やめさせてはならない。
あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである
ルカ9・49
わたしと一緒に集めない者は散らしている(マタイ12・30)/
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
3.サンダー・シング
4.ヴァッスーラ
1.聖書
マルコ9・38−41
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける。」
ルカ9・49−50
そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P389
ヨハネ:「あなたに言われたとおり、今日、町を歩いていたとき、ある人が、エルサレムへ行く巡礼団の人々からあなたの名で悪魔を追い出しているのを見ました。その人は弟子でもなく、顔見知りでもありませんでした。それに、あなたの名を聞くと、悪魔は本当に逃げようとするのでした。気になったので、私たちがやめさせましたが、その人は『善いことをするのはいつも気持ちがよい』と言って、私たちの命令にも耳を貸さず、悪魔払いを続けてこう言ったのです。『私は今していることを続けます』
さっき、あなたは悪魔と戦った人々は皆、天国に入ると言われたので、わざわざこんなことをお聞かせしたのです」
主:「はい、けっこう、分かりました。その人も含まれます。おまえたちは、多分に間違えています。主の道は無数にあり、真っすぐな道を通る人々だけが天に入るとは言われていません。至るところ、まちまちな時代、人によっていろいろと違うふうに、初めは間違った道からでも私について来る多くの人がいます。だから、おまえたちは隣人を裁くべきではない。神だけが見ています。ただ、おまえたちは絶対に善い道を踏みはずすことがないように。その道は、おまえたちが選んだというよりも、神に知らされた道です。そして、私の名前を信じ、その名で活躍する人を見たなら、その人を他人とか敵とか涜聖者とかと言ってはならない。こういうふうな人は、自発的にか、時として、おまえたちの中のある人々よりも私の名前を信じているがゆえに、私の部下であり友人です。私の名前で不思議を行う人が私の敵であるわけがない。まことに言うが、私の名前を信じていれば、己の霊魂を救うに十分です。なぜなら、私の名前は救いだからです。そのために言います。もし、その人にまた会うことがあったら、二度と責めたりしてはいけない。むしろ、そういう人々を“兄弟”と呼びなさい。私の柵の中にまだ入っていないにしても、兄弟なのだから。私に背かない人は、私と一緒にいるのであり、おまえたちに背かない人は、おまえたちと一緒にいるのです」
「では、主よ、私たちは罪を犯したのですか」と、勘違いしているヨハネが尋ねる。
「いいえ、おまえたちはそのことに無知であったために行っただけであって、悪意からではないので罪はありません。しかし、今後もそうするなら罪となります。今はもう知ったのだから。さあ、家に帰りましょう。おまえたちに平和」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P44
「私に反対しない人は、私とともにあると言ってよい。そう思えないかもしれないが、現在、イスラエルの最大の師であるガマリエルは、ラビたちの知識の井戸であって、突然、今までの考えを捨て、新しいのを認めよと要求するわけにはいきません。シモン、過去を捨て、私について来ることは、あなたたちにとっても易しくはないはずです」
3.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P345
彼は、涙を流しながら付け加えた。
「主が今日おいでになっても、たとえ自分が今すぐ主の元に召されるようなことがあっても、主は決してわたしを追い出されなりと、わたしは固く信じている」
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P346
新しい改宗者は、友人や肉親から離れるよりも、家にいて証し続けることの方がいいとわたしは思う。こうして、彼らは直面するはずの戦いと迫害を通して鍛え上げられる。危険や誘惑、困難も多いに違いないが、社会の軋轢(あつれき)から離れた新しい環境に住んでも、危険と困難は同じほど大きいことを覚えておく必要がある。種類は違っても、困難と危険は家にいたときと同じほど大きいことは、わたし自身の体験からもいえることだ。
この章では、生けるキリストの奇しき御業が教会組織に限定されるものではなく、予想を超えるほど広い範囲にわたり、非クリスチャンの間にも広がっていることをお話しした。世界のあらゆる民族の間から人々が神の王国に入り続ける中で、何千、何万という数の王国の子ら―目に見える教会の信徒―が外の暗闇に追い出されていることも明らかなのである。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P99
(ラマ・ファンチェ):
それは、パンジャブ地方の宣教師カータル・シングが到来を告げていた、あのキリストのことですか。彼はそれを説いたため、タシケンベで、王宮のラマ僧団によって殺されました。あのキリストは、あなた様やサンダー・シングの説かれる主キリストのことですか。それとも別の人物なのですか。
(マハーリシ):
同じキリストだ。キリストは万人の主であられ、永遠にそうである。主はカータル・シング、サンダー・シングばかりか、あなたの主でもあり、全世界にとって救いの与え手なのだ。キリスト以外には、誰によっても救いはない。世界中で、われわれが救われるべき名としては、キリストの御名以外、どのような名も与えられてはいない。そなたの国の者たちが殺したカータル・シングは、今、主の祝福に与っている。彼は、他の聖徒たちとともによくわたしの元を訪れ、このように祈る。“おお、主よ、いつまでわたしを殺した者たちに復讐をしてくださらないのですか。わたしの流した血はいつまで実を結ばずにいるのですか”と。そなたが祈りを捧げるときには、サンダーの与えた聖書を学ぶとよい。理解できないことがあれば、わたしの元に来るとよい。必要な説明を与えよう。そなたは、主キリストを強く信じるべきである。それによってしか、救いを得ることはできないのだ。
(わたしは、ここで、とりなしの祈りを求めている人々のリストをマハーリシに手渡した)
(マハーリシ):
神の聖霊は、このところ、陰に陽に、素晴らしい働きをされている。つまり、われらが主の到来のために、道が整えられているということだ。そなたは、秘密宣教団についてすべてを知る必要がある。昨年、そなたがここを出た後で、この宣教団を代表する兄弟たちがわたしに会いに来た。だが、彼らはここでの話し合いを公けにすることをよしとしなかった。そなたのために、この宣教団の歴史を、簡単に話しておくのがよいと思う。
われらが主キリストがお生まれになったとき、三人のマギが自然界の力に動かされ、空の特別な星に導かれて、主に見(まみ)えるために旅立った。その一人は、ヴィシュワミトラという名のベナレスの学者(パンディット)であった。彼は、国に帰ると、救い主、主キリストがお生まれになったと人々に伝えた。ところが、他の学者たちや人々は彼を馬鹿にした。彼らの信仰によれば、ニシュカランク(無原罪の者)が生まれるのはインドだけであり、それ以外のどこの国でもなかったからだ。その何年か後に、ヴィシュワミトラはふたたびパレスチナに旅立った。われらが主キリストは二十一歳になり、すでに聖書を説き始めておられた。
この老いた学者は、バイト・ジヤで主キリストと再会し、平伏して御足に接吻した。キリストは、老人への愛から、手を延ばして学者を抱き起こされ、彼に悪霊を追い出し、奇蹟を行なう力を授けられた。これは、他の使徒たちにお与えになったのと同じ力である。ところが、全員ユダヤ人だったキリストの弟子たちは、学者がまったく違う民族に属することを知って、彼を蔑んだ。学者は彼らと一緒に行動できないとわかり、やがて彼らから離れて、まったく独自に聖書を説き始めた。このヴィシュワミトラという人物は、キリストの御名によって悪霊を追い出したあの預言者である。他の弟子たちは、彼にこの働きをやめさせようとしたが、われらが主は弟子たちにそれを禁じ、仲良く生きるよう諭された。
学者は、それからインドに帰り、聖書を説く仕事についた。ベナレスの他の学者たちは、彼が新しい宗教を説き始めたのを知って、激しく敵対し、ある晩、隙を窺って、彼の手足を縄で縛り上げ、河に放り込んだ。そして、この真のキリスト者の体は、二度と上がることはなかった。学者の弟子たちは、それ以後、極秘でキリストの教えを説き始めた。
ちょうどその頃に、キリストが天に帰ってのち、聖トマスがインドに来た。このとき、ヴィシュワミトラの弟子たちは、行ってこの聖者とともに生き、徐々に数を増していった。第二世紀になって、彼らは聖書をサンスクリット語に訳した。しかし、それからしばらくして、彼らは熱心さと力を失い、中世のカトリックのように、やや怠け癖がついてきた。ウィリアム・カーレイのような宣教師がインドに入ってきたとき、彼らは宣教団の教えが自分たちのと同じであることを知り、熱心に聖書を説き始めた。この教団の信者たちは、今や、インド国内だけで数十万人を数え、インド国民の半分以上が、この人たちによって聖書の教えに触れるに至った。今では、まったく無報酬で主に仕えている秘密宣教師の数は、二万四千人にものぼっている。わたしもその一人である。祈りによる奉仕がわたしの唯一の務めである。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P102
マハーリシとの関係で、見逃せないのは、この人を最高指導者と仰ぐ「サンニャーシン・ミッション」という秘密信徒集団の存在であろう。フリードリッヒ・ハイラー博士が、この組織について多少詳しく書いているので紹介しておこう。
あるとき、サンダー・シングが東インドを旅していたとき、釈迦がその仕事を開始したサルナートで、以前からフェリー博士よりきかされていた秘密サンニャーシン宣教団の信徒たちと、初めての出会いをした。自らを“アジアのキリストの従者”と呼ぶこれら秘教的キリスト者たちは、インド全域に広がり、周辺諸国の幾つかにも入っている。一般に、彼らは社会の上層部に属している。一説には、信徒数は数十万人を数える。この共同体の一派は聖トマスが創立したシリア教会に倣い、完全に組織化された隠れキリスト教会に形を変えている。
これらサンニャーシンの組織は、スワミ(指導者)とシスヤ(学徒)の二グループに分けられる。スワミは約七百人いると信じられており、独身修行生活に徹し、サフラン・ローブを身にまとい、みな“ナンド(歓喜)”の称号を持っている。この隠れ教会の信徒たちは、朝早く“祈りの家”で会合をもつ。これら集会所は、外見はヒンドゥー教の寺だが、中に入れば、絵も祭壇もない。礼拝はサンスクリット語で行なわれ、ときどき洗礼式や聖餐式も行なわれる。「イス・ナスリート・キジャイ」(勝利はナザレのイエスにあり)が彼らのモットーである。
ハイラー博士によると、この組織の僧たちは西暦一世紀、使徒トマスによる創立の当初から、サフラン色のローブをまとってきた。サンダー・シングは、知らぬうちに、彼らとまったく同じ身なりと、同じ伝道方法をとっていたわけである。それは、バタ臭い輸入品のキリスト教ではなく、初めからインドに植えつけられていた、インド原産の霊的なキリストの教え、生けるキリストそのものを説くということである。
1918年1月、マドラスで開かれた大集会において、このクリスチャン秘密結社についてたずねられ、サンダー・シングはこう答えた。
「宗教的仕事はサンニャーシンの一団によって行なわれている。彼らは外見はヒンドゥー教の僧と何ら変わりはないが、違うのは人生をキリストとその教えの流布に捧げている点だ。この教団は厳しい修養を規定し、入団者は“アーナンダ”の称号を得るのに十二年間の訓練期間を経なければならない。彼らの中には、サンスクリットと英語によく通じ、この国内でも非常に高い評価を受けている人々がいる。年次会議も開かれ、活動上の重要な問題が討議される。将来、公に出ることの必要性、教団のメンバーをアメリカに派遣するかどうかということも、その中に入っている。
彼らのやり方は純インド的で、個人的な方法が大部分を占める。秘密は厳守されているため、家族さえ、性格や行動に表われる以外は、本人の信仰の変化に気づかないことがある。メンバーの集会は、世間が眠りについている朝の四時から五時の間に開かれる。聖書の一部がサンスクリット語で朗読され、それが通訳される。洗礼式と聖餐式も保たれている。
わたしが、この秘密教団の存在を初めて知ったのは、カイラスの大聖を通してであって。自分はここに所属していないが、彼らのしている素晴らしい働きは証言できる。北インドを行脚していたときに、わたしはこの教団の指導者たちと巡り合う好機を得た。主の教えを広めるために彼らがなげうつ愛と犠牲には、非常に心を打たれた。
あるとき、ガンジス河畔でわたしは説教していた。人々は、僧としてのわたしは好むが、説教はききたくない、沢山の信者を集めている偉大な先生がいるから会った方がよい、といってきた。わたしは、人だかりのために、まる三日間その人と会えずにいた。ようやく会って、自分はキリストの弟子であると伝えたところ、彼はわたしを抱き締めて、こういったのである。「兄弟、われわれは同じ仕事をしているのだ」と。わたしは、その言葉に非常に驚き、彼が一度もキリストを説かずにいたことを指摘した。すると、彼はこう答えた。『土地を耕さずに種子を蒔くような、愚かな農民がいるだろうか。わたしは、先ず、きく人々の中に霊的価値観を呼び覚ますよう努め、義への飢え乾きができたところで、彼らの前にキリストを置く。わたしは、過去一年のうちに十二人の高い教育のあるヒンドゥー教徒たちに、このガンジスで洗礼を授けた』」
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・8巻P14
‘95・3・3
我が愛の讃歌のために働く まわりのすべての人びともあなたとはもう仲間でないかのように接するのを許しなさい(*)。 あなたの労働の実は 彼ら手で何倍にも増すように(*1)。
*すなわち:それぞれが率先してやるようにしていきなさい、ということ。 *1「神のうちの真のいのち」の書物と、証しの集い:のことと理解しました。