創世記2・28


神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 

 

創世記9・1

 

神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」

 

 

創世記12・7

 

主はアブラムに現れて、言われた。

「あなたの子孫にこの土地を与える。」

 

 

創世記13・14−17

 

主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」

 

 

創世記15・5

 

主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 

 

天界の秘義255

 

『女の裔[種、精]』は主に対する信仰を意味していることは、『女』の意義が教会であることから明らかであり、教会の『裔[種、精]』は信仰以外の何ものでもない、なぜなら教会が教会と呼ばれるのは主に対する信仰によるからである。マラキ書に、信仰は『神の裔[種、精]』と呼ばれている―

 

  エホバはあなたとあなたの若い折の妻の間に証をたてられた。霊の残りのものを持った者は一人もそのようなことはしなかった。なぜ、神の裔[種、精]を求めて一人も。しかしあなたらの霊に心をくばりなさい、かれがあなたの若い折の妻にそむくようなふるまいをしないためである(2・14、15)。

 

 この記事では『若い折の妻』は古代教会と最古代教会であり、その『裔』を(また信仰を)予言者は語っているのである。イザヤ書にも亦、教会に言及して―

 

  わたしは渇いた者に水を注ぎ、乾いた所に洪水を注ごう。わたしはわたしの霊をあなたの裔にわたしの祝福をあなたの子孫に注ごう(44・3)。

 

 黙示録には―

 

  竜は女を怒って、その裔の残ったもの、すなわち、神の戒めを守って、イエス・キリストの証をもっている者と戦おうとして行った(12・17)。

 

 ダビデの書には―

 

  わたしはわたしの選んだ者と契約を結んだ、わたしはわが僕ダビデに誓った、わたしは永遠に至る迄もあなたの裔を固くたてよう、わたしはその裔を永遠に存続させよう、その王座を諸天の日のようにしよう、その裔は永遠に存続し、その王座は陽のようにわたしの前に続くであろう(詩篇89・3、4、29、36)。

 

 そこでは『ダビデ』により主が、『王座』によりその王国が、『陽』により愛が、『裔[種、精]』により信仰が意味されている。

 

 

天界の秘義256

 

信仰のみでなく主御自身が『女の裔』と呼ばれたもうのは、主のみが信仰を与えられ、かくて信仰であられるためであり、また主は生まれることを良しとされたからである。実に主は自己と世への愛により奈落の悪魔的な自分自身のものに全く陥ってしまった教会の中へ生まれることを良しとされたからであるが、それはその神的な力によりその人間的な本質の中に人間的な自分自身のものに神的な天的な自分自身のものを結合し、かくして主の中にその二つのものが一つのものとなるためであったのであり、この結合が行われなかったならば、全世界は全く死滅したに相違ない。主はかくて女の裔であられるため、『それは』と言われないで、『かれは』と言われているのである。

 

 

天界の秘義1447

 

「言われた、あなたの裔[種]にわたしはこの地を与えよう」。これは主を信じる者達に天的なものが与えられるにちがいないことを意味していることは『裔[種]』の意義からまた『地』の意義から明白である。『裔[種]』は主に対する信仰を意味していることは前に示され(255、256番)、『地』は天的なものを意味していることもまた本章の一節に(また620、636、662、1066番に)示されたところである。

 

 

天界の秘義1608

 

「あなたの裔[種]に永遠に」。これが主を信じるにちがいない者たちを意味していることは、『裔[種]』の意義が信仰であり、実に(前の255、256、1025番に述べたように)仁慈の信仰であることから明白である。天界の王国[天国]は主の裔[種]に、すなわち、主を信じる信仰をもっている者たちに与えられるにちがいないことはヨハネ伝における主御自身の御言葉から明白である―

 

  父は子を愛されて、その手に凡ての物を与えられた、子を信じる者は永遠の生命を持つが、しかし子を信じない者は生命を見ない(3・35、36)

 

 

[2]さらに―

 

  かれを受けた者にはことごとく、かれの御名を信じる者たちには神の子となる力をかれはあたえられた、かれらは血から生まれたのではなく、また肉の意志からも、また人間の意志からも生まれたのではない(1・12、13)。

 

 この言葉から信仰は、または主を信じることはいかようなことであるかが明白である、すなわち、信仰は『肉の意志』からでなく、また人間の意志からでもなく、主を受けて、主を信じる者のもとに存在していることが明白である。『肉の意志』とは愛と仁慈とに反したものである、なぜならこのことが『肉』により意味されているからである(999番)、そして『人間の意志』とは愛または仁慈から発した信仰に反したものである、なぜならそれが人間により意味されているものであるからである。なぜなら肉の意志と人間の意志とが分離させるものであるが、しかし愛とそこから派生した信仰とが連結させるものであり、それで愛とそこから派生した信仰を宿している者は神から生まれた者であるからである。そして、かれらは神から生まれているため、『神の子』と呼ばれ、またその『裔』であり、この者たちに天界の王国[天国]が与えられるのである。こうした事柄がこの節の以下の言葉により意味されているのである、『あなたの見る地はことごとくそれをあなたとあなたの裔[種]に永遠に与えよう。』

 

[3]仁慈をもたない信仰の中にいる者に、すなわち、自分は信仰を持っていると言いはするものの、隣人を憎悪している者には天界の王国[天国]は与えられるはずはないことは、たれからでも、もしその者がすすんでそのことを反省しさえするなら、認められることができよう、なぜなら憎悪が、すなわち、地獄が生命を構成しているときは、かかる信仰の中には生命はありうるはずはないからである。なぜなら地獄は憎悪以外の何ものからも構成されてはおらず、それは人間が遺伝的に受けついだ憎悪からではないが、人間が実際の生活により得た憎悪から構成されているからである。

 

 

天界の秘義1610

 

「わたしはあなたの裔を地のちりのようにしましょう」。これは測ることができないほどに増大することを意味していることは説明しなくても明白である。ここではかれの裔は『地のちりのようにされるでしょう』と言われ、聖言の中で他のところには『海の砂のように』と言われ、また他のところには『空の星のように』と言われている。各々の表現にはそれ自身の特殊な意義があるのである。『地のちり』は天的なものに言及している、なぜなら『地』は前に示したように、愛の天的なものを意味するからである。『海の砂』は霊的なものに言及している、なぜなら『海』は、それもまた示されたように、愛の霊的なものを意味しているからである。『空の星のように』はその二つのものの高度なものを意味している。これらのものは一つとして数えることができないため、それらのものにより無限に実を結ぶことと増大することを表現することが慣習的な言葉の形となったのである。

 

 

[2]かれの裔(すなわち愛の信仰または愛)が無限に増大することは、その最高の意義では、主を意味しており、事実主の人間的な本質を意味しているのである、なぜなら主はその人間的な本質の方面では『女の裔』と呼ばれたもうたからである(256番参照)。そして主の人間的な本質が意味されているとき、無限に増大することにより無限の天的なものと霊的なものとが意味されているが、しかし人類における仁慈の信仰または仁慈が『裔』により意味されているときは、仁慈の中に生きている者各々の中にこの裔が無限に増大することが意味されるのであって、それはまた仁慈の中に生きる者のもとで、他生で起るようになるのである。こうした者のもとでは、仁慈とそこから派生する信仰は、またそれらとともに、幸福も、それはただ測ることはできないとのみしか表現できないほどにも増大するのである。『裔』により人類が意味されているときは、主の王国の中ではこの人類の増大もまた、教会の内にいる者とその子供たちからのみでなく、教会の外にいる者とその子供たちからも、無限となっている。ここから主の王国はまたは天界は測ることはできないものとなっている。その無辺性については、主の神的慈悲の下にさらに多くのことを他の箇所に述べよう。

 

 

天界の秘義2034

 

 裔[種]により、前に示されたように、仁慈の信仰が意味されているのである。(1025,1447、1510番、信仰は仁慈そのものであることは第一部に見ることができよう、30−38、379、389、654、724、809、916、1017、1076、1077、1162、1176、1258、1798、1799、1834、1844番)