人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ

(創世記8・21)

 

 

子供子供でさ地獄行く

宗教

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

4.マリア・ワルトルタ

5.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び

 

 

 

1.聖書

 

創世記8・21

 

人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義927

 

「わたしは人間のために再びかさねて土地を呪いはしない」。

これは人間は最古代教会の子孫の人間が離反したようには、かさねて離反しないであろうということを意味していることはこの子孫について前に言われたことから明白である。『呪うこと』は内意では己が自己を離反させることを意味していることは前に見ることができよう(223、245番)。ここの記事と以下の記事における真相のいかようなものであるかは、すなわち、人間は最古代教会の人間が離反したようにはかさねて離反はしないことは、またはかれはかれ自身を再びそのように破壊することはできないことは、滅亡した最古代教会の子孫について、『ノア』と呼ばれた新しい教会についてすでに言われたことから明白である。

 

 

 

天界の秘義927[2]

 

最古代教会の人間はその者のもとにある意志と理解とが一つの心を形成するようにまたは彼のもとで愛が彼の意志の部分に植えつけられ、かくて同時に、彼の心の他の部分を、または知的な部分を占めた信仰も植えつけられるように構成されたことは示されたところである。このことから、彼らの子孫は意志と理解とが一つのものとなっているという条件を受け継いだのであり、それ故自己への愛とそこから由来した狂った欲念が(以前には主に対する愛と隣人に対する仁慈が在ったところの)彼らの意志の部分を占領し始めた時、その意志の部分は、または意志は全く歪められたのみでなく、またそれとともに彼らの知的な部分も、または理解も歪められ、これは最後の子孫がその欲念に浸し、かくて『ネピリム』となった時さらに甚だしくなったのである。なぜなら彼らはそのことにより、その心の両方の部分が(即ち、全心が)破滅してしまったため、回復されることも出来ない性質のものとなったからである。しかしこれは主により予見されたため、主は以下の方法により人間の再建をまた供えられたのである、即ち、それは彼がその心の第二のまたは知的な部分の方面で改良されて、再生し、その部分の中に良心である新しい意志が植えつけられ、その良心を通して主が愛の善(即ち仁慈の善)と信仰の真理とを働かせられるということであった。かくて主の神的慈悲の下に人間は回復したのである。これらがこの節の「わたしは人のために土地を再びかさねて呪いはしない、人間の心の想像はその若い時から悪であるからである、またわたしはわたしが行ったように、生きた物をことごとく重ねて打ちはしない」により意味されている事柄である。

 

 

 

天界の秘義928

 

「人の心の想像はその若い時から悪いためである」。これは人間の意志の部分が徹底的に悪いことを意味していることは今し方述べたことから明らかである。『心の想像[計ること]』はそれ以外の何ごとをも意味していない。人間は自分は善いものを求める意志を持っていると考えているが、しかしそれは全く誤っている。彼が善を行う時は、それは彼の意志から発していないで、主のものである新しい意志から発しており、かくて彼がそれを行うのは主から発しているのである。従って彼が真のものを考えたり、話す時は新しい意志から発している新しい理解から発しており、彼がまたこのことを行うのは主から発しているのである。なぜなら再生した人間は全く主により形作られた新しい人間であり、このことが彼が新しくつくられたと言われている理由である。

 

 

 

 

天界の秘義929

 

「またわたしはわたしが行ったように、生きた物をことごとく再び重ねて打ちはしない」。これは人間はもはや自分自身をそのように破壊することが出来ないであろうということを意味していることは今や明白である、なぜならそれが人間が再生しつつある時の実状であるからである。そのとき彼は彼のもとにある悪と誤謬とから遠ざけられており、またそのとき自分は自分自身から善いことを行い、また真のことを考えているとしか認めていないのである。しかしこれは彼が悪と誤謬から遠ざけられているため(事実彼は強力にそこから遠ざけられているため)、外観または迷妄[妄想]であり、そしてこのように悪と誤謬とから遠ざけられている結果、彼は彼自身を破壊することは出来ないのである。しかしもし彼が万一些かでも放任されるなら、または彼自身に委ねられるなら、彼は悪と誤謬そのものに突入するのであろう。

 

 

 

天界の秘義987

 

 再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することが出来ると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪にすぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。すなわち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、すなわち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復讐、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験により私に示されたのである。

 

 

天界の秘義987[2]

 

こうしたものが彼自身のものであり、こうしたものが彼の意志である。このことはまたたれにでも若しその者が反省するならば、単に以下のことからでも明白であるに違いない、すなわち人間は生まれた時は、凡ての野生の動物と獣の中でも最も野卑な生物なのである。そして彼は成長して、自分自身の主人となると、もし法律の外的な束縛により妨害されないなら、また彼が大きな名誉と富とを得る目的から自分自身に課する束縛により妨害されないなら、彼は凡ゆる犯罪に突入して、宇宙の凡てを征服し、宇宙の凡ての者の富をかき集めない中は休むことも知らず、また自分の卑賤な僕として甘んじる者を除いては何人をも容赦しようとはしないのである。これが人間各々の性質である。たとえ無力であって、こうした企てが不可能である者には、また前に言った束縛の中にいる者にはそのことは知られていないにしても。しかしその可能性と権力とが与えられ、束縛が緩められるならば、彼らはその力の及ぶ限り突入するのである。動物は決してこのような性質を示しはしない。彼らはその性質のある秩序へ生まれているのである。凶暴で貪欲なものは他の生物に危害を加えはするが、しかし単にそれも自己防禦にすぎないのであり、彼らが他の動物を貪り食うのも飢えを満たすためであって、それが満たされると何物にも危害を加えはしないのである。しかし人間は全くそれと異なっている。この凡てから人間自身のものと人間の意志の性質のいかようなものであるかが明白である。

 

 

 

天界の秘義987[3]

 

人間はこうした悪と排泄物に過ぎないからには、彼は彼自身では決して悪を支配することが出来ないことは明白である。悪が悪を支配することが出来る、単に悪のみでなく、地獄もまた支配する。

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P275

‘88・8・9

 

♡♡ 戦いは終わっていません、どの日も 毎日どれほど多くの霊魂が地獄に落ちていくかを知ったなら! その数は警戒すべきほど多いのです・・・ (私はどういう人びとかお尋ねしました) 枢機卿もあれば・・・(*)幼い子どもまで。 

*聖母は躊躇なさり 御心のうちに痛みが感じられました。

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P17

 

 わたしにとって、あなたたちの住んでいる世で、弟子の霊魂を見つけるのはとても困難だ! そして、子供のあいだでさえも、幼子の霊魂を見つけるのはもっと困難だ。わたしが憩いを見出していた素朴さ、信頼、無邪気さを、ごく幼い子供たちのなかでさえも殺したの息はあなたたちをすっかり腐敗させてしまった。

 

 

 

5.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び

 

 

天界の秘義4317[5]

 

それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(即ち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらは跳ね返されるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識[善と真理を認識すること]は全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。