記憶知
1.『財産』。 記憶知を取得しなくては、人間は人間として思考のいかような観念をも持つことは出来ない
2.第一の用に役立った記憶知は最早役には立たなくなって破壊される
3.最も低い知識が彼に密着している限り、彼の心が高揚されることは出来ない
4.空ろなものはことごとく自ずから消散してしまう
5.空しい記憶知が人間が天的なものに到達することが出来るのを妨げている妨害物である
6.記憶知は欲念に拡がる
7.仕えるもの
8.最低の真理、または、外的な自然的なものの真理は記憶知と呼ばれている
9.霊的なものが自然的なものの中に表象的に示され、かくて世に存在する物により示されない限り、それらは全く把握されない
10.『エジプト』。教会の記憶知
11.信仰のものである真理を得る二つの方法
12.記憶知は常に、情愛のものであるような事柄を、従って何らかの善を常にその記憶知に連結させている
13.記憶知は感覚の事物から発生し、真理は記憶知から発生する
14.対立している記憶知は真中から周辺へ追放され
15.思考は内部へ浸透するに応じて、益々それ自身を記憶知から遠ざける
16.このような幾多の度の記憶知により人間は理知へ上昇する
17.記憶知の教義的なもの
18.(誤謬と悪)が一度記憶知に印刻されると、それらのものはそこに留まる
19.外なる人の中に記憶知が在る
20.家
21.真の記憶知は悪から発した誤った教義の力に打ち勝つ
22.信仰は記憶知により強められる
23.霊的な教会の者たちを主として悩ますものは誤った記憶知
24.銀の器と金の器
25.戦利品、娼婦の賃金
26.特に情愛から受け入れられるものは人間のもとに止まる
27.人間が見、聞き、考え、話し、行った一切の事柄はその人間に印刻されている
28.記憶知が日毎に用いられてそのため謂わば人間の性質のものとなってしまった凡てのもののように
29.人間の愛は記憶の中のこれらのもの[諸真理]を覗き込んで、そこからその愛に一致したものを選び出し、その選んだものをそれ自身に招き寄せて、それ自身に連結させ、そのものにより日々それ自身を強固なものにする
1.『財産』。 記憶知を取得しなくては、人間は人間として思考のいかような観念をも持つことはできない
天界の秘義1435
「そしてかれらが得た凡ての財産」。これは感覚的な真理である凡ゆるものを意味していることはすでに言ったことから明白である。人間が物を考える源泉となる記憶知はことごとく『取得したもの』または『財産』と呼ばれている。記憶知を取得しなくては、人間は人間として思考のいかような観念をも持つことはできないのである。思考の観念は感覚の事柄から[知覚された事柄から]記憶に印刻された事柄に基礎づけられており、それで記憶知は霊的な事柄の容器となっており、そして身体の良い快楽から発した情愛は天的な事柄の容器となっている。これらの凡ては『得られた財産』、実にハランで得られた財産と呼ばれており、ハランにより幼児から子供時代に至る状態のような明確でない状態が意味されているのである。
2.第一の用に役立った記憶知はもはや役には立たなくなって破壊される
天界の秘義1487
「エホバは大きな疫病をもってパロを打たれた」。これは記憶知が破壊されたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『パロ』の意義は全般的な記憶知であり、従ってそうした知識にぞくした記憶知であり、『疫病で打たれる』ことの意義は破壊されることである。記憶知については実情は以下のようになっている、子供時代では記憶知は知るという目的以外の目的のためには得られないのであって、主にあっては記憶知は真理を歓ぶ歓喜と真理を求める情愛から得られているのである。子供時代に得られるいくたの記憶知は極めて多いが、しかしそれらは用に仕えるために主により秩序をもって排列されるのである、すなわち、先ず考える能力を与えるために、次にそれらが考えることによって何かの用[役]にたつように、最後に、そのことが実を結ぶために、すなわち、生命そのものが用の中にあり、また用の生命となるために(主により配列されるのである)、これらが子供時代に得られるいくたの記憶知により遂行される事柄であり、それらのものが無くては外なる人は内なる人にけっして連結することはできないのであり、また同時に用となることもできないのである。人間が用となるとき、すなわち、人間が凡ゆるものを用の目的から考え、用の目的のために凡ゆるものを行うとき―明白な反省によって、行わないにしても、それでもそのように行うことから得られた性質から暗黙の反省から行うとき―そのときは人間が合理的なものになるためにという第一の用に役立った記憶知はもはや役には立たなくなって破壊されるのである。これらが「エホバはパロを大きな疫病をもって打たれた」という言葉により意味されている事柄である。
3.最も低い知識がかれに密着している限り、かれの心が高揚されることはできない
天界の秘義1489
「アブラハムの妻、サライのために」。
これは、天的なものに接合されねばならなかった真理のために、を意味していることは『妻』の意義から明白であり、従って『妻サライ』の意義から明白であり、それは天的なものに接合されなくてはならない真理であって、それについては前の十二節を参照されたい。実情は以下のようである、すなわち、子供時代に人間を合理的なものにする用を遂行した知識が破壊されて、無とならない限り、真理は天的なものに決して連結されることはできないのである。これらの最初の記憶知の大半は地的なものであり、形体的なものであり、世的なものである。子供が学ぶ教えはいかほど神的なものであるにしても、かれはそれについてはそのような知識から得られる考え以外にはいかようなものも持っていない、それでかれの考えが起ってくる源泉であるその最も低い知識がかれに密着している限り、かれの心が高揚されることはできないのである。
4.空ろなものはことごとく自ずから消散してしまう
天界の秘義1499
天的なものが知的な真理に連結し、知的な真理が天的なものになりつつあるときは、空ろなものはことごとく自ずから消散してしまうのであって、このことは天的なものの性質の中にあるのである。
天界の秘義1500
空虚なものが知恵を離れ去るのが慣であるように、空しい記憶知は天的なものから離れ去るのであって、それらはおのずから分離してしまう固い外皮、うろこのようなものである。
5.空しい記憶知が人間が天的なものに到達することができるのをさまたげている妨害物である
天界の秘義1542
人間には人間が天的なものになることを妨害している二つのものがあるが、その一つはかれの知的な部分に属し、他の一つはかれの意志の部分に属している、すなわち、知的な部分の属したものは人間が子供時代と青年期とに学ぶ空しい記憶知から成っており、意志に属したものは人間がよろこぶ欲念から発した快楽から成っている。これらが人間が天的なものに到達することができるのをさまたげている妨害物である。これらが先ず散らされなくてはならないのであり、それらが散らされた時、その時はじめて人間は天的なものの光の中へ入れられ、ついには天的な光の中へ入れられることができるのである。
6.記憶知は欲念にひろがる
天界の秘義1600
「ソドムの男どもは甚だしく邪悪でエホバにむかって罪人であった」。これは記憶知がそこまでもひろがったいくたの欲念を意味していることは以下から明白である、すなわち、『ソドム』の意義は、前に説明したが、それは欲念であり、『男たち』の意義は知的な合理的なものであり、ここでは、それが内なる人から分離しているときの外なる人について述べられているため、記憶知である。『男たち』は知的な合理的なものを意味していることはまた前に説明した(265、749、1007番)。記憶知はその人間が偉大なものになろうという目的からのみ学ばれて、その記憶知が人間の用に役立ち、そのことによって人間が善いものになるために学ばれないときは、その記憶知は欲念にひろがると言われている。記憶知はことごとく人間が合理的なものになり、かくして、賢明なものになり、かくして内なる人に仕えようと言う目的のために存在しているのです。
7.仕えるもの
天界の秘義2019
『家の長老である僕』は自然的なものであり、または自然的な人であることは、『僕』の意義から明白であり、それは低いものであり、また高いものに仕えるものであり、またはそれと同一のものであるが、外なるものであり、内なるものに仕えるものである(2541、2567番)。自然的な人に属しているものはことごとく、例えばそれがいかような種類のものであっても、そうした種類の記憶知といったものは仕えるもの以外の何ものでもないのである、なぜならそれらは合理的なものに正当に考えさせまた正しく意志させることによってその合理的なものに仕えているからである。『家の長老』は自然的な人であることは、以下の記事から認めることができよう。
8.最低の真理、または、外的な自然的なものの真理は記憶知と呼ばれている
天界の秘義5212
最低の真理、または、外的な自然的なものの真理は記憶知と呼ばれている、なぜならそれは人間の自然的な、または外なる記憶の中にあるからであり、またその大半のものは世の光にあずかっており、そこから言葉の形により、または世とその光のものであるものによって言葉に形作られる観念により、他の者に示されまた表わされることができるからである。しかしながら内なる記憶の中にある物は、天界の光にあずかっているかぎり、記憶知とは呼ばれないで、真理と呼ばれており、この光によらなくては、理解されることもできず、または天界とその光のものであるような事柄により言葉に形作られた観念によらなくては、または言葉の形によらなくては表現されることはできないのである。
9.霊的なものが自然的なものの中に表象的に示され、かくて世に存在する物により示されないかぎり、それらは全く把握されない
天界の秘義5373[3]
なぜなら実情は以下のようになっているからである、すなわち、人間の自然的なものの方面の再生の間では、諸善と諸真理とはそのことごとくは記憶知の中へ入れられるのである。そこの記憶知の中に存在しないものは自然的なもの中には存在しないのである、なぜなら自然的な心は、その中で理解に従属している部分については、主として記憶知から成っているからである。自然的なものにぞくしている記憶知は秩序の究極的なものであって、先在的な物は、それが存在するようになり、かの領域の中に現れるためには、究極的なものの中に存在しなければならないのであり、さらに先在的な物は凡て究極的な物へ、その境界または末端へ進むように進んで、その究極的なものの中に、ちょうど原因がその結果の中に、または高いものが低いものの中にそれをその器として共に存在しているように、共に存在するようになるのである。自然的なものの記憶知はこのような究極的なものである。ここから霊界は人間の自然的なものの中に終結しており、その中に霊界のものは表象的に示されているのである。霊的なものが自然的なものの中に表象的に示され、かくて世に存在する物により示されないかぎり、それらは全く把握されないであろう。この凡てから、自然的なものの再生の間には、霊界から発している内的な諸真理と諸善とは凡て、それらが現れるためには、記憶知の中へ入れられることが明白である。
10.『エジプト』。教会の記憶知
天界の秘義1462
主については、『エジプト』は幾多の知識の記憶知であるが、しかし他の凡ての人間については全般的に記憶知であることは聖言のその意義から明白である(それについては前の色々な所に、特に1164、1165番に述べておいた)。
天界の秘義4749
『エジプト』の意義は記憶知であり(1164、1165、1462番)
天界の秘義4964
古代人の記憶知は現今の記憶知とは全く相違していたことを知らなくてはならない。前に言ったように、古代人の記憶知は自然界における物が霊界におけるものと相応していることを取扱ったのである。今哲学と呼ばれている記憶知は、例えばアリストテレスの哲学といったものは、彼らには知られていなかったのである。このことは古代の文筆家たちの書物から明白であり、そのことは他の事例を述べるまでもなく、以下の事例から明白である。
天界の秘義4966[2]
彼らはヘリコンを山上においたが、山により天界を意味したのであり、パルナッサスには岡の上の低い地を与えて、岡により記憶知を意味したが、そこにペガサスと呼ばれる一頭の飛びかける馬がその蹄でけって泉をほとばしり出させたと言い、幾多の学問を他のそうした伝説とともに処女と読んだのである、なぜなら彼らは相応したものと表象するものから、山は天界を意味し、岡はその下に在り、または人間のもとに在る天界を意味し、馬は理解を意味し、その馬が用いて飛んだ翼は霊的なものを意味し、蹄は自然的な心を、泉は理知を、グレースと呼ばれた三人の処女は善の情愛[善に対する情愛]をミューズと呼ばれた処女たちは真理の情愛[真理に対する情愛]を意味していることを知ったからである。
天界の秘義4966[4]
元来哲学と呼ばれている知識は、そうしたものを知ることからむしろ遠ざけてしまっているのである、なぜならその知識は誤謬を確認するためにも用いられることが出来るからであり、またその知識は、真理がその知識により確認されるとき心を暗黒へ陥れるのである、なぜならその知識の大半は単なる表現であって、その表現により確認が行われるが、それは僅かな者にしか把握されないのであり、それについてはその僅かな者ですら見解を異にしているからである。このことから人類は知恵にいたる古代人の博識からいかに後退してしまったかが明白である。
天界の秘義5402
「エジプトに作物が在ることを」。これは『エジプト』である記憶知により真理を得ようとする気質を意味していることは以下から明白である、すなわち、『作物』の意義は教会の諸真理であり、または信仰のものである諸真理であり(『豊作』は真理が増大することを意味していることは前の5276、5280、5292番に見ることができよう)、『エジプト』の意義は記憶知であり(1164、1165、1186、1462番)、その純粋な意義では教会の記憶知である(4749、4964、4966番を参照)。これらのものを得ようとする気質が意味されていることは間もなく以下に記されていることから明らかである。ここでは『エジプト』であるところの教会の記憶知によっては、内的な人に連結していない間の、または内的な人を通して天界と連結していない間の、かくて天界を通して主と連結していない間の、真理と善の凡ゆる知識が意味されている。教会の教義的なものとその祭儀は、同じくまたこの祭儀がいかような霊的な事柄を表象し、またいかようにしてそれを表象しているかにかかわる知識は、その人間がそれが真であるか否かを聖言から認め、かくてそれが己がものとしていない間は記憶知以外の何ものでもないのである。
天界の秘義6750
「彼女は彼をパロの娘のもとへ連れて来た」。これは記憶知に対する情愛を意味していることはパロの娘の表象から明白であり、それは宗教であるが(6729番を参照)、しかしここでは記憶知に対する情愛である。なぜなら本節で記されていることは第三の状態であり、この場合『娘』により情愛が意味され(2362、3963番)、『パロ』により全般的な記憶知が意味され(6015番)、かくて『パロの娘』により記憶知に対する情愛が意味されるからである。このことはまたその連続した事柄の内意からも明白である、なぜならモーセは律法の神的なものの方面の主を表象しているため、もしパロの娘により前のように宗教が意味されているなら、彼はパロの娘のもとへ連れて来られて、彼女の息子となる筈はなく、更に記憶知は再生しつつある者たちが先ず学ばねばならないものであるからである、それは記憶知は理解の事柄に対する面であり、理解は信仰の真理を受容する器官であり(6125番)、信仰の真理は仁慈の善を受容する器官であるためである。ここから記憶知は人間が再生しつつある時の最初の面であることを認めることが出来よう。
天界の秘義6750〔2〕
記憶知はまた、主がその人間的なものを神的な真理に、または神的な律法になされた時、主における最初の面であったことは、ホゼヤ書の以下の予言から、即ち、『エジプトからわたしはわたしの息子を呼び出した』(ホゼヤ11・1、マタイ2・15)から推論されるように、主が、幼児の頃、エジプトへ連れて来られ給うたことにより意味されているのである(マタイ2・13、14)。『エジプト』により記憶知が意味されていることは再三示したが、しかし記憶知により哲学の記憶知ではなく、教会の記憶知が意味されているのである(そのことについては4749、4964−4966、6004番を参照されたい)。これらが『エジプト』により、その純粋な意義で、また意味されている記憶知である。(最初の面はこれらの記憶知から形作られることについては、5901番を参照されたい。)
天界の秘義6751
「彼は彼女の息子となった」。これはそこからそれが最初の諸真理を得たことを意味していることは以下から明白である、即ち、ここに『彼女』により意味されているパロの娘の表象は記憶知に対する情愛であり(6750番を参照)、『息子』の意義は真理であり(489、491、533、2623、3373番)、ここでは最初の真理である、なぜなら『彼女の息子となること』は記憶知により最初の諸真理の中にいることを意味するからである、なぜなら最初の諸真理は記憶知から生れ、かくて記憶知の情愛である母から生れた息子のようなものであるから。(記憶知は理解と信仰のものである諸真理に対する面であることについては、前の6750番を参照。)人間は再生しつつある時は、信仰の事柄において進んで行く有様は、彼が成熟しつつある時信仰に属していない諸真理において進んで行くのと殆ど変りがないのであり、この後の成長の場合では、感覚的なものが最初の面であり、次に記憶知が第二の面となり、この二つの面から後に判断力が、人各々により多少の相違をもって成長するのである。人間の再生の間では、信仰の全般的なものが、または教会の教義の基本的なものが最初の面となり、次に教義と信仰との個別的なものが面となり、その後更に内的なものが続いて面となって行くのである。これらの面は天界の光により明るくされるものであり、そこから理知的なものが生れ、また信仰と仁慈の善とを認識する力が生れて来るのである。
11.信仰のものである真理を得る二つの方法
天界の秘義5402[2]
信仰のものである真理を得るには二つの方法があり、一つは教義的なものにより、他は聖言によって得るのである。人間がただそれを教義的なものによってのみ得るときは、かれはその真理を聖言から引き出した者たちを信じ、他の者がそのように言っているという理由からそれが真であると自分自身の中に確認するのであり、かくてかれはそれをかれ自身の信仰から信じるのではなくて、他の者の信仰から信じるのである。しかしかれが聖言から自らその真理を得、それゆえそれが真理であることを自分自身の中に確認するときは、それをそれが神的なものから発しているために信じるのであり、かくてそれを神的なものから与えられた信仰から信じるのである。教会の中にいる者はことごとく先ず教義的なものから信仰のものである諸真理を得るのであり、またそのようにしてそれを得なくてはならないのである、なぜならかれは未だかれ自身がその諸真理を聖言から認めることができるだけの充分な判断力を持っていないからである、しかしこの場合これらの諸真理はかれには記憶知以外の何ものでもないのである。しかしかれがその諸真理をかれ自身の判断から観察することができるときになっても、それが真であるか否かを聖言から認めるために聖言にたずねないなら、それはかれの中に記憶知として止まるのであるが、もしかれが真理を知ろうとする情愛と目的から聖言にたずねるなら、そのときは、かれがそれを見出したときは、信仰のいくたの事柄を純粋な源泉から自ら得るのであり、またそれらは神的なものからかれのものとされるのである。こうした、またそれに似た事柄がここに内意にとり扱われているものである、なぜなら『エジプト』はこれらの記憶知を意味し、『ヨセフ』は神的なものから発した真理であり、かくて聖言から発した真理であるからである。
12.記憶知は常に、情愛のものであるような事柄を、従って何らかの善を常にその記憶知に連結させている
天界の秘義5489
僅かな者しか記憶知が善を容れる器[善の容器]であることを知ってはいないのは、僅かな者しかこうした事柄を反省しないためであるが、それでもそのことは以下のことを考察することにより知ることができよう。記憶へ入ってくる記憶知は常に何らかの情愛によって導入されるが、いかような情愛によっても導入されないものはそこに密着はしないで、すべりおちてしまうのである。このことの理由は情愛の中に生命が在るが、記憶知の中には情愛を通さなくては生命がないということである。このことから記憶知は常に、情愛のものであるような事柄を、従って何らかの善を常にその記憶知に連結させていることが明らかである、なぜなら愛のものである事柄はことごとくと、それが善であろうと、または善であると考えられようと、善と呼ばれるからである。それで記憶知はこれらの善と結合していわば結婚のようなものを形作っており、そこからこの善が喚起されると、その善に連結している記憶知もまた直ぐに喚起され、またその逆にその記憶知が喚起されると、それと連結している善もまた現れてくるのであり、そのことはたれでももし欲するなら、自分自身の中に観察することができるのである。
天界の秘義5489[2]
それでこのことが、仁慈の善を斥けたところの再生していない者らのもとでは、教会の真理である記憶知が自己と世への愛のものであるような事柄を、かくて悪い事柄をその記憶知に接合させている理由であり、それをかれらはその中に在る歓喜のために、善と呼び、また誤った解釈をほどこして、善であると言い立てるのである。この記憶知はその問題の愛が全般的に支配しているときは、またその愛が支配している度に応じて、はなやかな外観を見せるのである。しかし再生した者たちのもとでは教会の真理である記憶知はその記憶知に、隣人に対する愛と神に対する愛とを結合させ、かくて純粋な良い事柄を結合させているのである、これらのものは再生しつつある凡ての者のもとで教会の諸真理の中に主により貯えられ、それで主がこうした人物の中へ善に対する熱意を注ぎ入れられると、これらの真理はその秩序をもって現れ、そして主が真理に対する熱意を注がれると、この善が現れて、それを燃やすのである。この凡てから記憶知と真理との実情はいかようになっているかが、すなわち、それらは善の容器であることが明白である。
13.記憶知は感覚の事物から発生し、真理は記憶知から発生する
天界の秘義5774[2]
真理を感覚の事物から記憶知へ連れて帰ることの何であるかをかんたんに説明しなくてはならない。感覚の事物と記憶知と真理とはそれぞれ異なっているのである。それらは交互に互に他に続いているのである、なぜなら記憶知は感覚の事物から発生し、真理は記憶知から発生するからである、なぜなら感覚によって入ってくる物は記憶の中に貯えられ、その物からその人間は記憶知を結論し、またはその物からその学ぶ記憶知を認識し、次いで記憶知から真理を認識し、または記憶知からその学ぶ真理を認識するからである。人間は各々子供時代から成長するにつれてそのように進歩して行くのである。かれは子供であるときは感覚に事物から物事を考え、把握し、さらに年を取ると、記憶知から物事を考え、把握するのである。是が判断へ―その中へ人間は年とともに成長して入って行くのであるが、その判断へ―到達する道である。
14.対立している記憶知は真中から周辺へ追放され
天界の秘義5871
信仰の諸真理が仁慈の善と連結されつつあるときは、一致していない記憶知はすべて、とくに対立している記憶知は真中から周辺へ追放され、かくて真中に在る光から周辺に在る蔭へ追放され、かくてそれらのものは一部は見られはしなくなるし、また一部は取るに足らぬものとしてしか認められなくなるのである。しかし後に残るところの、一致して、調和している記憶知からは、一種の摘出作用が、いわば一種の昇華作用が行われ、そこから事物に対する内的な知覚が起こってくるが、その知覚は、人間が身体の中にいる間は、例えば心が一日の朝により楽しくなるように、多少の喜びにより人間に認められなくては認められないものである。このようにして信仰のものである真理と仁慈のものである善とは連結するのである。
15.思考は内部へ浸透するに応じて、益々それ自身を記憶知から遠ざける
天界の秘義5874
それは最も外なるもの[究極的なもの]であることは、何らかの真理を探求しているさい、己が思考を反省する者には明らかである、すなわち、そのときは記憶知はそこに現存はしているが、明らかではないのである、なぜなら思考はそのときその記憶知の内に含まれているものを摘出し(しかもその摘出はここかしこと散在し、また深くかくれてさえもしている非常に多くのものから行われるのである)、かくて結論を形作り、そして思考は内部へ浸透するに応じて、益々それ自身を記憶知から遠ざけるからである。これは以下の事実から明らかとなるであろう、すなわち人間が他生に入って、霊となるときは、実際かれは記憶知は持ってはいるが、幾多の理由からそれを用いることは許されていないのであり(2476、2477、2479番)、しかもかれは真理と善とについては世にいたときよりもさらに明確に、また完全に考え、話すのである。このことから以下のことを認めることができよう、すなわち、記憶知は人間に理解を形作るためにや役立つが、しかし理解が形作られると、そのときは最も外なる面を構成し、その面の中ではその人間はもはや考えはしないで、それを超越して考えるのである。
16.このようないくたの度の記憶知により人間は理知へ上昇する
天界の秘義5934
自然的なものの中には色々な記憶知が存在している。すなわち、地の事柄、身体の事柄、世の事柄にかかわる記憶知があり、これは最低のものである。なぜならこれらは外なる感覚または身体の事柄から直接に発しているからである、(次に)それよりは少しくさらに内的なものであるところの、社会状態、その政治、法令、法律にかかわる記憶知があり、またそれよりもさらに内的なものであるところの、道徳的生活の事柄についての記憶知がある。しかし霊的な生活にぞくしている記憶知は前の凡ゆる記憶知よりはさらに内的なものである。この後の記憶知は教会の諸真理であって、それがたんに教義から発して人間のもとに在るかぎりは、記憶知意外の何ものでもないが、それが愛の善から発しているときは、記憶知よりも上昇するのである。なぜならそのときはそれは霊的な光の中にあって、その光からその下に秩序をとって存在している記憶知を眺めるからである。このようないくたの度の記憶知により人間は理知へ上昇するのである。なぜならこれらのいくたの度により記憶知は心を開いて、霊界から光が流れ入ることができるからである。この凡てから今や自然的なものの中に諸真理が現存することにより意味されていることが明白である。
17.記憶知の教義的なもの
天界の秘義5945
そこの『車』も同様であるが、しかし車によっては記憶知の教義的なものが意味されているのである。記憶知の教義的なものは聖言の文字の意義から来ている教義的なものであり、教会のさらに内的な諸真理へ始めて導き入れられつつある者たちには得に役立つものであって、それはやもめ、孤児、街の貧しい者らは慈悲の特別の対象であるというようなものであり、また十誡の教えである。こうしたものやまたさらに多くのものが記憶知の特別の対象であるというようなものであり、また十誡の教えである。こうしたものやまたさらに多くのものが記憶知の教義的なものであり、『エジプトの車』により意味されているのである。このような教義的なものは、人間の学ぶ最初のものであって、後にはかれに最も外なる面として役立つのである。なぜならさらに内的なものへ進んで行くときは、それらは最も外なるものとなるからである。さらに天的なものと霊的なものとは実際これらのものの中に終結するのである。なぜならそれらのものはいわばこれらのものの上に立って、これらのものに依存しているからである。それは霊界はいわばその足とその足の裏を自然界においており、人間のもとではその霊的生命については、丁度聖言の内意がその足をその文字の意義の中においているように、記憶知の教義的なものの中においているためである。こうした教義的なものを意味している『車』は聖言には僅かな記事しか記されていない。原語では『車』は、箱がそうした運搬具の上におかれたと言われているところと(サムエル記前6・7、8、サムエル記後6・3)、また幕屋がきよめられたときに(民数記7・3)その言葉で記されているのである。その理由は、箱は天界を表象し(3478番)、天界は、前に言ったように、記憶知の教義的なものの上に立って、それに依存しているということである。
天界の秘義6023
記憶知が真理により支配される時、真理は導き入れられ、連れてこられるのであり、そして真理が、主が聖言でそのように言われたために承認されるとき、記憶知は真理により支配されるのである。かくて真理はそれを肯定する記憶知を支配するのであり、肯定しない記憶知は斥けられるのである。このことが起ると、そのときはその人間は記憶知から考えるに当って、真理が記憶知の内部に存在していない場合とは異なって、誤謬に入れられはしないのである。なぜなら記憶知はそれ自身によっては真ではなく、その中にある真理により真のものとなり、記憶知の中にある真理のあるがままに、記憶知の全般的真理も左右されるのである。なぜなら記憶知は容器にすぎず(1469、1496番)、真理も誤謬も受けることができ、しかも、そこには無限の変化があるからである。
18.(誤謬と悪)が一度記憶知に印刻されると、それらのものはそこに留まる
天界の秘義6112
他の者により、または自己により誤謬と悪とに適用されることによって歪められたものとなっていない記憶知もまた真で適用されることができると言われるのである、なぜならこれら(誤謬と悪)が一度記憶知に印刻されると、それらのものはそこに留まるからである。それでこうした毀損をまぬかれた記憶知は凡て真で適用されることができる記憶知である。
19.外なる人の中に記憶知が在る
天界の秘義6055
人間の内部を知らない者は流入について、また霊魂の身体との交流について知ることはできない、なぜなら交流と流入とはこれらの内部により行われるからである。人間の内部を知るためには、内なる人と外なる人とが在り、内なる人は霊界にいるが、外なる人は自然界におり、かくて前のものは天界の光の中にいるが、後のものは世の光の中にいることを知ることが必要である。内なる人は外なる人からは明確に区別されており、前のものは、先在的なものであり、また内的なものであって、後のものがなくても存続することができるが、後のものは、または外なる人は、後在的なものであって、外的なものであるため、前のものがなくては存続することができないことを知ることもまた必要である。さらに以下のことを知らなくてはならない、すなわち、内なる人は元来知的な、または合理的な人間と呼ばれるものであり、それはそれが天界の光の中に在って、その光の中に理性と理解とが在るためであるが、それに反し外なる人は元来記憶知の外なる人と呼ばれねばならないものであり、それはその外なる人の中に記憶知が在るためであって、その記憶知の大半は、世の光が天界の光によって明るくされて、生かされるとき、その世の光に属しているものからその光を得るのである。
天界の秘義6865
「あなたはわたしの民、イスラエルの子孫をエジプトから連れ出しなさい」。これは、その結果、霊的な教会に属している者たちをとりついて悩ます幾多の誤謬から解放することを意味していることは以下から明白である、即ち、『連れ出すこと』の意義は
20.家
天界の秘義6690
「彼は彼らに家を作られた」。これは、彼らが、即ち、自然的なものにおける真の記憶知が天界の形に配置されたことを意味していることは、『家』の意義から明白であり、それは自然的な心であり(4973、5023番)、かくてこの心の幾多の事柄であり、それはここでは、助産婦が語られている為、自然的なものにおける真の記憶知であり(6687番)、それで『彼らの為に家を作ること』は、それらを秩序づけることを意味し、それらが天界の形に配置されるとき、それらは秩序づけられるのである。これが『彼らに家を作ること』の意義であることは、自然的な心の真の記憶知の実情のいかようなものであるかが知られない限り、容易に知られることは出来ない、それでこれを簡単に述べよう。自然的なものにおける記憶知は連続した幾多の組に配置されており、一つの組は他の組に密着し、かくしてその凡ては種々の類似性と近似性とに従って共に密着しており、その情況は家族とそこから生れた者たちに似ていなくはないのである、なぜなら一は他から生れ、そのようにしてそれらは(また)他のものを生み出しているからである。ここから諸善と諸真理である心の幾多のものは古代人により『家』と呼ばれ、そこを支配している善は『父』と呼ばれ、この善に結合した真理は『母』と呼ばれ、そこから派生したものは、『息子』、『娘』、『婿』、『嫁』などと呼ばれたのである。しかし自然的なものにおける真の記憶知の配置は人各々のもとでは異なっている、なぜなら支配している愛がその記憶知に形を生み出しており、(即ち)、この愛が真中に在って、その周囲に凡ゆるものを秩序づけているからである。それは〔その支配している愛は〕それに最も一致している物をそれ自身の次に置き、他の凡ゆる物をその一致性に従って秩序正しく配置するのである。そこから(幾多の)記憶知はその形を得るのである。もし天界的な愛が支配するなら、その時は凡ゆるものはそこに主により天界の形に配置されて、その形は天界の形に似たものとなり、かくて愛の善の形そのものとなるのである。この形に諸真理は配置され、その諸真理が、そのように配置されると、善と一つのものとなり、その時は一方のものが主により呼び出されると、他方のものも呼び出され、即ち、信仰の幾多のものが呼び出されると、仁慈の幾多のものも呼び出され、逆に仁慈の幾多のものが呼び出されると、信仰の幾多のものも呼び出されるのである。これが『神は助産婦のために家を作られた』により意味されている配置である。
21.真の記憶知は悪から発した誤った教義の力に打ち勝つ
天界の秘義6784〔2〕
真の記憶知は悪から発した誤った教義の力に打ち勝つことは、神的なものが善から発した凡ゆる真理の中に在るに反し、悪から発した誤謬の中にはそれに相反したものが在り、そして神的なものに相反したものは全く勝ちはしないためである。それで他生では悪から発した誤謬の中にいる一千人の者も善から発した真理の中にいる一人の者にも全く勝ちはしないで、その一千人の者はこの一人の者の眼前からも逃げ去ってしまうのであり、もし逃げ去らないなら、責め苛まれるのである。「悪から発した誤謬」と言われているのは、それが真に誤謬であるに反し、悪から発しないで、真理に対する無知から発した誤謬はそうしたものではないためである。悪は天界に対立するものであるが、しかし無知から発した誤謬はそうしたものではない、否、もしその無知の中に無垢が何かあるなら、その時はこの誤謬も主から真理として受け入れられるのである、なぜならこうした誤謬の中にいる者たちは真理を受け入れるからである。
22.信仰は記憶知により強められる
天界の秘義6047[4]
その後、彼が確認し、かくてその教義的な事柄が信仰の真理であることを聖言から肯定するとき、そのときは彼がその得ている凡ゆる記憶知によって―それがいかような名前のものであれ、またいかような性質のものであれ―その教義的な事柄を確認することが許されるのである、なぜならそのときは、肯定的なものが遍く支配しているため、彼は一致している記憶知は受け入れはするが、そこに含まれている妄想のために一致してはいない記憶知は斥けてしまうからである、なぜなら信仰は記憶知により強められるからであり、それでたれ一人自分がその中に生まれた教会の教義的な事柄が真であるか否かを知ろうとする情愛から聖書を調べることを禁じられてはならないのである。なぜなら彼はそれ以外の方法では明るくされることは出来ないからである。そのように行った後は何人も記憶知によって自分自身を強めることを禁じられてはいないが、しかしそれ以前ではそうしたことを為してはならないのである。これが信仰の諸真理を記憶知に、たんに教会の記憶知のみでなく、またいかような記憶知にも連結する方法であり、またその唯一の方法である。しかも現今ではこのように進む者は極めて少数である、なぜなら聖言を読んでいる大半の者は、それを真理の情愛[真理を求める情愛]から読みはしないで、彼らがその中で生まれた教義的な事柄を、それがいかようなものであろうと、聖言から確認しようとする情愛からそれを読んでいるからである。
23.霊的な教会の者たちを主として悩ますものは誤った記憶知
天界の秘義6865〔2〕
霊的な教会の者たちを主として悩ますものは誤った記憶知である、なぜなら彼らは善から真理を認めることは出来ないで、ただ教義から真理の記憶知を得ているに過ぎず、このような者は記憶知に取り憑かれて非常に悩まされるからである。なぜなら記憶知は最も全般的な容器であって、真理がその中へ入れられてそれを透明なものとなし、かくてそれを気づかれないものにする迄は、時には真理に反しているように見えるからである。更に記憶知は感覚の迷妄〔妄想〕に満ちていて、その迷妄は、教義から単なる知識の中にはいるが、善から真理を認識していない者らによっては消散されることが出来ないのであり、そのことは主として、世の光が彼らを支配しているためであり、その光は天界の光がその中へ流れ入らない限り、澄明に見えるが、天界の光が流れ入るや否や、光に代って不明確なものになるのである。ここからこれらの人物は世の事柄には明るくされて、利口でもあるが、天界の事柄では暗く、また鈍いのである。
天界の秘義6865〔3〕
これらの者は教会の教義的な事柄を自分自身の中に確認している時は、自分自身が明るくされていると信じるが、しかしそれは世の光から発した感覚的な光であって、それがその時彼らを欺くのである、なぜなら凡ゆる種類の教義的な物は確認されることが出来るからであり、例えばユダヤ人の教義的な事柄はユダヤ人により、狂信的な事柄は狂信者により、ソツニウス的な事柄はソツニウス主義者により、異端は凡ゆる異端者により確信されることが出来るのであり、それらは確認されると、彼らには真理そのものとして感覚的な光の中に現れるのである。しかし天界の光の中にいる者たちは主から明るくされており、確認する以前に、下方に在って、そこに秩序をもって配列されている記憶知を覗き込むことにより、それが確認されてよい真理であるか、否かを識別するのである。ここからこの後の者は、記憶知の上方に在って、明確なものである内的な観察を持ってはいるが、これに反し前の者は、記憶知の中に在って、かくしてもつれたものである低い観察を持っていることが明白である。
24.銀の器と金の器
天界の秘義6917
「銀の器と金の器」。『銀の器』は真理の記憶知を意味し、『金の器』は善の記憶知を意味していることは以下から明白である、即ち、『器』の意義は記憶知であり(3068、3079番を参照)―記憶知は全般的なものであって、その中に無数の真理と多様な善とを含んでいるため、『器』と呼ばれている―『銀』の意義は真理であり、『金』の意義は善である(1551、1552、2954、5658番)。(エジプトの『銀』は真の、適合した記憶知を意味していることは前の6112番に見ることが出来よう)。ここのみでなく、前の記事の中の、また以下の記事の中の『エジプト人』により誤った記憶知が意味されているのに、エジプト人のもとに在る『銀と金の器』が真理の記憶知と善の記憶知であることについては、これらの知識はそれ自身では真理ではなく、また誤謬でもなく、それらは真理にいる者のもとでは真理となり、誤謬にいる者のもとでは誤謬となり、そのことはそれらを適用し〔応用し〕用いる結果によっていることを知られたい。人間の記憶知に言われることはその財宝と富にも言われるのである。財宝と富とは悪の中にいる者には有害である、なぜなら彼らはそれらを悪い用に用いるからである、が、それらは善の中にいる者たちには有益である、なぜなら彼らはそれらを善い役に立つこと〔用〕に用いるからである。それでもし悪い者に属している財宝と富が善い者に移されるなら、それらは善となるのである。
25.戦利品、娼婦の賃金
天界の秘義6917〔3〕
こうしたものがまたカナンの地の幾多の国民のものを掠奪することにより、またそこでイスラエルの子孫が戦利品として奪った富、羊の群れ、家、ぶどう園によっても意味されているのである。このことは諸国民から戦利品として奪った金銀がまた聖め事に用いられたことから更に明らかであり、そのことは以下の記事から明白である―
彼の手には銀の器、金の器、銅の器があった、これらもまたダビデ王は聖めてエホバに捧げた、(即ち)その征服した凡ての国民、シリア人、モアブ、アンモンの子孫、ペリシテ人、アマレク、ゾバの王、レホブの子ハダデゼルから掠奪したものの中で、彼の聖めた銀、金と共に捧げた(サムエル記後8・10−12)。
そしてツロの商品とその娼婦の賃金はエホバに聖いものとなるであろう、それは貯えてはならない、またしまっておいてもならない、その商品はエホバの前に住む者たちのものとなって、その者たちに飽きるまでも食べられ、また年老いた者が身を包むものとしなくてはならない(イザヤ3・18)。
イスラエルの子孫の女たちがエジプト人から借り、かくて掠奪したこれらの物もまた後には彼らの礼拝用の箱やその他多くの物を作るために用いられたのである。
26.特に情愛から受け入れられるものは人間のもとに止まる
天界の秘義7398
このことの実情は、何であれ人間のもとへ入るものは、特に情愛から受け入れられるものは人間のもとに止まるということである。入ってくる物は、その人間がそれを最早記憶していないときは、完全に抹消され、放逐されていると信じられているが、しかしそれは抹消も放逐もされないで、内的な記憶か、外的な記憶か、その何れかの中に密着して、見もし、聞き慣れもしているものとなっているものの間に存在しているのである。
27.人間が見、聞き、考え、話し、行った一切の事柄はその人間に印刻されている
天界の秘義7398
(人間が見、聞き、考え、話し、行った一切の事柄はその人間に印刻されていることについては、2474−2489番を参照されたい)。
28.記憶知が日毎に用いられてそのため謂わば人間の性質のものとなってしまった凡てのもののように
天界の秘義9918
『ざくろ』により意味されている善と真理の記憶知は聖言から発している教義的なものであって、その教義的なものは、外なる、または自然的な人の中に在る記憶の中に在る限りは、記憶知である。しかしそれが、その人間がそれに従って生きる場合のように、内なる、または霊的な事柄は仁慈のものとなって、霊的なものと呼ばれるのである。このことが行われると、それは外なる、または自然的な記憶からは殆ど消え去って、恰も内在的なもののように見えるが、それはその記憶知が日毎に用いられてそのため謂わば人間の性質のものとなってしまった凡てのもののように、その時はその人間の生命に植え付けられるためである。ここから記憶知とは何であるか、それはいかような目的に役立つかが明白であり、従って教会の教義的な事柄は、それが専ら記憶の中にのみ留められている限り、いかような目的に役立つかが明白である、なぜならそれが単に記憶の中に留められている限り、それは理知と知恵の下に位しており、内なる人における信仰と仁慈のものとならない中は、上昇はしないし、生命の中へ入りもしないからである。
天界の秘義10067[9]
理解を通して人間の意志のものとなっている人間の愛は記憶の中のこれらのもの[諸真理]を覗き込んで、そこからその愛に一致したものを選び出し、その選んだものをそれ自身に招き寄せて、それ自身に連結させ、そのものにより日々それ自身を強固なものにするのである。