理解出来ない

 

 

知ろうと願わない

 

 

 

 

1.理解出来ない、説明出来ないい

2.再生した人間以外理解出来ない

3.理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言う

4.意志はそれ自身から発していないものは凡て理解から放逐する

 

 

 

 

1.理解出来ない、説明出来ない

 

天界の秘義3775

 

しかし凡ゆる場合におけるこれらの種々の事柄を詳細に説明することは、とくに真理と善とについては明確な考えをもっていない、ましてや善が発生してくる手段となっている真理について、また善から発してくる真理について明確な考えをもっていない者たちのもとには、主題をあいまいなものにしてしまうことになるであろう。

 

 

 

天界の秘義3793[3]

 

人間がその自然的なものの方面で再生することについては、その実情はヤコブとラバンの二人の娘ラケルとレアとの場合と全く同じであり、それでたれでもここの聖言をその内意に応じて認め、また把握することの出来る者は、彼に明らかにされているこのアルカナを認めるのである。しかし善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ないのである。他の者たちはその中の道徳的な社会的な生活にかかわる事柄についていかような認識を持っているにしても、またその者たちはそのことによりいかほど理知的なものであるように見えるにしても、それでもこうした性質のものは何一つ承認するほどに認めることは出来ないのである、なぜなら彼らは善と真理とは何であるかを知らないし、悪が善であり、誤謬が真理であると考えており、それでかの善が言われると直ぐさま、悪の考えが示され、真理が言われると、誤謬の考えが示され、従って彼らは内意のこれらの内容を何一つ認めないで、そうしたことを聞くと直ぐにも暗黒が現れて、光を消滅させてしまうのである。

 

 

 

天界の秘義4005[3]

 

このアルカナは、諸真理と諸善を教えられると同時に明るくされる把握力をもっている者を除いては何人にも明らかになることはできないため、これ以上説明することはできない。なぜなら善の諸真理とは何であるか、その諸真理から発してくる善とは何であるかが知られねばならないし、またラバンによりここに表象されている一つの善から極めて多くの種々のものが分離されることが知られねばならないからである。

 

 

 

天界の秘義4027

 

 ここにその言葉の内意について明らかにされた事柄は理解できるように明らかに示されるには余りにも内的なものであり、また余りにも秘められたものである。

 

 

 

 

2.再生した人間以外理解出来ない

 

 

天界の秘義4027[2]

 

主について、すなわち、主がいかようにして御自身の力により御自身における自然的なものを神的なものになされたかについてここにその最高の意義の中に含まれている事柄は天使たちの理解をすら超絶しているものである。その事柄の多少のものは、人間の再生は主の栄化の映像であるため、人間の再生の中に認めることができよう(3138、3212、3296、3490番)。この再生については人間は多少の観念[考え]を持つことができようが、(しかしながら再生した人間以外にはたれ一人それを持つことはできないが)、それも身体の中に生きている限りはたんに漠然とした観念にしかすぎないのである、なぜならこのような人間ですらその中におかれているところの形体的な世的な事柄が絶えずかれの心に蔭を投げかけて、その心を低い事柄の中に留めておくからである。しかし再生していない者らは、認識を持っていないため、知識を持っておらず、その事柄を何ら把握しないのであり、いな、かれは再生とは何であるかについてはいかようなことも何一つ知ってはおらず、またそれが在り得ることを信じもしていないのである。かれらは再生が遂行される手段である仁慈の情愛とは何であるかを知ってはおらず、まして内なる人が外なる人と相応していることは何であるかを知ってはいないのである。その言葉はかれらは実際知ってはいよう、そして多くの者は実際知ってはいるが、しかしその事柄は知ってはいないのである。それでこれらの事柄についての観念[考え]さえも欠けているからには、ここにその内意に含まれているアルカナをいかほど明らかに示してもそれは依然暗がりの中で何かを目に差し出すようなものであり、また何かをつんぼに話すようなものである。さらにかれらを支配している自己と世を求める愛の諸情愛はかれらにそのような事柄を知ることを許しはしないし、また聞くことさえも許しはしないのである、なぜならその情愛は直ぐさまそれらの事柄を斥けてしまい、いな、吐き出してしまうからである。仁慈の情愛の中にいる者たちの場合は非常に異なっている。これらの者はこのような事柄を歓ぶのである、なぜならかれらのもとにいる天使たちはその人間がそれらの事柄の中にいる時その幸福の中にいるからである、なぜならかれらはそのときかれらがその中に存在している主をとり扱っている事柄の中にいるのであり、また隣人とその再生とをとり扱っている事柄の中にいるからである。その天使たちから(すなわち主からその天使たちを通して)歓喜と祝福とが、仁慈の情愛の中にいる人間のもとへ(その人間が)これらの事柄を読んでいる間に流れ入ってくるのであり、とくにその人間が聖いものがそれらのものの中に在ると信じるとき流れ入ってくるのであり、ましてその人間がその内意に含まれている事柄について何かを把握するとき流れ入ってくるのである。

 

 

 

 

3.理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言う

 

 

神の摂理96

 

人は意志するに応じて、即ち、理解することを愛するに応じて理解することが出来ると我々は言うのである、なぜなら意志と愛とは一つのものとして働くからである。実際、これは背理のように思われるが、しかし理解することを愛さない者、従って理解しようとしない者にのみそのように思われるのであって、理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言うのである。

 

 

 

 

4.意志はそれ自身から発していないものは凡て理解から放逐する

 

 

神の摂理209

 

これは『私は天界を眺め、天使が私に語るのを聞くとき、私は真理を理解しよう』と考える者の過ちを示している。彼らの理解は真理を承認するが、しかしもし意志が同時にそれに同意しないならば、彼らは、依然それを承認しないのである、なぜなら意志は何であれその欲するものを理解に吹き入れはするが、その反対は起らず、否、意志はそれ自身から発していないものは凡て理解から放逐するからである。