心理学
イエズスのほかに、もっとすぐれたものをさがすことはいらない/
1.天界と地獄の性質を知らない者は人間の心の性質を理解することは全然出来ない
2.地獄にいる凡ての者でさえも救われることが出来ると考えている者は人間について何ごとも知っていない
3.人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激する原因
4.宇宙のさまざまな秘密でも現わしうるのは、この宇宙を創られた最高の創り主でなければだれであろう
1.天界と地獄の性質を知らない者は人間の心の性質を理解することは全然出来ない
神の摂理299
天界と地獄の性質を知らない者は人間の心の性質を理解することは全然出来ない―それは死後生きる彼の霊である。その理由は人間の心または霊は天界または地獄の形に全く類似した形を持っているということである。そこには一は最大のスケールを持ち、他は最小のスケールを持ち、或は一は原型であり、他はその模型であるという相違以外には些かの相違もない。それゆえ人間の霊は天界かまたは地獄かその何れかの縮図である。主により導かれる人間は天界であり、自分自身の自己性により導かれる人間は地獄である。さて私は天界と地獄との性質につき教えられているので、また人間の心または霊の性質を理解することは重要であるので、私は両者を簡単に説明しよう。
2.地獄にいる凡ての者でさえも救われることが出来ると考えている者は人間について何ごとも知っていない
天界と地獄521
天界に入る道について、また人間における天界の生命について教えられていない者達は、天界へ迎えられることはただ慈悲のみから与えられそれは信仰にいて主の執成しを受ける者達に与えられ、かくてそれは単に慈悲から入ることを許されることであり、従っていかような者であっても人間は凡て主の善意により救われることが出来ると考え、実に地獄にいる凡ての者でさえも救われることが出来ると考えている者もいる。しかしそのように考えている者は人間について何ごとも知っていない、すなわち、人間は全くその生命と同一のものであり、その生命は、その意志と理解とに属した内部のみでなく、その身体に属した外部の方面でも、その愛と同一のものであり、その生命は、その意志と理解とに属した内部のみでなく、その身体に属した外部の方面でも、その愛と同一であり、身体の形は単に外なる形であって、その中に内部はそれ自身を結果をもって示しているに過ぎず、従って人間全体はその者自身の愛であることを知らないのである(前の363参照)。彼らはまた、身体は身体自身から生きているのではなく、その霊から生きており、人間の霊は彼の情愛それ自身であって、その霊的な身体は人間の形をとっているその人間の情愛であり、それはまた死後その形をもって現れるということも知らない(前の453−460)。こうした事が知られない限り、人間は救いは慈悲と恩寵と呼ばれる神の善意以外の何ものでもないと信じるようになるであろう。
3.人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激する原因
神の摂理211
「神的摂理は何人もその存在を殆ど知らない程に秘かに働く理由は人間が滅びないためである。なぜなら人間の意志である人間の自己性は神的摂理とは決して協力せず、人間の自己性はそれに対して生れ乍らの敵意を持っているからである、なぜならこれが最初の両親を誘惑した蛇であって、それについては、『私はおまえと女との間に、おまえの裔と女の裔との間に敵意をおこう、彼はおまえの頭を砕くであろう』(創世記3・15)と言われているから。蛇は凡ゆる種類の悪を意味し、その頭は自己愛であり、女の裔は主であり、人間の自己性と主の間には、それ故また人間の深慮と主の神的摂理の間には敵意が置かれている、なぜなら人間自身の深慮は絶えずその頭をもたげ神的摂理は絶えずそれを押さえつけられているからである。もし人間はそれを感じるなら、彼は神に向かって怒り、憤激し、滅びるであろう、しかし彼はそれを感じないため、人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激することは出来るが、しかしそのために滅びはしないのである。この理由から主はその神的摂理により絶えず人間を自由の中に導かれ、この自由は人間には全く人間自身のものとして見えている。」
(蛇/ 3.凡ゆる種類の悪)
(心理学における問題行動の原因の一つはこれであろう。即ち、神に対する敵意のこと。
自分を認めさせようとする諸々の行為。それは自己愛であり、神の否定。)
4.宇宙のさまざまな秘密でも現わしうるのは、この宇宙を創られた最高の創り主でなければだれであろう
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215
何の欠点もない教えは、神から来る教えしかない。すべてを教える神をもっていないならば、人間がどうして自分のすべての謎に答えられるか。宇宙のさまざまな秘密でも現わしうるのは、この宇宙を創られた最高の創り主でなければだれであろう。動物の完全さと同時に、霊魂の不滅の完全さをもっている人間という生きる不思議をどうして理解できるか。
天界の秘義8478[3]
「神的なものを信頼している者たちの場合は非常に異なっている。これらの者は、明日のために心遣いはするものの、それでも心遣いはしない、なぜなら彼らは明日のことを考えても、思い煩いはしないし、ましてや不安などは持たない。これらはその願っているものを得ようが、得まいが、その心は乱されはしない、彼らは己が分に甘んじて、それを失っても悲しみはしない。彼らは富むにしても、心を富には置きはしない、名誉[ある地位]に挙げられても、自分自身を他の者よりも価値あるものとしては認めない。貧しくなるとしても、悲しみはしない、その境遇が卑しいにしても、気落ちはしない。彼らは、神的なもの[神]を信頼している者には凡ゆる物が永遠に幸福な状態に向って進んでおり、時間の中で起るものは何であれ、依然それに貢献していることを知っているのである」。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P310
何年も前、まだクリスチャンになっていなかった頃のわたしは、いつもキリストを憎み、キリストの敵でありました。わたしは、この世のもので願いを満たそうとしましたが、かないませんでした。家にはこの世的なものが沢山ありましたが、霊魂の求めを満たせるものは何一つありませんでした。心(ハート)は、この世のどんなものによっても満たすことはできない。心をお創りになった方によってしか満たすことはできないのです。主ただお一人のみが、それを満たすことができるのです。わたしは家と人とを捨てなければなりませんでした。わたしはすべてを失いました。しかし、わたしはキリストの中に、すべてを見出しました。この世の与えることのできなかった、取り去ることもできない、言い知れぬ平和を、キリストの中に見たのです。ただ信仰の友と一緒にいるときだけではなく、困難の最中にあっても、わたしは平和を見出したのです。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P318
われらが救い主は、こういわれました。「神の国をまず求めなさい。そうすれば他のものも与えられます」。わたしたちは、ものを祈り求めるのではなく、その与え手を祈り求めなければなりません。生命ではなく、生命の与え手を求めなければならないのです。真理を探究した多くの人々が、このことを経験しています。たとえ世界が与えられても、天国さえ与えられても、わたしたちの心(ハート)は満たされることはありません。心は主の中でしか満たされないのです。神は、霊の生命(いのち)を祈り求める方法を知るよう、わたしたちに求められています。わたしたちを造られ、平和への願いをお与えになった方と出会うときに、わたしたちは地上天を見出しているのであり、それ以外のことは何も求めなくなります。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P338
今日、こんなにも多くの新宗教があるのは、人々が彼らを満たしてくれるイエス・キリストを知らないからであります。人々は、これを信じ、あれを信じ、それでも足りなければ、また別のものを受け入れる。それでも満ち足りてはいません。みなさん、わたしたちを満たせるのは教えでも、倫理でもありません。生けるキリストなのです。わたしは、様々な国々で、キリストを嫌悪する人々を多く見てきました。ところが、主を知るや、彼らは変えられたのであります。彼らは、主の中に強さと力を見たのであります。
われわれの生活が祈りの生活となり、われわれがこの世界において主を知り、主を愛するように、主がわれわれを助けてくださいますように。