裁く
1.聖書
2.裁く方は主
3.行いに応じて裁かれる
4.教える
5.二十四人の長老、十二人の使徒が審く
6.主も裁かれない
7.正当に審くことは正当
1.聖書
ヨハネ3・16−21
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
ヨハネ5・22
また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように子をも敬うようになるためである。
ヨハネ5・27
また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
ヨハネ5・30
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の心を行おうとするからである。
ヨハネ8・15−16
あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
ヨハネ9・39
イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
ヨハネ12・47−48
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終りの日にその者を裁く。
黙示録16・7
わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。
「然り、全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正しい。」
黙示録19・11
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
ヤコブの手紙4・12
律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
ペトロ1・1・17
また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
2.裁く方は主
天界の秘義9807[7]
審判は凡て真理から行われるため、『主が人の子であられるため、主に審判を行うことが与えられた』と言われており、『人の子』は、前に言ったように、神的な真理[神の真理]を意味し、それが発出してくる源泉である父は神的な善[神の善]を意味している(2803,3704,7499,8328,8897番)。審判を行うことは神的な真理に属しているため、それで『人の子は来るとき、かれはその栄光の王座に座るでしょう』(マタイ19・28,25・31)、『人の子は各々の者にその行為に応じて報いるでしょう』(マタイ16・27)と言われているのである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P213
‘02・1・18
― あなたが 一致の全きイコンとなり、私のうちなる真のいのちを生きるようにと 誰をも慈悲深く引き寄せるように。 この偉大な愛の行為は私の頭に 一致という荘厳な冠を与えてくれる。
― 人からのどんな横暴な行為や憎しみも 私ども(*1)より降る祝福に置きかえられるように。 こうした不逞の輩(やから)を私は 裁きの日に問いただすだろう。
3.行いに応じて裁かれる
黙示録11・12−13
わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
黙示録22・12
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
ヤコブの手紙2・24,26
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
ローマ2・13
律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
マタイ16・27
人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタイ12・33−37
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
4.教える
天界の秘義2372
「かれは本当に審くのか」(創世記19・9)。
これは、かれらが私らに教えるであろうか、を意味していることは『審くこと』の意義が教えることであることから明らかである。『義』は善を実践することについて述べられるが、『審くこと』は真理を教えることについて述べられることは前に示されたが(2235番)、ここから内意では『審く』ことは訓す、または教えることである。真理を教えることは、真理はことごとく善を目指しているため、善いことを教えることと同じことである。
5.二十四人の長老、十二人の使徒が審く
天界の秘義6397[2]
聖言に、二十四人の長老が王座に坐って諸々の国民と諸々の民を審き、十二人の使徒も同様に王座に坐ってイスラエルの十二の種族を審かねばならないと記されている。聖言の内意を知らない者はそのようになるであろうと信じるであろう。しかしこれはいかように理解されねばならないかは、内意から、『二十四の長老』と『十二人の使徒』と『王座』により意味されていることが知られるとき、すなわち、審判の基準となる凡ゆる真理の総合体が知られるとき認められることができよう。それに似たことがここにも『民をイスラエルの種族の一つとして審くこと』により意味されており、かれらが、またはその長老たちのたれかが審くのではなく、かれらにより意味されている真理そのものが審き、従って主のみが審かれることが意味されているのである、なぜなら主から真理はことごとく発出しているからである。
黙示録4・4、11・16
黙示録20・4
マタイ19・28
ルカ22・29,30
天界の秘義6397[3]
これらの記事の中では二十四人の長老も十二人の使徒も意味されはしないで、全般的な諸真理と諸善との凡てが意味されていることが、人間は一人として、天使でさえも一人として何人をも審くことができないという事実から明白である、なぜなら主のみをのぞいては何人も(人間の)内部を、それが現在いかようなものであり、将来いかようになるか、しかもそれが永遠にいかようになるかを知ることはできないからである。
6.主も裁かれない
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P130
「ユダ! そういう言葉が唇を火のように焼くと思わないのですか。お前の先生は裁くことをしないのに、敢えてお前が人を裁くのですか。こう言われている。『罪がたとえ真紅でも雪のように白くなり、緋のようであっても羊毛のようになる』と」
聖書51[5]
主は言われている。
審くな、審かれないためである、あなたらの審く審きであなたらも審かれるであろう(マタイ7・1、2、ルカ6・37)。
教義がないなら、これは悪いことについてそれは悪いと言ってはならない、それで悪い人間も悪い者として審いてはならないという考えを確認するために引用することが出来るが、それでも教義によると、審くことは、しかし正当に審くことは正当なのである、なぜなら主は、
正しい審きで審きなさい(ヨハネ7・24)
と言われるからである。