レア

 

ラケル

自分らは憐れまれなくてならない

 

 

 

 

 

1.外なる真理の情愛

2.「レアの目は弱かった」

3.「レアはきらわれた」

 

 

 

 

1.外なる真理の情愛

 

 

天界の秘義3793

 

ラケルは内的な真理の情愛を、レアは外的な真理の情愛を表象しているのである。

 

 

 

天界の秘義3819

 

レアが『姉』と呼ばれているのは、外なる真理が先ず学ばれるためであり、ラケルが『妹』と呼ばれているのは内なる真理が後に学ばれるためであり、またはそれと同一のことではあるが、人間は先ず外なる真理に感動し、後には内なる真理に感動するためである、なぜなら外なる真理は内なる真理の面であって、その中へ単一のものが徐々に注ぎ入れられる全般的なものであるからである、なぜなら事物の全般的な観念がなくては人間は単一のものを何一つ把握はしないからである。これが聖言の文字の意義の中に全般的な真理が存在しているが、しかし内意の中には単一の真理は存在している理由である。前のものは外なる真理と呼ばれているものであるが、しかし後のものは内なる真理と呼ばれているものであり、真理は情愛がないなら、生命を持たないため、真理ではないため、それで外なる真理と言われるときはそれらの真理の情愛も理解されるのである。

 

 

 

 

2.「レアの目は弱かった」

 

 

新共同訳聖書/創世記29・16−17

 

ところで、ラバンには二人の娘があり、姉の方はレア、妹の方はラケルといった。レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。

 

 

 

文語訳聖書/創世記29・16−17

 

ラバン二人の女子(むすめ)を有(もて)り姉の名はレアといひ妹の名はラケルといふ レアは目弱かりしがラケルは美しくて妹(かほよ)し。

 

 

 

天界の秘義3820

 

「レアの目は弱かった」(創世記29・17)。

 

これは外なる真理の情愛はその理解についてはそのようなものであることを意味していることは以下から明白である、即ち、レアの表象は外なる真理の情愛であり(3793番を参照)、『目』の表象は理解であり(2701番)、『弱い』の意義は相対的にはそのようなものである。外なる真理の情愛は理解についてはそのようなものであることは、またはそれと同一のことではあるが、その情愛の中にいる者たちはそのようなものであることは、未だ単一的なもの[単一のもの]により明らかにされていない外なる観念から、即ち、全般的な観念から認めることが出来よう、即ち、その観念は薄弱で、不安定であり、いわば風がそよぐままに吹き流され、または言葉を換えて言うなら、いかような意見にも引き寄せられるのに甘んじているに反し、それが単一のものにより解明されると、確乎とした不動のものになるのである、なぜならそれはその単一的なものから『ラケルの美しい形と美しい目つき』により意味されているところの本質的な、また形の整ったものを得るからであり、ラケルによっては内的な真理の情愛が表象されているのである。

 

 

 

天界の秘義3820 []

 

外なる真理とその情愛により、内なる真理とその情愛により、また前のものが相対的には弱視であるが、後のものは形と目つきが美しいということにより意味されていることは例により説明することが出来よう。外なる真理の中にいる者たちは貧しい者に善を為さなくてはならないという単なる全般的な真理を知っているにすぎないで、真に貧しい者を識別する方法を知ってはいないし、ましてや聖言における『貧しい者』により霊的に貧しい者が意味されていることは知ってはいないのである。その結果かれらは悪い者に善を行うことは善い者に悪を行うことであることを知らないで、悪い者にも善い者にも同じように善を行うのである、なぜならそのことにより悪い者に善い者に悪を為す手段が与えられるからである。それでこのような単純な熱意の中にいる者たちは狡猾な者や詐欺漢にとりつかれて最大限に悩まされるのである。それに反して内なる真理の中にいる者たちはたれが貧しい者であるかを知り、貧しい者たちを区別し、各自にその者の性質に応じて善を行うのである。

 

 

 

天界の秘義3820 []

 

他の例を取ってみよう。外なる真理の中にいる者は、隣人を愛さなくてはならないという単なる全般的な真理を知っているにすぎないで、凡ゆる者が同じ度における隣人であり、かくて人各々を同一の愛をもって抱擁しなくてはならないと信じており、かくて自らが迷わされるままに甘んじているのである。しかし内なる真理の中にいる者たちは人各々はいかような度における隣人であるかを知っており、各々の者は異なった度における隣人であることを知っているのである。従って彼らは外なる真理の中にいる者たちの知らない無数の事柄を知っており、それで自らが単に隣人という名によって迷わされることに甘んじはしないし、またその名から生み出される善に説得されて、そこから悪を行うことにも甘んじはしないのである。

 

 

 

天界の秘義3820 []

 

なお他の例をとってみよう。外なる真理の中にのみいる者たちは他生では学者は星のように輝き、主のぶどう園で労苦した者はことごとく他の者にもまさって報酬を受けるであろうと考えるのである。しかし内なる真理の中にいる者たちは『学者』と『賢い者』と『理知ある者』によって、善の中にいる者たちが意味されており、即ち、その者たちがいかような人間の知恵と理知の中にいるかは問題にはされないで意味されており、これらの者が星のように輝くのであり、また主のぶどう園に労苦する者たちは各々、その者が労苦する源泉となっている善と真理に対する情愛に応じて報酬を受けるのであり、自分自身と世のために、即ち、自己を高め、富裕になるために労苦する者らは身体の生命の中でその報酬を得るが、しかし他生では邪悪な者とその運命を共にすることを知っているのである(マタイ7・22、23)。このことから外なる真理の中にのみいる者たちは理解においていかに弱いものであるかが明らかであり、また内なる真理がその真理に本質と形を与え、またそのもとに在る善に性質を与えるものであることが明白である。にもかかわらずこの世の生活の間外なる真理の中にいると同時に単純な善の中にいる者たちは、他生で内なる真理とそこから生まれてくる知恵を受けるのである、なぜなら単純な善から彼らは(それらのものを)受ける状態と能力を得るからである。

 

 

 

天界の秘義3793[]

 

しかし善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ないのである。他の者たちはその中の道徳的な社会的な生活にかかわる事柄についていかような認識を持っているにしても、またその者たちはそのことによりいかほど理知的なものであるように見えるにしても、それでもこうした性質のものは何一つ承認するほどに認めることは出来ないのである、なぜなら彼らは善と真理とは何であるかを知らないし、悪が善であり、誤謬が真理であると考えており、それでかの善が言われると直ぐさま、悪の考えが示され、真理が言われると、誤謬の考えが示され、従って彼らは内意のこれらの内容を何一つ認めないで、そうしたことを聞くと直ぐにも暗黒が現れて、光を消滅させてしまうのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説110

 

『暗黒』に、『死の蔭』に、『暗闇』にいるが、目を主から開かれる者たちが聖言に多くの所で取り扱われており、彼らにより、善い業にはいたものの、主を知らなかったため、また聖言も持っていなかったため、何ら真理にはいなかった異邦人が意味されている。基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それで彼らは異邦人以外の者としては呼ばれることは出来ない。彼らは実際主を知ってはいるが、それでも主に近づきはしない。彼らは聖言を持っていたが、それでもその中に真理を探求しない。『わたしはあなたの住んでいるところを知っている』により彼らの性質を知ることが意味されている、なぜなら霊界では各々の者はその者の情愛の性質に従って住んでいるからである。ここから『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により、暗闇の中にある彼らの善の生命が意味されていることが明らかとなるであろう。サタンの霊ども[悪鬼的な霊ども]は、霊界で業のみにいる者らを通して力を得ているが、しかしその者らがいなくては何ら力を持っていない、なぜなら彼らは、その者らの一人が、私はあなたの隣人です、だから善いことを私に為してくださらねばなりません、と言いさえすれば、その者らを彼ら自身に接合させるからである、即ち、その言葉を聞くと、彼らは近づいてきて、援助を与えるのである。彼らはまたその者が誰であり、またいかようなものであるかを尋ねもしない、なぜなら彼らは真理を持たないからであるが、しかし真理のみによって人は他の者から区別されることが出来るのである。このこともまた『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により意味されている。

 

 

 

 

3.「レアは嫌われた」

 

 

天界の秘義3855

 

「レアは嫌われた」。これは外なる真理の情愛[外なる真理に対する情愛]は神的なものからは更に遠ざかっていたため、さほど愛しいものではなかったことを意味していることは以下から明白である、即ち、『嫌われる』の意義は愛しくないものであり、レアの表象は外なる真理の情愛[外なる真理に対する情愛]である(そのことについては前を参照)。外なる諸真理は内なる諸真理よりも神的なものからはさらに遠ざかっていることは外なるものは内なるものから発生しているという事実から認めることが出来よう、なぜなら外なるものは巨万の内なるもので構成されている映像と形であって、一つのものとして現れており、それが外なるものの性質であるため、その外なるものは神的なものから更に遠ざかって入るからである、なぜなら神的なものは最も内なるものの上の方にまたは最も高いものの中に存在するからである。主は最も高いものから人間の最も内なるものの中へ流れ入られ、その最も内なるものを通して人間の内部へ流れ入られ、さらにその内部を通して人間の外なるものの中へ流れ入られ、かくて主は間接的にまた直接的に流れ入られているのであり、外なるものは神的なものから更に遠ざかっているため、それはまたそうした理由から相対的には秩序を欠いており、それ自らが内なるもののように秩序づけられることにも甘んじないのである。この間の実情は種子の場合と同一であり、種子はその内部は外部よりも完全であって、種子に植物全体を、または木全体を、秩序正しく、その葉と果実とともに生み出させるほどに完全であるが、その外の形は色々な原因から容易に損傷を受け易いが、その種子の内なるまたは最も内なる形はそれ程損傷は受けないのであり、それはさらに内的な、完全な性質を持っているのである。人間の内なるものと外なるものの場合も同一であり、それで人間は再生しつつあるときは、彼は自然的なものの方面で再生する以前に合理的なものの方面で再生するのであり(3493番)、自然的なものの再生は遅くもあり、また更に困難でもあるのである、なぜなら自然的なものの中には秩序を持たず、身体と世から来る損傷にさらされている多くのものが存在しているからである。それが実情であるため、これらのものは『それほど愛しくはない』と言われているが、しかしそれが内なるものに一致するに応じ、またその中に在る内なるものの生命と視覚[判断]に貢献するに応じ、また人間の再生に貢献するに応じ、益々それもまた愛しいものとなるのである。

 

 

 

 

 

天界の秘義3834

 

『彼は娘のレアを取り、彼女を彼のもとに連れてきた、彼は彼女のもとへ来た』。これは未だ外なる真理の情愛との連結のみが在ったにすぎなかったことを意味していることは、レアの表象から明白であり、それは外なる真理の情愛である(3793、3819番)。『彼女を彼のもとに連れてくること』は婚姻の連結のようなものである連結を意味していることは明らかである。この間の実情は以下のようである、即ち、内なる真理の情愛の中にいる人間は、即ち、主の王国の内的なアルカナを知ろうとする願いを抱いている人間は、たとえこれらのアルカナを知り、時にはそれらを承認し、いわばそれらを信じはするものの、最初はそれらを自分のもとに連結させてはいないのである、なぜなら未だ彼のもとには世的な形体的な情愛が現存していて、それが彼にこれらのアルカナを実際受け入れさせ、いわば信じさせもするが、しかしそうした情愛が現存しているに比例して、問題の内的な真理は連結されることは出来ないからである。善から発した真理の情愛と善の情愛のみがそれ自らにこれらのアルカナを適用させるのであり、人間がこれらの情愛の中にいるに比例して、内的な真理が彼に連結されるのである、なぜなら真理は善を受ける容器であるからである。

 

 

天界の秘義3834[2]

 

 主もまた(凡ゆる内的な真理のような)天的な真理と霊的な真理とが純粋な情愛以外のいかような情愛にも連結しないように配慮されている。こうした理由から善から発した真理に対する全般的な情愛が先行しており、その中に導き入れられる真理は全般的な真理以外の何ものでもない。真理の状態は全く善の状態に順応しており、即ち、信仰の状態は仁慈の状態に順応しているのである。例えば、邪悪な者も、主は天界全体を支配され、また天界は相互愛と主に対する愛であり、またこのような愛によりそこにいる者たちは主に連結し、知恵を持ち、同じく幸福を得ていることを知ることは出来、否、それがそうであることを説きつけられることも出来るが、それでも信仰の真理は彼らには連結されることは出来ないのであり、ましてや愛の善は連結されることは出来ないのである。丁度木はその果から知られるように、これらのものが連結されているか否かは生命[生活]から知られるのである。こうした実情は中に核がなく、地に埋められると、地は如何に肥沃であろうと、ただの土くれに解消してしまうぶどうの場合に似ており、または陽が登るとすぐに消失してしまう夜間の鬼火にも似ている。しかしこの主題については更に多くのことを今後主の神的慈悲の下に述べることにしよう。