世への愛

 

 

自己愛貪欲

 

 

 

1.世への愛は如何にもして他人の富を専有しようとする欲望

2.世への愛は富と財産のみならず、身体的感覚を楽しませる凡ゆる物を、例えば眼を楽しませる美、耳を楽しませる諧音、嗅覚を楽しませる芳香、皮膚を楽しませる柔軟さ、舌を楽しませる美食、また良く似合う衣服、便利な住宅、愉快な社交等、一言にして言えば、これらとこれらに類似した多くの物から由来する凡ゆる享楽を欲する

3.自己への愛と世への愛は地獄を支配し、それ故、人間の中に地獄を形作り、人間の中なる教会を破壊する

 

4.人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、隣人に対する愛の中におらず、ましてや主に対する愛の中にはいない

 

5.自己と世への愛の中にいる者は天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じない

6.彼らはもし栄誉と富から来る歓喜が奪われるならば、最早いかような歓喜も与えられることは出来ないと信じている

7.人間における自己と世への愛は人間が(物事を)識別して、自ら自分のことを治める年頃になるときに人間を支配しはじめる

8.世への愛は自己への愛ほどには天界的愛に反抗してはいない

9.善い用のために―求める者はそうした愛の中にはいない

10.他生の彼ら

11.貪欲であった者らは他生でハツカネズミの匂いがする

12.本来の自己への愛と世への愛

 

 

 

 

 

 

1.世への愛は如何にもして他人の富を専有しようとする欲望

 

 

真の基督教400(11)

 

世への愛は如何にもして他人の富を専有しようとする欲望であり、かくして、心を富に置き、世が人間を天的愛と霊的愛から或いは隣人への愛から離れさせるのを許すのである。他人の財産を自己の用のために専有することを望む者は、世への愛に取り憑かれ、これを行うため彼らは隣人の幸福を全く無視して、狡猾と、詐偽とを用いる。彼らは他人の財産を渇望し、法律の恐怖や名誉の失墜により抑制されない限り、彼らから剥ぎ取り、且つ盗みさえする。

 

 

 

真の基督教400(13)

 

世への愛は多様である。それは地位のために富を愛すること、富のために地位を愛すること、世俗的な楽しみを獲得する手段として富を愛すること、守銭奴の愛であるところの富自身の為に富を愛すること等を含んでいる。富が欲せられる目的は富の用であり、愛が由って以てその性格を得るのはその目的即ち用である。何故なら、愛の如何は、その顧慮する目的の如何であり、他の物は手段としてそれに仕えるからである。

 

 

 

 

 

2.世への愛は富と財産のみならず、身体的感覚を楽しませる凡ゆる物を、例えば眼を楽しませる美、耳を楽しませる諧音、嗅覚を楽しませる芳香、皮膚を楽しませる柔軟さ、舌を楽しませる美食、また良く似合う衣服、便利な住宅、愉快な社交等、一言にして言えば、これらとこれらに類似した多くの物から由来する凡ゆる享楽を欲する

 

 

真の基督教394

「三つの普遍的な愛即ち天界への愛、世への愛、自己への愛がある。」

 

これらは凡ゆる愛の普遍的な基礎であり、仁慈はその各々と共通する物を持つ故、我々はこの三つのものを以て説き始めよう。何故なら、天界への愛は、主と隣人への愛を意味し、これらの各々は用をその目的としている故に、用への愛と呼ばれ得るからである。世への愛は富と財産のみならず、身体的感覚を楽しませる凡ゆる物を、例えば眼を楽しませる美、耳を楽しませる諧音、嗅覚を楽しませる芳香、皮膚を楽しませる柔軟さ、舌を楽しませる美食、また良く似合う衣服、便利な住宅、愉快な社交等、一言にして言えば、これらとこれらに類似した多くの物から由来する凡ゆる享楽を欲する。自己への愛は名誉、栄誉、名声、卓越のみならず、他を支配する傑れた地位を欲する。仁慈はそれ自身においては用への愛である故、これら三種の愛の各々に共通する物を持っている。何故なら、仁慈は隣人に善を為すことを欲し、善は用と同一の物であるから。さて、これらの愛の各々はまた用をその目的として認める。何故なら、天界への愛は霊的な用を顧慮し、世への愛は自然的な、或は公民的な用を顧慮し、自己への愛は自己自身、或は自己の家族のために為される身体的、或は家庭的用を顧慮するからである。

 

 

 

3.自己への愛と世への愛は地獄を支配し、それ故、人間の中に地獄を形作り、人間の中なる教会を破壊する

 

 

真の基督教399(6)

 

 愛には二種類のものが在り、そこから凡ゆる種類の善と真理が水源から発するように流れ出る。同様に、凡ゆる種類の悪と虚偽が流れ出てくる二種類の愛がある。前者は主への愛と隣人への愛であり、後者は自己への愛と世への愛であり、後者が支配する時は、全く前者に対立する。

 

 

 

真の基督教399(7)

 

 主への愛と隣人への愛は天界を支配し、それ故、人間の内なる天界と教会とを構成する。自己への愛と世への愛は地獄を支配し、それ故、人間の中に地獄を形作り、人間の中なる教会を破壊する

 

 

 

真の基督教399(8)

 

 二つの天的な愛はそれらの住む内的霊的人間を発展させ、これを形作るが、しかし二つの地獄的な愛は、それらが支配する時は、内的な霊的な人間を閉じ、破壊し、その支配の性質と範囲とに応じて人間を自然的に且つ感覚的にする。

 

 

 

真の基督教400(14)

 

約言すれば、自己への愛と世への愛は、主への愛と隣人への愛に正反対である。何故なら、上述したように、自己への愛と世への愛は地獄的な愛であり、地獄を支配し、人間の中に地獄を構成するからである。然し、主への愛と隣人への愛とは天的愛であり、天界を支配し、人間の天界を構成する。

 

 

 

 

天界の秘義7488

 

自己と世への愛について(これまで)言われた凡てのことから以下のことが明白である、即ち、悪はすべてその愛から発生しており、悪はすべてそこから発生しているため、誤謬もまたすべてそこから発生しており、他方、主に対する愛と隣人に対する愛から善は凡て発生しており、善は凡てそこから発生しているため、真理も凡てそこから発生しているのである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義75

 

 自己への愛[自己愛]にいる者らに属した悪は、全般的には、他の者に対する軽蔑、嫉妬、自分に好意を示さない者に対する恨み、そこから起きる敵意、色々な種類の憎悪、復讐、狡猾、詐欺、無慈悲、残酷であり、そしてこうした悪が在るところにはまた、神的なもの[神]と教会の真理と善である神的なものとに対する軽蔑がある。もし彼らがこれらのものを尊ぶならば、それは単に口先のみのことで、心からのものではない。そしてこうした悪はそこから発しているため、それに類似した誤謬もある、なぜなら誤謬は悪から発しているから。

 

 

 

新しいエルサレムの教義76

 

 しかし世への愛は何らかの策略によって他の者の富を得ようと望むことから、富に心を寄せることから、世にいざなわれて、隣人に対する愛である霊的愛から、引いては天界から後退して、迷い出ることから成っている。色々な術策を弄して他人の財産を自分に得ようと願う者は、特に隣人の善を何ら顧みないで、狡猾と詐欺によりそれを行う者は世への愛に生きている。その愛にいる者らは他人の財産を貪り、利得のために、法律や世間の評判が、悪くなるのを恐れない限り、他人の財産を奪い、実に掠奪してしまう。

 

 

 

新しいエルサレムの教義78

 

 約言すると、自己への愛と世への愛とは主に対する愛と隣人に対する愛に全く正反対のものであり、それで、自己への愛と世への愛とは奈落の愛である、なぜならそれらはまた地獄を支配し、また人間の中に地獄を構成しているからである。しかし主に対する愛と隣人に対する愛とは天界的愛である。それらはまた天界を支配し、また人間の中に天界を構成している。

 

 

 

 

新しいエルサレムの教義79

 

 今語られたところから、悪は凡てこの二つの愛の中に在って、そこから発していることを認めることが出来よう、なぜなら前(75番)に列挙した悪は普通のものであるが、しかし特殊なものであるという理由から列挙しなかった他の悪もそれらの悪から生まれ、そこから流れ出ているからである。ここから人間はこの二つの愛の中へ生まれているため、凡ゆる種類の悪の中へ生まれていることが明らかになるであろう。

 

 

 

新しいエルサレムの教義80

 

 人間は悪を知るために、その起原を知らなくてはならない、彼は悪を知らない限り、善を知ることが出来ない、それで自分自身がいかような性質を持っているかも知ることが出来ない。これが愛のこの二つの起原がここに取り扱われている理由である。

 

 

 

「天界の秘義」から

新しいエルサレムの教義81

「「自己への愛と世への愛」。

 

 主に対する愛と隣人に対する愛または仁慈は天界を構成しているように、自己への愛と世への愛とは、それが支配している所では、地獄を構成している、それでこれらの愛は相反したものである(2041、3610、4225、4776、6210、7366、7369、7489、7490、8232、8678、10455、10741−10743、10745番)。悪は凡て自己と世への愛から発している(1307、1308、1321、1594、1691、3413、7255、7376、7488、7489、8318、9335、9348、10038、10742番)。自己への愛と世への愛から他の者に対する軽蔑、敵意、憎悪、復讐、残酷、詐欺が発し、従って凡ての悪と凡ての邪悪が発している(6667、7372−7374、9348、10038、10742番)。これらの愛は拘束がなくなるに応じて昂進し、自己への愛は神の御座をさえ渇望する(7375、8678番)。人類はその愛のために政府を形成し、防禦のためにその支配の下に自らをおいた(7364、10160、10814番)。その愛が支配している所では、愛の善と信仰の善とは斥けられるか、窒息させられるか、または歪められるか、する(2041、7491、7492、7643、8487、10455、10743番)。これらの愛の中には生命はなく、霊的死がある(7494、10731、10741番)。これらの愛の性質が述べられている(1505,2219、2363、2364,2444,4221,4227、4948、4949、5721、7366−7377、8678番)。凡ての貪欲と欲念とは自己と世への愛から発している(1668、8910番)。

 自己と世への愛は手段として仕えることは出来るが、目的としては決して仕えてはならない(7377、7819、7820番)。人間は改良されると、これらの愛は転倒し、手段として仕えるが、目的としては仕えない。かくてそれは足の裏とはなるが、頭とはならない(8995、9210番)。自己と世への愛の中にいる者のもとには内なるものはなく、内なるもののない外なるものがある、それは内なるものは天界に向っては閉じられているが、外なるものは世に向っては閉じられているが、外なるものは世に向って開かれているためである(10396、10400、10409、10411、10422、10429番)。自己と世への愛の中にいる者らは、仁慈、良心、天界の生命のいかようなものであるかを知らない(7490番)。人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、主から人間のもとに絶えず流れ入ってくる信仰の善と真理とを受け入れない(7491番)。

 自己と世への愛の中にいる者らは内なる束縛によっては拘束されないで、外なる束縛によってのみ拘束されており、それが取り除かれると、凡ゆる邪悪の中へ突入する(10744−10746番)。霊界の凡ての者はその愛に従って身体の向きを変えている、即ち、主に対する愛の中に、また隣人に対する愛の中にいる者たちは主に身を向けているが、自己への愛の中に、また世への愛の中にいる者らは、主には背を向けている(10130、10189、10420、10742番)。自己への愛が支配している礼拝の性質(1304、1306−1308、1321、1322番)。主は悪い者を自己と世への愛に関係しているその者自身の愛により導かれることにより、悪い者を通して世を支配されている(6481、6495番)。悪い者も善い者と同じく務めの義務を果たし、用と善とを遂行することが出来る、なぜなら彼らは栄誉と利得を己が報酬として認め、そのため外なる形では善良な者のように行動するから(6481、6495番)。

 地獄にいる者は凡て、自己と世への愛から、悪におり、かくて誤謬にいることは「天界と地獄」を扱った著作に見ることが出来よう(551、565番)。

 

 

 

 

4.人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、隣人に対する愛の中におらず、ましてや主に対する愛の中にはいない

 

 

天界の秘義7489

 

 実情はそうしたものであるため、人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、隣人に対する愛の中におらず、ましてや主に対する愛の中にはいないのである、なぜならそれらは対立したものであるからである。

 

 

 

天界の秘義7490

 

 以下のこともまた明白である、即ち、人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、仁慈の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、またその人間は信仰の何であるかを知らないし、遂にはそれが何か意味のあるものであることも知らなくなり、またその人間は良心の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、否、その人間は霊的なものの何であるかを知らないし、天界の生命の何であるかも知らないし、遂には天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じないのである。こうしたことは自己と世への愛が(人間を)支配するとき、その愛から生まれてくるのである。

 

 

 

天界の秘義7491

 

天界的愛[天界の愛]の善とその信仰の真理とは主から絶えず流れ入っているが、自己と世への愛が支配しているところには受け入れられはしないで、反対に、そうした愛が支配しているところでは、即ち、その愛が絶えず思考の中に在り、目的となっており、意志の中に在って、その生命を作っているところでは、主から流れ入ってくる善と真理とは斥けられるか、消滅するか、または歪められるか、してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義7492

 

 それらが斥けられる者のもとでは、愛のものである善と信仰のものである真理とは軽蔑されもし、また嫌悪されもするのである。それらが消滅してしまう者のもとでは、愛の善と信仰の真理とは否定されて、それに反した悪と誤謬とが確認されるのである。しかしそれらが歪められる者のもとでは、愛の善と信仰の真理とは悪とその誤謬とを支持するように誤った解釈を与えられて、利用されるのである。

 

 

 

天界の秘義7494

 

 それで愛の善と信仰の真理とを自分自身の中に歪めるか、消滅させるか、または斥けるか、してしまう者は己が中に生命を何ら持たないのである。なぜなら神的なもの[神]から発している生命は善を意志し[欲し]、真理を信じることであるからである。しかし善を欲しないで、悪を欲し、真理も信じないで、誤謬を信じる者は生命に反したものを持っている。この生命に反したものは地獄であって、『死』と呼ばれ、彼らは『死んだ者』と呼ばれている。愛と信仰の生命は『生命』、また『永遠の生命』と呼ばれているが、生命に反したものは『死』、また『永遠の死』と呼ばれ、そうした人間は『死んだ者』と呼ばれていることは聖言の多くの記事から明白である(例えばマタイ4・16、8・21、22、18・8、9、19・16、17、29、ヨハネ3・15、16、36、5・24、25、6・33、35、47、48、50、51、53、57、58、63、8・21、24、51、10・10、11・25、26、14・6、19、17・2、3、20・31その他)。

 

 

 

天界の秘義8318〔3〕

 

 しかし世への愛から悪の中にいる者らもまたその隣人を軽んじて、これをただその富からのみ尊重し、かくてその富を尊重はするが、その人間を尊重はしない。これらの者はその隣人に属するものを凡て得ようと望み、こうした欲念にとりつかれると、そのときは仁慈と慈悲とを全く失ってしまう、なぜならその隣人の財産を奪うことが彼らの生命の歓喜であり、特にあさましいまでに貪欲な者の生命の歓喜であり、即ち、金銀を金銀のために愛して、そこから生まれる用のために愛しない者らの生命の歓喜であるからである。この愛の悪に支配されている者らもまた地獄にいるが、自己愛の悪の中にいる者ほど深い地獄にはいない。この二つの悪の起原の他にまた第三のものがあり、それは誤った宗教の原理から悪を為すことであるが、しかしこの悪は自己と世への愛にいる者らのもとでは悪い性格を持ってはいるが、隣人に対する、また神に向かっての愛の中にいる者たちのもとではそうしたものを持ってはいない、なぜなら目的が善であって、その目的が他の凡てを和らげてしまうからである(8311番を参照)。

 

 

 

天界の秘義7366

 

 自己への愛と世への愛とは人間のもとに地獄を作ることは前に述べた、で、今、人間が自分はそうした愛の中にいるか、否かを知るために、従って地獄か、または天界か、その何れが自分の中に在るかを知るために、―なぜなら人間自身の中に天界か、または地獄か、その何れかが在るからである―これらの愛の性質を話さなくてはならない。神の国は人間の中に在ることは主はルカ伝17・21に教えられている、従って地獄もまた人間の中に在るのである。

 

 

 

天界の秘義7373

 

 しかし世への愛は、人間がその考え、為すことにおいて自分自身の利益以外のことは何一つ顧みないし、また願いもしないし、自分の考え、為すことが隣人に、社会に危害を加えるか、否かを意に介しない時は、その者を支配しており、即ち、彼は世への愛の中に止まっているのである。

 

 

 

天界の秘義7374

 

 巧妙な策略で他の者の財産を自分に得ようと願う者は世への愛の中におり、そのことを狡猾と詐欺とにより行う者は更にその愛の中にいるのである。こうした愛の中にいる者らは他の者の財産を羨(うらや)み、これを熱望し、法律を恐れないに応じて、それを強奪しさえもするのである。

 

 

 

天界の秘義7376

 

 この凡てから今やこの二つの愛は凡ゆる悪の起原であることを認めることが出来よう、なぜならそれらは隣人に対する愛と主に対する愛とは正反対のものであり、かくて主に対する愛と隣人に対する愛とに支配されている天界とは正反対のものであるからである。従って人間のもとに地獄を作るものはこれらの愛であり、即ち、自己への愛と世への愛である、なぜならこの二つの愛が地獄を支配しているからである。

 

 

 

天界の秘義945

 

 王妃高貴な家族の者、また富んだ両親を持った者のような、生活の快楽と享楽の中へ生まれながらにして入れられ、小児時代からそのようなものの中に教育された者たちは異なっている。これらの者は奢侈、華麗、優雅の中に生活しているものの、同時に主に対する信仰と隣人に対する仁慈の中に生きさえしているならば、他生で幸福な者の中にいるのである。なぜなら自己から生活の楽しさ、権力、富を剥奪し、かくして惨めさにより天界に価すると考えることは誤った道であるからである。しかし快楽、権力、冨を主に比較するなら無意味なものとみなし、世の生活を天界の生活に比較するなら無意味なものとして見なすこと、それが聖言にそれらの物を斥けることにより意味されていることである。

 

 

 

 

5.自己と世への愛の中にいる者は天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じない

 

 

天界の秘義7490

 

 以下のこともまた明白である、即ち、人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、仁慈の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、またその人間は信仰の何であるかを知らないし、遂にはそれが何か意味のあるものであることも知らなくなり、またその人間は良心の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、否、その人間は霊的なものの何であるかを知らないし、天界の生命の何であるかも知らないし、遂には天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じないのである。こうしたことは自己と世への愛が(人間を)支配するとき、その愛から生まれてくるのである。

 

 

 

 

6.彼らはもし栄誉と富から来る歓喜が奪われるならば、最早いかような歓喜も与えられることは出来ないと信じている

 

 

新しいエルサレムの教義105

 

「自己と世への愛を目的としている者らは決して仁慈の中にいることは出来ない。彼らは仁慈とは何であるかを知りさえもしない、彼らは報酬を目的としないで隣人に善を欲し、それを行うことが人間の中にある天界であり、その情愛の中には天界の天使の幸福のような大きな幸福があって、それは表現を絶したものであることを些かも理解することは出来ない、なぜなら彼らはもし栄誉と富から来る歓喜が奪われるならば、最早いかような歓喜も与えられることは出来ないと信じているからであるが、しかし他の喜びに無限にまさった天界的な歓喜が初めて始まるのは実にその時なのである。」

 

 

 

 

7.人間における自己と世への愛は人間が(物事を)識別して、自ら自分のことを治める年頃になるときに人間を支配しはじめる

 

 

天界の秘義7493

 

 人間における自己と世への愛は人間が(物事を)識別して、自ら自分のことを治める年頃になるときに人間を支配しはじめるのである。なぜならそのときその人間は自分自身から、または自分のものから考えはじめて、そうした愛を自分自身のものとしはじめ、しかもそれは彼が悪の生活を確認するに応じて、主はその人間が幼児の頃と小児の後とまたその頃に受け入れた無垢と仁慈の善を分離されて、それをその人間の内部に貯えられるのである。なぜなら無垢の善と仁慈の善とはこうした愛の悪とは決して共にいることは出来ないのであり、主はまたそれが死滅してしまうことを望まれはしないからである。

 

 

 

 

8.世への愛は自己への愛ほどには天界的愛に反抗してはいない

 

 

新しいエルサレムの教義77

 

 しかし世への愛は自己への愛ほどには天界的愛に反抗してはいない。それはそのように大きな悪はその中には隠れていないからである。この愛には色々なものがあり、栄誉を得る手段としての富に対する愛があり、富を得る手段としての栄誉と顕職を求める愛があり、世で歓ぶ種々の用のために富を求める愛があり、貪欲という、ただ富のためにのみ富を求める愛があり、その他色々なものがある。なぜなら愛の性質はそれが抱いている目的の性質と同一であって、他の凡ての物はそれに手段として役立っているからである。

 

 

 

天界と地獄565

 

世への愛については、この愛は自己愛ほど天界の愛に対立してはいない。なぜならそれはその中にそれほど大きな悪を秘めてはいないからである。世への愛は人間が他の者の富を凡ゆる種類の術策によって独り占めしようと欲し、心を富におき、世が自分を隣人に対する愛である霊的愛から遠ざけ、引き出し、引いては天界から、神から、遠ざけ、引き出すのを許すことから成っている。しかしこの愛には色々なものがある、名誉のみを愛し、名誉を与えられようとの目的から富を求める愛があり、富を蓄積しようとの目的から名誉と高位とを求める愛があり、世で歓喜を与える色々な用のために富を求める愛があり、守銭奴のように、ただ富のためにのみ富を求める愛といったものがある。富を求める目的となっているものはその富の用と呼ばれ、その目的または用から愛はその性質を得ている、なぜなら愛は目指す目的と同じ性質を持ち、他の凡てのものはその手段としてのみ役立つにすぎないからである。

 

 

 

 

真の基督教400(12)

 

しかしながら、世への愛は自己への愛ほど天界的愛に相反していない。何故なら、その中に含まれている諸悪はそれ程大きくはないからである。

 

 

新しいエルサレムの教義77

 

 しかし世への愛は自己への愛ほどには天界的愛に反抗してはいない。それはそのように大きな悪はその中には隠れていないからである。この愛には色々なものがあり、栄誉を得る手段としての富に対する愛があり、富を得る手段としての栄誉と顕職を求める愛があり、世で歓ぶ種々の用のために富を求める愛があり、貪欲という、ただ富のためにのみ富を求める愛があり、その他色々なものがある。なぜなら愛の性質はそれが抱いている目的の性質と同一であって、他の凡ての物はそれに手段として役立っているからである。

 

 

 

 

9.善い用のために―求める者はそうした愛の中にはいない

 

 

天界の秘義7377

 

しかし名誉を自分自身のためではなくて、自分の国のために求める者は、また富を富のために求めないで、生活上必要なもののために求める者は、(即ち)自分自身のためにも、家族のためにも、また善い用のためにも―富はその善い用に役立つために自分に歓びを与えるのであるが、そうした善い用のために―求める者はそうした愛の中にはいないのである。こうした人物のもとでは名誉と富とは利益を与える手段となっているのである。

 

 

 

天界の秘義945

 

 王妃、高貴な家族の者、また富んだ両親を持った者のような、生活の快楽と享楽の中へ生まれながらにして入れられ、小児時代からそのようなものの中に教育された者たちは異なっている。これらの者は奢侈、華麗、優雅の中に生活しているものの、同時に主に対する信仰と隣人に対する仁慈の中に生きさえしているならば、他生で幸福な者の中にいるのである。なぜなら自己から生活の楽しさ、権力、富を剥奪し、かくして惨めさにより天界に価すると考えることは誤った道であるからである。しかし快楽、権力、冨を主に比較するなら無意味なものとみなし、世の生活を天界の生活に比較するなら無意味なものとして見なすこと、それが聖言にそれらの物を斥けることにより意味されていることである。

 

 

 

真の基督教533

 

支配への愛と富への愛は高貴者よりも卑賤な者を、富んだ者よりも貧しい者を、王よりも従臣を動かしている。何故なら、王は支配と富とへ生まれ、遂にはこれを貧しい者、卑賤な者がその家の持ち物を見るように見るに過ぎないからである。しかし他の国々を支配しようと渇望する王侯はこれとは異なっている。

 

 

 

10.他生の彼ら

 

天界の秘義821

 

 たれからも自分が尊いものではないと思われないように、尊い顔付きと生活とを上辺で見せ、名誉ある地位に引き上げられるため、また世間の評判を悪くしないで富を得るために尊いもののように見せかける凡ゆる方法を研究している者らがいる。それ故彼らは公然とは行動しないで、他の者を通して詐欺の術策により他の者の財産を奪い、財産を掠奪されるその家族が飢えて死んでも何ら意に介しない、もし公の注目を逃れることが出来るならば、何らの良心もなく、こうした悪事を自ら遂行しようとする、それ故彼らは実にそれを自分自身の行為により犯す者らと同じ性質を持っている。彼らは隠れている強盗であり、彼らに特有なこうした種類の憎悪は他の者に対する軽蔑、利得に対する貪欲、無慈悲、詐欺に結合している。他生ではこうした人間は罪の無い者と認められようと願い、悪事が露見しなかった為、自分は何の悪事もしてはいないと言う。そして自分の無罪を示すため、衣服を脱ぎ、裸になり、このようにして自分の無垢を証明する。しかし彼らは点検されている間にその性質は彼らの気付かぬ中に、その只一つの言葉からも、その思考の只一つの観念[考え]からも徹底的に充分に認められるのである。このような者は、他生では、何人であれ、その出会う仲間を何らの良心も無く殺そうと欲する。彼らはまた手に斧と大槌とを持っていて、その者のもとには他の霊がいるように見え、その霊が背を向けると打つが、しかし血を流すようなことはしない、なぜなら彼らは死を恐れているからである。そして彼らは自分の性質の実際的な凶悪さを霊たちと天使たちとの眼前に現すまいとして、力の限り自分の手から是らの武器を棄てようと努めはするものの、それらを離すことは出来ない。彼らは前方の足の下の中間の距離の所にいる。

 

 

 

 

天界と地獄488

 

神の真理を自分自身の愛に応用して、それを誤謬化した者は尿を愛する、なぜなら尿がそうした愛の楽しさに相応しているからである。鼻持ちもならぬほど(*)貪欲であった者らは小さな室に住んで、豚の好きそうな汚らしいものを愛し、また胃の中の不消化な食物から吐き出されるような悪臭を愛している。ただ快楽の中に生活を送り、みやびやかな生活をし、口と胃とを甘やかして、人生の与える最高の善のような物を愛した者は他生では排泄物と厠を愛し、そこに歓喜を覚えるが、それはそうした快楽は霊的な死であるからである。彼らは清潔で汚れていない所を不愉快に感じるため、そこを避けている。姦淫に楽しさを感じていた者らは、凡ゆる物が下劣で汚らしい娼家でその時を過ごし、そこを愛して、貞潔な家庭を避け、その家庭に入ると必ず気を失ってしまう。彼らには結婚を破壊することほど楽しいものはないのである。復讐を求め、そのため野蛮で残酷な性質をつけてしまった者らは死体のような物を愛して、そうした性質の地獄にいる、その他これに準じている。

 

*真理を汚すことは尿に相応している、5390。

 

 

 

天界の秘義943

 

身体の生命の中で快楽そのものを己が目的、目標とし、単に生来の性向に耽り、贅沢と酒宴に生きることを愛し、只自分自身と世のことのみを心にかけて、神的な物を何ら省みず、信仰と仁慈に欠けている者は世で送った生活に似た生活に死後先ず入れられる。左手の前面の、非常な深い所に、凡てが快楽、遊戯、踊り、酒宴、おしゃべりである場所が在る。ここにこのような霊が連れて行かれ、かくて自分は依然世にいるとしか考えない。しかし暫くするとその光景は一変し、かくて彼らは単なる糞尿に過ぎない、尻の下の一つの地獄に落とされる。何故なら他生ではこのような全く形体的な快楽は排泄物のようなものに変わるからである。私は彼らが糞便を運びながら、己が運命を嘆いているのを見たのである。

 

 

 

天界の秘義944

 

 卑賤な境遇から金持ちになり、自負の念から快楽と優美、安易の生活に耽り、王妃の如く長椅子にもたれ、饗宴、酒宴の席に坐り、他の何物をも意に介しない女は他生に入ってくると、互いに惨めな争いを起こし、打ち合い、引掻き合い、相手の髪を引きずり合い、復讐神のようになる。

 

 

 

 

 

11.貪欲であった者らは他生でハツカネズミの匂いがする

 

 

天界の秘義940

 

この地獄に卑賤なまでに貪欲であったユダヤ人らが大半いて、その者らが他の霊のもとへ来るとその出現もまたはつか鼠の臭気として認められている。ユダヤ人については、その都と荒野の強盗どもについて若干語って、彼らの死後の状態はいかに悲惨なものであるかを示そう、とくに卑賤なまでに貪欲であって自分自身を選ばれた唯一の民族であると考える生来の傲慢の結果、他の者たちを自分自身と比較して軽蔑した者らの死後の状態は如何に悲惨であるかを示そう。(中略)

 

彼らにゲヘンナの左側の、稍々前面に一つの都が現れ、これに彼らは群をなして集まるのである。しかしながらこの都は沼地で悪臭を発していて、汚れたエルサレムと呼ばれており、そこの街路を彼らはくるぶしの上あたりまでも塵埃と泥の中に沈めて駆け回り、不満と悲嘆とを注ぎ出している。(中略)

 

彼はまたその中には塵埃以外には食物は全くないと言った。

 

 

 

天界の秘義954

 

 貪欲からは、その貪欲の種類に応じ、ねずみに悩まされるといった幻想が突発してくる。快楽のみを歓び、それを究極の目的として、最高の善として、いわば自分の天国として考えた者どもは厠(かわや)に止まっていることに最高の歓びを覚え、そこに極めて楽しいものを認めている。尿の悪臭が発した溜まり水を歓ぶ者もあり、沼地を、その他そうしたものを愛する者もいる。

 

 

 

天界の秘義1514

 

スフィアはまた匂いによって感覚に認められ、これを霊たちは人間よりも遥かに精妙に嗅いでいる、なぜなら言うも驚くべきことではあるが、匂いはスフィアに相応しているからである。裏腹なことをほしいままに行って、そのためそれが性質となってしまった者らのスフィアが匂いに変化すると、嘔吐の悪臭が立ち込めてくる。いかようなことでも自分が誉め称えられることになるようにとの目的から雄弁を学んだ者らのスフィアが匂いに変化すると、それはパンの焼ける匂いに似たものとなる。単なる快楽に耽溺して仁慈と信仰とを何ら持たなかった者らのもとでは、そのスフィアの匂いは排泄物のそれに似たものとなる。姦淫にその生涯を費やした者らの匂いも同様であるが、しかしそれは更に不快なものである。深い憎悪と復讐と残酷の中に生きた者らのスフィアが匂いに変化すると、死臭が立ち込めてくる。浅ましいほどにも貪欲であった者らからははつかねずみの匂いがあたりに拡がり、無垢な者を迫害する者からは南京虫の匂いが発散している。これらの匂いは内的感覚が開かれて、霊と共になることが出来る者によらなくてはたれからも嗅がれることは出来ない。

 

 

 

 

12.本来の自己への愛と世への愛

 

 

神の愛と知恵396

 

 自己への愛と世への愛とは奈落的な愛であるのに、人間はその中へ入って、自分の中に意志と理解とを覆すことが出来た理由は以下のようである、即ち、創造による自己への愛と世への愛は天界的な愛である、何故ならそれらは基礎が家に仕えるように、霊的愛に仕える自然的な人の愛であるから。何故なら人間は、自己と世への愛から、自分の身体の幸いを求め、食物、着物、住居を欲し、家族の幸いを切望し、用のために職業を確保し、また服従のために、その司っている事柄の貴さに従って尊敬されることをさえ求め、世の享楽の中に歓喜と休養とを得ようと求め、しかもその凡ては用でなくてはならない目的のために求めているのである。何故ならこれらの物を通して人間は主に仕え、隣人に仕える状態にあるからである。しかし主に仕え、隣人に仕える愛がなくて、単に世によって自己自身に仕える愛のみが在るとき、その愛は天界的なものではなくなり、地獄的なものとなる、何故ならその愛により人間はその心と性質とを人間自身のものに沈ませ、そしてその人間自身のものはそれ自身では全く悪であるから。