ラケル

 

 

レア全般的別的

 

 

 

 

1.内的な(内なる)真理に対する情愛

3.「ラケルは形は美しく、まなざし[目つき]も美しかった」

3.「ラケルは生まずめであった」

 

 

 

1.内的な(内なる)真理に対する情愛

 

天界の秘義3793

 

「ラケルは羊の群とともに来た」、これは教会に、また教義にぞくしている内的な真理に対する情愛を意味していることは以下から明白である、すなわち、ラケルの表象は内的な真理に対する情愛であり、『羊[の群]』の意義は教会であり、また教義である(3776、3768、3783番)。ラケルの表象が内的な真理に対する情愛であり、レアの表象が外的な真理に対する情愛であることについて実情はいかようになっているかを明らかにするため以下に簡単に述べてみよう、即ちヤコブにより表象されている自然的なものは善と真理から成っており、この自然的なものの中にも、全般的にもまた個別的にも人間の凡ゆるものの中に、また自然全体の凡ゆるものの中に善と真理との結婚が存在しなければならないように、それが存在しなくてはならないのである。この結婚無しには何ものも生み出さないのであり、即ち、生産と結果とはことごとくそこから発しているのである。しかしながら善と真理とのこの結婚は、人間のみが神的秩序の中へ生まれてきていないため、人間が生まれた時には、人間の自然的なものの中には存在していないのである、彼は実際無垢と仁慈との善を持ってはいるが―それは彼の最初期の幼少期に主から流れ入っているのであるが―しかしこの善が対になって結合されることが出来る真理は存在していないのである。彼は年が進むにつれ、幼少の項主から彼の中へ注がれていたこの善は内部の方へ引き入れられてそこに主により留めておかれるが、それは彼が後になって身に着ける生命の幾多の状態を和らげるためである。このことが人間はその幼少期と最初の子供時代との善が無いならいかような野獣よりも悪くなり、また凶暴にもなる理由である。幼少期のこの善が引き込められつつある時、悪がその代わりに現れ、人間の自然的なものの中へ入り、この悪に誤謬がそれ自身を結合して対になり、かくてその人間の中に悪と誤謬との連結が、いわば悪と誤謬との結婚のようなものが生まれるのである。それ故人間が救われるためには、彼は再生しなくてはならないのであり、悪が遠ざけられて、主から善が注がれなくてはならないのであり、善と真理とが対になって結合することを、いわば、善と真理とが結婚することを遂行するために、人間が受け入れる善に応じて、真理が彼の中へ注ぎ込まれるのである。

 

 

 

天界の秘義3793[2]

 

 これがヤコブにより、その二人の妻ラケルとレアとにより表象されている事柄である。それで今ヤコブは自然的なものの善の表象をつけ、ラケルは真理の表象をつけるのである、しかし真理が善と連結することはことごとく情愛により行なわれるため、ラケルにより表象されているものは善に対となって結合されなくてはならない真理に対する情愛である。更に、自然的なものの中には、合理的なものの中でもそうであるように、内的なものと外的なものとが在り、ラケルは内的な真理の情愛を、レアは外的な真理の情愛を表象しているが、しかし傍系的な善を表象しており、その善は、『レベカ』により表象されている合理的なものの真理に傍系的な線をもって相応しているのである(3012、3013、3077番を参照)。ここからこの善から発している娘たちは自然的なものにおける情愛を表象している、なぜならこれらの情愛はこの善からそれを父として生まれている娘のようなものであるからである。そしてこれらの情愛は自然的な善と対となって結合されねばならないため、彼らは真理の情愛を表象しており、一人は内的な真理の情愛を、他の一人は外的な真理の情愛を表象しているのである。

 

 

 

天界の秘義3793[3]

 

人間がその自然的なものの方面で再生することについては、その実情はヤコブとラバンの二人の娘ラケルとレアとの場合と全く同じであり、それでたれでもここの聖言をその内意に応じて認め、また把握することの出来る者は、彼に明らかにされているこのアルカナを認めるのである。しかし善と真理の中にいる人間以外にはたれもこれを認めることが出来ないのである。他の者たちはその中の道徳的な社会的な生活にかかわる事柄についていかような認識を持っているにしても、またその者たちはそのことによりいかほど理知的なものであるように見えるにしても、それでもこうした性質のものは何一つ承認するほどに認めることは出来ないのである、なぜなら彼らは善と真理とは何であるかを知らないし、悪が善であり、誤謬が真理であると考えており、それでかの善が言われると直ぐさま、悪の考えが示され、真理が言われると、誤謬の考え

が示され、従って彼らは内意のこれらの内容を何一つ認めないで、そうしたことを聞くと直ぐにも暗黒が現れて、光を消滅させてしまうのである。

 

 

 

天界の秘義3795

 

「なぜなら彼女は羊飼いであったからである」(創世記29・9)(または、『彼女は飼う者であったからである』)。これは内的な真理に対する情愛が聖言の中に在るものを教えることを意味していることは以下から明白である、即ち、『羊飼い』または羊を飼う者の意義は導きまた教える者であり(343番)、現在の場合『彼女』であるラケルの表象は内的な真理に対する情愛である(このことについては直ぐ前の3793番を参照)。この教えることが聖言から発していると言われている理由は彼女は井戸へ羊と共に来たということであり、『井戸』は聖言を意味していることは前に見ることが出来よう(3765番)。更に教えるものは内的な真理に対する情愛である、なぜならこの情愛から教会は教会であり、羊飼いはまたは牧者は牧者であるからである。聖言に『羊飼い』と『飼う者』とは導き、教える者を意味している理由は、『羊(の群れ)』は導かれ、教えられる者たちを意味し、従って教会を、また教会の教義を意味しているということである(3767、3768、3783番)。『羊飼い』と『羊(の群)』にこのような意味のあることは基督教世界に充分知られている、なぜなら教える者と学ぶ者とはそのように呼ばれているからであり、それでこのことを聖言から確認することは不必要である。

 

 

 

 

 

 

天界の秘義3823

 

「ヤコブはラケルを愛した」。これは内なる真理に対する善の愛を意味していることは以下から明白である、すなわち、ヤコブの表象は自然的なものの善であり(3599、3659、3775番を参照)、ラケルの表象は内なる真理の情愛[内なる真理に対する情愛]であり(3793、3819番)、現在の場合、自然的なものの善とまさに連結しようとしている内なる真理であり、その連結を目指して愛が存在したのである。

 

 

天界の秘義3824

 

ここから『わたしはあなたの妹娘ラケルのために七年あなたに仕えましょう』により、内なる真理と連結するために学ぶことを、同時に聖い状態を意味していることが明らかである。内なる真理はそれが学ばれ、承認され、信じられるとき、自然的なものに連結すると言われている。人間の自然的なものの中には、すなわち、この人間の記憶の中には外なる真理のみでなく内なる真理も存在しており、それらのものはそこに記憶された教義的な事柄の形をとって存在しているが、しかしそれらのものはその人間が生命の用のためにそれらのものに感動しない中は、すなわち、それらのものが生命のために愛されない中は、連結されはしないのである、なぜならそれらのものが生命のために愛されるとき、善はそれらのものに連結し、そのことにより、それらのものは合理的なものに連結し、従って内なる人に連結するからである。この方法により主からそれらのものの中へ生命が流入するのである。

 

 

3.「ラケルは形は美しく、まなざし[目つき]も美しかった」

 

天界の秘義3821

 

「ラケルは形は美しく、まなざし[目つき]も美しかった」。これは内的な真理の情愛は霊的なものについてはそのようなものであることを意味していることは今し方前に言われたことから明白である。『形』により本質が意味され、まなざし[目つき]によりそこから派生してくる美が意味されている。

 

 

3.「ラケルは生まずめであった」

 

天界の秘義3857

 

「ラケルは生まずめであった」。これは内的な諸真理は受け入れられなかったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、ラケルの表象は内的な諸真理の情愛[内的な諸真理に対する情愛]であり(そのことについては前を参照)、『生まずめ』の意義はそこからは何ら教義が起らなかったということであり、従って教会が何ら起らなかったということである、なぜならこの記事はレアについて言われていることに対立しているからである―レアについては『エホバはその胎を開かれた』と言われており、そのことにより、そこから諸教会の教義が生まれたということが意味されているのである。内的な諸真理が受け入れられなかった理由は内的な諸真理は人間の信仰を超越しているといったものであるということである、なぜならそれらは人間の観念の中へ落ち込まないし、また外なる外観にもすなわち感覚の迷妄[妄想]にも従っていないからである、なぜなら人間はことごとく自らがその迷妄により導かれることに甘んじており、それに或る程度一致しないものを信じはしないからである。

 

 

天界の秘義3857[2]

 

例えば、他生には時間と空間の中にいる人間は、地上におけるその生命の間ではその凡ゆる観念を時間と空間から得ており、時間と空間がなくては些かも考えることができないほどにもなっており(3404番)、それで他生に存在している状態が時間と空間により、またはそこからその形を得ているといったものにより人間に説明されないかぎり、かれは何ごとをも認めないし、かくて何ごとをも信じないし、従って教えを受けはしないし、かくて教義は実を結びはしないで、そこから教会は生まれはしないのである。

 

 

天界の秘義3857[3]

 

他の例を考えてみるに、天的な情愛と霊的な情愛とが世的な情愛と身体的情愛とにぞくしているといったものにより説明されないかぎり、人間はいかようなものをも認めはしないのである、なぜならかれはこれらの情愛の中にいて、そのことにより天的な情愛と霊的な情愛とについて何らかの考えをもつことができるからであるが、それでもそれらは天界が地からは異なっているように異なっており、または天界が地から明確に区別されているように区別されているのである(3839番)。例えば―天界の栄光または天界の天使の栄光については―人間は世の栄光の観念[考え]に応じて天界の栄光の観念を自ら形作らない限り、かれはその事柄を把握はしないし、かくてまたかれはそれを認めはしないのである。他の凡ての場合も同様である。

 

 

天界の秘義3857[4]

 

 こうした理由から主は聖言の中で人間の把握に順応し、また人間が把握している外観に順応して話されたのである。聖言の文字の意義はこのような性質のものであるが、それでもそれはその中に内意を含んでいるといったものであり、その内意の中に内的な諸真理が存在しているのである。それでこのことがレアについては『エホバは彼女の胎を開かれた』と言われているが、ラケルについては『彼女は生まずめであった』と言われている理由である、なぜなら前に言ったようにレアにより外的な諸真理は人間が学ぶ最初の真理であるため、その真理によって人間が内的な諸真理の中へ導き入れられるように主により配慮されており、そのことがついに『神はラケルを憶えられ、彼女にきかれ、その胎を開かれた』(創世記30・22)と言われている理由である。

 

 

天界の秘義3857[5]

 

 これらの事柄は古代のものであった諸教会から、またその教義的な事柄から、すなわち、それらのものは外なる真理から形作られたということにより立証することができよう。かくて洪水以後に存在した古代教会にあっては、その教義的な事柄の大半のものは外なる表象的なものと表意的なものであり、その中には内なる真理が貯えられていたのである。この教会の会員たちの大半は外なるものの中にいた時は聖い礼拝の中にいたのであり、もしたれかがこれらの表象的なものと表意的なものとは神礼拝の本質的なものではなくて、その本質的なものはそれらのものにより表象され、表意されている霊的なものと天的なものであると初めにかれらに話したとするなら、かれらはそうした教義を全く斥けてしまい、かくて教会は何ら存在しなかったことであろう。このことはさらにユダヤ教会の実情であったのである、すなわち、もしたれかがこの教会の人々に向ってかれらの祭儀はその聖さをその中に在る主の神的なものから得ていると話したなら、かれらはそれを些かも認めはしなかったであろう。

 

 

天界の秘義3857[6]

 

主が世に来られた時人間はまたこのようなものであり、さらに形体的なものになっていたのであり、とくに教会にぞくした者らはそうしたものになっていたのである。このことは弟子たち自身から極めて明白であり、かれらは絶えず主とともにおり、その王国について極めて多くの事柄を聞いてはいたが、それでも内的な諸真理を認めることができないで、主については、現今のユダヤ人がその期待しているメシヤについて抱いているような考え以外のものを、すなわち、メシアはかれらの民を宇宙の凡ゆる国民にもまさって主権と栄誉とへ高めるであろうという考え以外のものを形作ることはできなかったのである。そしてかれらは、主から天国について極めて多くの事柄を聞いた後さえも、天国は地上の王国のようなものであって、父なる神はその中で最も高いものであり、その次に御子が最も高いものであり、次に十二弟子が最も高いものであり、かくてかれらはその順序で支配するであろうとのみしか考えることができなかったのであり、それでまたヤコブとヨハネはその一人が主の右手に、他の一人が主の左手に坐ることができるようにと求めたのであり(マルコ10・35、37)、他の弟子たちはかれらが自分たちより偉くなろうとねがったということで怒ったのである(マルコ10・41、マタイ20・24)。その同じ理由からまた主は、天界で最大のものであることは何であるかをかれらに教えられた後も(マタイ20・25−28、マルコ10・42−45)、依然かれらの把握に応じて語られて、かれらは十二の王座に坐って、イスラエルの十二の種族を審くであろうと言われたのである(ルカ22・24、30、マタイ19・28)

 

 

天界の秘義3857[7]

 

 もしかれらが『弟子』によりかれら自身が意味されているのではなく、愛と信仰の善の中にいる者の凡てが意味されていることを話されたなら(3354、3488番)、また主の王国には、世におけるように、王座も、主権も、支配もなく、かれらはたった一人の人間の最小の事柄さえも審くことはできないことを話されたなら(2129、2553番)、かれらはその言葉を斥けてしまい、主から去って、各々の者はその者自身の職業に帰ってしまったであろう。主がそのように話された理由は、かれらが外なる真理を受け入れ、そのことによって、内なる真理へ導き入れられるためであったのである、なぜなら主が話されたその外なる真理を受け入れ、そのことによって、内なる真理へ導き入れられるためであったのである、なぜなら主が話されたその外なる真理の中には、内なる真理が隠されて

いたのであり、それが時の経過につれて明らかになり、それが明らかになると、外なる真理は消散してしまい、内なる真理について考えるためのものまたはその手段としてのみ役立つからである。このことからここに述べられている事柄により―エホバは先ずレアの胎を開かれて、彼女はヤコブに息子たちを生み、後になってラケルが息子たちを生んだということにより意味されていることを今知ることが出来よう。