ろば

記憶知

 

 

天界の秘義2781[二]

 

自然的な真理は『ろば』により意味され、合理的な真理は『らば』により意味されているものであることは、以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

南の獣の予言。窮し悩む地に、ししと、老いたしし、そこから、生まれる蝮と飛びかける火蛇。彼らは若いろばの肩に富をのせ、らくだのこぶの上に宝をのせて、益を受けはしない人々に運んで行く、エジプト人の助けは空しく、ききめはない(30・6,7)。

 

 

天界の秘義2781[五]

 

『若いろば』は自然的な真理を、『ろばの子』は合理的な真理を意味している。『ろばの子』が合理的な真理を意味している理由は、『雌ろば』が自然的な真理の情愛を意味しており(1486番)、その息子[子供]は前に見ることができるように(1895,1896,1902,1910番)、合理的な真理であるということである。

 

 

天界の秘義2781[六]

 

古代裁判官は雌ろばに乗り、その息子たちは若いろばに座ったが、それは裁判官は教会の善は表象し、その息子たちはそこから派生した真理を表象したということである。しかし王は雌のらばに乗り、その息子たちはらばに乗ったが、それは王とその息子たちは教会の真理を表象したという理由によったのである(1672,1728,2015,2069番参照)。

 

 

天界の秘義2781[八]

 

『ろばに乗る』ことは自然的なものが服従したことを表すしるしであり、『雌ろばの息子[子]のろばの子にのる』ことは合理的なものが服従したことを表す印であったのである。『雌ろばの息子[子]』は『らば』と同じことを意味したことは前の創世記49章11節に示したところである)。このことから、すなわち、それらのものの意義から、またそれらのものに乗ることは最高の裁判官に、王にぞくしたことであったため、また同時に教会の表象的なものが成就するために、主はこのことを為すことを良しとされたのであって、そのことはヨハネ伝に以下のように記されているのである―

 

 

天界の秘義2781[九]

 

 このすべてのことから今やかの期間の教会のあらゆるものはまた個々のものは主を表象していたのであり、それで主の王国の中に存在している天的なものと霊的なものとを表象したことが明白であり、実にそれは雌ろばと雌ろばの子にも及んでいて、それにより自然的な人の善と真理との方面が表象されていたのである。この表象の理由は自然的な人は合理的なものに、合理的なものは霊的なものに、霊的なものは天的なものに、天的なものは主に仕えなくてはならないのであって、これが服従の秩序であるということであった。

 

 

天界の秘義5741[2]

 

『ろば』の意義については、それが人を乗せるために用いられる時と荷を運ぶために用いられる時とでは意味が異なっていることを知らなくてはならない、なぜなら裁判官と王が、またその息子たちが雄ろばや雌ろばや、またらばに乗ったときは、それは合理的な真理と善を、また自然的な真理と善を意味したからであり(2781番)、そうした理由から主は審判者[裁判官]、王としてエルサレムに入られたときは、子ろばをつれたろばに乗られたのである、なぜならこれは審判者[裁判官]また王のしるしであったからである。しかしこのように、ろばが荷をはこぶために用いられたときは、それは記憶知を意味したのである。この知識の実情も異なっていないのである。人間の内的な事柄を考えるに当って記憶のものである知識よりは先に進まない者は、人間の凡ゆる物はこの知識から成っていると考えて、以下のことを知らないのである、すなわち、記憶知は人間の最低のものであって、その大部分は身体が死ぬとき除かれてしまうようなものであるが(2475−2480番)、その記憶知の中に在るものは、すなわち、真理と善とはその情愛とともに残るのであり、また悪い者にあっては誤謬と悪とがその情愛とともに残るのであり、記憶知はいわばそれらのものの身体となっているのである。人間は世に生きているかぎり、真理と善を、または誤謬と悪とを記憶知の中に持っているのである、なぜなら記憶知はそれらのものを含んでいるからであり、記憶知は内的な物を含み、それでいわば内的な物を運んで行くため、それは荷を運ぶために用いられるろばにより意味されているのである。

 

 

天界の秘義9212

 

ろばとその子とに乗ることは最高の裁判官と主とを表象することであったのである(2781番)、そのことはまた前の5節に記されていることから明白である―

シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの主があなたのもとへ来られる、柔和で、ろばに、荷を負う獣の子、子ろばに乗られて(マルコ11・1−11、ルカ19・28−40、ヨハネ12・12−15)。

ゼカリヤ書9・9に主について主は『ろばに実に雌ろばの雄の子の若いろばに乗られた』と言われ、『その主権は海から海へすらも、川から地の端にまでさえも及ぶであろう』と附言されている。最高の裁判官は雌ろばに、その息子たちは若いろばに乗ったことは士師記5・9、10、10・3,4,12・14に、王は雌らばに、王の息子たちはろばに乗ったことは列王記1・33,38,44,45、サムエル後書13・29に見ることができよう。

[六]弟子たちがろばとそのろばの子とにその上着をかけたことによ諸真理の全総合体が最高の審判官と王としての主に委ねられたことが表象されたのである、なぜなら弟子たちは主の教会の諸真理と諸善との方面を表象し(212万9348[,3858,6397番)、その上着は諸真理そのものを表象したからである(4545,4763,5319、5954、6914,6917,9093番)。それに似たことが群集がその上着を、また木の枝をしいたことによっても表象されたのである。かれらが道にそれをしいた理由は、『道』により教会の人間が導かれる手段となる真理が意味されているということであった(627、2333、3477番)。かれらが木の枝をしいた理由は、木は真理と善との認識を、またその知識を意味し(2682,2722,2972,4552,7692番)、従って『枝』はその真理そのものを意味しているということであった。このこともまた習わしとなっていた祭儀に一致していたのである、なぜなら最高の裁判官と王とがその荘厳な行列にさいして(ろばとらばに)乗って行くとき、民の君たちはそのろばとらばとにその上着をかけ、民自身は道にその上着をしき、またはそれに代って木の枝をしいたからである。なぜなら天界における司法上の機能[司法上の働きをなすもの]は神的善から発した神的真理であり、王の機能は神的真理であるからである(1728,2015,2069,3009,4581,4966,5044、5068,6148番)。

 

 

マリア・ワルトルタ41・7/天使館第1巻P363

 

少年イエズスがガマリエルに:

 

エルサレムよ、あなたの王、彼は、『雌ろばと子ろば』、すなわち、イスラエルの義人たちと異邦人たちに跨(またが)って来るでしょう。師よ、わたしはあなたに申し上げますが、子ろばの方がずっと彼に忠実で、雌ろばに先立って彼に従い、真理と命の道に成長するでしょう。イスラエルはその悪意のために平和を失い、自分の王を、イザヤが預言している苦しみの王にしてしまい、彼に味わわせた苦しみを、世々にわたって、自分が負うことになるでしょう。

 

 

エレミア2・24

また、荒れ野に慣れた雌ろばのように

息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。

誰がその情欲を制しえよう。