主が譬えで教えられた理由
冒涜/
見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである(マタイ13・13)/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
1.聖書
詩篇78・2
わたしは口を開いて箴言を
いにしえからの言い伝えを告げよう。
イザヤ6・9−11
主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」
わたしは言った。
「主よ、いつまででしょうか。」
主は答えられた。
「町々が崩れ去って、住む者もなく
家々には人影もなく
大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
マタイ13・34−35
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群集に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
マタイ13・10−17
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたの見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
マルコ4・33−34
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
ペトロ2・1・20−21
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義2520[5]
聖言が人間の理解に順応して、また人間の資質に順応して語っているのは人間の合理的なものがこのような性格を持っているためである。それでこのことが聖言の内意がその文字の意義から異なっている理由であり、そのことは旧約聖書の聖言の中では非常に明白であって、そこでは大半の事柄は当時生きていた人々の把握と資質とに順応して書かれてきたのである。そうした理由から死後の生命、救い、内なる人については殆ど何ごとも言われてはいないのである。なぜなら当時その許に教会が存在したユダヤ人とイスラエル人は、もしこれらの事柄が明らかに示されたなら、単にそれらを理解しないのみでなく、さらに愚弄するといった性格を持っていたからである。そしてもしメシアまたはキリストが彼らの霊魂を永遠に救うために来られることが彼らに明らかに示されたにしても、同じことが見られたであろう、すなわちそのことをまた彼らは無意味なこととして斥けてしまったであろう、そのことはまた現今の同じ民族からも明白である、なぜなら内なるものがまたは霊的なものが現在でさえも彼らの眼前に言われて、そのメシアは地上の最大の王にはなられはしないと言われるなら、彼らはそれを愚弄してしまうからである。
天界の秘義2520[6]
これが主がときとして予言者のように語られ、またその言われねばならなかった他のことを譬えで教えられた理由である、例えば主は御自身マタイ伝に明らかに宣べられたのである―
イエスは言われた、わたしは譬えで彼らに話すのである、それは彼らは見はするが、見ないし、聞きはするが、聞きはしないし、また理解もしないためである(マタイ13・13)。
『見て、聞く者』により、教会の中で、見て、聞きはするものの、依然理解しない者らが意味されているのである。ヨハネ伝にもまた―
かれは彼らの目を盲目にされ、その心を頑にされた、彼らがその眼で見、その心で理解し、回心して、わたしが彼らを癒すことのないためである(ヨハネ12・40)。
彼らが『回心し』て、『癒される』ことは、それにも拘らず彼らは後になると斥けてしまった、かくして冒涜してしまい、それが永遠の堕地獄罪を含むことになることを意味している(301−303、582、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426番参照)。それにも拘らず主は多くのところで聖言の内的なものを明らかに示されたのであるが、しかしそれはただ賢明な者のためにのみ明らかにされたのである。
天界の秘義3398[3]
これが内なる諸真理がヤコブの子孫であるイスラエル民族とユダヤ人とに明らかにされなかった理由であった、彼らは人間の中には何か内なるものが在ることをさえも、かくて内なる礼拝の在ることをさえも明らかに告げられなかったのであり、死後の生命についても、主の天界の王国についても、またはその期待したメシヤについても、殆ど何事も彼らには言われなかったのである。その理由は彼らはもしそのようなことが彼らに示されたなら、彼らは地の事以外には何物をも欲しなかったため、それを冒涜しないわけにはいかなかったことが予見されたような性格を持っていたということであった、かの民族はこのような性質を持っており、また今もそのようなものであるため、彼らが徹底した不信仰の中にいることが今も許されているのである、なぜなら彼らが一度承認した後で、後退したならば、必然的に彼ら自身の上に凡ゆる地獄の中でも最も悲惨なものをもたらしたに相違ないからである。
天界の秘義9049(5)
こうした言葉は文字の意義に従って理解してはならないことを、たれが認めることが出来ないであろうか。なぜならたれが(自分の)右の頬を打つ者に左の頬も向けようか。そしてたれが自分の上着を取ろうとする者に外套も与えようか。そしてたれが求める者凡てにその財産を与えようか。そしてたれが悪に抵抗しないであろうか。 しかし『右の頬』と『左の頬』により、『上着』と『外套』により、また『一マイル』により、同じく『借りること』といったものにより意味されていることを知らない者は一人として、これらの言葉を理解することは出来ないのである。そこに取り扱われている主題は霊的な生命、または信仰の生命であって、世の生命である自然的な生命ではないのである。主はそこで、また本章と本章以後とに、天界に属している内的な事柄を開かれているのであるが、しかし世に存在しているような事柄によって開かれているのである。主がそうした事柄によって内なる事柄を開かれた理由は、世俗的な人間ではなくて、天界的な人間のみが理解するに違いないということであった。
世俗的な人間は理解してはならなかった理由は、彼らに聖言の内的な事柄を冒瀆させないためであった。なぜなら彼らは冒涜することによって、聖言を冒涜する者らの地獄であるところの、凡ゆる地獄でも最も恐るべき地獄へ彼ら自身を投げ込むからである。それで主からルカ伝に言われているのである―
あなたたちには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の者らには譬えで(与えられている)。それは彼らが見ても見ないためであり、聞いても聞かないためである(ルカ8・10)。
またヨハネ伝には―
イザヤは言った、かれは彼らの目を盲目にされ、その心を頑なにされた、それは彼らがその目で見て、心で悟り、回心して、わたしに癒されはしないためである(ヨハネ12・39,40)。
真の基督教131
これらの事柄はまた譬えによって説明することが出来よう。譬えは、この方法により理解する方が聖言から分析的に論理的に演繹することによって理解するよりも容易である単純な人々のために用いられるのである。
天界と地獄456注3
冒涜は人間のもとに善と悪が、また真理と誤謬とが混合することである、6348。最初善と真理を、または聖言と教会との聖い物を承認し―もしそれに従って生きるならば、尚更のことではあるが―後になってその信仰から後退し、それらを否定し、自分自身と世とのために生きる者以外には何人もそれを冒涜することは出来ない、593、1008、1010、1059、3398、3399、3898、4289、4601、10284、10287。もし人間が悔改めた後以前の悪へ再び帰るならば、彼は冒涜する者となって、その後の状態は前の状態よりは悪くなる、8394。聖い物を承認しなかった者はそれを冒涜することは出来ない、ましてそれを知らなかった者はそれを冒涜するはずはない、1327、1328、2051、2284。そうした理由からユダヤ人には内的な諸真理は明らかにされなかった、もしそれが明らかにされて、承認されたなら、その民族はそれを冒涜したであろう、3398、4289、6963。冒涜者の他生における運命は凡ての中で最悪のものである、なぜなら彼らが承認した善と真理とは存続し、同じく悪と誤謬も存続し、それらはともに密着しているため、その生命は引き裂かれるからである、571、582、6348.それで冒涜を避けるため、主により非常に入念な配慮が為されている、2426、10287。
霊界日記672
そこから予言的な文体が発生していて、それをまた、部分的に、主はすすんで用いられたのである、なぜならそれ以外の方法では人間は外的な霊的な事柄を理解することが出来なかったであろうし、ましてや更に内的な霊的な事柄は理解することが出来なかったからである。
その同じ理由から主はまた譬え話により語られたのである。
聖書17
主は世におられた時相応により話されたこと、かくて主は自然的に話されつつも霊的に話されたことは、その譬話から明白であって、その一切の語には霊的意義があるのである。