らくだ

 

 

 

天界の秘義3301[2]

 

『らくだ』は自然的な人の記憶知であることは前の3048、3071、3143、3145番に見ることができよう)。

 

 

天界と地獄365

 

「富んだ者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るのがやさしい」(マタイ19・24)と主から言われている富んだ人間により、霊的な意義のみでなく、自然的な意義の、その二つの意義における富んだ者が意味されているのである。自然的な意義における富んだ者は富が溢れて、心をそこにおく者であるが、霊的な意義では、霊的な富である知識と学問とにより自分自身の理知から天界と教会との事柄の中へ自分自身を入りこませようとする者である。それでこのことは神の秩序に反しているため、らくだが針の穴を通る方がやさしいと言われている、なぜなら霊的意義では、らくだにより全般的に学び、知る能力が意味され、針の穴により霊的真理が意味されるからである。

 

(注)8

らくだは、聖言では、全般的に知る能力と全般的な知識を意味している、3048、3071、3143、3145。

 

針仕事、針で仕事することの意義、従って針の意義、9688。

 

外なる知識から信仰の真理に入ることは神の秩序に反している、10236。

 

そのようなことをする者は天界と教会との事柄については愚物となる、128−130、232、233、6047。

 

そして他生では、霊的な事柄について考えるとき、いわば酔いどれのようなものになる、1072。

 

さらにその性質はいかようなものとなるか、196。

 

もし霊的な物へ外なる知識から入ろうと試みるならば、その霊的な物は把握されることはできないことが例をひいて説明されている、233、2094、2196、2203、2209。

 

霊的な真理から自然的な人の外なる知識の中へ入ることは許されてはいるが、その反対は、許されてはいない、なぜなら自然的なものへ注ぐ霊的流入は与えられているが、霊的なものへ注ぐ自然的流入は与えられていないからである、3219、5119、5259、5427、5428、5478、6322、9110。

 

聖言と教会との諸真理を先ず承認し、その後外なる知識に諮ることは許されてはいるが、その反対は許されてはいない、6047。

 

 

天界の秘義128

 

世的な形体的な人間は、もし私は感覚に属した物により信仰について、信仰に関わる凡ゆる物について教えられてそれを認めないならば、また記憶に属した物により教えられて、それを理解しないならば信じはしないと心に語り、自然的な物に相反する筈はないと考えて、このことを確認するのである。かくて彼は天的で神的な物を感覚の諸々の物により教えられようとするが、それは駱駝が針の穴を通ることが不可能であるように不可能なことである。なぜなら彼はそうした手段によって賢明になろうとすればするほど、益々自分自身を盲目にしてしまい、ついには何物をも信じなくなり、霊的なものが在ることさえも、または永遠の生命が在ることさえも信じなくなるからである。このことは彼の仮定している原理から生まれている。これが善悪の知識の実を食うことであり、彼はそれを食うに応じて益々死んだものとなってしまうのである。しかし主から賢明になろうとは欲するが、世から賢明になろうとはしない者は、主を信じなくてはならない、すなわち、主が聖言において語られたことは真理であるため、それを信じなくてはならないと心に語り、この原理に従ってその思考を規定するのである。かれは理性、知識、感覚、自然に属した物により確認するが、確認させない物は捨て去ってしまうのである。