日本
1.スウェーデンボルグ
2.ヴァッスーラ
3.島々
4.今後の世界と教会との状態
5.或る国民
6.1998年、主から日本のために与えられたメッセージ
7.ルシファー
8.聖母から司祭へ
9.キリスト教徒以外でも救われる
10.イザヤ書
11.エゼキエル書
12.「インド、日本、アフリカ、または他の何処から来られたか」
13.日の丸
14.陽が登る
15.日の昇るところ
16.日本の指針・・・律法を守ること
17.邪な者は凡て自分は力のある者であると信じ、善良な者は凡て力に欠けた者であると信じている
19.サンダー・シング
真の基督教298
「『霊的な意義では』神の名は、教会が聖言によって教え、主が由って以って呼び求められ、礼拝されるところの凡ての物を総括的に意味する。」
それ故、神の名を妄に口にあぐることは、その何れかを空しい談話に、誤った主張に、虚言に、呪いに、魔術に、呪文に用いることを意味する、何故ならこれもまた神を罵り、冒涜し、従って神の御名を罵り、冒涜することであるからである。(続き)「神の名は聖言を意味し、それ故、その上に基礎づけられている全宗教を意味することは、以下の記事によって明白である。
『日の昇る所より我が名は呼び求めらるべし』(イザヤ41・25、26・8、13)。」
『日の出る処より、入る処まで、列国の中に我が名は大ならん。また何処にても香を我が名に献げん。なんじらエホバの台は汚れたりと言いて、わが名をけがしたり、汝ら裂かれしもの、足の傷付いたもの、病めるものを携え来りて、これを嘲りたり』(マラキ1・11−13)。
1.スウェーデンボルグ
天界の秘義621
聖言には一つの言葉は決して他の言葉としては考えられてはおらず、その主体となっているものを適切に表現する言葉が一環して用いられ、しかもそのことが極めて正確に行われている故、たとえばここの『腐敗した』、『暴行』という言葉のように、用いられている言葉のみからでも、内意に在るものがすぐに明らかになっているのである。
天界の秘義671
再生していない人間は真理の理解を、または善の意志を持っておらず、たんにそのようなものであるように思われて、普通の言葉でそのようなものであると言われているものを持っているに過ぎないのである。しかし再生していない人間は理性と知識のいくたの真理を受けることはできるが、しかしその真理は生きてはいないのである。彼はまた異邦人の中に、また獣の中にすら存在しているような、一種の意志の幾多の善を持つことが出来るが、それらもまた生きてはいないのであって、それらは単に類似物に過ぎないのである。人間の中のこのような幾多の善はその者が再生し、かくてその幾多の善が主により生かされない中は生きてはいないのである。他生では生きているものと生きていないものとは極めて明白に認められている。生きていない真理は物質的な、繊維のような、閉じ込められた物として、生きていない善は木のような、骨のような、石のような物として直ぐに認められている。しかし主により生かされている真理と善とは開いており、生命に満ち、霊的な天的なものに満ち、実に主からさえも開かれて明らかになっており、しかもこれは凡ゆる観念の中にも、凡ゆる行為の中にも、実にその何れもの最小のものの中にさえも行われている。
天界の秘義1250[3]
また他のところには―
かれはその家の戸の方へわたしをつれかえって、その中に入れた、すると見よ、水が東の方の家の敷居の下から流れ出た、その家は東の方へ面していた(エゼキエル書47・1,8)。
これは新しいエルサレムを語っており、『東』は主を意味し、かくて愛に属した天的なものを意味し、『水』は霊的な事柄である。そのことが私たちが今取扱っている記事の中で『東の山』により意味されているのである。更にシリアに住んでいた者たちは『東の息子たち』と呼ばれたのであり、そのことについては、今後主の神的慈悲の下に述べよう。
天界の秘義6493
凡ゆる物は、否、凡ゆる物の中でも最小のものでも、最小のものの中でも最小のものでさえも、その一歩みそのものでさえも、主の摂理により左右されており、それに反したスフィアが支配するときは、不運なことが起こるのである。彼らはまた以下の事実を確認した。即ち、偶然というようなものは無い。偶然、または幸運と見えるものも、凡ゆる物が比較的不定なままに存在している秩序の究極的なものにおける摂理である。
天界の秘義6494
ゲームにおいてさえ、幸運に帰せられているものは霊界から来ており、まして人間の生活のコースの変遷に関連して人間に起こるものはさらにそこから来ているのであり、幸運と呼ばれるものは秩序の究極的なものにおける摂理の流入から発していて、そこにそれがそのように現れるのであり、かくて摂理は、髪の毛一筋でさえも神の意志がなくては頭から落ちはしないという主の御言葉に従って、凡ゆる物の中で最も個別的なものの中にすら存在していることをわたしは知ることができたのである。
天界の秘義7007
偶然的なことがらも摂理から発している。
天界の秘義10227
主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、即ち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]とが生まれてくるのである。この凡てから或る者は賢明になり、また或る者はそれほど賢明でなくなることが何処から生まれてくるかが明白であり、また富んだ者はさらに多く捧げてはならないし、貧しい者もさらに少なく捧げてはならない理由も明白である―すなわち、凡ての者は同じく賢明になる能力をもっているのであり、実に賢明になる等しい能力をもっているのではないが、何れも賢明になることができるため、賢明になる能力をもっていることにおいては似ているのである。
天界の秘義2679
人間のあらゆるものはその最小のものすらも主により予見され、永遠にその者の未来の状態のために供えられており、しかもそれは何らかの方法で可能な限り、またその者が自分自身が主により導かれるのに甘んじる限りその者の益になるように行われているのである。
天界の秘義1150
「ヤペテの息子たち」。これらは内なる礼拝に相応した外なる礼拝を持っていた者たちを意味していることは前に説明した。外なる礼拝はその礼拝の中に本質的なものが存在していると言われている。この本質的なものとは心から主を礼拝することであり、それは仁慈または隣人に対する愛が存在しない限り決して在り得ないのである。仁慈または隣人に対する愛の中に主は現存されており、その時主は心から崇拝され給うことが出来るのである。かくて崇拝は主から発している、なぜなら主は崇拝における能力そのものと存在そのものを与えられるからである。ここから人間の仁慈の如何にその者の崇拝がまたは礼拝が応じていることが生まれている。礼拝は凡て崇拝であるが、それは礼拝が礼拝となるためにはその中に主を崇拝することが存在しなくてはならぬからである。ヤペテの息子たちは、または『ヤペテの息子たち』と呼ばれた諸国民と諸民族とは互に相互的な仁慈の中に、友情の中に、礼儀の中に、単純の中に生き、それで主は彼らの礼拝の中に現存されたのである。なぜなら主が外なる礼拝の中に現存される時、外なる礼拝の中には内なる礼拝が在り、即ち、内なる礼拝に相応した外なる礼拝が在るからである。以前このような国民が極めて多くいたのである。そして現今でもまた礼拝を外なるものから成立させて、内なる礼拝の何であるかを知っておらず、またはそれを知るにしてもそのようなものについては考えはしない者が居るのである。もしこうした人物が主を承認して、隣人を愛するならば、主はその者らの礼拝の中にあらわれるのであって、かれらはヤペテの息子たちとなるのである。しかしもし彼らが主を否定し、自分自身のみを愛し、隣人を意に介しないならば、特にもし彼らが彼に憎悪を抱くならば、その礼拝は内なる礼拝から分離した外なる礼拝であり、彼らはカナンの息子らとなり、またはカナン人となるのである。
2.ヴァッスーラより
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち[巻P21
1995・3・30 日本―東京
わが主よ? 天より、聖なる栄光に満ちたお住まいより 見おろして下さい。私は今ここであなたの子どもたちの間にいます、けれどもなんと多くが あなたを本当に思いやり深い父親としては知らないままでしょう。
お父さま、み名が知られますように。あなたは私どもの父親ですので、子どもたちをあなたの霊をもって道案内して下さい。今や天を開き、私どものもとにおいで下さい。国中が、あなたの現存を前に、心動かされ 彼らを囚えている罪の力を手放すでしょう。あなたの現存を前に、この国たみも娶られて:
「花嫁」
と呼ばれるようになりましょう。
そう! 私はこの国たみを娶る、いたわりと愛をもって娶り、やがて彼らは声を一つにして私の名を 悦びをもって宣言しよう:
「私どもの父よ!」と。
こうしてこの地すべてが 私と婚姻を結ぼう・・・「花婿が花嫁を喜びとするように 私はあなたを喜びとする(*)」
* イザヤ書62.5
後ほどイエスが話されました:
日本の我が子たちのために祈りなさい。こう書いて伝えるように:
あなた方の時代、この暗やみの時代に、私は我が聖なる顔を皆に現した。私の現存を思い出してもらいに来たのは 裁くためではない、あなた方皆を 私の聖心に引き寄せるため!私は 目の見えない人には見える力を与え、見えていると言う人からは 見る力を取り上げるつもりです。心を開いて私に話しかけなさい。私の名はイエス、そしてイエスとは「救い主」を意味する。
もうすぐ本当に間もなく大勢の天使をともない 私はやって来る、そう、再臨は迫っている。周りをよく見なさい、私の印に気づかないか?私を怖がらないでほしい、私は唯一の真理 あなたが天国に行く道。ありのままのあなたで 私のもとに来なさい、聖人になるまで待つのではない、こうは言わないように、まこと愛する日本の人びとよ:「私は言葉が出せない、出せたとしても、聞いては下さらない」と。私は今 あなたの戸口に立っている、与えようと 私の心を手に持って。私は聖心 あなた方皆に新しい愛の讃歌をつくった。慈悲は今下るのです 私を探したことなく 私を全く知らないあなた方皆も聖人たちの集いに加わるようにと招いて。聖書ではこう言っている:「神は人を分けへだてなさらない、どの国の民でも 神を畏れて正しいことを行う人は 神に受け入れられる(*)」私が柔和でおだやかな神だとは知らなかったか、赦すにはやく 慈悲に溢れていると? 自らをふさわしくない者とするあなたの心根が私を引きつけるのです 私はすべてであって あなたの面倒をみるがゆえ。あなたの届かない手を見て私は天から身をかがめ その手を引き上げずにはおれないのです。それゆえ心に 私を入らせてほしい 我が栄光であなたを飾ろう! 私を探しなさい そうするなら見いだす、叩きなさい 戸は開かれる。たとえあなたが:「主の御心に踏み込むなど とうてい私にはできない」と言おうと、私は言う:「あなたは私の子ども、私のものであって私が蒔いた種子。私に属するのであって誰のものでもない。あなたは私に由来し 誰から来たのでもない。それゆえ 我が心の中にいてほしい。」―そう、まだ私を探していなかったかも知れない だが私はあなたを見いだした。これが、我が子 日本よ、あなたへのメッセージ。あなたを祝福し、額に 我が愛の溜息を残す。
*使徒行録10・34−35
3.島々
イザヤ42・4
島々は彼の教えを待ち望む。
天界の秘義1158
「これらから諸々の国民の島々はその地に拡がった。」これは多くの国民の礼拝はこれらから発したこと、『島々』は個々の領域であり、かくて更に隔たった個々の礼拝であること、『地』はそれらのものの全般的なものであることは聖書の『島々』の意義から明白である。これまでは内なる礼拝に更に近づいた者たちが取扱われてきた。ヤペテの七人の息子たちにより真の内なる礼拝から更に隔たった者らが意味されたのである。『諸国民の島々』によりそれよりも更に隔たった者が意味され、互いに相互的な仁慈に生きているが、それでも無知であって、主については教会の信仰の教義的なものについては、内なる礼拝については何事も知らないが、それでも或る外なる礼拝を持ち、それを宗教的に守った者たちが元来意味されているのである。こうした者たちは聖言では島々と呼ばれており、それで『島々』により、その内意では、内なる礼拝から更に隔たっている礼拝が意味されているのである。
天界の秘義1158[2]
天使たちのように、聖言の内意の中にいる者たちは『島々』を何ら知っていない、なぜならかれらはこうしたものをもはや何ら考えないで、代って教会から発した諸国民の礼拝のような、さらに隔たった礼拝を認めるからである。そして同じようにかれらは友情と礼儀のような、教会そのものの中に在って、仁慈からは多少隔たっている事柄を認めている。友情は仁慈ではなく、まして丁重なことは仁慈ではない―これらは仁慈の下位に在る度のものであり、それらが仁慈から多くのものを得ているに応じて、益々誠実なものになっている。
天界の秘義1158[3]
こうした事柄が『島々』により意味されていることは聖言の以下の記事から認めることが出来よう。イザヤ書には―
ああ諸々の島よ、わたしの前に沈黙を守り、諸々の民にその力を再び新たにさせ、彼らを近寄らせよ。島々は見て恐れ、地の端は震えた、彼らは近づいて来た(41・1,5)。
ここでは島々は外なる礼拝を宗教的に守っているところの、教会の外にいる正しい諸国民を意味している。教会が存在している地域の最端は『地の端』と呼ばれている。同書には―
かれは地に審判を行われないうちは暗くはなく、また千々に砕かれもしない、島々はかれの律法を待ち望むであろう。海とそれに満ちたものとに降って行く者たちよ、島々とそこに住む者たちよ、エホバに向って新しい歌を、その賛美を地の端から歌えよ。彼らにエホバに栄光を与え、その賛美を島々の中に宣伝させよ(42・4、10、12)。
ここにもまた『島々』は無知と単純と公正の中に生きているところの教会の外にいる諸国民を示している。
天界の秘義1158[4]
同書には―
ああ島々よ、わたしの言葉に耳を澄ませよ、遠くから来ている民よ、耳を傾けよ(49・1)。
これも同じく主を拝する礼拝から、また信仰の諸々の知識から更に隔たっている国民を意味しており、それで『遠くから来ている』と言われている。更に―
島々はわたしに望みをかけ、わたしの腕にかしづくであろう(51・5)。
これも同じことを意味している。彼らは公正をもって生きている者であるため、『彼らはわたしに望みをかけ、わたしの腕にかしづくであろう』と言われている。
静思社/スウェーデンボルグ/聖書116
私は、(遠い)島々に生まれて、社会的な事柄については合理的ではあったが、神については全く何ごとも知ってはいなかった人々を見ることを許されたことがある。霊界ではこうした者は猿のように見え、その生活も猿のそれに酷似しているのである。しかし彼らは、人間として生まれ、従って霊的生命を受ける能力を与えられているため、天使たちから教えられて、人間としての神を知ることによって霊的に生きたものとなされるのである。
(真の基督教274、霊界日記5822にも同)
4.今後の世界と教会との状態
最後の審判とバビロンの滅亡73
今後の世界の状態は現在までの状態と全く同じであろう。なぜなら霊界で起った大きな変化も自然界の外なる形には何ら変化を起こさないからである。それゆえ、この後も前のように民事が在り、前のように平和や、条約や、戦争が在り、全般的にもまた個別的にも社会に属する他の凡ての事が在るであろう。主は以下のように言われた。
最後の時に戦争が起り、国民は国民に抗って、王国は王国に抗って立ち上がるであろう。色々な所に飢饉、疫病、地震が在るであろう(マタイ24・6,7)。
これはこうした事が自然界に存在するであろうことを意味するのではなく、それに相応した事が霊界に存在するであろうことを意味している。なぜなら聖言はその予言では地上の王国を取扱わず、またそこの飢饉や、悪疫や、地震も取扱わず、それらに相応した霊界の物を取扱うからである。これらの物は如何ようなものであるかは、「天界の秘義」に説明されており、その主題に関係した記事を集めたものは下に見ることが出来よう。(略)しかし教会の状態については、その状態こそ今後相違するものである。それは実際、その外見では同じであるが、内部では異なるであろう。外見では、これまでのように、分離した諸教会が在り、その教義はこれまでのように教えられ、そして今と同じような諸宗教が異邦人たちの間に存在するであろう。しかし今後は教会の人は、霊的な自由が彼に回復されている故、信仰の事柄については、引いては、天界に関わる霊的な事柄については、更に自由に考える状態に在るであろう。なぜなら天界と地獄との凡ての物は今や秩序に復し、神的な事に関わる、また神的なものに反抗した考えの凡てはそこから流れ入り、即ち、天界からは神的なものに調和した考えの凡てが、地獄からは神的なものに反抗したものが凡て流れ入るからである。しかし人間は自分自身の中のこうした状態の変化に気づかない。なぜなら彼はそのことについて反省もしないし、また霊的な自由や流入については何ごとも知らないからである。にも拘らずそれは天界で認められており、またそれは人間自身によりその死後認められるのである。霊的自由が人間に回復されたゆえ、聖言の霊的意義は今や明らかにされ、それにより内的な神的真理が啓示されたのである。なぜなら人間はその前の状態ではそれを理解しなかったであろうし、それを理解した者は、それを冒涜したであろうから。人間は天界と地獄との均衡により自由を持つこと、人間は自由にいない限り改良され得ないことは、「天界と地獄」の著作(597の終り)に見ることが出来よう。
5.或る国民
最後の審判とバビロンの滅亡74
私は今後の教会の状態について天使たちと色々語り合った。彼らは以下のように語った。私たちは将来の事は知らない。なぜなら将来の事は主のみが知っておられるからである。しかし私たちは、以前教会人の陥っていた奴隷と捕囚の状態とは取り去られ、今や教会人は自由を回復し、そこから内的な真理をもし認めようと欲するなら、更に良くこれを認めることが出来、かくて、もし欲するなら、さらに内的なものとされることが出来ることを知っている。しかし私たちは依然基督教会の人たちには希望は僅かしか持っていない。が、基督教世界から遠く離れ、そのため、「霊界の」悩ます者らから遠ざかっている或る国民には多くの希望を持っている。その国民は霊的な光を受けて、天的な、霊的な人間になされることの出来る国民である。また彼らは言った。現在内的な神的真理がその国民の中に啓示され、また霊的な信仰をもって、即ち、生命と心の中に受け入れられ、彼らは主を崇拝している、と。
霊界日記4779
終いに、私が、直ぐ前に話した者たちから別れた際、彼らが、非常に熱心に、非常な集まりの中で、神を讃美し、ハレルヤと歌うのを聞いた。後で私は連れ戻されたが、高い辺りへ連れ戻されたのであり、そこにはアジアの北の部分の地域から来ている霊たちがおり、彼らは、その世における生命[生活]から、私が前に話した天界の教義を受けることが出来るような気質のものであることが認められた。後で私は、科学の中にいる者たちが、即ち、現今人間の学問が吸収されている源泉となっているようなものの中にいる者たちがいる地域へ連れ戻されたが、そこには以下のことが認められたのである、即ち、そこの凡ての者は、主は単に人間であられるという理由のみから、主が只一人の神であり得ることを全く把握することが出来ず、主が神であり得ることさえも把握することが出来ず、かくてこれらの者はその天界の教義を極めて僅かな度においてしか受けることが出来なかったのである。なぜなら彼らは、科学により認識の賜物をことごとく消滅させてしまっているため、それがそうで在り得ることを何ら認識しないからである。しかしそこの右の方の、さらに遠い地域には、下の方に、更にかの教義を受ける能力を持っていて、事がそのあるがままのものであることを認識する賜物を、科学により、消滅させはしていなかった者たちがいたのである。
霊界日記4780
このことから以下のことが明白であった。天界の教義は少なくともその諸国民から、この地球の色々な地域から来ている霊たちに宣べ伝えられ、そこから他の地球の霊たちのもとへも宣べ伝えられるのである。この主題はさらに続いて以下に取り扱うことにしよう。
天界と地獄27
天的王国の天使たちと霊的王国の天使たちとはこのように区別されているため、彼らはそうした理由から同じ所にはおらず、また共に交わりもしない。彼らは、天的霊的なものと呼ばれている中間の天使社会を通してのみ連なっている。この社会を通して天的王国は霊的王国に流れ入っている(*)。そこから、天界は二つの王国に分割されてはいるけれど、依然一つのものとなるようになっている。主は常にこうした中間の天使たちを供えられ、その天使たちを通して伝達と連結が行われている。
*その二つの王国の間には、天的霊的なものと呼ばれている天使社会により伝達と連結とが行われている、4047、6435、8796、8802、主は天的王国を通して霊的王国へ流入されている、3969、6366。
霊界日記4783
これらの事柄から、主が最後の審判について話されているところで、主が言われているものに意味されていることが明白となったのである、それは[最後の審判は]主が来られること、代の終結[完結]と呼ばれており、その時にはまた神殿は破壊されるに違い無いのである(マタイ24・1−3)。天使たちは主が来られることについては、以下のように言った。即ち、新しい教会が興されなくてはならない度毎に、主御自身が来られて、教えられなくてはならないのであり、そのことは最古代教会と古代教会とが設立された時と同様であり・・・・・・・・・・・・、特に、ユダヤ教会が設立された時と同様である。即ち、その際主はモーセに藪の中で現れ、更にシナイ山で現れ、また予言者たちを通して現れ給い、予言者たちにより、主御自身から発している聖言が与えられたのであり ― 同じようにまた、今そのもとに新しい教会が設立されなくてはならない者たちのもとにも(現れ給うのであり)、その者たちに主御自身が天使たちにより教えられるのである。更に、アフリカ人はこの地球内の他の者以上に天界の教義を受け入れるのであり、そのことはそこから来ている霊たちから知ることが与えられたのである。これらの者は、主にかかわる教義を、天使たちから、進んで受け入れるのである。彼らは、主は全く人間として現われ給うに違い無い、そのことは他の方法では起り得ないことを、彼ら自身の中に、他の者にもまさって、植え付けているのである。彼らは信仰の諸真理のみでなく、その諸善を受け入れる能力を得ているのである。彼らは天的な資質を持っている。
天界と地獄514
これらの者の後に、更に北寄りに、色々な異教を奉じた民族の教育所がある。彼らは世ではその宗教に従って善良な生活を送り、それによって一種の良心を得、公正なことを行ったが、それは彼らの政府の法律のためというよりは、宗教の律法のためであって、その律法を神聖に守らなくてはならぬものであると信じ、決して行為では破らなかったものである。すべてこれらの者は教えられると、容易に主を承認するようになるが、それは神は見えない方ではなくて、人間の形を持った見える方であるということがその心に刻みつけられているためである。これらの者は数では他の凡ての者にまさっており、その中でも最良の者はアフリカから来ている。
天界と地獄515
しかしマホメット教徒は世ではその宗教を奉じて、後に基督教に回心した天使たちから教えられている。異教徒も同じようにその各々の天使たちから教えられている。
6.1998年、主から日本のために与えられたメッセージ
世のひかり社/パウロ・ファローニ神父/時の神秘/第2巻P57(1998.9.17発行)
予言者レオノルさんは、つづけます。
「私はじっさいに裁判官として罰をあたえるおん父をみました。その瞬間おん父が、『流れ星が地球のまわりに動いています。それは一つの天体をひきずって衝突して爆発します』といわれました。そのお言葉を聞いていたとき、アメリカにあたる地球の部分が罰をうけているのをみました。ここに大地震が起っているのだとききました。また津波におそわれ、火につつまれた大陸もみました。
巨大な波、火の海に沈む森、そして火花のように砕け散るニューヨークの高層ビルをとりかこむ火もみました。人々が炎につつまれて窓から飛び下り、叫びながら火の中におちるのも見ました。部分的に日本も見ました。果物を半分に切ったように、山が裂けるのも見ました。同じその時に世界全体を揺り動かす大地震が起き、数秒のうちに山は地の中に吸い込まれ、あっというまに見えなくなりました。人々はきちがいのようになって助けを叫ぶのですが、無駄でした。もう時間がなかったのです。」
世のひかり社/パウロ・ファローニ神父/時の神秘/第2巻P76
(同書P68/1984年、ローマのあるカリスマティカへのメッセージ、の続き?)
これは1998年5月5日にイエズス様が、日本のために与えられた素晴らしいメッセージです。長く書いた苦しみの頁の最後に、喜びにあふれる一つの頁があります。では、りくつっぽい心をすて、純粋な心をもって、このメッセージを読みましょう。
「わが愛する地、間もなく述べ伝えられる新しい真理のゆりかごとなるべき日本よ、永遠の光をもって、全人類を照らす新しい太陽の輝きである神聖なる神のみ旨の真理は、あなたから広がることになるだろう。新しい夜明けのシンボルとして選ばれたわが地日本は、まもなくその日の出を見るだろう。
聖なる神のみ旨の太陽は、地上における私の王国の前奏曲、その新しい日を輝かすことになる。日いずる国日本よ、あなたこそ、この聖なる王国のシンボルである。すなわち、私がひとりひとりの人に与えたいと願っている私の意志の賜物のシンボルとなるだろう。
夜明けと共に輝きわたり、すべての被造物に光と命を与える太陽のように、あなたも、私の太陽となるだろう。それこそ、まことの太陽である。
すべての霊魂に神の命を与える神聖なみ旨の太陽よ、これまで見たこともないほどの、新しい聖性へと蘇らせるために、あなたは血をもって証ししなければならない。
わが愛する地よ、私はそうする。あなたの中にある悪を消し去って、まもなくすべての国民に私の権能を示そう。
邪悪な世界において、神性な太陽としてあなたは蘇り、人類に私の意志の賜物を証ししなさい。すなわち、人々を照らす光、地上のすべての国民に命を与える新しい天と、新しい地を示すことができるように。また、そこでは、正義が地球にその住まいを定めることができるように。
愛する地である君よ、私を祝福し、私を礼拝し、私に栄光を与え、正義と平和と、愛の地と呼ばれることになるであろう。私はその時が来たら、これらの事を素早く実現させる。
私はイエズス、私は愛、私は神のみ旨の王国の最高責任者である」と。
イエズスさまは、この最後のお言葉をもって、日本に与えたメッセージにサインされました。
7.ルシファー
イザヤ14・12−15
ああ、お前は天から落ちた
明けの明星、曙の子よ。
お前は地に投げ落とされた
もろもろの国を倒した者よ。
かつて、お前は心に思った。
「わたしは天に上り
王座を神の星よりも高く据え
神々の集う北の果ての山に座し
雲の頂に登って
いと高き者のようになろう」と。
しかし、お前は陰府に落とされた
墓穴の底に。
エゼキエル28・1−10
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。
それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。
8.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ 1978年5月31日 京都にて
私はあなたのためにすべてを準備しました
ごらんのとおり、私が前に知らせたことは、すべて実現しようとしています。日本においてもそうです。大国であるこの国は、国民のほとんどが末信者であるが、私の汚れなき心に奉献されました。私がここでも、あなたのために、こまかい点にいたるまで、準備してあげたことが分かるでしょう。それであなたとしては、何も心配しないでください。素直な心と、信頼と、全く委託をもって、すべて私にまかせながら、日々あなたの天の母が準備したことをすればいいのです。
私には、わかっています。たしかに、私の敵があなたを脅迫しようとしています。それであなたは、ますます私の汚れなき心に逃れてください。
あなたと・・・、私の特に愛する子であるすべての日本人を、私は祝福します。
聖母から司祭へ1993.9.8
聖母マリアご誕生の祝日 大分県別府市(日本)
けんそんの道を辿って清くなることを習いなさい。
あなたたちが生きているこの時代に、わたしの敵は、罪と不潔の暗闇をもって多くの人々を迷わせるのに成功しています。ですからあなたたちは、かえって、清さを保ち、しみのない、聖なる司祭生活の手本を与えなさい。すべてに越えて、独身生活の約束を忠実に守る喜びの証を与えますように。
それは、あなたたち司祭としての体は、世間と世間のすべてのいざないに対して、十字架につけられなければならないからです。
このためにこそ、わたしの小さな息子よ、わたしはわたしの誕生の日に、あなたを再びこの遠い大国に連れてきたのです。ここで、異教の暗闇に沈んだまま生活しているいく千万の兄弟たちをごらんなさい。かれらは、唯一の聖なる羊檻(おり)に入る時を待っています。すなわち、ついに、唯一の善い牧者の慰めのみ声を知るためです。
きょうこそ、わたしは知らせます、あの偉大な奇跡が間もなく実現するでしょう。世界におけるわたしの汚れなきこの心の勝利と共に、今まだ異教徒であるこの大国の民は、イエズス・キリストを良い牧者と仰ぐ羊の群れの中に入ってくるでしょう。
あなたたちは、従いやすい心をもって、あなたたちの天の母の言葉を聞き、謙遜と信頼のうちにこの“とき”にそなえる準備をしなさい。
きょう、わたしは、あなたたちを祝福し、あなたたちの手をとって、大きな試練の苦しい日々を乗り越えて生きるように導きます。この試練はすでに始まっています。この試練は主を迎える準備をさせるためです。主は、光栄にみちたご自分の王国の輝きをもって、あなたたちのもとに帰ろうとしておられます。
聖母から司祭へ1993.9.15悲しみの聖母の記念日
日本の司祭たちと共にチェナクルムの形で行われた黙想会 東京(日本)
わたしの大きな悲しみのわけ
日本における司祭のマリア運動の最愛の子らよ、きょう、あなたたちが、祈りと兄弟愛のこのチェナクルムに集まっているのを、わたしは見ています。
わたしの大きな悲しみの一つのわけは、異教の暗闇に沈められたわたしのあわれな子らが福音の真理を知らないということです。この大きな国で、ほとんどの人が、イエズス・キリストの信仰からまだ遠いということです。イエズス・キリストこそ、あなたたちの唯一の救い主、唯一のあがない主となるためにこの世に来られた方です。
わたしは、このすべての異教徒の母でもあります。この人々の救いに心をくばり、気づかっています。わたしは、この人々の心の中に生命と善の種を養っています。そして、神がすべての人の心の奥深くきざまれた掟を守るように助けてあげます。このようにして、わたしは、この人たちを、わたしの子イエズスを迎えるように優しく導きます。この人々が、全体的に、そして完全に福音を守るようになるのは、わたしの汚れなき心の特別な働きによるでしょう。
わたしの大きな悲しみのもう一つのわけは、わたしの教会にあります。
教会は、世界中どこででも、大きな艱難の、血まみれの苦しいゲッサマニを通っています。
わかったでしょう、わたしの小さな息子よ、同じくここ日本においても、教会は、たえずより広く人を欺く謬説の拡がりによって、信仰を失う危機にさらされています。
ここで教会は、教皇とその普遍的教導職に対する反抗と対立によって、その一致が傷つけられています。またその聖徳は、増していく罪と涜聖によって、暗くされています。そのために教会は、麻痺状態におちいり、福音宣教の推進はひじょうに弱められています。
わたしの大きな悲しみのもう一つのわけは、あなたたちの天の母の願いを受け入れるにあたって、あなたたちの心の頑固さと無能です。
わたしはいく度もあなたたちに話しかけたのに、あなたたちは耳を傾けませんでした。
わたしは、母としてわたしが干渉しているということの特別な“しるし”を与えたのに、あなたたちはそれを信じませんでした。
どれほど多くの人々が、心の戸をかたく閉ざしたことでしょう! わたしを自分たちの生活の母として受け入れるのを望まなかったのです。
そうです、わたしは、この国において、あなたたちに特別なしるしを与えました。
すなわち、わたしの子イエズスの十字架のもとで、悲しむ母としてわたしを表現するわたしの像の中の一つから、百回以上も多くの涙を流させました。
それと同時に、わたしは、あなたたちを待ち伏せている大きな危険を警戒させるために、メッセージも与えました。
今こそ、わたしは、大試練の時が到来したことをあなたたちに知らせます。それは、わたしが前もって告げたことが、これからの数年に実現するからです。
教会に棄教と大離教が起きようとしています。それにわたしが、この場所で、前もって予告した大天罰が、今、すでに門の入り口にまで来ています。
空から火がふってきて、人類の大部分が亡ぼされるでしょう。生き残る人々は死んだ人々を羨むでしょう。なぜなら、あらゆる所が、破壊と死と荒廃と化すからです。
そのために、わたしの小さな息子よ、わたしは、あなたが再びここに来ることを望みました。なぜなら、あなたは、天罰の時が来たことを、すべての人に言い、それから守られ、救われるために、人々はみな、わたしの汚れなき心の確かな避難所に入らねばならないと、いわなければならないからです。
わたしの最愛の子らよ、自分たちの家に帰って、このわたしのメッセージを、すべての人に知らせなさい。
このメッセージは、あなたたちの天の母からの最後の呼びかけです。わたしは、あなたたちをみな呼び、わたしのマントの下に集めています。それは、あなたたちが、あなたたちのこれらの最後の時の苦しい試練のあいだ、わたしから慰められ、守られることができるためです。
9.キリスト教徒以外でも救われる
天界の秘義2590
異邦人でも道徳的な生活を送って従順であり、相互愛に生き、その宗教に応じて何らかの種類の良心を受け入れた者は他生で受け入れられ、そこで天使たちから入念な配慮の下に信仰のいくたの善と真理とを教えられるのである。彼らは教えを受けている間、つつましく、理知的に、賢明に振る舞い、容易に教えを受け、またそれに滲みこむようになるのである。なぜなら彼らは、悪い生活を送った多くの基督教徒とは異なって、取り払ってしまわなくてはならない信仰の諸真理に反した原理を自ら形作ってはいないし、ましてや主に対し彼らを躓かせるものは何一つ形作ってはいないからである。さらにこのような者たちは他の者を憎まないし、危害を加えられても復讐もしないし、また術策や詐欺をたくらみもしない。いな、彼らは基督教徒に善意は抱いているが、これに反し基督教徒は彼らを軽蔑し、為し得る限り暴行を彼らに加えるが、しかし彼らは主により彼らの無慈悲から遠ざけられて、守られているのである。
[2]なぜなら広い世界では善い生活を送った基督教徒は、異邦人よりは優先的に受け入れられるが、現今ではこのような者は僅かしかいないが、しかし服従と相互愛に生きた異邦人は、それ程良い生活を送らなかった基督教徒よりも優先的に受け入れられるということが他生における基督教徒と異邦人との実情であるからである。
10.イザヤ書
イザヤ24・15
それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び
海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。
11.エゼキエル書
エゼキエル43・1−11
それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた。見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。
霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。 わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人がわたしの傍らに立っていた。
彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。
彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。
今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む。
人の子よ、あなたはイスラエルの家にこの神殿を示しなさい。それは彼らが自分の罪を恥じ、神殿のあるべき姿を測るためである。
もし彼らが行ってきたすべてのことを恥じたならば、神殿の計画と施設と出入り口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに知らせなさい。それを彼らの目の前で書き記し、そのすべての計画と掟に従って施工させなさい。
エゼキエル44・1−3
それから、彼はわたしを東に面した聖所の外の門の方へ連れ戻した。門は閉じられていた。
主はわたしに言われた。「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、閉じられたままにしておく。
しかし君主だけは、ここに君主として座り、主の前で食物を食べてもよい。ただし門の廊から入り、またそこから出て行かねばならない。
エゼキエル47・1−10
彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。
更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。
彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。 わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。
川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。
12.「インド、日本、アフリカ、または他の何処から来られたか」
霊界日記857
ある一人の霊が大胆に、また自信をもってやって来た。私たちが他の者たちと言葉を交わしながら主について話した時、彼は私たちが話している主とはたれですか、と訊ね、しかもそれが非常な自信をもって訊ねられたため、最初私は彼は信じているとしか考えない訳にはいかなかった。私はその方はイエス・キリストであられる、と言った。彼は、自分はその方はたれであるかは知らないし、その方については聞いてもいないが、自分は宇宙の創造者、一人の神のみを信じている、と言った。それで私は、あなたはどこから来られたか、あなたはこの地球に住んでいる者たちの一人であられるか、インド、日本、アフリカ、または他の何処から来られたか、を私に告げてくれるようにと、彼に求めたが、しかし私はそれを知ることは出来なかった。そのため私は未だこれらの言葉に何ら答えを与えることは出来なかった、なぜなら霊たちはその生きている時の間のその信仰の方面の事情に従って教えられねばならないからである。それで彼は自らを更に遠くへ移して、自分は宇宙の創造者以外のたれが主であるかを他の者たちから知らされたいと言った。私は、依然彼と話すことが出来たため、たれ一人真の信仰がなくては救われることは出来ない、と言った。すると彼は信仰とは何であるかについて、従って、いかようにして人間は救われるかについて尋ね、しかもそれもまた自信を持って尋ねた。遂に彼は、御子を信じない者は宇宙の創造者である一人の神を信じることは出来ない、なぜなら天と地における力はことごとく御子に与えられているからである(マタイ28・18)と話された。しまいには彼は神の子により意味されていることを、またはそうした存在が在ることを知ろうとさえもしなかった。なぜなら彼はそのことを理解することは出来なかったし、またたれか神の子が在り得ることを理解することも出来なかったからである。それで私は、信仰に属したそうした事柄はあなたらにはアルカナであって、例え私たちはそれを理解はしなくとも信じなくてはならないのであり、もし私たちが御子を信じないなら、地獄に断罪されることを決して避けることは出来ない、と答えた(マタイ16・16)。しかし彼は、自分は理解しない、それで自分は信じはしない、と主張した。その間私は、一団の悪霊らがいて、彼はその悪霊らに被術者〔被派遣者〕として仕えており、実情のいかようなものであるかを充分に知ってはいたものの、そのように偽り装うようにと派遣されていたことに気づいたのである。その間、いつものように、彼らから、即ち、その一団の者から、同じような信仰がその仲間に吹き込まれていて、それはそのスフィア全体が同じような見解または誤謬に半ば満ちているといったものであった。
天界と地獄179
注4.
色彩は赤を帯びるかぎり善を意味し、白を帯びるかぎり真理を意味している、9466。
天界の秘義4300
「陽は彼に登った」(創世記32・32)。これは善が連結することを意味していることは、『陽が登ること』の意義から明白であり、それは善が連結することである。『夜明けが近づくこと』により連結が切迫している、または始まりつつある時が意味されている(4283番を参照)。このことから『陽が登った』は連結そのものを意味していることが生まれている、なぜなら内意では『陽』は天的な愛を意味しており(1529,1530,2441,2495,3636,3643,4060番)、従ってそれは善を意味しているからである。なぜなら善はこの愛のものであるからである。天的な愛が人間のもとにそれ自身を明らかに示すとき(すなわち、それが認められるとき)、陽は彼の上に『登る』と言われるのである。なぜならこの愛の諸善がそのとき彼と連結するからである。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国4巻P42
さて、太陽が昇ったということを確認させてくれるものは、夜の闇を追い払う光と、この光によって伝え広がる暖か味である。もし太陽が昇ったと言いながら、夜の濃い暗闇がるのを見、なんの暖かさも感じないとしたら、あなたはどう言うか? それは本当の太陽ではなく、偽の太陽である。なぜなら、太陽が施す効果が見られないからだ。それでは、私の姿を見るときに、暗黒があなたから逃げ失せ、真理の光が示され、私の恵みの温度を感じさせるというのに、どうしてあなたの中で働いているのが私ではないのではなどと、頭を振り絞るのか?
イザヤ41・25
わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように/彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる。
ゼカリヤ8・7−8
万軍の主はこう言われる。
見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からも
わたしはわが民を救い出し
彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。
こうして、彼らはわたしの民となり
わたしは真実と正義に基づいて
彼らの神となる。
マラキ1・11
日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P12
律法を守る者には何が約束されているか? 繁栄、豊かさ、平和、権力、すこやかな数多い子孫、敵に対する勝利だ、なぜなら主は、いと高き者の子供たちに向かって手を振り上げようとする人々に反対し、そのしもべたちの剣の上に乗っておられるだろうから。律法に背く者は何におびやかされるのか? 飢饉、窮乏、戦争、敗北、疫病、神から見放されること、敵の重圧であり、これによって、いと高き者の子らは、すでに迫害され、殺戮に定められたおびえる家畜の群に似たものになるだろう。
あなたたちは生きている今を嘆いている。しかしあなたたちはそれを不当だと思っているのか? そのきびしさはあまりにも酷だと思うのか? いいや。それは正当であり、あなたたちに価するものよりも軽いものだ。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P164
神との友情、信者の幸福は、他のどんな富にも比べられないもので、その富を持っている人は、いつでも孤独ではなく、絶望、落胆の苦さを感じることがありません。しかし聖なる友情よ、あなたは苦しみを皆無にするのではありません。苦しみは肉体となった神のはからいで、人間の運命でもありうるからです。
マリア・ワルトルタ/手記/P37
わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。
家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。
17.邪な者は凡て自分は力のある者であると信じ、善良な者は凡て力に欠けた者であると信じている
神の摂理19
善と同時に真理にいるものはすべて真実であって、悪と同時に誤謬にいるものはすべて真実でない。善と同時に真理にいるものは有意義なものであることは前に理解することが出来よう(11)。このことから悪であると同時に誤っているものは真実なものでないことが推論される。それは真実なものでないことによりそれには力も霊的生命もないことが意味されている。悪と同時に誤謬にいる者は―その凡ては地獄に居る―実際互いに他に対し力を揮うことが出来る、なぜなら悪い者は悪を為すことが出来、またこれを幾多の方法により為しているからであるが、にも拘らず彼は悪い者にのみその者の悪を通して悪を為すことが出来るのである。しかし彼は善良な者を些かも害することは出来ない、もし彼が時折起こることではあるが、善良な者に害を加えるならば、それはその善良な者の悪に結合するこにより為されるのである。これが人が自分に付添っている悪霊により試みられ、苦しめられる原因であり、この試みと苦しみが争闘を生み、そのことにより、善良な者はその悪から自由にされることが出来るのである。悪い者は何ら力を持たないゆえ、地獄は凡て主の眼前には無に等しいのみでなく、力では絶対的に無である。私はこれが多くの経験により証明されるのを見た。しかし邪な者は凡て自分は力のある者であると信じ、善良な者は凡て力に欠けた者であると信じていることは注目すべき事実である。これは悪い者は凡てのものを己が力に帰し、それでそれを狡猾と悪意に帰して、何ごとも主に帰さないが、善い者は何ごとも己が思慮に帰さないで、凡てのものを全能の主に帰しているためである。更に悪と誤謬は結合しても、その中には霊的な生命はないため、何ら真実なものではない、この理由から奈落の生命は生命と呼ばれず、死と呼ばれている。さて、何ものももしそれに生命がないならば、真実のものでないゆえ、死の属性として真実をあげることは出来ない。
18.君が代
真の基督教788
予言者ダニエルはこの教会は前の凡ゆる教会に続いて起り、その凡てのものの冠として永遠に存続するであろうと予言した。このことを彼はネブカドネザルに四つの王国に関わる彼の夢を語り説明した時予言したのである。四つの王国により彼の夢の中の像によって表される四つの教会が意味されている。何故なら彼はかく語っているから。「この王らの日に天の神一つの国を建て給わん。これは何時までも滅ぶること無からん、この国はこの諸々の国を打ち破りてこれを滅せん。これは永遠に立つべし」(ダニエル2・44)。而してこの事は「大いなる磐となりて全地にみつる石」によって成就されるであろう(ダニエル2・35)。聖言では磐は神的真理の方面の主を意味する。同予言者は他の箇所に語っている。「我は夜の異象の中に観てありけるに、人の子のごとき者天の雲に乗りて来たり、これに権と栄と国とを賜ひて諸民諸族諸音(しょいん)をしてこれに事(つか)へしむ。その権は永遠の権にして移り去らず、またその国は亡ぶることなし(ダニエル7・13、14)。而して彼はこれを海から登り来る四匹の大きな獣を―それもまた四つの前の教会を表した―眺めた後語ったのである。ダニエルのこの予言は現代の教会に関わりを持つものであることは12章4節の彼の言葉およびマタイ伝24章15、30節の主の御言葉によって明白である。同様の事が黙示録に語られている。「第七の御使いラッパを吹きしに天に数多の大いなる声ありて、この世の国は我らの主およびそのキリストの国となれり、彼は世々限りなく統べ治め給はんと言う」(黙示録11・15)。
徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P124
サンダー・シングは、シンガポールから一時香港に立ち寄ったときに、英国聖公会のマロニー主教から日本への紹介状を受け、東京へ渡った。1919年2月27日、東京に着いた彼は、インドYMCA協議会事務総長K・Tポールに、次のような書簡を書き送った。
「わたしは現在この地で主の仕事に忙しくしている。人々は東京、横浜、京都、大阪、神戸、長崎での集会を整えてくれている。二、三週間後には、中国に行くつもりである。中国内陸宣教団が、上海、北京、南京、漢口での集会を整えている。こうして、世界各地で福音を説く道が開かれようとしている」。
彼は、このようにして伝道への希望に燃えて出発したが、いかんせん、サンダーの“サ”の字もまだ日本では知られていなかった。当時の日本は、相次ぐ大戦争の勝利にすっかり酔いしれ、国は上から下まで物質的なものばかりを求め、霊的富を貯えるなど、まったくもって眼中になかった。高まりゆく軍国主義の最中で伝道を開始したサンダーに耳を傾ける者は、集会に集まった英語のわかる一部の篤信のキリスト教徒以外、ほとんどいなかった。サンダー・シングは、こんな日本に大きな失望を感じたが、彼の説教と祈りをきいた一部の人々は、それでも大きな影響を受けた。
徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P127
知的・霊的事柄において、インドは日本からは何一つ学ぶものはない。日本は確かに偉大な国である。しかし、昨今の戦勝によって霊的生活の基盤がすっかり崩されている。
日本は、霊魂を滅ぼす西側の物質主義の洪水に、自ら飛び込んだ。今の日本は、この世的偉大さしか眼中にない。マネー・ゲームに狂奔し、神の言葉をきく耳を持たない。どんな宗教的訴えも、まった効き目がない。わたしは、日本の指導者たちとの対話を通して、この国に蔓延する不道徳を知るに至った。彼らは、倫理観あるインド人ならまさに「衝撃」の一語に尽きることさえ、平然といってのける。もっとも悪しきことに、日本は仏教すら真面目に受け取っていない。寺社はどこもかしこも、観光客とガイドだらけで、その数は信仰する者の数を上回っている。中国では、事はこれほどひどくはない。中国人は、まだしも宗教への敬意と愛を持っている。