わら

記憶知

 

天界の秘義3114

 

「わたしたちにはわらも多くのかいばもあります」。『わら』は記憶知の形をとった真理を意味し、『多くのかいば』はその真理の善を意味していることは、『わら』と『かいば』の意義から明白である、『わら』はこれらの真理を意味していることは、それがらくだの食物であるとして語られているためである、なぜなら『らくだ』により自然的な人がその自然的な人における全般的な記憶知の方面で意味されているとき、そのときはその食物により、すなわち、わらにより、これらの物以外のものは意味される筈はないからである、なぜなら自然的な人は、それがそのような諸真理から滋養を受けているからには、その生命の食物である他の食物は持たないからである、なぜならもしそのような食物が、すなわち、知ることがかりにもそれに欠けるなら、それは生存し続けないであろうから。それが事実であることは死後の生命から明白である、なぜならそのときはこのようなものが霊たちには食物の代わりとなるからである(56−58、680、681、1480、1696、1973、1974番)。自然的な人の中には、合理的な人の中でもそうであるが、二つの部類のものが全般的に存在している、すなわち理解に属しているものと意志に属しているものが存在している。理解のものには真理がかかわりをもっており[属しており]、意志のものには善がかかわりをもっている。自然的な人の諸真理は記憶知の形をとった真理であり、すなわち何であれその人の外なる記憶の中に在るものであって、これらのものが、らくだが、また馬や、らばや、ろばがとり扱われているとき、『わら』により意味されているものである。しかし自然的な人の善は歓喜であり、主としてこのような真理に対する情愛の歓喜である。

 

 

天界の秘義3146

 

「かれはらくだにわらとかいばとを与えた」。これはいくたの真理といくたの善とを教えることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『わら』の意義は自然的な人の真理であり、『かいば』の意義はその中の善である(そのことについては前の3114番を参照)。これらの事柄が『わらとかいば』とにより意味されているため、『わらとかいばとを与えること』はいくたの真理といくたの善とを教えることであることが生まれてくる。自由はこれらの事柄のために存在していることは、すなわち、それは人間が真理に対する情愛の中に、また真理に対する情愛から教えられ、かくして真理が霊的な人にまでも導き入れられ、または霊魂にまでさえも導き入れられて、そこに善と連結するためのものであることは自由について前に示したことから認めることができよう(2870−2893番)。このように信仰が、または信仰に属している真理が根づけられるため、それが合理的なものにおける善と結合しない限り、信仰の真理はいかような生命も決して受けはしないのであり、またいかような果もそこからは生まれないのである、なぜなら信仰の果と呼ばれているものは信仰の真理を通して生まれる愛と仁慈の善の実であるからである。愛の善であるところの霊的な熱が信仰の真理であるところの霊的熱によって働かない限り、その人間は何物も成長しないし、まして実を結びもしない冬のようにかたく凍てついた土地のようなものになるであろう。

 

 

天界の秘義4156

 

「それらをらくだのわらの中に入れておいた」。これは、記憶知の中に、を意味していることは、『らくだのわら』の意義から明白であり、それはそのような知識である(3114番)。それが『わら』と呼ばれているのは、わらはらくだの食物であるためでもあり、また記憶知は相対的には粗雑で、秩序を欠いているためでもある。そうした理由から記憶知はまた木と森との『茂み』によっても意味されている(2831番)。(『らくだ』が自然的な人のものである全般的な記憶知を意味していることは、前の3048、3071、3143、3145番に見ることができよう)。

 

 

天界の秘義4156[2]

 

 記憶知が相対的には粗雑で秩序を欠いており、それでそれが『わら』によりまた『茂み』により意味されていることは、単なる記憶知の中にいて、そうした理由から学問があると言われている者には明らかではない。これらの者は人間は知れば知るほど、または記憶知を持てば持つほど、益々賢くなると信じている。しかし実情は非常に異なっていることは、世に生きていた時は単なる記憶知の中にいて、そのことにより学者であるという名声と世評とを得ていた者たちの他生における状態からわたしに明白にされたのである、なぜならかれらは記憶知におけるこのような技術を何ら持っていない者たちよりも往々にしてさらに愚鈍であるからである。このことの理由もまた明らかにされた、すなわち、記憶知は実に賢明になる手段ではあるが、しかしまた狂う手段ともなるのである。善の生命の中にいる者たちには記憶知は賢明になる手段であるが、しかし悪の生命の中にいる者たちには、狂うようになる手段である、なぜならこれらの人物は記憶知によりかれらの悪の生命のみでなく、誤謬の原理をも確認し、しかもそれを、かれらは自分自身が他の者よりも賢明であると信じているため、傲然と確信をもってやってのけるからである。

 

 

天界の秘義4156[3]

 

 このことからかれらはその合理的なものを破壊するようになるのである、なぜなら合理的な能力を享受している者は記憶知から論じることのできる人間ではなく、実に外見では他の者よりもさらに堂々と論じることができるときの、そのような人間ではないからである、なぜならそうした技術は単なる迷妄[妄想]の光の結果であるから。しかし善は善であり、真理は真理であり、従って悪は悪であり、誤謬は誤謬であることを明らかに認めることのできるかの人間が合理的なものにおいて卓越しているのであるが、それに反し善を悪として、悪を善として見なす人間は、また真理を誤謬として、誤謬を真理として見なす人間は、たとえいかほど論じることができるにしても、決して合理的なものであると言われることはできないのであり、むしろ不合理なものであると言われることができるのである。善は善であり、真理は真理であり、他方悪は悪であり、誤謬は誤謬であることを明らかに認める者のもとには、光は天界から流れ入ってきて、かれの理知的な能力を明るくしており、その者がその理解の中に見るいくたの理論をかの光の同数の光線であるようにしている。その同じ光はまた記憶知を明らかにし、それでその記憶知はその真理を確認するのであり、さらにその光は記憶知を秩序と天界的な形とに配置するのである。しかし悪の生命の中にいる凡ての者のように、善と真理とに反抗している者らはかの天界の光を容認しないで、単にその者ら自身の迷妄の光のみを歓んでおり、その光の性質は丁度暗がりの中で壁に斑点やすじを眺めて、そこから空想的に凡ゆる種類の形のものを作り出す者のように見ることであるが、しかしその空想的に作り出されたものは真の形ではないのである、なぜなら日の光が中へさしてくると、それは斑点とすじ以外の何ものでもないのである。

 

 

天界の秘義4156[4]

 

 この凡てからわたしたちは記憶知は賢明になる手段であり、また狂う手段でもあることを、すなわち、それは合理的なものを完成する手段であり、また合理的なものを破壊する手段でもあることを認めることができよう。それで他生ではこのような知識により自分の合理的なものを破壊してしまった者はその知識に通じていない者よりはさらにはるかに愚鈍である。これらの知識は相対的には粗悪なものであることは、それらのものが自然的なまたは外なる人にぞくしていることから明らかであるが、それに反しその知識によりつちかわれる合理的なものは霊的なまたは内なる人にぞくしているのである。これらのものは純粋性の点でいかほど互に他から異なり、また明確に区別されているかはその二つの記憶について言われもし、示されもしたことから知ることができよう(2469−2494番)。

 

 

天界の秘義7127

 

『藁』の意義は凡ての中でも最も全般的な記憶知である(7112番を参照)。この間の実情のいかようなものであるかはすでに述べたところである。しかし更に以下のことを述べなくてはならない、即ち、教会に属していて、信仰のみが救うと自分自身に説きつけはしたものの、信仰の生活は送らないで、悪い生活を送った者らは他生ではその取り憑いて悩ましている正しい者たちの前に、特にに藁を(即ち、凡てのものの中でも最も全般的な記憶知を)置くのである。こうした者らはそこでも世で持っていたと同じ性格を持っており、信仰のみを支持して、それを確認させる論議を熟知しており、それによって、人間はいかような生活を送ったにしても救われるのであると言うが、しかしこうした(信仰のみを)確認させる議論は与えられた命題に一致する理論以外の何ものでもないのである、なぜなら、凡ゆるものは、誤ったものでさえも、理論によって確認されることが出来るのであり、また単純な者に対しては、雄弁の技巧と推理とにより、真のものとして示されることが出来るからである。

 

 

天界の秘義7127〔2〕

 

 こうした目的から彼らは、凡ゆるものの中でも最も全般的なものであるようなものを聖言から特に用いるが、それは聖言の内意が無いならどのような見解でも支持するために引き出されることの出来るものである。そうしたものが彼らが霊的な教会に属している者たちの前において、それによって彼らを悩ますものであるが、しかしそれは煉瓦を作るための籾殻、または藁以外の何ものでもないのである、なぜなら彼らは凡ゆるものの中で最も本質的なものを、即ち、仁慈を除外しているからである。彼らは実に仁慈の業は信仰の果実であると言いはするが、それでもこうした業を無価値なものとして、人間はその生活はいかようなものであったにしても、(ただ)信仰のみにより、生命の最後の瞬間においてさえも救われる、かくて信仰により、その業が無くても、従って信仰と仁慈との生活が無くても救われると、その聴衆に説きつけるのである。