喜

 

 

天界の秘義7280〔3〕   

 

 この凡てから、恐怖は拘束する唯一の手段であり、刑罰に対する恐怖である外なる恐怖は悪い者を抑制するただ一つの手段であり、これが地獄の悪い者らを苛責する原因であることが今や認められることが出来よう。なぜなら悪い者は他生に入ってくると、また世で持っていたその外なる拘束を取り去られて、その欲念〔の自由〕に委ねられると、その時は彼らは野獣のようになり、主権を得ることと、自分を支持しない者をすべて破滅させることにまさって何一つ求めはしないからである。これが彼らの生命の最大の歓喜である、なぜならたれであれ、自分自身を愛するに応じて、自分を支持しない者を憎み、(他を)憎むに応じて、(これを)破滅させる歓喜を覚えるからである、しかし世ではこのことは隠れている。

 

 

 

 

11.彼らは、棄て置かれると、彼ら自身から遠ざかる

 

 

霊界日記4600小

 

時折、悪魔的な霊らが身体の幾多の観念[考え]と情愛とに密着し、時折私は色々な方法で彼らを放逐しようと努力したが、徒労に帰した。それで、経験から、私は彼らは放逐されはしないで、彼らは彼ら自身から後退して行くことを知った。彼らは頑強であり、争闘に快楽を覚えており、そのことが多少彼らの快楽を増進させるのである、それで、彼らはそうした方法では放逐されはしないのであり、彼らは、棄て置かれると、彼ら自身から遠ざかるのである。

 

 

 

 

12.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/378.10/P212

 

 イエズスはそれを押しとどめる。「それは群集の言葉です。それは彼らの答えです。の答えは違います。私は言います、行きなさい! 私はあなたたちを打つことで私の手を汚しはしません。あなたたちのことは、いと高きところにおられる方が、よいようになさるでしょう。が、私を悪人から守ってくださいます」。

 悪人たちは、黙るどころが、先生を攻撃する手を緩めない。そうは言っても群集が怖いので、怒り心頭で叫ぶ、「われわれはユダヤの有力者だ! おまえに命じる。立ち去れ。教えることを禁じる。おまえを追放する。出て行け! もう、うんざりだ。権力はわれわれのうちにあり、われわれはそれを行使する。もっとそれを強め、おまえを迫害する、いまいましい強奪者・・・」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/378.11/P215

 

ある教義を迫害しても、その力を増させるばかりだということが分からないのですか、特にその教義が、実際、教えに合致しているときに? 私の預言者の声に耳を傾けなさい、イスラエルの人びとよ。あなたがたがガリラヤのラビとその信奉者を迫害すればするほど、彼の教えを暴力によって滅ぼそうとすればするほど、それは神のものですから、あなたがたはそれを強くし、世界中に広まるのを助けることになるのです。あなたがたによって殺された殉教者の血の一滴一滴が、あなたがたによって虐げられた聖人の涙の一粒一粒が、未来の信者の種になるでしょう。あなたがたは、堕落した偽善的な法と教えによって、勝利し支配することを望んでそうしますが、それらはもはや神の掟に一致していません。ですから、あなたがたは勝ちそうだと思ったときに、負かされることになるでしょう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/380.2/P222

 

「ヨナのシモン、私たちを待っている仕事があります。観想だけしてはいられません。この世は私たちの教えを待っています。主の働き手たちは、種を蒔く畑があるうちは、止まることはできません」。

「それでは・・・私が少し善くなるのは、このような暮らしから離れたときだけですか、とてもできそうにありません・・・世界は広すぎます! 全部の畑に種を蒔いてからしか、あなたに集中することができないのなら、死ぬまでに間に合わないのでは?」

「確かに、全部は無理でしょう。数百年、数千年かかるかもしれません。そして、ある場所でうまく行ったかと思うと、サタンがそこへ行って、それまでの努力を台無しにします。こうして、この世の終りまで続く仕事になるでしょう」。

 

 

 

 

13.凡ゆる方法で姦通を持ち込もうと努めている悪魔について

 

霊界日記4784

 

私は目覚めている幻の中に導かれて行き、途中、以下の者らの地獄の中を通り過ぎた。即ち、彼らは、結婚愛に属している事柄を歪曲し、転倒させ、消滅させて、姦淫に属しているような事柄を持ち込もうと、凡ゆる方法で、倦みもしないで、やっきになっているのである。彼らは殆ど魔鬼のように行動したが、しかし身を隠している狡猾な霊どもであった。彼らは思考と情愛との凡ゆる変化に注意し、みだらな姦淫は婚姻の状態よりもまさっていると説きつけ、またそうした考えを注ぎ入れることにより、そうしたもの〔思考と情愛との凡ゆる変化〕をみだらな姦淫へ歪めてしまおうと絶えずやっきになっていた。

(中略)

一度姦淫の歓喜を認めた人間は―なぜならそのことを持ち込むことが彼らの目的であったからであるが―殆ど決してそこから遠ざけられて、斥けられることは出来はしないのであり、さらに、いかような者も主から庇護されない限りは、決してそれに抵抗することは出来ないのである。

 

 

 

 

14.無神論者は悪魔そのもの

 

 

霊的な生命・神の聖言P29

 

 しかし人間は、用における歓喜からではなくて、支配することにおける歓喜から支配することを求める愛は全く悪魔的なものであることを考えなくてはならない、こうした人間は無神論者と呼ばれてもよいのである、なぜなら彼はその愛の中にいる限りその心の中では神の存在を信じはしないで、それと同程度に教会の凡ゆる事柄を嘲笑しており、神を承認する者をことごとく、特に主を承認する者たちを憎悪し、迫害しさえもするからである。こうした者の生命の歓喜そのものは悪を行うことであり、凡ゆる種類の邪悪な、破廉恥な行為を犯すことである。約言すると、彼らは悪魔そのものである。

 このことは人間は世に生きている間は知らない、しかし彼は霊界に入って来る時―彼は死後すぐさま霊界に入るのであるが―それがそうであることを知るであろう。地獄はこうした者で満ち満ちており、そこでは彼らは主権を得るどころか、奴隷状態に突き落とされるのである。