乞食
レア/
天界の秘義5886[6]
同書に以下のように言われていることも同様である―
あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、つきない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。
たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。
天界の秘義9209(2)
貧しい者と乏しい者とに益を与えなくてはならないと聖言に再三言われている。外なる真理の中にいて、未だ内なる真理へ入れられていない者たちは、何らかの種類の助けを必要としている者には凡て、特に自分自身を他の者より貧しいと呼んでいる乞食に益を与えなくてはならないと信じている。このことを、そのように命じられているため、服従から行う者らの行為は正しいのである。なぜならこの外なるものにより彼らは仁慈と慈悲の内なるものを徐々に教え込まれるからである。仁慈と慈悲との内なるものは、益をあたえられねばならない者らはたれであり、またいかような性格をもっているかを、またいかように各々の者にそれを与えなくてはならないかを明らかに見分けることに在るのである。徐々についに仁慈と慈悲の内なるものを教えこまれる者たちは以下のことを知るのである。 すなわち、この内なるものそのものは内なる人に善かれと欲し、また善かれと行動し、かくて霊的な生命に貢献するものをもってそのように行動はするものの、それでもその外なる人が益を受けるとき、同時に内なる人もまた益を受けるようにとの慎重さをもって行動することに在るのである。なぜなら外なる人には良く行動はするものの、内なる人には悪く行動する者は仁慈を行いはしないのであり、それで一方が行われるときは、他方のこともまた顧慮しなくてはならないからである。
啓示による黙示録解説110
『暗黒』に、『死の蔭』に、『暗闇』にいるが、目を主から開かれる者たちが聖言に多くの所でとり扱われており、かれらにより、善い業にはいたものの、主を知らなかったため、また聖言も持っていなかったため、何ら真理にはいなかった異邦人が意味されている。基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それでかれらは異邦人以外の者としては呼ばれることはできない。彼らは実際主を知ってはいるが、それでも主に近づきはしない。彼らは聖言をもっていたが、それでもその中に真理を探求しない。『わたしはあなたの住んでいるところを知っている』により彼らの性質を知ることが意味されている、なぜなら霊界では各々の者はその者の情愛の性質に従って住んでいるからである。ここから『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により、暗闇の中にある彼らの善の生命が意味されていることが明らかとなるであろう。サタンの霊ども[悪鬼的な霊ども]は、霊界で業のみにいる者らを通して力を得ているが、しかしその者らがいなくては何ら力をもっていない、なぜなら彼らは、その者らの一人が、わたしはあなたの隣人です、だから善いことをわたしに為してくださらねばなりません、と言いさえすれば、その者らを彼ら自身に接合させるからである、すなわち、その言葉を聞くと、彼らは近づいてきて、援助を与えるのである。彼らはまたその者がだれであり、またいかようなものであるかをたずねもしない、なぜなら彼らは真理をもたないからであるが、しかし真理のみによって人は他の者から区別されることができるのである。このこともまた『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により意味されている。
新エルサレムの教義97
人各々がその者自身の隣人である、すなわち、人各々は先ず自分自身を考慮しなくてはならないと普通に言われているが、しかし仁慈の教義は、いかようにしてこのことが理解されなくてはならないかを教えている。人は各々食物、着物、住居や、その他その者の送っている社会的生活の状態から必然的に要求される多くの物といった生活上必要な物を自分自身のために供えなくてはならず、単にそのことを自分自身のためのみでなく、自分の者のためにも、単に現在のためのみでなく、また将来のためにもなさなくてはならない、なぜなら人間は自分自身のために生活の必要なものを得ない限り、仁慈を行う状態にいることは出来ないから。なぜなら彼は凡ゆる物に欠乏してしまうからである。
(他生の乞食の状態)
霊界日記431
長い間乞食をしていて、ついにはそのことに快楽を覚え、かくて怠惰な生活から、自分のために食物といった必要な物を得ることの出来る勤労の生活に反感を覚えてしまった者らの状態、その者らは、極めて見苦しいぼろきれを着て裸で現れている、ということである。
真の基督教426
世で仁慈の業と呼ばれているものを為した多くの者は、是を一種の法皇の免罪符のように見做し、それが彼らを彼らの罪から浄め、彼らを真に再生した者と共に天国に入らしめると考え、しかも姦淫、憎悪、復讐、詐欺等、一般の肉欲を罪と考えないで、心のままにこれに耽溺する。然しその善い業は背景に悪魔のいる天使或は高価ではあるが中に蛇が一杯いる函として現すことが出来よう。この慈善の行為を為す者が上述した悪を、仁慈には忌むべきものとして避けるならば、事態は全く異なってくる。こうした行為、特に貧しい人々や乞食に施しをすることは多くの点に於て有益である。何故ならこうした外的な行為によって、少年少女、召使、その他の性格の単純な者達は仁慈の最初の教訓を受け、こうした行為は最初は未熟な果実のような仁慈の初歩であるからである。然し、仁慈と信仰の正当な概念が之に附加される時、それは熟した果実のようになり、かくて単純な心から最初為された以前の業は責務として認められるようになる。