敵意

 

 

天界の秘義7437〔2〕

 

 悪から進んで誤謬を考えることについては、悪の中にいる者らは悪から進んで誤謬を考えないわけにはいかないことを知られたい、なぜなら悪は彼らの意志のものであり、従ってその愛のものであり、誤謬は彼らの思考のものであり、従ってその信仰のものであるからである。なぜなら人間はその意志する〔欲する〕ものを愛し、その愛するものを確認もし、弁護もし、悪は誤謬によらなくては確認も弁護もされることは出来ないからであり、それで聖言では、悪が都に譬えられているところでは、誤謬は都の周辺の城壁に譬えられているのである。悪の中にいる者らは誤謬を考え出し、その誤謬によって悪を弁護することは、悪は彼らの生命そのものとなっているほどにもその生命の歓喜そのものとなっているためである。それで彼らはそれが悪であることを他の者たちから悟ると、その時はそれがそうしたものに見えないように、誤謬を案出し、その誤謬によりその悪が悪であるとは信じられないようにしむけるのであるが、もしその悪が誤謬を通して敢えて現れようとしないなら、それは内部に隠れており、法律を恐れる思い、または利得のために、または名誉を得るために(自分の)世評を悪くはしないかと恐れる思いが無くなってしまう時以外は現れもしないのであり、そうした恐れが無くなると、その時はその悪は策略の形をとって、または公然とした敵意の形をとって迸り出てくるのである。