憎むな
1.しかし・・・憎むな
2.おまえ自身が愛し、ゆるすことを知らなくて、どうやって他の人に憎んではいけない、ゆるしなさいと言えますか。善い神様にすべてを任せれば、神様がどれほどの善いことを準備しているか分かるはずです
3.人を憎んではなりません
4.それよりも殺人の考えを“すぐ”捨てなさい。さもなければ私はあなたから離れます
5.けれど、私はもう憎しみを知らない者になりました。なぜなら、しつこい憎しみは不毛のもとだとここで分かったからです
6.自分を憎む人を憎んで、自分もサタンの友人になりたいのですか。愛から外れている人が、どうして他人を愛へ導くことができよう
7.私が憎まないように、私の羊もおまえたちを憎まない
8.ああ民よ、憎悪の壁によって分れていることが、どんな役に立ちましたか
9.憎しみは罪と同じように人間を汚します
10.サタンの友である者だけが憎しみを抱きます。善人は人を憎みません。決して。どんなわけがあろうと。侮られ、蔑まれようと、大損害を蒙(こうむ)ろうとも赦します
11.ところが一方、真の殺人者、すなわちサタンは憎しみですから、兄弟への憐れみなど無いし、ありえない。サタンの中では襲われた犠牲者に対する残忍さは弥(いや)増します
12.では、あなたは進みなさい。無垢な子の手をしっかり握って、正義の道を進みなさい。憎まず、復讐せずに
13.私たちは憎むがゆえに苦しみます
1.しかし・・・憎むな
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P88
(イエズス)「あなたこそ息子たちは許しなさい。子供たちの心をあなたが理解しさえすれば、私はあなたを慰められます。心に遺恨があれば私には何もできない」
(イエズスの従兄弟ヤコボとユダの父アルフェオ)
「許すだって?」
老人は跳び上がって驚いたので体に激痛が走り、ますます荒れ狂う。
「許すだって? 絶対に許さん。さあ、もう出て行ってくれ! そんなことを言いたいのだったら出て行け! こんなことに煩わされないように、もう死んでしまいたい」
イエズスは、さじを投げたらしい。
「ではアルフェオ、さようなら。ここを去ります・・・本当に行ってしまってもいいのですね? 伯父さん・・・本当に?」
「私の言うことが聞けないのなら、さっさと出て行け! あの二匹の蛇に、年老いた父がおまえたちを呪いつつ死んでやる、と言っていたと伝えておけ」
「いいえ、それだけはいけない。自分の霊魂を滅ぼすことになる。そうしたいなら私を愛さなくてもよい。メシアだと信じなくてもかまわない。しかし憎むのはよくない。私をあざ笑うのも狂気と言うのもかまわない。しかし・・・憎むな」
「おまえを侮辱しているのに、なぜ私を変わらず愛そうとするのか」
「私はあなたが認めたがらない“あの方”だからです。私は愛です。母様、私は家へ帰ります」
「それがいいわ。少ししたら私も帰ります」
「アルフェオ、あなたに私の平和を残します。私に来てほしいと思ったら、いつでも呼んでください。私はすぐに来ます」
イエズスは何事もなかったかのように落ち着き払って部屋を出る。ただ顔色は前よりも青ざめている。
「イエズス、イエズス! 夫を許してください」
アルフェオのマリアが悲鳴に近い声を上げる。
「ええ、マリア。そうする必要さえありませんよ。苦しむ人にはすべてが許されているのです。いまは少し落ち着いています。本人の心が気づいていないくても、恩寵は働いています。かてて加えて、あなたの涙があります。それからユダとヤコボの苦しみと召し出しに対する自己の忠実があります。伯母さん、苦しみに締めつけられているあなたの心に平和!」
2.おまえ自身が愛し、ゆるすことを知らなくて、どうやって他の人に憎んではいけない、ゆるしなさいと言えますか。善い神様にすべてを任せれば、神様がどれほどの善いことを準備しているか分かるはずです。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2/P169〜172
(みなしごのマルジアム)「善いお方の神様が、おじいさんまで泣かせたような悪いドラスをどうして愛せるのですか」
(聖母)「神は苦しみと怒りをもってドラスを見ているけれど、もしもあの人が回心すれば、ほら、あの父親が帰って来た放蕩息子に言ったのと同じことばを言うはずです。あなたはドラスが回心するように祈ればいいと思うけれど・・・」
「おお、お母様、とんでもない! 僕はあいつが死ねばいいと祈ります」と、子供は意気込んで言う。
天使らしくない思いがけないことばが、どれほど強く、どれほど真実か、その必死の様子に他の人たちは苦笑せずにいられない。だが、すぐさま、マリアは真面目な優しい先生に戻って話す。
「いえいえ、愛する子よ、罪人といえども、そんなことをしてはいけません。神が、あなたのその祈りを聞き届けるはずはないし、あなたのことも厳しく見られるようになるわ。私たちは、たとえとても悪い人でも、隣人のためにいつも善いことを頼むべきです。生きることは、神の御前に功徳を得る機会を持つことになるから、善いことなのです」
「でも、その人が悪かったら、罪を重ねるだけです」
「善くなるように祈るのです」
子供は考え込む・・・しかし、崇高な教訓がなかなか飲み込めないらしく、
「僕が祈ったって、ドラスが善くなるわけがないよ。あれほど悪い奴はいない。僕と一緒にベトレヘムのあの殉教者たちが皆、祈ったって善くなるわけがない。あなたは知らないと思うけど、あの日・・・僕のおじいちゃんを鉄棒で打ちのめしていました。仕事中に腰かけているのを見つけたからと言って。体の具合が悪くて立てなかっただけなのに。・・・ドラスはぶちのめしたあげく、息も絶え絶えになったおじいちゃんの顔まで蹴った・・・僕は塀の後ろに隠れていたから、最初から最後までずっとこの目で見ていました。そこへ行ったのは、二月から、だれもパン一切れ、持って来なかったので、とてもお腹がすいていたんだ。・・・おじいちゃんがひげまで血まみれになって、死にそうになって倒れているのを見ると、悲しくて泣きじゃくっていたけど、だれかにばれると困るので逃げ出した・・・泣きながら、パン一切れの施しをもらいに行ったけれど、その時のパンはいつもここに残しています。そのパンは、血とおじいちゃんと僕の涙と、拷問する人を愛せない皆の涙の味がするから。
僕は自分がたたかれたらどんな気持ちになるか、あのドラスに思い知らせるために、棒で打ちのめしてやりたい。飢え死にすることがどんなことか思い知らせるために、パン一切れだってやりたくない。じりじりと照りつける日射しの下で、泥まみれになって何も食べられず、番人の看視のもとで働かせてやりたい。自分が貧乏人にどんなことをしているか、思い知らせてやりたい。僕はあいつを愛するなんてとてもできない。だって・・・だって、あいつが僕の聖なるおじいちゃんをなぶり殺しにしていて、それで、あなたたちに会えていなかったなら、僕は、僕はどうなっていたでしょうか」
婦人たちはびっくりし、感動して、子供をなだめようとするが、子供は本当に苦しみのあまり発作を起こし、何一つ聞こうとしない。
「いやいや。あいつを僕が愛したりゆるしたりなんて絶対にできない。僕は、皆に代わってあいつを憎む、憎むとも・・・」
子供は悲しみと恐れに捕らわれる。苦しみ抜いた人だけがする反応である。
「無邪気な子供の心に憎しみを抱かせること、これこそドラスの最大の犯罪です」
イエズスはこう言った後で、子供を抱っこしてあやしながら話しかける。
「マルジアム、聞きなさい。いつの日か、お母さんや、お父さんや小さな兄弟たちやおじいさんと、一緒に行きたいでしょう」
「うん」今にも泣きべそをかきそうになって、子供は答える。
「それだったら、だれも憎まないでね。天国には憎む人は入れません。今はドラスのために祈れないって? じゃあね、祈らなくてもいいから、憎むのはやめなさい。何をすればよいか教えてあげましょうか。過ぎ去ったことを、振り向いて見たりしてはいけません」
「でも、苦しんでいるおじいちゃんは、昔の話じゃない」
「それはそう。でもね、マルジアム。そう、こういうふうに祈ってみなさい。
“天におられる私たちの父よ、私の考えることをあなたにお任せします”
御父は、今のマルジアムが想像もできないように、マルジアムのことを聞き届けてくださると思います。仮に、おまえがドラスを殺したらどうなると思いますか。お父さんにもお母さんにも、もう二度と会えなくなってしまうかもしれないし、おまえが好きなおじいちゃんの苦しみはなくなりませんよ。こんなことをするには、おまえはあまりにも幼い。でも、神にはできます。神様にこう言いなさい。
“私はおじいちゃんと不幸な人、皆をどんなに愛しているか、ご存じですか。何でもできるあなたが考えてください”と。
「はい、そうします。あなたが好きだから」
イエズスはマルジアムに接吻し、地面に下ろす。こうして、このエピソードは終わり、道のりも随分はかどった。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P76
ちょうどその瞬間、男の動きが止まる。彼は、よろめき、刃物を地に落とし、目を激しくこすり、恐ろしい声を上げる。
「目が見えない! 助けてくれ! 目が見えない! 真っ暗だ! だれか、だれか助けてくれ!」
他の人たちも驚いて叫びを上げる。そして言う。
「神様は、お前の言葉を聞かれた!」
事実、彼は神をあざけるこんな言葉を吐いていた。
「わしが嘘をついて、罪を犯したと言うなら、神よ、わしの目を見えなくしてくれていい! 気の狂ったナザレ人を拝むくらいなら、目を失った方がましだ! 神よ、わしの目を見えなくしてくれ! お前たちの皆に、せいぜい仕返しをしてやるから、覚悟するがいいぞ。ベンヤミンは、あの木の枝のように折ってやる・・・」と。
そう言っているのを聞いていた人々は、
「さあさあ、どうぞ仕返しをしてくれ」と、あざけるように言う。
イエズスは、それをたしなめて、
「あなたたちは、彼と同じことをしてはいけない。人を憎んではなりません」と言う。
4.それよりも殺人の考えを“すぐ”捨てなさい。さもなければ私はあなたから離れます
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P19
ラザロ:「では、ユダは逃亡するのですか。それでもかまわない。『彼に出くわしたら』とさっき言いましたが、こう言い直します。この世の果てまで追いかけてユダをたたき殺す、と」
イエズス:「そんなことを望んではいけない」
ラザロ:「いや、あいつを殺ってやる」
(中略)
イエズス:「ユダはサタンのところにいるはずです。そして、あなたはいつになってもサタンのもとへは行けない。それよりも殺人の考えを“すぐ”捨てなさい。さもなければ私はあなたから離れます」
ラザロ:「おお!・・・しかし・・・あなたのためならば・・・ああ、そうだ、先生! 先生! 先生! 」
5.けれど、私はもう憎しみを知らない者になりました。なぜなら、しつこい憎しみは不毛のもとだとここで分かったからです
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P343
(エンドルのヨハネ)
おお、そうです。ここにはどれほどの平和があることか。この世の平和ではありません。ここを去るときは、この平和を一緒に持って行きたい。・・・いろいろな思い出が私を傷つけ、侮辱が苦しめます。人間だから。けれど、私はもう憎しみを知らない者になりました。なぜなら、しつこい憎しみは不毛のもとだとここで分かったからです。
6.自分を憎む人を憎んで、自分もサタンの友人になりたいのですか。愛から外れている人が、どうして他人を愛へ導くことができよう
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P90
(従兄弟のヤコボ)「彼が私を年端のいかぬ子供のように扱うときでもですか? 普段はともかく彼はときどき常識外れなことを言いますよ」
(イエズス)「黙ってそれを聞き流すのです。それが怒りを鎮める唯一の薬なのです。謙遜と忍耐をもって沈黙しなさい。相手を罵らないで、もう黙っていられないと思ったら、そこを去りなさい。黙ることを知り、逃げることを知る。これは卑怯のためではなく、返答に窮したためでもない。ただ徳のため、賢明のため、謙遜のためです。議論のとき、正義を守るのは決して易しくないし、心の平和を守るのも難しい。
何時でも何かが心の中を濁し、雑音を立てる。そのとき人間の心に反映している神のかたどりは消えてゆき、もう神のことばを聞くことができない。兄弟の間の平和! 敵に対しても平和。彼らが我々の敵であればサタンの友だちである。自分を憎む人を憎んで、自分もサタンの友人になりたいのですか。愛から外れている人が、どうして他人を愛へ導くことができよう。
あなたたちはよく私に言う。『イエズス、あなたは何回も教えを繰り返すだけでなく、それを実行しておられるのに、それでもあなたは憎まれている』と。私はこのことを何時も繰り返そう。何時かあなたたちと一緒にいられなくなるときには、この教えを天から聖霊を通して繰り返そう。我々は敗北ではなく勝利を教えたい。このために神を賛美しよう! 回心者がいない日はなかったか、神の働き手はこれに注意すべきで、うまくいけば主をたたえ、勝利を手にしないときも世間の人々のように平和を失うことがないように。そうすれば・・・」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P243
(ユダヤ人たちへ)
おまえたちは私の子羊の群れに属していないから、信じない。(中略)おまえたちが子羊の群れの中にいるのは、相手を傷つけ苦しませるためである。私の羊はおまえたちを怖がっている。同じようなできの人間だったら、おまえたちを憎むはずだが、彼らは平和と愛とあわれみの牧者の子羊だから憎むことを知らない。私が憎まないように、私の羊もおまえたちを憎まない。憎みを取れ、それは三重の欲望の実である。肉体とともに霊魂もあることを忘れている野獣のような人間の抑えのきかない自我も取れ。
8.ああ民よ、憎悪の壁によって分れていることが、どんな役に立ちましたか
マリア・ワルトルタ/イエズスたそがれの日々/P344
神殿とその壁との再築に伴ったいろいろ悲しい出来事について黙想してから、一人の知恵者の心から流れ出た詩篇は次の通りです。『主が家を建てられないなら、それを造る者の働きは空しい。主が町を守られないなら、番人の警戒は空しい』(詩篇127・1)と。住む人々に心がなく、隣人への愛もないなら、神が家造りを手伝われるはずはありません。またその町には隣人への憎しみばかりで、神ご自身がおられないのに、どうして守りが固められようか。ああ民よ、憎悪の壁によって分れていることが、どんな役に立ちましたか。そのためにもっと偉大な者になれましたか。もっと豊かに、もっと幸せになれましたか? 憎しみや妬みは役に立ちません。孤立した人は強くなく、愛を知らない人は、愛されることもありません。詩篇が言っているように、豊かで幸せになるために、早朝から起き出して働いても役に立ちません。苦しい生活の慰めとして適当に休みなさい。なぜなら眠りは神の賜物であり、光をはじめ人間が恵まれている他のすべてのことも神の恵みです。眠りのときも目覚めているときも、愛に伴われているなら、その人の仕事は繁栄し、家族も財産も殖え、何よりも心が豊かになります。
9.憎しみは罪と同じように人間を汚します
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P236
アグラエは、大きなマントと、ヴェールを拾おうとした。
「それはほうっておきなさい。それは迷っていたあわれなアグラエの服です。いまはもうそのアグラエはいません・・・服も残してはなりません。それは激しい憎しみを覚えており・・・そして憎しみは罪と同じように人間を汚します」
二人は暗い庭を通って聖ヨゼフの小さな部屋に入る。マリアは小さな台に置かれたランプに火をつけて、もう一度回心した人を抱きしめてから戸を閉めた。そして三つ口のあかりを持ったまま、明日どんなお客が来ても見つからないように、アグラエのぼろぼろのマントをどこにしまおうかと思案をする。
10.サタンの友である者だけが憎しみを抱きます。善人は人を憎みません。決して。どんなわけがあろうと。侮られ、蔑まれようと、大損害を蒙(こうむ)ろうとも赦します
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P551/130・5
憎しみ。サタンの友である者だけが憎しみを抱きます。善人は人を憎みません。決して。どんなわけがあろうと。侮られ、蔑まれようと、大損害を蒙(こうむ)ろうとも赦します。決して憎みません。憎しみは、破滅した霊魂が自分自身に対して行う証言であり、無辜の人に与えられる最も素晴らしい証言です。憎しみは善に対抗する悪の反乱だからです。善良な人に対しては容赦はしません。
11.ところが一方、真の殺人者、すなわちサタンは憎しみですから、兄弟への憐れみなど無いし、ありえない。サタンの中では襲われた犠牲者に対する残忍さは弥(いや)増します
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P507/126・7
わたしはどのように襲ったか?
常軌を逸するまで怒り狂い、その後衝撃の最初の引き金を引いたのか?
時として人は自分の感情を抑えられません。なぜならサタンは、石投げ兵のように、悪の中に人を投げ込むからです。しかし、一つの石が目標に達した後、もう一度投げられ、襲うために、石投げ兵の手に自ら戻って来るとしたら、その石についてあなたたちは何と言うでしょうか? 『魔法にかけられた地獄のような力に囚われている』と言うでしょう。第一撃の後、その残忍さは衰えもせず、第二、第三、第十番目の打撃を与える人はそうなのです。怒りは収まるから、最初の弾みのすぐ後、尤もな理由から弾みがまたあるとしても、理性がその後釜に座ります。ところが一方、真の殺人者、すなわちサタンは憎しみですから、兄弟への憐れみなど無いし、ありえない。サタンの中では襲われた犠牲者に対する残忍さは弥(いや)増します。
12.では、あなたは進みなさい。無垢な子の手をしっかり握って、正義の道を進みなさい。憎まず、復讐せずに。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P136/531・15
「先生、今日は厳しいことをおっしゃいます」。
「いいえ。わたしは先生です。わたしの前には、恵みの生活において成長できる人がいます。あなたが、こういう人でなかったら、あなたにこれほど要求しないでしょう。けれども、あなたは性質が良く、苦しみによって、あなたはますます清く、強くされています。いつかあなたは、わたしがこう言ったことを思い出して、ありがたく思うでしょう」。
「夫はもう帰って来ないでしょう・・・」。
「では、あなたは進みなさい。無垢な子の手をしっかり握って、正義の道を進みなさい。憎まず、復讐せずに。むなしい期待をしたり、失ったものを惜しんだりしてはいけません」。
「では、わたしが夫を失ったことをご存知なのですね!」。
「はい。でも、あなたが失ったのではなく、夫があなたを失ったのです。彼はあなたにふさわしくない人でした。聞きなさい・・・つらいでしょう。分かります。あなたは、わたしを慰めるために、バラと無邪気な微笑みをもたらしてくれました・・・わたしは・・・わたしはあなたに、捨てられた妻たちのイバラの冠を整えることしかできません・・・でも、よく考えなさい。もしも、ファウスタが死にそうだったあの朝に戻れるとして、あなたは娘か夫かどちらかを選ばなければならず、どちらかを必ず失わなければならないとしたら、どちらを選びますか?・・・」。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2/P301
私たちは憎むがゆえに苦しみます。ここには愛だけがあり、そのために喜びがあります。