エジプト

記憶知ファラオ

 

1.聖書より

2.記憶知

3.最初の卓越状態にあった教会

4.魔法

5.ヴァッスーラより

6.地獄

7.霊的な人から分離した自然的な人

8.わたしの民エジプトよ、わたしの手の業のアッシリアよ、わたしの嗣業イスラエルよ、祝福されよ(イザヤ19章)

9.エジプトの娘

 

1.聖書より

 

詩篇80・9−12

 

あなたはぶどうの木をエジプトから移し

多くの民を追い出して、これを植えられました。

そのために場所を整え、根付かせ

この木は地に広がりました。

その陰は山々を覆い

枝は神々しい杉をも覆いました。

あなたは大枝を海にまで

若枝を大河にまで届かせられました。

 

 

イザヤ19.1−25

 

エジプトの審判

エジプトについての託宣。

見よ、主は早い雲を駆って

エジプトに来られる。

主の御前に、エジプトの偶像はよろめき

エジプト人の勇気は、全く失われる。

「わたしは、エジプトをエジプトに刃向かわせる。

人はその兄弟と、人はその隣人と

町は町と、国は国と戦う。

エジプト人の思いは、胸の中に乱れる。

わたしが、その謀(はかりごと)を乱すので

彼らは、偶像と死者の霊

口寄せと霊媒に指示を求める。

わたしは、エジプトを

過酷な支配者の手に渡す。

厳しい王が、彼らを治める」と

万軍の主が言われる。

海の水は涸れ

川の流れは尽きて干上がる。

運河は悪臭を放ち

下エジプトの支流は細り、乾いて

葦やよしも枯れ果てる。

ナイルの河口のいぐさも

川沿いに蒔かれたすべての草も

枯れ、吹き飛ばされて、消えうせる。

漁師は嘆き、悲しむ。

ナイルに釣り針を投げる者も

水の面に網を広げる者もすべて衰える。

亜麻布を造る者はうろたえ

梳く女も、織る男も青ざめ

紡ぐ者も打ちのめされ

雇われて働く者は皆、苦しむ。

 

ツォアンの司たちは、まことに無知だ。

ファラオの賢者、参議らは、愚かな謀(はかりごと)を立てる。

どうして、お前たちはファラオに言えようか。

「わたしは賢者の子です

遠い昔の王たちの子孫です」と。

どこにいるのか、お前の賢者たちは。

彼らに命じて、お前に告げ知らせよ

万軍の主が、エジプトについて定められたことを。

ツォアンの司たちは愚かである。

メンフィスの司らは欺かれ

諸州の長はエジプトをよろめかせた。

主は、彼らの間に迷わす霊を注がれた。

彼らは、エジプトをよろめかせ

 

エジプトが何をするときにも

酒飲みが吐くときのように、よろめかせた。

もはやエジプトでは、だれも何もなしえない。

頭であれ尾であれ

 しゅろの枝であれ葦の茎であれ。

 

 終わりの日の和解

 その日には、エジプトは女のように弱くなり、万軍の主が振りかざされる御手に恐れおののく。ユダの地は、エジプトを混乱に陥れるものとなる。それを思わせるものは何であれ、エジプトを恐れさせる。万軍の主がエジプトに対して事を謀られるからである。

 その日には、エジプトの地に五つの町ができる。そこでは、カナンの言葉が語られ、万軍の主に誓いが立てられる。その町の一つは、「太陽の町」ととなえられる。

 その日には、エジプトの地の中心に、主のために祭壇が建てられ、その境には主のために柱が立てられる。 それは、エジプトの地において、万軍の主を指し示すしるしとなり、証しとなる。もし彼らが、抑圧する者のゆえに、主に叫ぶならば、主は彼らのために救助者を送り、彼らを救われる。主は御自身をエジプト人に示される。その日には、エジプト人は主を知り、いけにえと供え物をささげ、また主に誓願を立てて、誓いの供え物をささげるであろう。主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らをいやされる。

 その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。

 その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。

「祝福されよ

わが民エジプト

わが手の業なるアッシリア

わが嗣業なるイスラエル」と。

 

 

エレミヤ2・17−19

 

あなたの神なる主が、旅路を導かれたとき

あなたが主を捨てたので

このことがあなたの身に及んだのではないか。

それなのに、今あなたはエジプトへ行って

ナイルの水を飲もうとする。

それは、一体どうしてか。

また、アッシリアへ行って

ユーフラテスの水を飲もうとする。

それは一体どうしてか。

あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ

あなたの背信が、あなたを責めている。

あなたが、わたしを畏れず

あなたの神である主を捨てたことが

いかに悪く、苦いことであるかを

味わい知るがよいと

万軍の主なる神は言われる。

 

 

エレミヤ2・36−37

 

なんと軽率にお前は道を変えるのか。

アッシリアによって辱められたように

エジプトにも辱められるであろう。

そこからも、お前は両手を頭に置いて出てくる。

主はお前が頼りにしているものを退けられる。

彼らに頼ろうとしても成功するはずがない。

 

 

エゼキエル書29

 

第十年の十月十二日に主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、あなたの顔をエジプトの王ファラオに向けて、王とエジプトの全土に対して預言し、語って言いなさい。

主なる神はこう言われる。

エジプトの王、ファラオよ

わたしはお前に立ち向かう。

ナイル川の真ん中に横たわる巨大なわによ

お前は言う。

『ナイル川はわたしのもの

わたしが自分のために造ったものだ』と。

 

 

エゼキエル31・1−12

 

第十一年の三月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向って言いなさい。

お前の偉大さは誰と比べられよう。

見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。

その枝は美しく、豊かな陰をつくり

丈は高く、梢は雲間にとどいた。

水がそれを育て、淵がそれを大きくした。

淵から流れる川は杉の周りを潤し

水路は野のすべての木に水を送った。

その丈は野のすべての木より高くなり

豊かに注ぐ水のゆえに

大枝は茂り、若枝は伸びた。

大枝には空のすべての鳥が巣を作り

若枝の下では野のすべての獣が子を産み

多くの国民が皆、その木陰に住んだ。

丈は高く、枝は長く伸びて美しかった。

豊かな水に根をおろしていたからだ。

神の園の杉もこれに及ばず

樅の木も、その大枝に比べえず

すずかけの木もその若枝と競いえず

神の園のどの木も美しさを比べえなかった。

わたしが、多くの枝で美しく飾ったので

神の園エデンのすべての木もうらやんだ。

 それゆえ、主なる神はこう言われる。彼の丈は高くされ、その梢を雲の間に伸ばしたので、心は驕り高ぶった。わたしは彼を諸国の最も強い者の手に渡す。その者は彼を悪行に応じて扱う。わたしは彼を追放する。諸国の最も凶暴な民である異国人が彼を切り倒し、山々の上に捨てる。その枝はすべての谷間に落ち、若枝は切られて地のすべての谷を埋める。地上のすべての民は、その木陰から逃げ去り、彼を捨てる。

 

 

黙示録講解746ハ[5]

 

 同書に―

 

  わたしはエジプトにエジプトを混合させよう、かれらが男がその兄弟に、男がその仲間に、都が都に、王国が王国に反抗して戦うためである(イザヤ19・2)

 

 ここの『エジプト』は霊的な人から分離した自然的な人を意味しており、これは真理の光の中には全くいないため、それは絶えず善と悪と真理と誤謬とについて論争しており、この争いが『わたしはエジプトにエジプトを混合させよう、かれらが男がその兄弟に、男がその仲間に反抗して戦うためである』により意味されており、『兄弟と仲間』は真理が発する源泉である善と善から発した真理を意味し、その反対の意味では誤謬が発生する源泉である悪と悪から発した誤謬であり、それで『都は都に反抗し、王国は王国に反抗し』と附言されており、『都』は教義を、『王国』は教義から発した教会を意味しており、それは同じように論争するのである。

 

 

天界の秘義1462

 

 主については、『エジプト』はいくたの知識の記憶知であるが、しかし他の凡ての人間については全般的に記憶知であることは聖言のその意義から明白である(それについては前の色々な所に、とくに1164、1165番に述べておいた)。なぜなら古代教会はエジプトにも他の多くの所にもあって(1238番)、この教会がエジプトにあった時、記憶知はそこに他のいかようなものにもまさって栄えたのであり、そこからエジプトにより記憶知が意味されているからである。しかし人々が記憶知により信仰の神秘に入って、かくて自分自身の力から神のアルカナの真理を探究しようとねがった後では、エジプトは魔法に溺れるようになり、歪曲する記憶知を意味したのである―この歪曲する記憶知からイザヤ書19・11に明白なように、誤謬が起り、その誤謬から悪が発生するのである。

 

[2]『エジプト』により有用な記憶知が意味され、かくて現在の記事では天的な霊的なものの容器として役立つことのできるいくたの知識の記憶知が意味されていることは聖言の以下の記事から明白である。イザヤ書には―

 

かれらはいくたの種族のすみのおや石であるエジプトをたぶらかした(19・13)。

 

 ここにはそれは『種族』により意味されている信仰にぞくした事柄を支えるものとして役立たねばならないため、『種族のすみのおや石』と呼ばれている。さらに―

 

  かの日エジプトの地に五つの都があって、カナンの唇で話し、万軍のエホバに誓うであろう、各々は陽の都と呼ばれるであろう。かの日エジプトの地の最中にエホバに祭壇が築かれ、その境にエホバに柱が立てられるであろう。そしてそれはエジプトの地で万軍のエホバのしるしとなり、またあかしとなるであろう、かれらはしえたげる者のためにエホバに向って叫ぶであろう、エホバはかれらに一人の救い主を、一人の君をつかわされて、かれらを救いたまうであろう、エホバはエジプトに知られたもうようになり、エジプトはかの日エホバを知るであろう、かれらは生けにえと素祭とを捧げ、エホバに誓いをたてて、それを行うであろう。エホバはエジプトを打たれて打たれ、またいやされるであろう、かれらはエホバに帰り、エホバはかれらから懇願されたもうて、かれらをいやされるであろう(イザヤ19・18−22)。

 

 ここにはエジプトは善い意味で語られており、記憶知の中に、すなわち、霊的な真理を容れる器である自然的な真理の中にいる者たちを意味している。

 

[3]さらにー

 

  かの日エジプトからアッシリアに一つの道が通じて、アッシリアはエジプトに、エジプトはアッシリアに来て、エジプト人はアッシリアに仕えるであろう。かの日イスラエルは第三のものとなって、エジプトとアッシリアとともになり、地の最中にあって祝福されたものとなり、これを万軍のエホバは祝福されて、言われるであろう、わたしの民、エジプトよ、わたしの手の業、アッシリアよ、わたしの世嗣ぎの者、イスラエルよ、祝福されよ、と(イザヤ19・23−25)。

 

 ここには『エジプト』により自然的な真理の記憶知が意味され、『アッシリア』により理性または合理的なものが意味され、『イスラエル』により霊的なものが意味されており、その凡ては互に他に続いているのであって、それで『かの日エジプトからアッシリアに一つの道が通じるであろう』また『イスラエルは第三のものとなってエジプトとアッシリアとともになるであろう』と言われている。

 

[4]エゼキエル書には―

 

  エジプトからきた刺しゅうをほどこした目のつんだリンネルは、それがあなたの旗となるために、あなたのひろげたものであった(27・7)。

 

 これはツロについて言われており、ツロにより知識をもつことが意味されており、『刺しゅうをほどこした目のつんだリンネル[細布]』は、仕えるところの記憶知の真理を意味している、なぜなら記憶知は外なる人にぞくしていて、内なる人に仕えなくてはならないからである。さらに―

 

  主エホビはこのように言われる、四十年の終わりにわたしはエジプトをその散らされている諸々の民から集め、エジプトの捕われたものを連れ帰るであろう(エゼキエル29・13、14)。

 

 これはユダとイスラエルとについて、かれらはいくたの民から集められ、捕われた状態から連れ返されるにちがいないと多くの所に言われていることと同じことを意味している。ゼカリア書には―

 

  たれであれ地の諸々の氏族の中でエルサレムに上って万軍のエホバ、王を拝しない者は、その者の上には雨は降らないであろう、もしエジプトの氏族が上って来ないならば(14・17、18)。

 

 これもまた良い意味のエジプトについて言われており、それにより同じようなことが意味されている。

 

[5]記憶知または人間の知恵が『エジプト』により意味されていることもまたダニエル書に明白であって、そこには天的な霊的なものにかかわる記憶知は『金と銀の隠れた物』と呼ばれ、また『エジプトの好ましい物』と呼ばれている(11・43)。そしてソロモンについては『かれの知恵は東の息子たちの凡ての者の知恵にもまさって、エジプト人の凡ての知恵にもまさって増し加わった』と言われている(列王記上4・30)。パロの娘のためソロモンにより建てられた家もそれ以外のものを表象しなかたのである(列王記上7・8など)。

 

[6]主が幼児であられたときエジプトに連れて行かれたこともここにアブラムにより意味されていることと同一のことを意味したのであり、それは主が主について表象されていた凡ての事柄を成就されるためであったという附加的な理由からも起ったのである。最も内なる意義ではヤコブとその息子たちとがエジプトに移住したことは、以下の記事からもまた明白であるように、主が始めて聖言から知識を教えられたもうたことを表象したのである。マタイ伝には主について以下のように言われている―

 

  主の天使が夢の中でヨセフに現れて、言った、起きなさい、その幼児とその母とをつれ、エジプトに逃げ、わたしがあなたに話すまではそこにいなさい。それでかれは起きて、夜その幼児と母とをつれ、エジプトに向って去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた、これは予言者によって言われたことが成就されるためであった、かれは言った、エジプトからわたしはわが息子を呼び出した(2・13−15、19−21)。

 

 それについてはホゼア書に言われている―

 

 イスラエルが子供であったときわたしはかれを愛し、わたしの息子をエジプトから呼び出した(11・1)。

 

 ここから『子供イスラエル』により主が意味されていることが明白であり、また、主が子供であられたとき教えられたもうたことが『エジプトからわたしはわたしの息子を呼び出した』という言葉により意味されていることも明白である。

 

[7]さらにホゼア書には―

 

  予言者により主はイスラエルをエジプトから出て行かせられた、かれは予言者によりとどめられた(12・13、14)。

 

 ここにも同様に『イスラエル』により主が意味され、『予言者』により教える者が意味され、かくて知識の教義が意味されている。ダビデの書には―

 

  ああ万軍の神よ、再びわれらをかえしたまえ、あなたの御顔を輝かせたまえ、そのときはわれらは救われるでしょう。あなたはエジプトからぶどうをつれ出され、諸々の国民を追い出されて、それを植えたもうた(詩篇80・7、8)。

 

 ここにもまた主がとり扱われていて、主はその教えられたまいつつあった知識については、『エジプトからつれ出されたぶどう』と呼ばれたもうている。

 

 

2.記憶知

 

天界の秘義870

 

 『はと』により再生することのできる者のもとにある信仰のいくたの真理と善とが意味されていることは聖言におけるはとの意義から、とくにイエスが洗礼を受けられたとき、その上に降ったはとの意義から明白であり、それについては以下のように記されている―

 

  イエスは洗礼を受けられたとき、すぐに水から出られた 見よ、天は開かれて、かれは神の霊がはとのように降ってかれの上に来るのを見られた(マタイ3・16、またヨハネ1・32、ルカ3・21、22、マルコ1・10、11)。

 

 ここでは『はと』は信仰の聖いもの以外には何ごとも意味しておらず、『洗礼』それ自身は再生以外には何ごとをも意味してはおらず、かくて起こらねばならなかった新しい教会の中では、主から再生により受けられる信仰の真理と善とが意味されたのである。類似の事柄が、いくたの記事から明らかであるように、ユダヤ教会の生けにえとはん祭のためにささげられた若いはと、またはやまばとにより表象され、意味されたのであり、そのことについてレビ記を参照されたい(1・14−終り、5・7−10、12・6、8,14・21、22、15・14、29、30、民数記6・10,11、ルカ2・22−24)。それらにはこのような意義があることは、たれでもそれらは何かを表象しているにちがいないと考えるのみで悟ることができよう、なぜならもしそうでないなら、それらは無意味であって、いかような点でも神的なものではなくなるからである、なぜなら教会の外なるものは生命をもたないものであるが、しかしそれは内なるものから生きており、内なるものは主から生きているからである。

 

 

[2]『はと』は全般的に信仰の知的なものを意味していることもまた予言者の書の中に明白である、例えばホゼヤ書には―

 

 エフライムは心がなく愚かなはとのようになるであろう、彼らはエジプトを呼んだ、彼らはアッシリヤへ行った(7・11)。

 

さらに、エフライムについては―

 

 彼らはエジプトからきた鳥のように、アッシリヤの地から来たはとのように、恐れるであろう(11・11)。

 

 ここでは『エフライム』は理知的な者を、『エジプト』は知識を持っている者を、『アッシリヤ』は合理的な者を、『はと』は信仰の知的なものに属したものを意味しており、ここにもまた霊的な教会の再生が主題となっている。さらにダビデの書には―

 

 ああエホバよ、あなたのやまばとの魂を野生の獣にわたしたもうな(74・19)。

 

 ここでは『野生の獣』は仁慈を何ら持たない者を、『やまばとの魂』は信仰の生命を意味している。鳥について前に言われ、示されたことをまた参照されたい、すなわち、鳥は知的な事柄を意味しており、優しい、美しい、清い、有益な[有用な]鳥は知的な諸真理と諸善を意味しているが、しかしここでははとに対立しているからすといった凶暴な、醜悪な、不潔な、無益な鳥はそれに対立したものを、すなわち、誤謬を意味しているのである。

 

 

天界の秘義1151

 

人間がそれを用いて霊的な事柄を探求しようと欲する記憶知である。

 

 

天界の秘義1195

 

 『ミズライム』または『エジプト』は記憶知であることは本章の6節に示された。『ルデ族とアナミ族とレハビ族とナフト族』は単に記憶知に過ぎないところの同数の祭儀であることは今し方述べたところから明白である。理論により霊的な天的な事柄を探求し、それにより自分自身のために礼拝を案出する者らは単なる記憶知に過ぎない祭儀を持っていると言われる。この礼拝の祭儀は理論と記憶知から発しているため、記憶知の祭儀と呼ばれ、それらはかれら自身から発していたためその中には霊的な天的なものは何ら存在しなかったのである。ここからエジプトの偶像とその魔術とが生まれたのである。そしてかれらの祭儀はこうした起源から発していたため、創世記43・32、46・34、出エジプト記8・22に言われていることから明白であるように、かれらは古代教会の祭儀を全く斥け、否、それらを忌み、憎悪もしたのである。こうした事柄が意味されているため、それらはミズライムまたはエジプトから、すなわち、記憶知から生まれたといわれ、そしてかれらの記憶知は多様なものであったため、そこから派生した祭儀もまた異なったものになったのである。この多様なものが、全般的に、それと同数の国民により意味されているのである。このようなものがルデ族またはリデヤ族により意味されていることは、エレミヤ記に現れている―

 

 エジプトは川のように起き上がり、川のようにその水は波立っている、かれは言う、わたしは起き上がって、地を覆い、都とそこに住む者らを破壊しよう。馬よ、上れ、戦車よ、荒れ狂え、力ある者らを、楯を手にとるクシとプテを出て来させよ、弓を手に取って、曲げるリデヤ人を出て来させよ(46・8,9)。

 

 ここの『エジプトの川』は誤った、色々な記憶知であり、『上って行って地を蔽うこと』は教会に、または信仰に関わる事柄へ記憶知により入り込むことであり、『都を破壊すること』は諸々の真理を破壊することであり、『クシとプテ』は知識であり、『リデヤ人』は前に述べた記憶知の祭儀であり、『弓を手にとって、曲げること』は論じることである。

 

 

天界の秘義3708(21)

 

「エジプト」がこのような知識を意味していることは、1164,1165,2588に見ることができよう。

 

 

天界の秘義4964

 

「エジプトにつれてこられた」。これは、教会の記憶知(スキエンティフィカ)へ、を意味していることは、『エジプト』の意義から明白であり、それは1164、1165、1186、1462番にとり扱われている記憶知であるが(すなわち、全般的な記憶知であるが)、しかし『エジプト』により本来意味されているその記憶知の性質はいかようなものであったかは未だ説明されてはいないのである。古代教会には教義的な事柄と記憶知とが存在した。教義的な事柄は神に対する愛と隣人に対する仁慈とをとり扱ったが、しかし記憶知は自然界の霊界と相応しているものをとり扱い、また自然的な地的な物の中に表象されている霊的なものと天的なものとをとり扱ったのである。そうしたものが古代教会の中にいた者たちの記憶知であったのである。

 

 

天界の秘義4964[2]

 

 エジプトは古代教会が存在していた国々と王国の中の一つであったが(1238、2385番)、しかしエジプトでは子孫に伝えられたものは主として記憶知であったため、それで全般的にこのような知識が『エジプト』により意味されており、またそうした理由からエジプトは予言的な聖言に再三とり扱われており、それによりそのような知識が特定的に意味されているのである。エジプトの魔術そのものもまたそこからその起原を得たのである、なぜならかれらは自然界の霊界と相応したものを熟知しており、後になってかれらの間の教会が終りに至った時、これらの相応したものは魔術的な物に向けられることにより濫用されたからである。

 

 

天界の秘義6750〔2〕

 

 記憶知はまた、主がその人間的なものを神的な真理に、または神的な律法になされた時、主における最初の面であったことは、ホゼヤ書の以下の予言から、即ち、『エジプトからわたしはわたしの息子を呼び出した』(ホゼヤ11・1、マタイ2・15)から推論されるように、主が、幼児の頃、エジプトへ連れて来られ給うたことにより意味されているのである(マタイ2・13、14)。『エジプト』により記憶知が意味されていることは再三示したが、しかし記憶知により哲学の記憶知ではなく、教会の記憶知が意味されているのである(そのことについては4749、4964−4966、6004番を参照されたい)。これらが『エジプト』により、その純粋な意義で、また意味されている記憶知である。(最初の面はこれらの記憶知から形作られることについては、5901番を参照されたい。)

 

 

 

天界の秘義7779[]

 

こうした事柄を言ったのは、『パロの初児』と『エジプト人の初児』により仁慈から分離した信仰が意味されているためであり、それは前の記事の中で信仰ではなく、信仰にぞくした事柄の記憶知であることを示しておいたのである。エジプト人の初児がこの信仰を表象したのは、エジプト人は洪水の時以後表象的な教会を構成した他の教会にもまさって教会の祭儀にかかわる知識に通じていたためである(4749、4964、4966、6004番)。その当時祭儀はすべて天界に存在している霊的な事柄を表象していたのである。エジプト人は他の者にもまさってこの霊的な事柄を知ってはいたが、時が経つにつれてその知識のみを愛しはじめ、かくて、今日でも行われているように、教会の凡ゆる事柄を教会にぞくした事柄にかかわる知識から成立させ初めて、もはや仁慈の生活から成立させはしなくなったのである。かくてかれらは教会の秩序のすべてを転倒させたが、それが転倒すると、信仰の諸真理と呼ばれる諸真理は誤謬化されないわけにはゆかなかったのである、なぜなら諸真理が(悪に、エジプト人の間では魔法に用いられる場合のように)神の秩序に反したものに用いられるとき、それらはかれらのもとではもはや真理ではなくなり、その諸真理が用いられる[適用される]悪から誤謬となるからである。

 

 

天界の秘義9818[12]

 

 エジプトは人間であって、神ではない、その馬は肉であって、霊ではない(イザヤ31・3)。

 

『エジプト』は全般的に記憶知を意味し、『その馬』は知的なものから発した記憶知を意味し、それはその中に何ら霊的な生命がないときは『肉であって、霊ではない』と呼ばれている。(『エジプト』が記憶知を意味していることについては、9340、9391番に引用された所を、『馬』が知的なものを意味していることについては、2761、2762、3217、5321番を、『エジプトの馬』が知的なものから発した記憶知を意味していることについては、6125、8146、8148番を参照されたい。)『エジプト』により、『馬』により、また『肉』と『霊』により意味されていることを知らない者は、これらの言葉に含まれていることを到底知ることはできないのである。

 

 

天界の秘義10227[]

 

 さらに―

 

  南の獣にかかわる予言。彼らはろばの肩にその財を、らくだの背にその宝をのせて、エジプトへ運ぶ(イザヤ30・6、7)。

 

 『南の獣』は教会の中におり、かくて聖言から真理の光の中にはいるが、にも拘らず単に記憶のみを求めて、聖言を読み、生命の用を求めてそれを読みはしない者らを意味している、なぜなら『南』は真理の光が在るところを意味し、かくて聖言が在るところを意味し(3195、3708、5672、9642番)、『ろば』は記憶知を意味し、同じく『らくだ』も、また『エジプト』もそのことを意味しているからである。(『ろば』にこの意義があることについては、5492、5741、7024番を、『らくだ』にもまたその意義があることについては、3048、3071、3143、3145、4516番を、『エジプト』については、9391番に引用したところを参照されたい)。この予言的な言葉は霊的な意義で理解されなくてはならないことは、この意義がないなら『南の獣』により、または『その財をろばの肩に載せ、その宝をらくだの背にのせて運ぶこと』により、しかもそれを『エジプト』へ運ぶことにより意味されていることをたれ一人知る者もないという事実から認めることができよう。

 

 

3.最初の卓越状態にあった教会

 

真の基督教635

 

最後に、一つの秘義を明らかにしよう。現代の教会の終わりは、エジプトの荒廃が出エジプト記にしるされているように、黙示録の七つの章に記されている。その二つの記事は類似した災いを記しており、その各々は荒廃と破壊とをもたらしたところの或る虚偽を霊的に意味している。それ故、現今破壊されている現代の教会は、エジプトという霊的な名を持っている。(黙示録11・8)

(中略)

エジプトと教会について―教会の滅亡と将来とは黙示録に録されている―同じことが言われているのは、エジプトは最初の卓越状態にあった教会を意味するからであり、それ故エジプトはその教会が荒廃しない以前はエデンの園とエホバの園とに譬えられ(創世記13・10。エゼキエル31・8,9)、また「諸々の種族の隅、賢き者の子、古の王の子」と呼ばれている(イザヤ19・11、13)。

 

 

天界の秘義1164

 

 ここの『エジプト』は記憶知から把握しない限りいかようなものも信じないで、そのため凡ゆるものが疑惑と否定と誤謬とにまき込まれてしまう者らを意味。

 

 

4.魔法

 

天界の秘義1462

 

 主については、『エジプト』はいくたの知識の記憶知であるが、しかし他の凡ての人間については全般的に記憶知であることは聖言のその意義から明白である(それについては前の色々な所に、とくに1164、1165番に述べておいた)。なぜなら古代教会はエジプトにも他の多くの所にもあって(1238番)、この教会がエジプトにあった時、記憶知はそこに他のいかようなものにもまさって栄えたのであり、そこからエジプトにより記憶知が意味されているからである。しかし人々が記憶知により信仰の神秘に入って、かくて自分自身の力から神のアルカナの真理を探究しようとねがった後では、エジプトは魔法に溺れるようになり、歪曲する記憶知を意味したのである―この歪曲する記憶知からイザヤ書19・11に明白なように、誤謬が起り、その誤謬から悪が発生するのである。

 

 

5.ヴァッスーラより

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P156

‘90・5・14

 

私はあなたをエジプトから連れ出した者、口を開きさえすれば それを満たそう、そしてあなたの兄弟皆にたいしても同じようにする。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P204

‘91・9・23

 

ヴァッスーラ・・・隠れないでほしい 我が子よ(*)・・・エジプトの娘よ、私は多くの国たみを試す者としてあなたを任命した あなたは私にとって尊い者。 誤解しないでほしい、あなたを必要とはしない この仕事に欠かせなくもない。 しかし無でしかない、あなたを選んだのは、我が誉れとなり、あなたを清める。その上、私のものはすべて あなたと分かち合いたい。 私のメッセージを宣言するのを恐れないでよい、我が聖霊があなたをみことばで満たし あなたは堂々とみことばを宣言しよう ♡ そこで 私が送る人びとのもとに行きなさい、あなたを見捨てない、人が住まわなくもさせない、我が聖霊が道を案内し助言者となる。 私は収穫の刈り入れを始めたばかり・・・私と一緒に刈り入れなさい・・・あなたはこの収穫の種子を蒔いてはいない。 私があなたのうちにすべての種蒔きをした そして今やあたり一面に それをばらまきたい。 もう収穫の準備がととのったがゆえ 私と刈り取ることだけを頼んでいる、我が娘よ。 犠牲として援助の手をのべなさい。 多くを求めてはいない・・・

・・・何が見えるか、娘よ?

    もうこれ以上証しをしに、国ぐにに出かけて行かないでもよいことを願っていました。御父が私の望みを承諾して下さるのを願っていました。その望みとは: 家にいて、黙想し、神を愛し、「書く」ことを通してお会いし、御聖体のうちのイエスとお会いし、こうして人ごみを避けていることなのでした。

 

御子の、苦しみで喘いでおられる、聖なるお顔。そのお顔は聖骸布にあるようです。

 

あなたの時間とエネルギーをわずかでも犠牲にする理由が これだけでも十分あろう?

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P262

‘91・11・25

 

我が司祭よ! 死骸は穴に放りこまれ、うずもれて忘れ去られよう。 エジプトから呼び出した娘よ、平安を受けなさい。 あなたを 生ける者たちの地においた。 私を見据え あなたに抱く愛と友情を 確信しなさい。 痛みのあまり 涙を流させないでほしい、どうして見捨てようか? しかし悪霊は 私自身の与えた富をすべて根こそぎにしようと 必死にもがいている。 私はあなたを穴底から引き上げたが 悪霊はあなたを穴底に引き戻し 葬りたがっている。 娘よ、私に信頼しなさい、あなたを孤児にはしない。 私の約束を受け入れなさい、娘よ。 決して見捨てたりしない! 聞いてほしい: 安心するように、あなたのしたことは 無駄ではなかった(*)。

 

私は動揺し、主が背を向けてしまわれたと思い込んだのです。

*誘惑する者がやって来て、私が主のために十分していないと、そしてイギリスとアイルランドの集会は全くの「失敗」で、話した言葉は皆無駄だったと言うのです。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P98

‘92・7・8

 

「あなたは葡萄の木をエジプトから移し: これを植えられました。そのために場所を整え、根づかせ、この木は地に広がりました。その陰(メッセージ)は山々を覆い、枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで、若枝を大河にまで届かせられました。神よ、立ち帰って下さい。天から目を注いでご覧下さい。この葡萄の木を顧みて下さい、あなたが右のみ手で植えられた株を。」(詩篇80・8−11、15−16)

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・7巻P114

‘94・6・3

 

エジプトから来た娘よ、

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P226

‘98・11・30

 

ああ、ヴァッスーラ、私はエジプトから種子を持ち出し、私の敵が地上の糧の蓄えを 運び去った場所に植えた。いたわり込めて慎重に 私は場所をつくり、聖別して、種子を植え込んだ。我が民を滅びから救おうと気をもみつつ その土壌を肥沃にした。それは根を張り 木となった。その枝は海にまで達した。実は、豊富で汁気があった。雷とハリケーンや吹きすさぶ嵐にしばしば見舞われたが、揺るがなかった。

 

三年と数日もすると 我が敵は震えおののいた。怒りに燃え、激しい脅迫をあびせながら、彼は一軍を立ち上げると 破滅をもたらす篩で実をふるって、手なずけようとした。しかし私は一つ一つをかき集めて 我が心のうちに隠した。人が私の木をどんなに攻撃しようと 一度も倒せなかった、我が三位一体の祝福がその上にはあった。ああ・・・なんとしばしば農夫が鍬で耕すように その背に取りかかっては、溝を掘って断とうとしたか、しかし私の右の手は彼らの軛を打ち砕いて、混乱に陥れた。

 

その枝の木陰に避難所を見いだし 我が聖霊をもって封印したその実を食べる国たみは なんと幸せ! いのちのみことばを無償で与えたがゆえ あなたも、その代わり、我がヴァッスーラよ、死にかけた者たちに 無償で与えなさい。私が植えたものを滅ぼそうと 火の手を伸ばす者たちは悲しいかな!

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P72

 

だが聴きなさい、ヴァッスーラ、私はあなたの全家族を 祝福されたエジプトの地から連れ出した、その地は 今日に至るまでなお 我が独り子、その母と義人ヨセフの香気が はるか天にまで届く地。すでにこの地で あなたを迎えて、こう誓った、「この花によって様々な国と信仰の人びとを一つに集め 父のごとき愛と慈悲を皆に現わそう。彼女のひ弱さを通して 国たみを興し、霊的な激変をもたらすことで 彼らを新たにする。私は、この花を通して すべての国たみが見るように 我が聖性をくり広げるつもり。そして我が預言者たちに預言するなと命じる者たちがいようと、我が選びの者に、大いなる預言の使命を与え、玉座から命を下し、預言の使命を拒まないよう彼女を聖別する。」

 

エジプトよ! あなたの地から 私は預言者を立てた。あなたは 我が独り子にパンを恵んだ、だからあなたの地から 預言者を立ててならない訳があろうか? この預言者の口からは我が言葉が発せられ やがては悪人どもの角が露見する。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P106

 

それは 私どもの愛のテーマが、彼とその手下を危険にさらすと 気づいたがゆえ、また 私どもが彼らを そして長年にわたる彼らの教会への陰謀を暴き、ある日は自然主義を 別の日は合理主義を、皆に強要してその心を縛り、私の声を弱めようと、彼らの掟を押しつけていることを すべての国たみに明かそうとしているため。

 

そして聖書で述べられている通りに、そうなろう。 聖書では(*)こう言われている、<あなたの聖者たちの肉はまき散らされ、その血はエルサレムの周囲一体で流されるが、彼らを葬る人はいない!>それは(*1)<底知れぬ淵から上ってくる獣が、>とふたたび聖書で述べている。<二人に戦いをいどみ 打ち勝って彼らを殺す(*2)>ゆえ。 <その死体は、象徴的にソドムとかエジプトとか呼ばれている大都市の大通りにさらされる。 彼らの主もまた、そこで十字架につけられたのである。>

 

永遠の都として知られ、人口の多いキリストの都市としてよく知られたその都市は、ソドムが拒んだと同じように、私どもの呼びかけを いつまでも拒みつづける、それでいて自分たちが心を開いており 私どもの霊にたいしても開いていると主張する。 しかしその逆に、彼らは私の与えた全ての言葉を 十字架にかけ、釘づけにしよう。

 

 *一マカバイ記7・17。  *1黙示録11・7−8。

 *2悪の勢力はキリストと聖母に遣わされた代弁者たちを、象徴的な意味で、殺しています、二人の証人としてイエスとマリアが語っておられる事実を否定して。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P127

 

エジプトの地からは 預言者や聖者たちを興した。エジプトの地には 祝福を、その枝葉は青々と繁り ナイル川のほとりに育つ木々は生い茂って 実がなりつづけ 民を養うように。我が母、乙女マリア、義人ヨセフと私自身が 通り過ぎたどの場所にも 栄光の座が据えられた。

 

エジプトよ、あなたの地を 私どもが歩み 通り過ぎたとき 天には香が立ち昇った。 聖書の中で読まなかったか:

<使徒たちがエジプトより遣わされる>(*)

 

と、なんと、あなたもまた 聖別したとは知らなかったか?(*1) あなたに抱く大いなる愛は 地を被う天の高きにも劣らず 大きい。 あなたの土壌がこれからも食物を産み あなたが常に陽気であるように。」

 

 

(*)詩篇68・31。

 

(*1)エジプトも聖地と同様、聖なる地と見なすべきだと主は分からせて下さいました。エジプトは 聖家族がそこへ逃れたときに保護したと。エジプトは彼らを食べさせ 飲み物を与えましたが、おもに保護の手をさしのべたのです。そして神は 善意の仕草を決してお忘れになりません。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P238

‘02・8・7

 

私(*)は あなたが光を初めて見たエジプトの地から あなたを追放しただけでなく、地上全体からも追放した。 私にだけ根を張っているように あなたを追放した。 私は 我が天の王宮で 聖なる知恵をもって教えてきた そしてその教え方は 自らの教義を聖書と伝統で補強しながら、口先だけで神の言葉をぺらぺらと話す者たちとは違う・・・

 

6.地獄

 

黙示録講解540ロ

 

なぜなら自然的な人は、霊的な人により導かれない限り、天界から全く光を得ないため、いくたの誤謬と悪の中にいるからである、なぜなら天界から光が霊的な人を通して自然的な人の中へ流れ入り、明るくし、教え、導くからである、自然的な人が霊的な人の監視の下に考え、行動しないときはそれとは正反対なものである、そのときはまたかれはしばりつけられているのである、なぜならかれは地獄から発している誤謬と悪とから考え、行動するからであり、このことがかれらはエジプトから連れ出されたとき、『奴隷の家から連れ出された』と言われているとき意味されているものである。

 

 

7.霊的な人から分離した自然的な人

 

黙示録講解734ニ

[23]

 同書に―

 わたしはエジプトに反抗してエジプトを混ぜ合わせよう、人はその兄弟に反抗して戦い、男はその仲間に反抗して、都は都に反抗して、王国は王国に反抗して戦うためである(イザヤ19・2)。

 

 これは霊的な人から分離した自然的な人について言われており、これは『エジプト』により意味されている、自然的な人における誤謬の集団が霊的な人の諸真理と諸善とに反抗して論じ、戦うことが『わたしはエジプトに反抗してエジプトを混ぜ合わせよう、男がその兄弟に反抗して、男がその仲間に反抗して戦うためである』により意味されており、『男と仲間』は諸真理そのものの間における諸真理を意味し、その反対の意味においては誤謬そのものの間における誤謬を意味し、この分裂と争闘とは誤謬が有勢であるとき起るのである、なぜなら誤謬は絶えず誤謬と戦っているが、しかし真理とは戦いはしないからである、教義自身の間にも似たような教義の争闘が在り、すなわち、諸教会自身の間にも諸教会の争いが在ることは、『都は都に反抗して戦い、王国は王国に反抗して戦うであろう』により意味されており、『都』は教義を、『王国』はそこから発した教会を意味している。

 

 

8.わたしの民エジプトよ、わたしの手の業のアッシリアよ、わたしの嗣業イスラエルよ、祝福されよ(イザヤ19章)

 

天界の秘義6047[4]

 

イザヤ書の以下の言葉の中に記されているのである―

 

 かの日エジプトの地の真中にエホバに一つの祭壇が築かれ、その境の近くにエホバに一つの柱が立てられるであろう。そしてそれはエジプトの地で万軍のエホバに対しそのことのしるし、また証しとなるであろう。なぜなら彼らは虐ぐる者のためにエホバに向って叫び、かれは彼らに一人の救い主を、一人の君を遣わされ、かれは彼らを救われるからである。かの日エホバはエジプトに知られ、エジプト人はエホバを知り、生贄と供え物とを捧げ、エホバに誓いをたてて、それを果たすであろう。かの日エジプトからアッシリアにいたる一つの道があり、アッシリアはエジプトに、エジプトはアッシリアに来て、エジプトはアッシリアに仕えるであろう。かの日イスラエルはエジプトとアッシリアとともになって第三のものとなり、地の真中に在って祝福されたものとなるであろう。これを万軍のエホバは祝福されて、言われるであろう、わたしの民エジプトよ、わたしの手の業のアッシリアよ、わたしの嗣業イスラエルよ、祝福されよ、と(イザヤ19・19−25)。

 

 

天界の秘義6047[5]

 

なぜなら人間は教会の人間となるためには、かれは霊的なものになり、また合理的なものにもなって、記憶知がその二つのものに仕えることが必要であるからである。この凡てから今や以下のことが明白である。すなわち、記憶知は決して信仰の諸真理から斥けられてはならないで、それに連結しなくてはならないが、しかしそれは先在的な方法によって、すなわち、信仰からくる道によって行われなくてはならず、後在的な方法によって、すなわち、記憶知から来る道によって行われてはならないのである。(すでにまた示されたところを参照されたい、128−130、195、196、232、233、1226、1911、2568、2588、4156、4760、5510、5700番)。

 

9.エジプトの娘

 

天界の秘義6729

 

ああエジプトの処女よ、娘よ、ギレアデに上り、香油を取れよ。ああ、エジプトに住む娘よ、移住の器を作れよ。エジプトの娘は恥ずかしめられた、彼女は北の民の手に渡された(エレミア46・11、19、24)。

 

『エジプトの娘』は、否定的なものが支配しているとき、信仰の諸真理について、何かの事柄がそのようなものであるか、否かと、記憶知から論じる情愛を意味し、かくてそれはそこから生まれたる宗教心を意味し、その宗教心は誤謬以外には何ごとも信じられはしない性質のものである。