全般的・個別的

 

レアラケル

 

 

 

天界の秘義1802[4]

 

このことは全般的に何かの真理を説きつけられる者にも当てはまるのであって、その全般的な真理の個々のものを、またその個々のものの単一のものを―それらは全般的な真理を確認させるものであるが―彼は恰も自分自身で、または自発的に学ぶかのように、容易に学ぶのである、なぜなら彼は全般的な真理により、心を動かされ、そこからまた(その全般的真理を)確認させるところの、その同じ全般的真理の個別的なものと単一的なものにより心を動かされるからである、なぜならこれらのものは歓喜と愉しさとをもってその全般的な情愛の中に入り、かくて絶えずそれを完全なものにするからである。これらのものが彼らが『嗣子[しし、相続人]』と呼ばれる理由ともなり、また主の王国を嗣ぐことができる手段ともなっている内なるものである。しかし彼らは善の情愛の中に、すなわち、相互愛の中におり、その相互愛の中へ善と真理にかかわる幾多の知識により、その知識に対する情愛により導き入れられるとき、初めて嗣子[相続人]となり初めるのであり、または相続権を持ち初めるのであり、彼らは善の情愛の中にまたは相互愛の中にいるに正比例して、『嗣子』となり、または嗣業[相続財産]を得るのである。なぜなら相互愛はかれらが主の本質から、彼らの父から受けるものとして受ける生命そのものであるからである。

 

 

 

天界の秘義2473

 

 内的な記憶は外的な記憶に無限にまさっており、巨億の数が一の数に、または光が暗黒にまさっているようにもまさっている、なぜなら内的な記憶の巨億の観念が外的記憶のただ一つのものの中へすら流れ入っていて、そこに何か全般的な曖昧なものを示しているからである。ここから霊たちの凡ゆる能力は、ましてや天使たちの凡ゆる能力は更に完全な状態の中にあるのである、即ち、彼らの知覚も彼らの思考と認識も更に完全な状態の中にあるのである、即ち、彼らの知覚も彼らの思考と認識も更に完全な状態の中にあるのである。いかような点で内的な記憶が外的記憶にまさっているかは、例により認めることが出来よう。人間が、友であれ、または敵であれ、数年の交際から、その性質を知っている他のたれかを憶い起すときは、その者について彼がそのとき考えるものは、明確でないものとして示されるが、それは彼がその外的な記憶から考えているためである。しかしその当人が霊となってしまって、他の者を思い出すときは、その者について彼がそのとき考えるものは、彼がかつてその者について抱いたことがあるその凡ゆる観念[考え]さえもが示されるのであって、それは彼がそのとき内的な記憶から考えているためである。それは凡ゆるものについても言われる、即ち、たれでもそれについては多くの事柄を知っているものそのものも外的な記憶の中ではただ一つの全般的なものとして示されるが、しかし内的な記憶の中ではそれはそれ自身をそのすべての個々の点の方面でも示すのである―その個々の点については彼はそれまでにそのものについて自ら何かの考えを得てきているのであるが、その個々の点も示されるのであって、しかもそれが驚くべき形をもって示されるのである。

 

 

 

 

天界の秘義4345[2]

 

全般的なものについては、それは個別的なものから成っているため、従ってその中に個別的なものを含んでいるため、全般的なものと呼ばれている。全般的なものは個別的なものがないなら全般的なものではなく、個別的なものから全般的なものと呼ばれているのである。そのかんの実情は全体とその部分のそれに似ている。一つの全体のものはいくたの部分がないかぎり全体のものとは呼ばれることはできない、なぜならその全体のものはいくたの部分から成っているからである。なぜなら事物の性質の中では他の物から発生し、またそこから存続していない物は一つもないのであり、それは他の物から発生し、またそこから存続しているため、全般的なものと呼ばれ、そしてそれを成立させ、また存続させているものは個別的なものと呼ばれているからである。外なるものは内なるものから成り立っているものであり、それで外なるものは相対的には全般的なものである。人間とその能力の場合も同様であり、この能力は外的なものとなるに従って、益々全般的なものとなっている、なぜならそれはさらに内的ないくたのものから成っており、その内的なものは秩序では最も内なるものから成っているからである。

 

 

天界の秘義5208[2]

 

さらに霊界の中にも自然界の中にも起る一切の物の中には全般的なものが最初に来て、その後それほど全般的でないものが、最後には個別的なものが継続的にその中に挿入されるのである。このような挿入がないなら、またははめこみがないなら何一つ全く存在しないであろう、なぜなら何であれ何か全般的な物の中に存在しないで、それに依存していないものはことごとく消滅してしまうからである(917、357、4269、4325、4329、4345、4383番)。

 

 

 

 

黙示録講解112[]

 

『スミルナの教会の天使』により、教会の中にいて、聖言を理解しようと望んではいるが、未だ理解してはおらず、それで未だ真理と善とにかかわる知識の中には極めて僅かしかいないものの、それでも、真理に対する霊的な情愛の中にいる者たちはまた仁慈の生命の中にいるのである、なぜならその生命からかれらは霊的な情愛を得るからである。

 

霊的なものは仁慈以外のいかような源泉からも人間のもとには来ないのである。

 

霊的な情愛の中にいる者たちは聖言に関心をもち、それを理解する以上には何ごとも熱心に求めはしないのである。

 

しかし聖言はその内部では霊的なものであり、霊的なものは無限のアルカナを包含しているため、彼らの理解しない無数の事柄がその中に在るため、それで、人間は世に住んでいて、そのときは自然的な人から見ている限り、真理と善にかかわる知識の中には極めて僅かしかいることは出来ないで、単に全般的なものの中にのみいることは出来るにすぎないが、しかしその全般的なものの中には、その者が霊界または天界へ入ってくるときは無数の事柄が植えつけられることが出来るのである。