富の善
天界の秘義3913[3]
連結の手段が存在しなければならないことは、自然的な人はそれ自身では霊的な人とは些かも一致していないで、全く対立している程にも一致してはいないという事実から認めることが出来よう。なぜなら自然的な人は自己自身と世とを顧慮して、それらを愛しているが、しかし霊的な人は自己自身と世とをそれが霊界における用を増進することに貢献している限り顧慮はするものの、それに貢献しない限りは顧慮しないのであり、かくて用と目的からその奉仕を顧慮し、またそれを愛するからである。自然的な人は自分が高位[顕職]に挙げられ、かくて他の者よりも一際卓越した地位に挙げられると生命を持っているようにその人自身に思われるが、しかし霊的な人は卑下の中に、またいとも小さいものであることの中に生命を持っているようにその人自身に思われるのである。彼はまた高位を、もしそれを手段としてそれにより自分が隣人に、共同体に、教会に仕えることが出来さえするなら、無視はしないのである。それでも彼はその挙げられた高位を自分自身のために顧みないで、彼が目的として認めている用のために顧みているのである。自然的な人は自分が他の者よりも富んで世界の富を得ると、その幸福の中にいるが、しかし霊的な人は真理と善とにかかわる知識の中にいるとき、その幸福の中におり、その知識が彼の富であり、彼が真理に従って善を実践するときは、更に彼は幸福の中にいるものの、それでも彼は富を、それにより彼はその善を実践して、世にいることが出来るため、軽蔑もしないのである。
天界の秘義3951[2]
更に人間が世に生きている限り生命の歓喜であるところの外なる幾多の善はそれが単に内的にこの善に与っている限り善である。例えば富の善を考えてみられよ。富がその中に霊的な善を持っている限り、即ち、それが隣人の善を、祖国の善を、または公共の善を、教会の善をその目的としている限り、それは善である。しかし私たちが今語っている霊的な善は世的に富裕になる条件の下ではあり得ないと結論し、それで天界のための席を得るにはこのような物を脱ぎ捨ててしまわねばならないと自分自身に説きつけている者は非常に誤っているのである。なぜならもし彼らがその富を棄て去り、または自分からそれを剥ぎ取るなら、その時は誰にも善をなすことは出来ないし、また自分自身が世では悲惨な生活を送る以外には生きることも出来ないし、かくて自分が救われて天界では他の者以上に偉大なものとなるためにただ自分自身を除いては、もはや隣人の善を、実に教会の善をさえも目的とすることは出来ないのである。さらに彼らは自分自身から世の財産を剥ぎ取る時は、自分自身を他の者の目から低く評価させ、従って奉仕をなし、義務を遂行する上に無益なものとしてしまったため、自分自身を人の軽蔑にさらすのである。しかし彼らが他の者たちの善を自分の目的とすると、その時はこの目的を遂行することが出来る状態をまた目的とし、または手段とするのである。
天界の秘義3951[3]
この間の実情は人間の栄養と正確に一致しており、それは人間が健全な身体に健全な心を得ることを目的としているのである。もし人間がその身体からその栄養を剥ぎ取るなら、彼はまた自分自身からその目的に必要な条件を剥ぎ取るのであり、それで霊的な人間は栄養を軽蔑しないし、またその楽しさをさえ軽蔑しないのである、それでも彼は楽しさを目的としては考えないで、単に目的に仕える手段としてのみ考えているのである。このことを例として私たちは他の凡ての事を判断出来るのである。
天界の秘義8478[2]
この節とこれに続いている諸節の中では内意に明日に対する心遣いが取り扱われているため、またこの心遣いは単に禁じられているのみでなく、また罪に定められてもいるため(それが禁じられていることは彼らはマナを朝まで残しておいてはならなかったことにより意味されており、それが罪に定められていることは、その残りのものに虫が涌いて、それが臭くなったことにより意味されているのであるが)、そのことを文字の意義以上に深く眺めない者は、明日に対する心遣いは凡て斥けなくてはならない、それで生活上必要なものは日毎に天から与えられるのを待っていなくてはならないと信じるかもしれないが、しかし文字よりも深くこの主題を眺める者は、例えば、それを内意から眺める者は『明日に対する心遣い』により意味されていることを知ることが出来るのである。
それは自分自身の食物と着物を得、将来のために貯えをさえ得る心遣いを意味しているのではないのである。なぜならたれでも自分自身と自分のもののために必要なものを供えることは秩序には反していないからである。しかし自分の分[運]に満足していない者、神的なもの[神]を信頼しないで、自分自身を信頼している者、世と地の事柄にのみ関心を持って、天界の事柄に関心を持たない者らは明日のために心遣いをするのである。こうした者らは遍く、将来の事柄に対する心労と凡ゆる物を得、凡ゆる者を支配しようとする欲望とに支配されており、その欲望はそのようにして得られたものに応じて燃え上がりもし、増大もして、ついには一切の制限を越える程にもなるのである。彼らはその欲する物を得ないなら、悲しみ、それを失うなら、苦しみ悶える、彼らは神的なもの[神]に対して、怒りを感じ、神的なものを信仰の一切のものとともに斥けて、自分自身を呪うため、慰めを持たない。明日のために心を労する者らはこのようなものである。
自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな(マタイ6・25)/
真の基督教403
健全な理性を持つ者は何人も富を軽蔑することは出来ない。何故なら、それは国の生命の血管であるから。彼はまた公の職務に与えられている名誉を軽蔑することは出来ない。何故なら公の僕は若し、その自然的な感覚的な愛が霊的な愛に従属するならば、王の手であり、社会界の柱であるから。天界にも亦行政機関があり、これに高貴が加えられているが、これを果す人々は霊的であるから、己が職務を果すことを愛するのである。
新エルサレムの教義97
人各々がその者自身の隣人である、即ち、人各々は先ず自分自身を考慮しなくてはならないと普通に言われているが、しかし仁慈の教義は、いかようにしてこのことが理解されなくてはならないかを教えている。人は各々食物、着物、住居や、その他その者の送っている社会的生活の状態から必然的に要求される多くの物といった生活上必要な物を自分自身のために供えなくてはならず、単にそのことを自分自身のためのみでなく、自分の者のためにも、単に現在のためのみでなく、また将来のためにもなさなくてはならない、なぜなら人間は自分自身のために生活の必要なものを得ない限り、仁慈を行う状態にいることは出来ないから。なぜなら彼は凡ゆる物に欠乏してしまうからである。