怒り

 

 

外観の法則

あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす(ヨハネ2・17)

兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける(マタイ5・22)

 

 

 

 

1.怒り

2.熱意

3.怒るに遅く

4.刑罰

5.公教要理(カテキズム)

6.自分自身を愛する者は、容易に苛立ち、猛烈に激怒する

 

 

 

 

1.怒り

 

 

出エジプト4・14

 

主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。

 

 

 

サムエル記下22・8

 

主の怒りに地は揺れ動き

天の基は震え、揺らぐ。

 

 

 

詩編60・3

 

神よ、あなたは我らを突き放し

怒って我らを散らされた。

どうか我らを立ち帰らせてください。

 

 

 

詩編77・10

 

神は憐れみを忘れ

怒って、同情を閉ざされたのであろうか。

 

 

 

詩編89・39

 

しかしあなたは、御自ら油を注がれた人に対して

激しく怒り、彼を退け、見捨て

 

 

 

詩編90・7

 

あなたの怒りにわたしたちは絶え入り

あなたの憤りに恐れます。

 

 

 

イザヤ5・25

 

それゆえ

主は御自分の民に向かって激しく怒り

御手を伸ばして、彼らを撃たれた。

山々は震え

民のしかばねは芥のように巷に散った。

しかしなお、主の怒りはやまず

御手は伸ばされたままだ。

 

 

 

イザヤ9・18

 

万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ

民は火の燃えくさのようになり

だれもその兄弟を容赦しない。

 

 

 

イザヤ書42・25

 

主は燃える怒りを注ぎ出し

激しい戦いを挑まれた。

その炎に囲まれても、悟る者はなく

火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。

 

 

 

エレミヤ4・8

 

それゆえに、粗布をまとい

嘆き、泣き叫べ。

主の激しい怒りは我々を去らない。

 

 

哀歌5・22

 

あなたは激しく憤り

わたしたちをまったく見捨てられました。

 

 

 

シラ27・30、28・1−7

 

憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう。復讐する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。

 

 

 

ナホム1・2

 

主は熱情の神、報復を行われる方。

主は報復し、激しく怒られる。

主は敵に報復し

仇に向かって怒りを抱かれる。

 

 

 

マタイ3・7

 

ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」

 

 

 

ヨハネ3・36

 

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P317

 

 あなたたちは新しい時代の人だが、昔の時代の人よりも怒ること、心の乱れることが多いのではないか。過去を脱ぎ捨てなさい。ユダは気に入らないかもしれないが、もう一度繰り返します。引き抜き、剪定し、接ぎ木し、新しい木を植えなさい。自分を新しい人にしなさい。謙遜、信仰の穴を掘りなさい。あの王たちはそうしました。神の声が聞こえなかったとき、いと高き御者の思し召しを繰り返す預言者の命令を聞きました。そのとき、従順を知らなかったら、その場で渇き死んだでしょうが、彼らは服従しました。そして水は掘られた溝に満ち、彼らは渇きから救われただけではなく、敵にも打ち勝ちました。私は命の水です。私を受け入れるために心に穴を掘りなさい。

 

 

 

天界の秘義681

 

天的な霊的な食物の性質は他生で最も良く知られることが出来るのである。天使達と霊達の生命がこの世界に在るような食物によって支えられてはいないで、主がマタイ伝4・4に教えておられるように『主の御口から出る凡ての言葉』により支えられている。真理は主のみが凡ての者の生命で在られ、天使たちと霊たちが考え、語り、行う凡てのものは全般的にもまた個別的にも主から来ており、悪い霊らの考え、語り、行っていることもまた主から来ているということである。この後の者が悪い事柄を語りまた行っている理由は、彼らは主のものである諸善と諸真理をそのように受けて歪めてしまうということである。受容と情愛は受容体[受容する者の形]に応じている。このことは太陽の光を受ける種々の物に譬えることが出来よう、その或る物はその受け入れた光をその物の他の部分の形、決定、配置に応じ、不愉快な忌まわしい色彩に変えているが、他のものはそれを快い美しい色に変えるのである。全天界と霊たちの全世界は主の御口から発出している凡ゆる物によりこのようにして生きており、そこから各個人はその生命を得ており、全世界と霊達の世界のみでなく、全人類もそこからその生命を得ているのである。私はこうした事柄は信じられないであろうことを知っているが、それでも数年に亘る連続した経験から私はそれらが極めて真実であることを主張することが出来るのである。霊達の世界の悪霊等はそれがそうであることを信じようとはしない、それでそのことが再三彼らに―そのありのままに―証明されたが、遂に彼らはそれが真実であることを憤怒をもって認めたのである。もし天使と霊と人間がこの食物を奪われるならば、彼らは一瞬に息が絶えてしまうであろう。

 

 

 

天界の秘義9143

 

「火が燃え出して」。

 

これは悪の情愛から発した怒りを意味していることは、『火』の意義から明白であり、それは愛であり、ここでは悪の愛とその情愛である(そのことについては、すぐ前の9141番を参照)。悪の『情愛』と言ったのは、情愛により愛から連続したものが意味されているためである。『火』は悪の情愛から発した怒りを意味していることは、怒りはこの源泉から発しているためである。なぜなら人間の愛するものが攻撃される時、火焔が迸り出て、いわば燃えるからである。ここから怒りが聖言で『火』により記され、『燃える』と言われている、例えば以下の記事には―

 

その鼻孔からは煙が立ち昇り、その口からは火が発した、石炭がかれから燃えて出た(詩篇18・8)。

 

御子に接吻せよ、御子が怒られないためである。その御怒りは速やかに燃えるであろう(詩篇2・12)。

 

たれが焼き尽す火に対し我らのために止まるであろうか、たれが永遠のかまどの上で我らのために止まるであろう(イザヤ33・14)。

 

かれはその怒りの憤りをかれに注がれた、それはかれのまわりに火をつけたが、かれは知らなかった、それはかれを燃やした、それでもかれはそれを心にとめなかった(イザヤ42・25)。

 

見よ、エホバは火の中に、その戦車は旋風のように来、その怒りの憤りの中に彼らに報い、その叱咤[叱責]は炎の中に(イザヤ66・15)。

 

私は振り返り、その山から、その山が火で燃えていた時、降りて来た。私はエホバが私らを怒られたその怒りと憤りとのために恐れた(申命記9・15,19)。

 

これらの、また他の多くの記事に怒りは『火』により記されている。怒りがエホバに、すなわち、主に帰せられているが、しかしそれは人間の中に在るのである(5798、6997、8282、8483番)。(主がシナイ山にイスラエル民族にかれらの性質に従って現れられ、かくて火と煙と暗闇との中に現れたもうたことについては、6832番を参照)。

 

しかし怒りは悪の情愛から迸り出る火であるに反し、熱意は善の情愛から迸り出る火であることを知っておかなくてはならない(4164、4444、8598番)。それで熱意もまた『火』により記されている、例えば以下の記事には―

 

あなたの神、エホバは焼き尽す火、熱意の神である(申命記4・24)。

わたしはかれらにわたしの怒りの憤りをすべて注ごう、全地はわたしの熱意の火の中に焼き尽くされるであろう(ゼパニア3・8)。

 

(エホバの熱意は愛と慈悲であり、それは、邪悪な者がその悪の刑罰を招く時、怒りのように邪悪な者には見えるため、『怒り』と呼ばれていることについては、8875番を参照されたい)。

 

 

 

 

天界の秘義10559

 

「モーセはエホバに言った」

彼が激しく怒った。

なぜならその国民に似ている人間はもしその願っているものを得ないなら神に対して激しく怒るからである。

こうしたことは内なるものをもたない外なるものの中にいる者ら凡てにより行われているのである。

なぜならもし彼らが神を敬い、崇め、いわば愛しもするにしても、それは神御自身のためではなくて、彼ら自身のためなのである。

なぜなら彼らは他の者らよりも優越することと、他の者らにまさった冨以外には何ごとも求めてはおらず、それが彼らの尊敬と崇拝と、いわば彼らの愛とを掻き立てる火であるからである。しかしもし彼らがその望むものを得ないなら神を棄て去ってしまうのである。

 

 

 

天界の秘義10618

 

「怒りを抑え。」(出エジプト34・6)

 

これが神的な寛容を意味していることは『怒りを抑えること』の意義から明白であり、それは、エホバについて言われている時は、エホバは人間の悪を長く堪え忍ばれるということである、なぜなら『抑えること』は長い間耐え忍ぶことであり、『怒り』は人間における悪を意味しているからである。『怒り』が、エホバについて言われるときは、人間における悪を意味している理由は、悪は怒りはするが、善は決して怒りはしないのであり、悪は人間のもとに在るが、主のもとには決してないということである、なぜなら主は善それ自身にて在すからである。

にも拘らず怒りが主に帰せられてはいるが、それは人間はその欲求するものを得ない時、また悪のために罰せられる時はそのように思われるためである。それで怒りを抑えることが、エホバについて言われている時は、人間における悪を長い間耐え忍ばれることを意味しているため、そのことにより神的な寛容が意味されていることがそこから生まれているのである。

 

 

 

天界の秘義10618 []

 

怒りについては、悪は怒るようになるが、善は決して怒るようにはならないことを知られたい、それは、怒ることは他の者に悪を欲することであるが、善はそうしたことは決して行うことが出来ないためである、なぜなら善は他の善を欲することに在るからである。悪は凡てその中に敵意、憎悪、復讐、残酷を持っており、そうしたものの中に、またそうしたものから悪はその歓喜を得ているのである。さらに悪は善を憎悪しているのである、それは善はその歓喜に対立しているためである。従って悪は善を害うことが出来ない時は―悪は善を害おうと絶えず努めてはいるが―それは先ず憤慨し、後に怒りとなるのである。悪と言うも、悪い人間と言うも、意味は同じである。なぜなら悪は人間の中に人間を主体として存在しているからである。そのことが善に反抗する悪の性質であるため、それはまた神的なものにもそのように反抗しているのである。なぜなら善はことごとく神的なものから発しているため、それは人間のもとに在る神的なものであるからである。ここから悪い人間は神的なものに対して常に怒っているのである―たとえ外面では人間の前ではそれとは裏腹のことを話してはいるにしても。

 

 

 

天界の秘義10618 []

 

彼が裏腹のことを話すことは偽善から発しているか、または以下の事実から発しているか、その何れかである、即ち、彼は神的なものが[神が]、自分の求めるものを何なりと与えることにより、実に、自分が憎悪している者凡てに対し、自分自身のために復讐をさせさえもされることにより、凡ゆる事柄において自分を恵み給うように願っているように願っているのである。

しかし彼はそのことが行われないことを認めるとすぐさま、特に彼自身が彼の悪のために罰せられるなら、その時は神に向かって怒り、神を否定し、またその心の中に神を冒涜しさえもするのである。それがそうであることは他生に明らかに示されており、そこでは人間はその内部に従って生きており、世におけるように、その外部に従っては生きてはいないのであり、その生命の中では刑罰はその悪に密着しており、いわば、その中に内在しているのである。

 

(『怒り』が悪を意味していることについては、6358,6359番を参照)、怒りと悪とは人間に属しているのに、それが神に帰せられており、悪は一つとして神からは発していないことについては、9306、10431番に引用した所を参照し、悪にはその刑罰が伴っていることについては、1857、8214、8223,8226,9048番を参照されたい。)

 

 

 

 

2.熱意

 

 

詩篇69・10

 

あなたの神殿に対する熱情が

わたしを食い尽くしているので

あなたを嘲るものの嘲りが

わたしの上にふりかかっています。

 

 

 

ヨハネ2・17

 

弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

 

 

 

黙示録3・14−16

 

ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

 

 

 

 

天界の秘義2351

 

悪が善を攻撃する時、それは『怒り』と呼ばれているが、しかし善が悪を非難する時は、それは『熱意』と呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義3614[2]

 

『憤り』と『怒り』は聖言に再三言われているが、しかしそれらは内意では憤りと怒りを意味しないで、反感を意味しており、それは何であれ何かの情愛に反感を与えるものはことごとく憤りまたは怒りを生み出しており、それで内意ではそれらは単に反感に過ぎないという理由によっているが、しかし真理の反感は『憤り』と呼ばれ、善の反感は『怒り』と呼ばれており、それに対立した意義では『憤り』は誤謬またはその情愛の、即ち誤謬の原理の反感であり、『怒り』は悪またはその欲念の、即ち、自己への愛と世への愛の反感である。この意義では『憤り』は当然憤りであり、『怒り』も怒りであるが、しかしそれらが善と真理について述べられると、『憤り』と『怒り』は熱意であり、この熱意はその外なる形では憤りと怒りのように見えるため、文字の意義ではまたそのように呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義3839[3]

 

 例えば、ここに取り扱われている憤怒の情愛についてであるが―仁慈の情愛の中にいない結果、そのいかようなものであるかを知っていない者はことごとく、人間に何か悪が為される時、その人間が抱くような憤り以外のものを考えることは出来ないのであり、それは怒りの憤りである。しかし天使たちはそのような憤りは持ってはいないで、それとは全く異なった憤りを持っており、それは怒りのものではなくて、熱意のものであり、その中には悪は何一つ宿ってはおらず、天界が地獄から隔たっているように、憎悪または復讐から隔たっており、または悪に悪を報いる精神から隔たっているのである、なぜならそれは善から発しているからである。しかし前に言ったようにこの憤りの性質はいかような言葉によっても表現することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義3909

 

「ヤコブはラケルに対して怒りに燃えた」(創世記30・2)。これは自然的な善の側における憤りを意味していることは、以下から明白である、すなわち、『怒りに燃えること』の意義は憤ることであり(そのことについては以下に述べよう)、ヤコブの表象は自然的なものの善である(そのことについては前を参照)。『ラケルに対して』と言われているのは、ラケルにより表象されている内的な真理が『ヤコブ』であるところの自然的なものの善により信仰と行為において未だ承認されることが出来なかったためである。内意では『怒りに燃えること』は憤ることであるのは、自然的な情愛はことごとく内部へ向って、または天界へ向って上昇すると、更になごやかなものとなって、遂には天界的な情愛へ変化するためである。なぜなら(ここの『怒りに燃える』ように)文字の意義に現れている事柄は、自然的なものであり、形体的なものであるためそれは相対的には刺々しいものであるが、しかしそれが形体的な自然的な人から内なるまたは霊的な人へ高揚されるにつれて、なごやかに穏やかにまた優しくもなるからである。これが文字の意義はこのような性質を持っていて、自然的な人の把握に適応しており、霊的な意義はそのような性質を持たないで、霊的な人の把握に適応している理由となっている。このことが『怒りに燃えること』は憤ることであることを示している。真の霊的な憤りは(また特に天的な憤りは)自然的な人の怒りからは何ものをも取得してはいないで、熱意の内的な本質から取得しており、その熱意は外なる形では実に怒りのように現れているが、しかし内なる形では怒りではなく、怒りの憤りですらなく、それがそのようなものではないようにとの願いのこもった一種の悲哀であり、さらに内的な形では、他の者における善くない、また真でないもののために天的な歓喜を妨害する一種の明確でない感情に過ぎないのである。

 

 

 

天界の秘義4164

 

「ヤコブは憤って、ラバンを叱責した」(創世記31・36)。

 

これは自然的なものの熱意を意味していることは以下から明白である、即ち、『憤ること』の、または『怒ること』の、その結果『叱責すること』の意義は熱意であり、ヤコブの表象は自然的なものの善であり、そのことについては前を参照されたい。『憤ること』または『怒ること』が、その結果『叱責すること』が熱意を意味していることは、天界では、または天使たちのもとには怒りは全く存在しないで、その代わり熱意が在るためである。なぜなら怒りは熱意とは、怒りの中には悪が在るが、熱意には善が在るということから異なっており、または怒っている者はその怒りを覚えている相手に悪を意図しているに反し、熱意の中にいる者はその熱意を覚えている相手に善を意図しているという事実により異なっているからである。そうした理由から熱意の中にいる者はたちまち善になることが出来、その行為そのものの中にいる時も他の者たちに善であることが出来るが、怒りの中にいる者はそうではないのである。外なる形では熱意は怒りのように見えはするものの、それでも内なる形ではそれは全く異なっているのである。

 

 

 

天界の秘義4444

 

『彼らは言った、彼に私たちの妹を娼婦のようにさせてよかろうか』という言葉に従って(創世記34・31)、彼が彼らの妹と臥したために熱意を意味しているかのように見えもするが、しかしそれは熱意ではなかったのである、なぜなら熱意はその中に善を持っているため、善の中にいる者のもとにのみ在り得るのであり、たれであれ悪の中にいる者のもとには在り得ないからである(4164番)。

 

 

 

天界の秘義4444 []

 

彼らの子孫のもとに存在した宗教はその中に善を持っていたということは真である、なぜならその一切の物は主の王国の天的な霊的なものを表象したからである、しかしその宗教の中にいた者たちについてはそれはその中に何ら善を持たなかったのである、なぜなら彼らは前に示したように内なるものを持たない、単なる外なるものにいたからである。この間の実情は現今その民族の間に遍く流布している彼らの宗教における実情と同一である、即ち、彼らはモーセと予言者たちとを承認し、かくてそれ自身において聖いものである聖言を承認はしているものの、しかし彼らについてはそれは聖くはないのである、なぜなら彼らはその中の凡ゆる物の中に彼ら自身を顧慮しており、かくて聖言を世的なものにしており、否、地的なものにしているからである、なぜなら彼らはその中に天界的なものが在ることを知らないし、またそのことを心に掛けもしないからである。このような状態の中にいる者らはその宗教の中にいる時は善の中にいる筈はなく、悪の中にいるのである。なぜなら彼らは彼ら自身の中に天界的なものを消滅させてしまうため、その天界的なものは何一つ流れ入りはしないからである。

 

 

 

天界の秘義5071[]

 

『永遠の火』は自然的な火でないことは明白である。それは良心の呵責でないことは悪の中にいる者は凡て何ら良心を持ってはおらず、身体の生命の中で何ら良心を持っていない者は他生でも全くそれを持つことができないからである。しかしそれが欲念であることは、生命の火は凡て人間の愛から発しているためである、すなわち、天界の火は善と真理の愛から発し、奈落の火は悪と誤謬の愛から発し、またはそれと同一のことではあるが、天界の火は主に対する愛と隣人に対する仁慈から発し、奈落の火は自己への愛と世への愛から発しているためである。人間の中の火または熱はすべてこの源泉から発していることは、たれでも、もしその事に注意を払うなら、知ることができよう。

愛が霊的な熱と呼ばれ、聖言の『火』と『熱』によりそれ以外のものは何ら意味されていないことはまたそうした理由によっている(934イ、1297、1527、1528、1861、2446、4906番)。悪い者の生命の火は、かれらがその激しい欲念の中にいるときは、また一種の火の中にいるといったものであり、そこからかれらは他の者を責め苛む激情と狂熱の中にいるが、善良な者の生命の火は、かれらもまた、高度の情熱の中にいるときは、一種の火の中にいるようなものであるが、しかしかれらはそこから他の者を益しようとする

愛と情熱の中にいるのである。

 

 

 

天界の秘義8598[]

 

仁慈の善が戦う真理と連結し、その中へ流入することの実情のいかようなものであるかを簡単に述べよう。前に言ったように、神的なものは熱意を持った者たちと連結することを通して戦う真理となるのである。熱意を持った者たちは戦いはするが、それでもそれは敵意、憎悪からは全く発してはいないで、むしろ仁慈から発しているのである、なぜなら熱意はその中に仁慈の善を宿しているという事実から怒りとは異なっており、それで熱意が戦う時は、それは誤謬と悪の中にいる者たちを遠ざけて、彼らに善と真理の中にいる者たちを害させないようにするに過ぎないのである。

他方、怒りは単に彼らを遠ざけるのみでなく、憎悪と復讐とをもって迫害するのである。なぜなら熱意は、その中にある仁慈から、悪と誤謬の中にいる者らにすら、良かれと願っており、またその者らが善良な者を害しない限り、その者らに善いことを行うからである。これに反し、怒りは、その中にいる憎悪と復讐から、その戦う凡ゆる者に、その者が善かろうが、悪かろうが、危害を加えようと願っているのである。このことから仁慈の善が戦う真理の中へ流入することにより意味されていることを認めることをことが出来よう。(熱意はその中に善を持ち、怒りは悪を持つことについては4164、4444番を参照されたい。)

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ53・4/天使館第1巻P479

 

イエズスは恐ろしい。失楽園の入口に立つ大天使もかくやと思わせる。その手には燃ゆる剣こそ持ってはいないが、その両眼は爛々と光り輝き、嘲笑する者、皮肉る者、涜聖者たちを震え上がらせる。は素手である。持っているものといえば、聖なる怒りだけである。そしてこの聖なる怒りをこめて、売り場から売り場へと威風堂々と足を運び、品質別に細心の注意を払って整然と並べられた貨幣を掴み取って四方八方に撒き散らし、商品を並べた机や台をひっくり返す。跳ね返り転がるコイン、あわてふためく声、喝采の声が入り交じり、すべては大音響を立てて地上に落下する。その次に、家畜を見張る使用人から羊や子羊を繋いでいる綱をひったくり、結び目をつくって、強靭な鞭紐とする。それは、情け容赦なく、そうわたしは請け合う、情け容赦なく振り上げられ、振り回され、振り下ろされる。

 

思いがけない雹、霰は、頭や背中に痛撃を加える。

 

 

 

マリア・ワルトルタ68・1/天使館第1巻P600

 

この前は、あまりにも多くのことで汚された神の家を思う熱意がわたしを燃え立たせました。あの時、わたしは父の子であり、父の名において、またわたしの家に対する思い入れのために、役人も祭司も及ばない威厳のうちに行動した相続人でした。今、わたしはイスラエルの師であり、イスラエルにこれも教えます。それからユダよ、弟子は師に勝るとあなたは考えますか?

 

 

 

 

3.怒るに遅く

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P21

‘89・10・23

自我

 

私です、決して疑わないように。 どれほどあなたを愛するか! 与えてくれるこの小さな信仰は あなたが毎日捧げる花束のようです ♡ 私はこうしたやり方で(*)それを受け取る、小さな者よ 私に何も拒んではならない。 あなたの神 私のように怒るに遅く、善を行う時だけ素早いように、私に忠実でありなさい。 

 

    イエスは毎日主のもとを訪れ、手を使っていただくことを仰しゃっています。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P156

 

神の忍耐もまた限りがない。人はちっぽけなヤカンのように、ごくささいなことにもすぐに湯気を立てるが、神はそうではない。神がそんなに短気だったら、この世はとっくの昔に灰と化していただろう。

 

 

 

 

4.刑罰

 

 

天界の秘義3613[5]

 

 わたし自ら手をのばし、強い腕をもって、怒りさえもし、憤りもし、大いなる熱をもって、あなたらと戦うであろう、わたしはこの都の住民を、人も獣も打つであろう(エレミア21・5、6)。

 

 ここにも同じように『怒り』は悪の刑罰について、『憤り』は誤謬の刑罰について、『熱』はその両方のものの刑罰について述べられており、『怒り』は悪の刑罰について、『憤り』は誤謬の刑罰について、『熱』はその両方のものの刑罰について述べられており、『怒り』と『憤り』が言われているのは、それは反感を意味しているため、また刑罰を意味しているのである、なぜなら反感を与えるものは軋轢をもたらし、それで悪と誤謬とは罰せられるからである、なぜなら悪には善にとり反感が在り、誤謬には真理にとり反感が在り、反感が在るため、また軋轢が在るからであり、そこから刑罰が生まれることは前に見ることが出来よう(696、967番)。

 

 

 

 

5.公教要理(カテキズム)

 

 

480 平和に関して、主は一人ひとりの人に何を求めておられますか。

 

「平和を実現する人は幸い」(マタイ5・9)と宣言される主は、心の平和を求め、怒りの罪を退けておられます。怒りは、受けた悪に対して報復を切望することです。また、憎悪の罪を退けておられます。憎悪は、隣人の不幸を望むように人を仕向けます。このような態度は、重大なことがらについて意図し、また同意する場合、愛に背く大罪となります。

 

 

 

 

6.自分自身を愛する者は、容易に苛立ち、猛烈に激怒する

 

 

神の摂理250(ロ)

 

「自分自身を愛する者は、特に自分がその心の誇りに応じて尊ばれないときは、また、その好みと欲望に応じて成功しない時は、他の何人にもまさって心が安まらず、容易に苛立ち、猛烈に激怒する。」