全般的・個別的

 

 

天界の秘義2473

 

 内的な記憶は外的な記憶に無限にまさっており、巨億の数が一の数に、または光が暗黒にまさっているようにもまさっている、なぜなら内的な記憶の巨億の観念が外的記憶のただ一つのものの中へすら流れ入っていて、そこに何か全般的な曖昧なものを示しているからである。ここから霊たちの凡ゆる能力は、ましてや天使たちの凡ゆる能力は更に完全な状態の中にあるのである、即ち、彼らの知覚も彼らの思考と認識も更に完全な状態の中にあるのである、即ち、彼らの知覚も彼らの思考と認識も更に完全な状態の中にあるのである。いかような点で内的な記憶が外的記憶にまさっているかは、例により認めることが出来よう。人間が、友であれ、または敵であれ、数年の交際から、その性質を知っている他のたれかを憶い起すときは、その者について彼がそのとき考えるものは、明確でないものとして示されるが、それは彼がその外的な記憶から考えているためである。しかしその当人が霊となってしまって、他の者を思い出すときは、その者について彼がそのとき考えるものは、彼がかつてその者について抱いたことがあるその凡ゆる観念[考え]さえもが示されるのであって、それは彼がそのとき内的な記憶から考えているためである。それは凡ゆるものについても言われる、即ち、たれでもそれについては多くの事柄を知っているものそのものも外的な記憶の中ではただ一つの全般的なものとして示されるが、しかし内的な記憶の中ではそれはそれ自身をそのすべての個々の点の方面でも示すのである―その個々の点については彼はそれまでにそのものについて自ら何かの考えを得てきているのであるが、その個々の点も示されるのであって、しかもそれが驚くべき形をもって示されるのである。

 

 

 

 

天界の秘義4345[2]

 

全般的なものについては、それは個別的なものから成っているため、従ってその中に個別的なものを含んでいるため、全般的なものと呼ばれている。全般的なものは個別的なものがないなら全般的なものではなく、個別的なものから全般的なものと呼ばれているのである。そのかんの実情は全体とその部分のそれに似ている。一つの全体のものはいくたの部分がないかぎり全体のものとは呼ばれることはできない、なぜならその全体のものはいくたの部分から成っているからである。なぜなら事物の性質の中では他の物から発生し、またそこから存続していない物は一つもないのであり、それは他の物から発生し、またそこから存続しているため、全般的なものと呼ばれ、そしてそれを成立させ、また存続させているものは個別的なものと呼ばれているからである。外なるものは内なるものから成り立っているものであり、それで外なるものは相対的には全般的なものである。人間とその能力の場合も同様であり、この能力は外的なものとなるに従って、益々全般的なものとなっている、なぜならそれはさらに内的ないくたのものから成っており、その内的なものは秩序では最も内なるものから成っているからである。

 

 

天界の秘義5208[2]

 

さらに霊界の中にも自然界の中にも起る一切の物の中には全般的なものが最初に来て、その後それほど全般的でないものが、最後には個別的なものが継続的にその中に挿入されるのである。このような挿入がないなら、またははめこみがないなら何一つ全く存在しないであろう、なぜなら何であれ何か全般的な物の中に存在しないで、それに依存していないものはことごとく消滅してしまうからである(917、357、4269、4325、4329、4345、4383番)。