希望
1.マリア・ワルトルタ
2.サンダー・シング
3.幼いイエスのテレーズ
4.ヴァッスーラ
5.ルイザ・ピッカレータ
6.スウェーデンボルグ
詩篇62・6−7
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。
神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは動揺しない。
1.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P299
あなたたちは、私が、だれであるか知っている。あなたたちは、私が、あなたたちを愛しているのも知っている。あなたたちは、私の力を知っている。私は、私に対してのあなたたちの信仰も知っている。また、あなたたち、特に、あなたマリアは愛すれば愛するほど恵みが得られるのを知っている。すべてのはかりを超えて、すべての現実を超えて、希望し、信ずること、これは愛である。そして私は、あなたたちに、正反対とみえるすべての現実にそむいて希望せよ、信ぜよ、と言う。私の言いたいことは分かりますか。反するすべての現実に対して希望すること、また信ずることを知りなさい。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P300
服従するのを知れ。信ずるのを知れ。希望しつつ神に対していつでも“はい”といえるように・・・。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P362
「私の師よ!私はもはや、いつでも希望し信じます。私は、もう疑うことはありますまい。主よ、決して。私は信仰で生きるものとなりました。あなたは私に信じられないことを信じるという能力をくださいました」
「そして、あなたマルタは? あなたも習いましたか?・・・いいえ、まだ・・・あなたは私のマルタである。しかし、まだ私の完全な礼拝者ではない。あなたは、なぜ、いろいろ活動し、観想をしないのか? それはもっと聖なることです。ごらん、あなたの力が地上のことにあまり向いているがために、時として直しもつかないとみえるこの世のことは、神ご自身が干渉されないならば、癒しようのないものです。そのために人間が信ずる、また観想する必要があるのです。考え、心、肉体、血、という全人間のすべての力をもって徹底的に最後まで愛することです。くり返していうが、“人間のすべての力をもって”。マルタ、私はあなたが強いものであってほしい。完全なものであってほしい。あなたが服従するのを知らなかったのは、全く信ずる、また希望するのを知らなかったからです。しかし私はそのことであなたをとがめるのではない。マルタ、私はあなたをゆるします。今日、私はラザロをよみがえらせた。今、あなたにもっと強い心を与える。彼には命を返した。あなたには、完全に愛し、希望し、信ずるという力を注ぐ。今から、あなたたち三人は、幸せで平和でありますように。この日々にあなたたちを侮辱した人たちをゆるしなさい」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P132
「人間の能力をご存知の神が、『私に近寄れ、完全であれ』と仰せられれば、人間はそれを望んで、そうなりうる証拠です。」
「本当に神がそうおっしゃるならば、それができるからですね。」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P234
希望に反する、どんな現実があっても、なお希望し、信じ続けなさい。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P235
従順であること、信じること、希望すること。神に対して何時も『はい』と言えるように・・・ラザロがあなたたちを呼んでいます・・・行きなさい。私は今彼に会いたい。もし二人きりで話すことができなかったら、私が言ったことを忘れては成りません。
2.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P227
8.口先だけでわたしを讃え敬う者たちの祈りと、心からそうする人々の祈りとは、まったく異質なものである。例えば、真の信仰者は、目が開かれるように、真理を受け入れるようにと、絶えず人のために祈る。一方、名ばかりの信者は、わたしの真の信仰者への憎悪の中で、相手の目がくらむようにと祈ることが多い。最後に、真の信仰者の祈りは神の愛の御心によってきき届けられ、かつては偽善者に過ぎなかった人間が霊的な目を与えられるようになる。彼は歓びに満ちて真の信仰者となり、わが真の下僕、忠実な友となる。
9.祈りは、他の方法によってはなし得ない事柄を可能にする。そして、祈りの人はこの世の知恵と法則に逆らうばかりか、まったくもって不可能とされているような奇蹟を体験する。万物に秩序を保たせそこに法則を与えた者が、自らの法則に束縛されはしないということを、科学者は知らずにいる。大いなる法の制定者のとる方法は計り難きものである。その永遠の意志と目的は万物を祝福し栄えさせることにあり、並みの人間にこの事実が理解できない理由は、霊的な事柄は霊的にしか判断しえないところにある。
最大の奇蹟は人の中の「新生」である。この奇蹟を体験した者には他のことすべてが可能になる。極寒の地においては水の橋は当たり前の現象である。下の水は自由に流れていても河の表面は凍っているので、人は難なく河の上を渡ることができるのだ。だが、灼熱の気候の中で絶えず熱気で汗をかいているような人々に水の橋のことを語ろうものなら、すぐに「自然界の法則に反するのであり得ない」という答が返ってこよう。新生を体験し、祈りによって霊的生命を保つ者と、この世的生活を生きて物質的なことにしか価値をみない者との差も同じほど大きい。
3.幼いイエスのテレーズ
幼いイエスのテレーズ/自叙伝P227
神さまがいつも私を導いてくださった道は、なんと慈しみに満ちているのでしょう・・・。主は、私に何かを望ませる場合には、必ずそのものを与えてくださいます。ですから主の苦い杯も、私にはほんとうに美味に見えました。
幼いイエスのテレーズ/自叙伝P305
それでも、失望するどころか自分にこう言っていました。「神さまが、実現できない望みを起させるはずはない。だから私は、小さくても、聖徳にあこがれてよいはずだ・・・。大きくなる・・・それはとてもできない。欠点だらけの自分をそのまま我慢しなければならない。でも、まっすぐでとても早く行ける小さな道、まったく新しい道を通って天国に行く方法を見つけたい。今は発明の時代で、階段を一段ずつ登らないで済む。お金持ちの家には便利なエレベーターがあるから。私もイエスさまのところまで昇って行くエレベーターを見つけたい。完徳の険しい階段をよじ登るにはあまり小さすぎるから」と。
幼いイエスのテレーズ/自叙伝P369
主はいつも望んでいるものをくださいました。というより、私に与えようとされるものを、私に望ませてくださいました。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P337
‘87・9・21
わが神よ、皆があなたを愛し、認めて、あなたのほうに振り向いてほしいと、どんなに願っているでしょう。
ああ 娘よ 私もどんなにそれを望んでいるか!
(主もそうなることを切に望んでおられるように思えました!)
あなたが私どもの間で本当に現存しておられることに、世界が気づくならどんなにいいでしょう。あなたがどれほど私どもを愛しておられるか、地上はただ通りすぎていくだけで あなたこそが私たちを待っておられるのだと皆が気づくなら、どんなにいいでしょう。彼らが互に愛し合い、その憎しみや利己主義をやめ、互いのために生き、互いを思いやり、父であるあなたを礼拝して、一致したならどんなにいいでしょう。この人たちがあなたの示された奇跡の印を、たとえよかれとしてであってもこれらを隠したりせずに信じるなら、そして自分たちがどれほど間違っていたかに気づいて、あなたの豊かさを見ようとするならどんなにいいでしょう!
♡ ヴァッスーラ あなたの願いは私が与えたものです、それらはあなたに染み込んで 私の炎をかき立て燃え上がらせておくであろう 祭壇よ、永遠に ♡ 私の言葉をひろめなさい、「私 主が、ガラバンダルの我が子どもたちを祝福する」 ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P40
‘89・11・14
わが主よ? もっと大きな信仰がほしいのです、必要なのです。
♡ 我がヴァッスーラ、要求するものでない、願いなさい ♡ 私の限りない慈悲と愛に気づくように、そこでこれらの言葉を唱えなさい:
わが救い主よ 私の愛を大きくして下さい、
信仰を篤くして下さい、希望(のぞみ)を大きくして下さい、
このすべてを 神よ み旨の通り行って下さい。 アーメン
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P42
‘89・11・16
♡ 教えたようにして、心から、祈りなさい、祈りを通して我が好意を得るのが基本であり、これが私の掟です ♡ 我が聖心の中に 毎分ごとに入って来なさい、あなたを慰め、憩わせたいとせつに願っている、御母があなたに教えるのを許すように ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P162
‘00・・・(日付を思い出せません)
希望は 心に歓びと慰めをもたらす そして考え得る限りのあらゆる辛苦を心が負っていようと、聖霊を運ぶ者(*)はその一切を乗り越える なぜなら聖霊は 慰めと愛の讃歌をうたって聞かせ、こうして苦難を乗り越え 霊を引き上げる手助けをして 元気に威厳をもって歩ませるゆえに ♡ 希望は、それゆえ、聖霊からの賜。
多くの心を捕らえながら 神との出遇いをもたらさない、この世の富に希望を置きながら、それでもなお幸せを感じられようか? こうした富がとこしえには永らえず 永遠のいのちも栄光も もたらさないと知ったなら? 否、霊魂がこの世の富にだけ捕われているなら、誰も幸せではあり得ない。 その結果は にがよもぎのように苦々しい。 しかし 私に顔を向ける人は 幸せ。 その貧しさを通して 私が富んだ者にすることができる。 我が心のうちに含まれる すべての富によって私は その人を豊かにできる。
我が心のうちには一切の 幸せへと導く小道がある。 希望という宝を見いだすなら 自分の笑い声が全身にさざ波のように広がるのが聞こえてこよう、その笑い声を聞いて 天はこぞって歓ぶ もはやあなたの眼差しはこの世の汚れた富には注がれず 天の麗しさをまとった王の上に注がれるであろうから。 そう、かつては偶像とした銀や金を、不浄と見なすようになる。 そのとき、あなたの希望 護り手でもある聖霊があなたのうちにしっかりと住まい あなたも聖霊のうちに住まうがゆえ あなたを囚人としていた大蛇は二度と決してあなたのうちに巣喰うことはない。 気がつくとあなたは 歓びの叫びをあげている、永久に及ぶ歓びが その顔に刻まれて。 歓びと楽しみがあなたにつき従い 悲しみと嘆きは終わりを告げる。そう希望という宝は 霊を慰め励ます。
祈るならば、理解力が与えられと 聖書には書いてある。 もし今日までも私を理解していないなら それは祈っていないため。 私は ここにいる、与えるべき金銀もほかのどんな宝石も持ってはいないが、代わりに かけがえのないものを持っている、我が心と、そのうちにある尽きることない宝を。
生まれたての赤児の産声が 聞こえてこようか? あなたは自ら進んで 私から生まれてくれるだろうか? もはや私の言葉を 理解したであろうか? この闇の一刻一刻が過ぎ行く中 あなた方を見護るよう我が天使たちを送って 門を見張らせているのに、愛する者たちよ、気づいただろうか? 我が救いの手をもっと信頼するように。 あなたの希望なる聖霊が我が名を額にしるして あなたを元気づける。
聖霊のおられるところには自由があるゆえ 心に希望を得たあなたは常に自信に満ちていよう。 光と闇は共通するものが何もないが、希望と絶望も同様である。 聖霊はサタンの仲間ではなく 希望を保証されているあなた方は 実際はサタンである絶望とは 一切縁がない。
希望という宝をいただいたあなた方の顔は輝き 私の荘厳と光輝を帯びる。 そう、あなた方は皆 私の栄えある似姿に変えられて 輝き出そう。 この似姿は我が心によってのみ描けるもの・・・だから希望の霊を心から希い求めなさい それはあなたの霊のうちに輝きを放ち 神を楽しむという天国の悦びに引き入れるだろう・・・
栄光の高みより声が発せられ あなた方の時代に取っておかれた宝があると告げている。 こうは言わないように、「私は探したが 見つからない」と。 雲のようにあなた方の頭上を 私は進み行く、それでも私が見えないと 多くは言う、世代よ。 あなた方はこの世の富の間をあてもなくさ迷う、ところがあなたに降り注ぎ 荘厳なる私をまとわせてくれる霊的な宝に関しては注意を払おうともしない。
神なる私の眼差しで見るように あなた自身を見る恵みが与えられたなら 嘆いて胸を打ちつつ砂漠を目指すだろう。 その哀れむべき姿に動転して。 しかし私をまとうあなた自身を見たなら、言っておく 我が偉大さを絶え間なく宣言しよう。 こうは読まなかったか、「あなたの敷石は紅玉 基礎はサファイアの上に据え 胸壁はルビーで、城門はクリスタルで そして城壁全体は宝石で造ろう(*)」と?
*このすべての引用は 霊魂にたいするものです。
私の心を認知するなら 驚くべき刷新をとげるのが分からないのか? そして廃墟から 建て直されると? 我が聖なる英知がこう述べたときに 理解しなかったか、「あなた方は全きものの上に 基を置くがゆえその息子たちはヤハウェに教わり 豊かな繁栄をとげる」と? 「私は今、全てではないが、あなた方を変容させ 神とするために これらの宝を現している。 耳を傾けるなら 霊魂は栄え 生きるであろう・・・我が心のうちには計り知れない宝があり 金を払わずとも皆に与えてきた。 そして、大地が芽を育み、生い茂らせ 種子播く人には種子を与え 食べる人には糧を与えると同様、私の口から出る言葉も空しくは、私のもとに戻らない、それは私の望むことを成し遂げ 与えた使命を必ず果す(*1)。」
* 1イザヤ書55・10−11。
あなたの手に活力を与え 私の衣の裾をしっかりと握って放さないように 言葉を与えた。 これからはその足で徳の小道を追い求め もう少しだけ身を屈めて耳を傾けるなら、聖なる英知と 英知が語る言葉を理解しよう。 来なさい、この荒野でいまださまよう者たちよ、私のもとに来て 平安を受けなさい、我が子よ、あなたはまことに私の子どもゆえ、そうするならあなたの霊魂と心は 開花する。
5.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P160
そこで信仰を持つためにはまず三つのことを持たなければなりません。それは信仰の芽ばえ、芽そのものの良性、そしてその発育です。その種はまず信仰についての課題をもったなんらかの情報を通じて私たちの中に蒔かれます。もし先に少なくともなにか知識をもっていなかったとしましたら、勿論信仰について考えることもできないからです。信仰の芽の良性とは、この種を私たちのうちに蒔いてくれる人が、そのうちに持っていなくてはならないものです。信仰の芽を私たちに伝えてくれる人がそれにふさわしい人ならば、それは真の信仰の芽となることが可能です。しかし、もしそれがなんらかの理由で根元から偽者であるとすると、それは偽の芽です。それから、もたらされた情報の題材について、私たちの中になにかそれにたいする不信の気持ち、あるいは情報が不確実なのではないかという考えが生まれたとしましたら、それは信仰の疑いとして慎重に扱われなければなりません。こうして信仰の芽とその良性についてよく確かめたら、そのあとこれを成熟にいたらせるまで育てるために、よく世話されなければなりません。それが真理であるという内的確信がもてた時、それは信仰の課題であることを止めます。つまりその芽が育ち成熟へとますます発展していけるように、その信仰の芽の良性にたいして私たちのあらゆる信頼と才能をかける時、私たちのうちに信仰の姉妹であるあの聖なる希望という徳が生まれるからです。信仰の終点に達したことを分からせてくれるのは、聖なる希望です。すでに獲得した信仰の目標のうちに、希望そのものがあるのです。この神の情報は私たちの中に信仰の種を蒔きます。よく世話されたこの種から光が生まれ、成長し、ますます発展していきますが、この光はあの信仰の芽によってまた新たに更新されていき、信仰の光はさらに崇高なる善である神の全ての特質を私たちに与えます。また私たちをご自分のほうへと招く魅力ある愛によってその善を明らかにして下さり、ご自身のうちに楽しませて下さるために、私たちに与えることがおできになる全ての恩恵を眼前に見せても下さるのです。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P163
イエスは私に聖なる希望についてお話しになり、次のようなことを分からせて下さいました。この徳は霊魂がその敵から放たれる多くの矢に傷つけられないように、非常に堅固な衣服を与えます。全ては私たちの崇高な善であられる神が用意なさったものであることを知っていますが、この徳に助けられてそれらを落ち着いた心で受けとり、どのような出来事にたいしてもゆるがぬ確信をもってのぞむことができます。希望というこの美しい徳を与えられた霊魂を見るのはなんとよいことでしょう。なぜならその霊魂は自分を信用せず、全てにおいてその愛する神により頼みます。また非常に獰猛な敵を警戒し、深い単純さと慎重さをもって自身の欲望にたいしては女王のように振る舞います。内的に全てがよくととのっており、非常な自己抑制をもっていますので、イエスご自身もすっかり心をうばわれておしまいになるほどです。イエスは彼女(霊魂)が確固とした希望を主に置いて行動し、ますます勇気にあふれ、決して負けることなくあらゆる障害が試練を強さをもって乗りこえるのをごらんになりますので、彼女に新たな恵み、助け、支援などをお与えになるのです。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P164
全ての徳は霊魂を飾るために役にたちます。しかしそれらの中には、生まれ育ちながらますます神へとしっかり結びついていくあの芽生えを有していないので、希望は霊魂に向って申します。「神に近づきなさい。そうすればおまえは照らされるでしょう。主に近寄りなさい。そうすれば清められるでしょう。などなど・・・・」と。このようにして信仰はますますいや増し、霊の純潔はあの天的な清らかさを獲得していきます。ところが、希望の徳を持たない清純さは信仰においてふらつき、他の徳においても不確かです。霊的な完徳への道を歩む霊魂が希望にしたがっていくときには、ちょうど高い山々がその場所から動くことがないように、それぞれの徳も常によりしっかりと定まったものとなっていきます。
私には、聖なる希望の徳を与えられた霊魂は不動なもののようにみえます。それはあたかも高い山々が、きびしい気候、太陽の灼熱、最も激しい風などにびくともせず、大雪渓が融けて激しい洪水が引き起こされ、湖、海、河が氾濫するなどのことがあっても微動だにしないのと同じようです。さらに希望に満たされたこの霊魂にとっては、困難、誘惑、貧しさ、病い、その他一瞬間に非常な失望をもたらすような人生のどんな出来事も彼女を損なうことはありません。彼女は自分自身に言います。私は全てを苦しみ、全てを忍ぶことができる。イエスを信頼し、希望していれば全てを行なうことができると。とにかく、この聖なる希望は霊魂をしてほとんど全能、不動、無敵、そして不変なものとします。なぜならいつも愛すべきイエスがその徳をごらんになって、霊魂に天の永遠の国を所有する最期の時にいたるまでの持久力をお与えになるからです。そこで霊魂は信仰と希望の全てを自分の前におき、崇高にして永遠なる善の広大な大洋の中へと飛びこむのです。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P136
「ほら、これがお前の霊魂が占める場所です。まず信仰の翼に乗ってこの光の中に飛び込めば、あなたの神である私について、いつも新しい知識を得るでしょう。私のことをもっと知ることで、お前はほとんど自分を見失い、頼るべきもんがなくなる。もっと元気になり、希望の果てしない海に身を投げ、私がこの地上での生活の間に獲得した全ての功徳、人間のために与えた私の受難の苦しみのすべてについて知ることになるでしょう。ただ希望を通してのみ、信仰の限りない富を期待することができます。それ以外にこれを得る手段はないのです。
つぎに、これらの私の功徳を、あたかもお前のものであるかのようにし、お前の空しさは、もう自分を失ったと感ずることなく、虚無の深淵にはまり込むこともなく、新しいいのちを得て、神の眼差しそのものを魅き付けるために十分なほどに富まされ、飾られるでしょう。そうすればもはや臆病さも消え、希望が霊魂を堅固なものとし、勇気と剛毅を注いでくれるでしょう。それは人生のあらゆる苦難であるさまざまな季節の艱難にさらされた柱がほとんどビクともしないように、しっかりさせてくれる。それから希望は、霊魂が恐れることなく信仰の無限の富の中に浸透することを実現させ、その所有主となることをも可能とし、希望によって神さえも自分のものとするまでに至らせてくれる。そうとも。希望は自分が望むところに霊魂を到達させます。希望は天の門であり、門は希望によってだけ開かれます。なぜなら全てを希望する者は、全てを獲得するからです。
ところで霊魂は、一度神を自分のものとしたら、すぐに何の邪魔もなしに、愛の無限の大海の中にいる自分を見いだします。そこに信仰と希望を共に持ってゆき、霊魂はその内部に自分を沈め、彼女の神である私とたったひとつのものとなるのです。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P163
「罪と希望は共にはいられない。霊魂は罪を犯すとただちに、希望の国から出てゆくことになります。人は誰しも自分のものを大切にし、それを育む。自分の所有地で、自分の財産を焼く人はいないでしょう。自分の持物を大切に守らない人は誰もいないでしょう。希望のうちに生きる霊魂も、罪を犯せば「希望」を侮辱することになります。罪は希望が所有している全財産を自分で焼いてしまうので、魂は、全財産を持って外国に逃れる人と同じ災難に見舞われるでしょう。罪を犯した霊魂は、希望という名の優しく憐れみ深い、自らの肉により霊魂に滋養を与えるこの調停者としての母、われわれの希望の第一の目標、つまり秘跡のイエズスの懐を去り、野蛮人つまり悪魔の間に住みに行くようなものです。悪魔たちはごく小さな慰めさえも拒否し、毒、すなわち罪以外の滋養物を与えてはくれない。そのとき、この憐れみ深い母、希望は何をするでしょう。霊魂が自分から離れてゆくのをみて、無関心でいると思いますか。ああ、とんでもないこと。彼女は泣き、祈り、もっとも優しく感情をこめた声で霊魂に呼びかけ、そのそばに行き、自分の国に連れ戻して初めて満足するのです。」
優しいイエズスは続けて言う。
「希望とは平和のことです。希望には当たり前でも、その調停者の母の懐で生きる霊魂は、恩恵を通して平和に達します。」
こう言うと同時に、知性の光を当て、希望が人間のためにしたことを見せてくれた。すると母親に似た姿が現れた。ああ、それはなんと感動的で優しい場面なの。それを目にすれば誰でも、どんな頑なな心をもっていても感動して泣き出してしまう。その場面を見て何を感じ理解したか、精一杯表現してみよう。
人間は鎖につながれ、悪魔の奴隷となり、永遠のいのちを再び生きる希望もなく永遠の死への宣告を受けていた。全ては失われ、その運命は破滅へと向かっていた。一方この希望という名の母は、父と聖霊との一致のうちに満ち足り、いっしょに至福と幸せのうちに生きていた。
でも彼女は本当は不満でした。子供たち、すなわち自分の手から出た作品のうちでもっとも美しいものが、周りにいてほしかった。今天からその目が、地上で迷っている人間の上に注意深く注がれている。愛する子供たちを救うことに一生懸命になりながら。その子供たちには、どんな犠牲を払っても神を満足させられないのが分かった。それには、あまりにも劣った存在でした。
そこで、この憐れみ深い母はその子らを救うために、自分のいのちを与えようとした。自らその子らの罪と悲惨を負い、代わりにすべてを引き受けた。何をしたかと言えば、この愛情深い母親は、神の正義のみ前に進み出て、目に涙をため、このうえなく優しい声を出してその高貴な心で強く筋道だてて話した。
「私の失われた子らのために、慈悲を下さい。その子らがこんなに離れているのは耐えられない。どんなことをしてでも彼らを救いたい。ほかに手段もないから、子らを取りもどすため、私のいのちを捧げます。子供たちに何を望むの。償いなら、私がします。栄光、名誉なの。子供たちの代わりに、私があなたに栄光を帰し、誉れを与える。感謝なら、私があなたに感謝を捧げる。もう一度子らをとり戻し、いっしょに君臨さえできれば、あなたの望みはすべて私が代わりにするわ。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P167
「希望には現在と将来のすべての善が含まれています。その胎内で生き、その膝の上で成長する者は、希望がかなう。霊魂は何を望みますか。栄光、それとも名誉。希望はその人に、地上の全人類のためのもっとも大きな名誉と光栄を与え、天では永遠の誉れをほどこすでしょう。あるいは、富か。ああ、この母なる希望はとても金持ちです。子供たちに自分の富を与えても、減らない。彼女の富はそのとき限りのものではなく、不滅なのです。楽しみや満足を望みますか。ああ、それこそ希望は自らの中に、天と地で見いだせる限りのすべての楽しみと味わいを持つ。ほかの誰にも比べられず、その胸から養分を取る者は、それを飽きるほど満喫する。なんと彼女は喜び、幸せなことか。博識で、知恵者になりたいですか。希望と呼ぶこの母は、自らの中にもっとも崇高な知識をもつ。それは全ての師の中の師であり、学ぶ者は、まことの聖性についての知識を得ます。
ともかく希望はわれわれに全てを与えます。弱い人には強さを。汚れていれば、希望が定める秘跡でその汚れを洗ってくれる。飢えと渇きを感じれば、この優しい母はその繊細な肉、貴重な血というもっとも美味しい食物と飲み物を与えます。
希望という名の、この調停役の母は、それ以上何もできない。似た人はいません。ああ、その人だけが天と地を和解させ、己れに信仰と愛を結びつけます。こうして、人間性とその神性との間の離れることのない指輪を贈ってくれました。
ところでこの母とは誰。この希望とは誰。それはイエズス・キリスト、われわれの救済のわざを実現し、正道を踏み外した人間に希望を与えてくださった方です。」
6.スウェーデンボルグ
天界の秘義6578
なぜなら『慰めること』は理解について、『心に語ること』は意志について言われるからである。それで彼が『彼らを慰めたこと』はまた希望を意味しており―なぜなら希望は真理により理解から生まれるからである―彼が『彼らの心に語ったこと』は信頼を意味している、なぜなら信頼は善により意志から生まれるからであり、それは純粋な信頼は仁慈の善の中にいる者を除いては何人のもとにも不可能であり、純粋な希望は信仰の善の中にいる者を除いては何人のもとにも不可能であるためである。
天界の秘義7065
「すると民は信じ、彼らは聞いた」。これは信仰と希望とを意味していることは以下から明白である、即ち、『信じること』の意義は霊的な意義で信じることであり、かくて信仰であり(6956、6970番を参照)、『聞くこと』の意義は服従することであり、また認めることであり(5017番)、ここでは希望を持つことである、なぜなら信仰を持ち、服従している者が幾多の確認させるものを認めると、希望を持つからである、なぜなら希望はそこから生れてくるからである。