永遠の地獄
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.聖母から司祭へ
4.マリア・ワルトルタ
5.サンダー・シング
6.ヴァッスーラ
7.ファニー・モイスィーバ
8.メジュゴリエの証言者たち
9.ルイザ・ピッカレータ
10.ネフィリム
11.アグレダのマリア
12.天界と地獄との間には越ゆることの出来ない大いなる深淵が置かれている
13.ドレックス教授
14.人間は死後再生するか?・・・幼児または少児の頃他界した者達
15.奈落の者らは匡正されることは出来ない
16.木は倒れた所に横たわる
17.悔改めは死後は不可能
18.アグレダのマリア
1.聖書
エレミヤ13・17
あなたたちが聞かなければ
わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
主の群れが捕らえられて行くからだ。
エレミヤ14・17−18
あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。
「わたしの目は夜も昼も涙を流し
とどまることがない。
娘なるわが民は破滅し
その傷はあまりにも重い。
野に出て見れば、見よ、剣に刺された者。
町に入って見れば、見よ、飢えに苦しむ者。
預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く。」
マタイ12・31−32
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
マタイ25・41−46
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命に預かるのである。
マルコ3・28−29
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
ルカ16・26
そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。
黙示録20・7−10
この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。
黙示録21・6−8
また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
黙示録21・27
しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
黙示録22・12
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、
最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
イザヤ66・24
外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。
テサロニケ2 1・9
彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。
2.スウェーデンボルグ
天界と地獄508
なぜなら人間はその生命によって、一種の性質を着け、死後も世でのその生命[生活]により自分自身のものとした性質のままに生き、この性質は邪悪な者のもとでは思考により、または真理の理解によりもはや匡正されることはできず、変化することも出来ないからである。
天界と地獄521
天界に入る道について、また人間における天界の生命について教えられていない者達は、天界へ迎えられることはただ慈悲のみから与えられそれは信仰にいて主の執成しを受ける者達に与えられ、かくてそれは単に慈悲から入ることを許されることであり、従っていかような者であっても人間は凡て主の善意により救われることが出来ると考え、実に地獄にいる凡ての者でさえも救われることが出来ると考えている者もいる。しかしそのように考えている者は人間について何ごとも知っていない、すなわち、人間は全くその生命と同一のものであり、その生命は、その意志と理解とに属した内部のみでなく、その身体に属した外部の方面でも、その愛と同一のものであり、その生命は、その意志と理解とに属した内部のみでなく、その身体に属した外部の方面でも、その愛と同一であり、身体の形は単に外なる形であって、その中に内部はそれ自身を結果をもって示しているに過ぎず、従って人間全体はその者自身の愛であることを知らないのである(前の363参照)。彼らはまた、身体は身体自身から生きているのではなく、その霊から生きており、人間の霊は彼の情愛それ自身であって、その霊的な身体は人間の形をとっているその人間の情愛であり、それはまた死後その形をもって現れるということも知らない(前の453−460)。こうした事が知られない限り、人間は救いは慈悲と恩寵と呼ばれる神の善意以外の何ものでもないと信じるようになるであろう。
天界と地獄595
地獄は絶えず天界を攻撃し、それを破壊しようと努力しているが、主は絶えず、天界にいる者たちを、その者たちの自己性から来ている悪から遠ざけることによって、また彼らを主御自身から発している善の中に留め置かれることによって、天界を守られていることを知らなくてはならない。私は地獄から発出しているスフィアを再三認めることが出来たのであるが、それは全く主の神的なものを、引いては天界を破壊しようとする努力のスフィアであった。ある地獄の噴出する様もまた時々認めたが、それは現れ出て、破壊しようとする努力であった。しかし一方天界は決して地獄を攻撃はしない。なぜなら主から発出する神的スフィアは凡ての者を救おうとする不断の努力であるからであり、地獄にいる者は救われることが出来ないため―なぜならそこに住んでいる者は凡て悪にいて、主の神的なものに反抗しているから―可能な限り、地獄の狂憤が沈められ、残酷が抑制されて、互に度を越えて他に摑みかからぬようにされている。これもまた神的な力の無数の手段により行われている。
新エルサレムの教義239
人間の生命は死後も変わることはできない。それはそのときその以前の状態のままに止まっている。なぜなら人間の霊の性質は凡ゆる点でその愛の性質と同一であり、奈落の愛は天界の愛には決して書き移されることはできないからである、それはその二つのものは相反しているためである。そのことが地獄の富んだ人間に対するアブラハムの言葉に意味されている―
わたしたちとあなたとの間には大きな淵がある、それであなたのもとへ渡ろうと願う者も渡ることはできず、またそこからわたしたちのもとへ渡ることもできない(ルカ16・26)。
このことから地獄にいる者は永遠にそこに止まり、天界に入る者は永遠にそこに止まることは明白である。
新エルサレムの教義240
天界と地獄の主題は一巻の書籍に取り扱われており、その中にはそのことについて「天界の秘義」の中に含まれているものもまた引用されているため、ここにこれ以上何かを附加する必要はない。
天界の秘義304
この凡てから『恐らくその手を伸ばして生命の木の実をも取り、永久に生きるであろう』の言葉の意味が明らかである。『生命の木の実を取って食う』は愛と信仰に属したものをいかようなものであれ承認する程にさえも知ることである、なぜなら複数形の生命は愛と信仰とを意味し、『食べる』ことはここでは前のように知ることを意味するからである。『永遠に生きる』は身体の中で永遠に生きることではなく、死後永遠の地獄に堕ちて生きることである。『死んだ人』は身体の生命の後死ぬためにそのように呼ばれるのではなく、死の生命に生きるため、そのように呼ばれるのである、なぜなら『死』は堕地獄と地獄であるからである。『生きる』の表現はエゼキエルにより類似の意義で用いられている―
おまえらはわたしの民の魂を狩っておまえら自身のために魂を生かすのか、おまえらはわたしの民の間にわたしを冒涜して、死にはしない魂を殺し、生きはしない魂を生かしている(13・18、19)。
天界の秘義794
「そして水は非常に甚だしく地に強められた。」これは誤謬のいくたの信念がこのように増大したことを意味していることは『水』について直ぐ前に言われ、示されたところから、すなわち、洪水の水または氾濫は誤謬を意味しているということから明らかである。ここには、誤謬または誤ったものの信念がさらに増大したため、『水は非常に甚だしく強められた』と言われているが、それは原語では最上級となっているのである。
誤謬とは誤ったものの原理であり、信念であり[誤ったものを原理とし、それを信念としたものであり]これらが洪水以前の人々の間に甚だしく増大したことは前に彼らについて言った凡てから明白である。(その誤った)信念は人が真理を欲念に混ぜ合わせる時、または自己と世を求める愛を真理に支持させる時、無限に増大するのである、なぜならその時無数の方法でかれらは真理を歪曲し、これを強制して(自己と世を求める愛に)一致させるからである。なぜなら自分自身のために誤った原理を吸引した者であって、または形作った者であって、たれがその原理をその者が学んだ多くの物により、実に聖言によってさえも、確認しないであろうか。異端であって、その異端を確認するためにこのようにいくたの物を把えないものがあろうか。また(その異端に)一致していないものを、それが一致するように、それをこじつけ、色々な方法で説明し、歪めさえしないものがあろうか。
天界の秘義794[2]
例えば、仁慈の善がなくても、信仰のみが救うという原理を採用した者を考えてみられよ。かれは教義の全体系を聖言から織り出すことができないか、しかもそれを主が言われていることを、すなわち『木はその果によって知られる』、『凡て善い果を結ばない木は切られて、火に投げ入れられる』(マタイ3・10、7・16−20、12・33)という御言葉を些かも顧慮しないで、または考察もしないで、または認めさえもしないで、やってのけるのである。自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われる、ということ以上に悦ばしいことがあろうか。人間が支持する欲念はことごとくその者の意志の生命を形作り、誤謬の原理または信念はことごとくその者の理解の生命を形作るのである。これらの生命は信仰の諸々の真理がまたは教義的なものが諸々の欲念の中に浸される時一つのものとなるのである。かくて人はことごとく己がためにいわば霊魂のようなものを形作り、死後かれの生命はそのようなものになる。それ故人間には真であるものを知る以上に重要なことはない。人間が真のことを知り、それをそれが歪曲されることができない程にも充分に知る時、それは欲念の中にそれ程浸される筈はないし、このような致死的な結果を生む筈もないのである。人間は永遠に至るその生命以上にさらにいかような物をその心に抱くべきであろうか。もし身体の生命の中にかれがその霊魂を破壊してしまうならば、かれはそれを永遠に破壊してしまわないか。
天界の秘義967
悪い者が罰せられている時、天使達は常にその場に居て刑罰を和らげ[調整し]、刑罰を受けている者の苦痛を軽くしているが、しかしそれを取り去ることはできない。なぜなら他生では悪は悪自身を罰するといった凡ゆるものの均衡があり、悪が刑罰により除去されることができない限り、その悪を宿している者は永遠に何らかの地獄に閉じ込められないわけにはいかないからである。なぜならもしそうでないなら、かれらは善良な者の社会を悩まし、宇宙の安全性がかかっているところの、主によって定められた秩序を犯すからである。
天界の秘義2228 [2]
このすべては信仰の何であるかを、すなわち、それは仁慈であることを示している、なぜなら信仰の教義のものであると言われているものはことごとく仁慈に導くのであって、仁慈の中にそれらのものはすべて含まれており、仁慈からそれらのものはすべて派生しているからである。霊魂は、身体の生命の後では、その霊魂の愛のあるがままに止まるのである。
天界の秘義6977
自然的なものの中で、それが誤謬により全く占領されると、その状態はまた全く転倒してしまうのである。このことは人間が世に生きている間はそのもとにめったに起りはしないが、しかし他生では地獄に投げ込まれる凡ての者のもとに起るのである。そのことは人間が世に生きている間はそのもとにめったに起りはしないことは、人間はその時、自由の中に在って悪から遠ざかりさえするなら、改良されることが出来る状態に絶えず置かれているためである。しかし死後は彼の生命は彼に従って行き、彼は世におけるその生命の全過程により獲得した状態の中に止まるのである。
天界の秘義6977
その時悪の中にいる者は最早改良されることは出来ない、そしてその者は天界のいかような社会とも交流を持たないようにと、真理と善とはことごとくその者から取り去られてしまい、かくて彼は悪と誤謬の中に止まるが、その悪と誤謬とは、彼が世で獲得したところの悪と誤謬とを受ける能力に順応して、そこに増大して行くのである。にも拘らず彼はその獲得された限界を越えることは許されてはいない。この状態の転倒がここに意味しているされているものであり、それは彼は最早その内部の方面では匡正されることは出来ないで、ただ外部の方面でのみ、即ち、刑罰の恐怖により匡正されることが出来る底のものとなるのである。彼はそうした刑罰を幾度も受けた後で、遂に悪から遠ざかるが、それは自由から行われるのではなくて、強制によっており、悪を為そうとする欲念は依然存続しているのである。この欲念は、前に言ったように、匡正するための外なる、強制的な手段である恐怖により抑制されているのである。これが他生の悪い者の状態である。
黙示録講解128
「征服すること」はいくたの悪と誤謬とに抵抗し、それらのものを己が敵として飼い馴らし、征服することであるためである。しかしたれ一人その者が世におけるその生命の終わりに至るまでさえも真理に対する霊的な情愛の中に確乎としてとどまらない限り、征服はしないのである。そのときはその業は完了[終結]するのである。なぜなら人間はその者がそのときあるがままのものとして、すなわちその生命[生活]がその時点に達するまであったままのものとして永遠にとどまるからであり、死はそれを完成するものである。
黙示録講解537イ
なぜならいかような悪霊にも、その者が一度び地獄へ投げ込まれたときは、そこから外へ出ることは許されはしないからであり、もし外へ出るにしても直ぐにもその中へ後退してしまうのである。
天界の秘義7541[3]
さらに人間は他生では新しい状態に入って、いくたの変化を受けるのである。天界に挙げられつつある者は、また後に(天界へ)挙げられたときは、永遠に完成されるが、しかし地獄へ投げ込まれつつある者は、また後に投げ込まれたときは絶えず痛ましさを増してゆく悪をなめ、そのことが彼らが何人にも敢えて、悪を行おうとはしなくなるまで続いて行くのである。その後彼らは永遠に地獄に止まって、そこからは連れ出されることはできない、なぜならたれかに善を欲することは彼らに与えられることはできず、ただ刑罰を恐れるあまり、悪を為さないことのみが与えられて、悪を為そうとする欲望はいつも残っているからである。
天界の秘義10749(霊界日記第3巻P135注)
生命94
地獄と天界との存在を信じ、天界は永遠の幸福であるが、地獄は永遠の不幸であり、悪を行う者は地獄へ行くが、善を行う者は天界へ行くことを信じる者はすべてこの戦いを行うのである。
天界と地獄478
[第二に]人間はその意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる。[第三に]天界的な霊的な愛を持つ人間は天界へ入るが、天界的な霊的な愛を持たないで、形体的な世的な愛しか持たない者は地獄へ入る。
天界と地獄480
「人間はその意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる」
(中略)
各々の者はその者自身の愛である以上は、何人のもとにもその支配愛の生命は永遠に決して変化しないと天使たちから言われた。それで霊の中のその愛を変えることは彼からその生命を奪うことであり、または彼を絶滅させることである。
最後の審判とバビロンの滅亡25[2]
「人間はすべてこの世の生命の後にも永遠に生きることは」以下のことから明白である。すなわち、人間はそのとき霊的なものとなって、もはや自然的なものではなく、自然的な人から分離した霊的な人は、そのあるがままに永遠にとどまるのである。というのは人間の状態は死後変化することはできないからである。
最後の審判とバビロンの滅亡64
しかし天界から私は以下のように言われた、その宗教を確信してこのような者になった者は死後の生活を心で否定しているゆえ、それを些かもかえりみず、ただこの世の生活のみをかえりみ、かくて永遠に存続するはずのこの死後の彼らの運命を何らかえりみず、これを無意味なこととして嘲笑しているのである、と。
神の摂理249(イ)
「自分自身と自然を拝する者は凡て、世に非常に多くの邪悪な人々を見、その或る者は自分の悪どさを自慢さえしているのに、神からは何の刑罰を受けないのを見るとき、神的摂理に対する否定を確認する」。凡ゆる悪どさとしかもそれについて自慢することは凡て許しであって、その原因は神的摂理の法則の中に見出されることが出来る。凡てのものは、実に、その欲するところを、それが神に反抗するものであれ、また神にくみするものであれ、完全な自由を以て、自由に考えることが出来る。しかも神に反抗して考える者は自然界ではめったに罰せられない、なぜなら彼はそこにいる間は常に改良されることが出来るから。しかし彼は死後霊界で罰せられる、なぜなら、彼はそのときもはや改良されることは出来ないからである。
神の摂理307(ロ)
しかしもし自分自身が改良されるのを許すならば、地獄から導き出されて、天界へ挙げられ、そこでもまた一つの社会から他の社会へと移され、それが彼の死ぬまでも継続するが、死後はもはや一つの社会から他の社会へと移されはしないのである、なぜなら彼はそのときはもはや改良される状態にはいないで、その送った生活から生じた結果にいるからである。それ故人間は死ぬと、その者自身の位置が彼に定めされる。
真の基督教224
その後地獄と天界との間に如何なる悪魔も横切り得ない大いなる深淵を置き給うたからである。若しも、何人かがこれを横切ろうと試みるならば、彼は焼けた鉄、或は蟻塚の上の蛇のように、入口そのものの所で責めさいなまれるであろう。何故なら、悪魔と悪鬼は神的真理の香りを嗅ぐや否や、自らを深淵に向かって、また洞窟に向かって真逆様に投げつけ、その入口を一つの割れ目も見えぬまでに閉じ込めるからである。これは彼らの意志と理解とは神的善と真理とは正反対の悪と虚偽とに取り憑かれているためであり、かくてその人間全体はこの二つの生命的な原理から成り立っている故、彼らは神的善と真理に正反対のものを経験し得る所に向かって真逆様に投げ落とされるのである。これは神的真理の言い尽くし難い力を示している。そして基督教会の持つ聖言は三つの度における神的真理を包含する故、これは、明白にヨハネ伝一章三節、十節に意味されている所のものである。この力は筆舌に表現することは出来ないことを、私は霊界の多くの経験から証することが出来るが、しかしこのような証明は全然信じ難いものであろうから、私は上述したこと(209番)以外には何ごとも語らないであろう。前述した所から、主がペテロに向かって語りたまうた所の「我この岩の上に我が教会を建てん、地獄の門はこれに勝たざるべし」(マタイ16・18)の言に従って、主より発する神的真理を持つ教会は、地獄を征服する力を持つという重要な真理を引き出すことが出来よう。主はこれを、基督は活ける神の子であるというペテロの告白(十六節)の後に語り給うた。この真理はその記事の岩により意味されている、何故なら、岩は聖言では何処でも神的真理の方面の主を意味するからである。
真の基督教340
内なる人と外なる人があり、両者は事実上一つのものとして行動することが出来、また外観的に一つのものとして行動することが出来、外なる人は葬られるが、内なる人は死後も生きることを知る者は凡て、天界とこの世との知識を豊かに持つ者である。而してこの二つを善の中に結合する者は永遠に幸福になるが、この二つを切り離し、或は、もっと悪いことは、二つを悪の中に結合する者は、永遠に悲惨となる。
霊界日記1315
それでも地獄と天界との間にはたれ一人決して越えることの出来ない深淵が介在している、なぜならその深淵により、奈落の者と天使とは互いに他に対しては全く嫌悪の念を抱いているため奈落の者は決して天界の社会へ入ることは出来ないことが意味されているからである。1748年〔60歳〕3月12日
霊界日記5830
或る一つの地獄から来ている者らが、そこから他の地獄へ移されるために、数百の数に至るまでも送り出され、その際その性質に従って行動することが彼らに許された。たちまし、彼らは、幻想により、高い所へ登り、そこから見下ろし、何処であれ、結婚愛が在る所で、その結婚愛を消滅させようと躍起になり、そのことをまた彼らは高い所で躍起になることから案出し、後に悪をやってのけようと試みた。その際彼らは以下のことを思い出しはしたものの、即ち、彼らは地獄の中で互いに、もし自分らが外へ出ることを許されるなら、自分らは他の者らのように賢明に生きるであろう、と互いに話し合ったことを思い出しはしたものの、今は奈落の輩の業を他の者ら以上にも振る舞っているのである。後で、私は彼らと話そうと願ったが、しかし彼らは、ちょうどその地獄の中にいたときのように、幻想の中にいるため、理解することが出来なかった。彼らは真理の光がさしている談話には、それはいかようなものであれ、甚だしく拷問にかけられ、それでその拷問の前から逃げ去ったのである。こうしたことは幾度も起ったが、そのことは私が以下の真理を確認するためであったのである。即ち、地獄にいる者らは真理の光には耐えることは出来ず、従って、理知と知恵とに耐えることは出来ないのであり、もしその中に留め置かれると、拷問にかけられるのである。彼らは、あなたは私らを傷つける、と言った。私は、理解を与えようと願っているのであるが、それがあなたらを拷問にかけるものである、と答えた。その際私は明らか以下のことを認めた、即ち、地獄へ入る者はそこに永遠にとどまるのであり、彼は決して理知が存在するところには、かくて天界の光がさしている所には生きることは出来ないのである。彼らもまた、自分らは地獄の外に生きるよりは地獄の中に一千倍も生きていたい、とも言ったのである。以下のこともまた確かめられた、即ち、彼らは、その見ることが出来る者に一人残らず、敢えて、また可能な限り、危害を加える歓喜以外の歓喜を何ら持ちはしなかったのである。
黙示録講解537イ(2)
『深遠』が聖言の中で意味していることは下に話そう。『深遠の坑を開くこと』はそうした地獄との交流と連結とを意味しているのは、地獄は悪霊が入って来る時を除いては開かれはしないためであり、そのことは彼らが霊たちの世界の中で彼らの時を完全に過ごした時に起るのである、なぜならいかような悪霊にも、その者が一度び地獄へ投げ込まれた時は、そこから外へ出ることは許されはしないからであり、もし外へ出るにしても直ぐにその中へ後退してしまうのである。
3.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1975.10.30
あなたがたの生活のために、最も重要な真理は、今日もう宣べられていません。それはあなたがたを待っている天国、あなたがたの救いをもたらすわが子の十字架、イエズスのみ心と、私の心を傷付ける罪、毎日数えきれないほどの霊魂が落ちて行く地獄、祈りとつぐないの緊急な必要性などのことです。
罪がペストのように広がり、霊魂の滅亡を招けば招くほど、そのことについて話されません。
現在は多くの司祭たちが、それを否定しています。
母なる私の勤めは、わが子らの魂に糧を与えることです。司祭たちの声が、消されれば消されるほど、母なる私の心は叫ぶでしょう。
1976.5.28
この決定的な時期にあたって、如何に多くの私の子らが永遠に滅びようとしているか!
聖母から司祭へ1977.10.1
私の計画を理解するのは、私が招く人だけで、みんなに与えてはいません。
特に、愛されている私の子らよ、どれ程長い間あなたがたを養い、あなたがたについて行き、私の招きに応じるように準備するために、あなたがたを導いたことでしょう。母の胎内の時から、私の汚れなき心に、あなたがたを受け入れ、その生活のために、すべてを整えました。
あなたがたの生活は、愛の刺繍でした。今、この計画が、みなのために、早く実現されなければなりません。招かれている人は少数ですが、母が彼らを通して自分のすべての子供に、救いの可能性を与えたいのです。
滅びの道を走る人が、どれほどいるかを眺めなさい! 誰が、彼らを助け、滅びを止めることができるでしょうか?
聖母から司祭へ1980.1.22
ロザリオをとなえながら、私とともに祈ってください。祈りに祈って、つぐないをささげるのです。それは、あの“とき”が縮められ、私の子らの大部分、すなわち、できるかぎり大勢のものが、永遠の救いをうけるように恵みをねがうためです。
苦しみが、神から離れてしまったすべての人の改心に役立つように祈りなさい。
あなたがたが、おん父の愛を、けっして疑うことのないように祈りなさい。おん父は、いつも、あなたがたを見守り、最善を取りはからってくださいます。おん父は、だらく、不忠実、反抗、不潔、無神論の病いからあなたがたを癒す薬として、苦しみを使っておられます。
聖母から司祭へ1982.2.2
今日ほど、永遠の亡びにおちる危険にさらされている罪人であるあわれな私の子らを、あなたがたを通して助け、救い出そうと望んだことはありませんでした。
聖母から司祭へ1982.8.13
今のこのときは、敵が支配し、凱旋するときです。この期間に、どれほど多くの子らが永遠の亡びの危険にさらされていることでしょう。今日、あなたたちが、どれほど重大な状態にあるかをごらんなさい。人類は、神の愛に背いて、憎しみと罪の道を歩いています。マスコミによって憎しみと罪が、まるで一つの善であるかのように紹介されているのです。
こんな不健康な堕落した環境の中に生きているあなたがたが、神のおきてを忠実に守りぬくのは、並大抵の事ではないでしょう。でも、神のおきてを守るなら、愛の道を進んで罪を避け、恵みと聖徳の生活へ導かれます。
聖母から司祭へ1982.10.13
大洪水のときよりも悪化したこの世界で、あなたたちは、この地上では罪と不忠実の悪の道へ走ってしまう危険に、そして、来世では、永遠に滅びてしまう危険にとりかこまれているのです。
聖母から司祭へ1984.4.20
悪、しかもすべての悪は、そして悪の霊であり、はじめからあなたがたの敵であったサタンは、敗北させられ、これからは、もう永遠に、どれいの状態におかれます。
聖母から司祭へ86.6.7
もし、あなたたちが習慣的に大罪の状態のうちにいるとしたら、その霊魂は死んでいます。それでこのまま地上を去るとしたら、あなたたちを待ちうけているのは、永遠の地獄の死です。地獄は存在します。そして永遠です。
聖母から司祭へ1989.6.3
こうして人々の霊魂は、邪悪と罪悪との暗いどれい制度に落とされて、死と神の審判の時に永遠の火の池である地獄へおとされてしまうのです。
聖母から司祭へ1989.9.15
―ますますその数をふやしていくわたしのかわいそうな子らが悪と罪、悪徳と不潔、利己主義と憎しみの道を進んで、地獄の永遠の亡びに落ちるのを見て、わたしの苦しみはなんと大きいことでしょう。
聖母から司祭へ1992.1.1
今あなたたちが生きているこの暗闇の時から目を上げなさい。今、サタンがこの世の無敵の支配者となりすまし、全人類の主人としてふるまっているのを見て恐れないように。まもなくサタンの王国は廃墟の塊と化し、その支配権は地に落ちるでしょう。なぜなら、わたし自身のくさりが、かれをつないで、その永遠の火のかまどにとじこめるからです。そこからもう、かれは出ることはできないでしょう。
聖母から司祭へ1992.10.7
サタンが、地獄のすべての霊をもってできているその強力な軍隊と共に、暗闇と死のその王国にとじこめられて、世界に害を加えるために、そこからもう出てこられなくなるそのときにこそ、わたしの勝利が実現する時です。
聖母から司祭へ1992.10.7
―聖なるロザリオの鎖には、最後に、サタンを完全に損害を加えられない無害なものとする効果があります。
こうして、サタンの大きな権力は破壊されるのです。
すべての悪霊は、火と硫黄の淵においかえされます。そしてわたしがキリストの権能の鍵でその淵の門を閉じてしまいます。そうすると、その悪霊どもは、霊魂に損害を加えに、この世にもう出ることができなくなります。
聖母から司祭へ1992.12.8
巨大な龍は、世界に害を加えるために、もうその火の淵から出ることができないでしょう。
世界は、キリストが治めるでしょう。
聖母から司祭へ1993.10.2
世界にさまよう悪霊たちと悪魔たちは、霊魂を永遠の地獄に導こうとして、あらゆる所で活躍し、どんなに多くの腹黒い罠を、あなたたちにしかけていることでしょう。
このものたちの働きは今、強力なものとなっています。それは、出版物とテレビという報道機関の持つ力を利用しているからです。
聖母から司祭へ1994.9.15
それによって、永遠の亡びへの道を進んでいく、わたしのかわいそうな沢山の子らを救うために、わたしを助けるのです。
4.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P558
131アックヮ・スペツィオーザでの説教。「他人のものは何であれ盗んではならず、欲しがってはならない」。ヘロデの罪。
1945年3月15日。
「罪を悔い改め、神に立ち返る者たちを、わたしは救うでしょう。罪を悔い改めない者たちに、救済はないでしょう」。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P374
「ああ、私審判のことですね。それは知っています。信じています。霊魂は神のみ前に出て神に裁かれる」
「そのとおりです。そして神の裁きは正しく、変えられることなく、無限の値うちをもっているものです。裁かれる霊魂が、大罪をもっているならば、亡びる霊魂となる。軽い罪しかないならば煉獄に送られる。正しい霊魂だったら私が天の門を開くのを待つためにリンボの平和に送られる。それで、私が、あなたを命に呼び返したのは、神に裁かれてからでした。もしあなたが地獄に亡びた人だったら、あなたを命へ呼び戻すことはできなかった。なぜなら、そうしようとしたならば私は私の父の裁きを無視することとなったでしょう。地獄に亡びた人々にとってもう変化はなく、永遠のために裁かれているのです。(後略)」
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P304
主:裁きのときに送られるところに永遠に残ります。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P359
不浄物は火によって無に帰る・・・死の廃物が。しかしかの人々の心の腐敗は、何の火によっても無にされることはない・・・地獄の火さえも。永遠につづくもの・・・死よりも・・・腐敗よりも・・・いつまでも・・・何と恐ろしいことだろう・・・そして人類よ、腐敗することをそんなに望むなら、だれがお前たちを救うだろうか。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P103
肉体を持った人々のうち、霊的に決定的に死んでいる人々は、その日甦ることはない。あなたはこのような人にならぬよう注意しなさい。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P203
義人の肉体と血とは、永遠の国において霊とともに喜び、滅びた人々の肉体と血とは、永遠の罰の霊とともに苦しむでしょう。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P17
死の最後の瞬間まで、回心の余地が残されている。神と霊との間では、どんなことを言ってもよい。ゆるしを受けるには、一瞬の千分の一の時間で足りる。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/329・12/5巻中P90
私は神の名によって、すべての人を招きに来ました。しかし、招かれる人は多いのに選ばれる人は少ない。なぜなら、上智を望む人が少ないからです。神によるのではなく、この世と肉に従って生きる人は賢い人ではありません。彼はこの世においても、天においても賢くありません。なぜなら彼は地上で敵を作り、罰を受け、自責の念を感じるからです。そして永遠に天を失うでしょう・・・」。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P76
ついで聖なる人々の『偉大な言葉のざわめき』によって天にわき起る大合唱を前にして父が言うだろう、『そこまでだ』と。すると意地悪な獣は殺され、深淵のなかに投げ捨てられ、それといっしょに、すべての小物の獣たちもそこに放りこまれ、彼らの産出者サタンとともに永遠にそこにとどまるだろう。
そのときわたしは、信仰宣言に言われている通り、『生ける者たちと死せる者たちとを裁く』ために、父と呼ばれるであろう。そして『生ける者たち』、恩寵と信仰を燃やし続けた人々は、『神の国、その権力と壮麗さ』を相続するであろう。霊魂における死者たちは、彼らの意志が受けることを選択した永遠の死を受けるだろう。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P85
わたし、わたしの天使ではなく、わたし自身が次のように誓う。七番目の喇叭(ラッパ)の雷が鳴り終わり、七番目の災いの恐怖が頂点に達するとき、アダムの末裔が、王、主、贖い主、神キリストを認めもせずにその憐れみとそのなかにこそ救いがある名に助けを求めるのであれば、わたしはわたしの名によって、またわたしの本性によって、永遠における一瞬を止めるだろう、と。時間は止まり、審判が始まるだろう。この地上での何千年もの共棲のあとで、善と悪とを永遠に分ける審判だ。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P88
不信心者は墓に導かれるだろう。あたりまえだ。ルシフェルは彼のお気に入りや弟子たちや奴隷たちにあらゆる援助を惜しまないが、死からの免除を与えることは出来ない。なぜなら、わたしひとりが生命であり、死に打ち勝ったのはわたしひとりなのだから。だから不信心者が悪の限りを尽くした時、わたしは死に命じてその肉を所有させる。それによってその肉は墓の恐怖を味わう。不信心者にとっては、それこそほんとうの墓となろう。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P101
一部が欠けている一つの作品は未完成であり、従って不完全である。その創造において完全な作品―人間は、もしその異なる部分に再結合していなければ未完成であり、不完全である。光り輝く王国か、それとも闇の中での滞在かそのどちらかに定められて、人間は、己れの肉と霊魂を完全に具備して永遠にその中にいなければならない。
そういうわけで、第一と第二の復活について語られるのだ。しかしよく見なさい。
罪にまみれた地上での人生を送り、己れの霊魂を殺した者は、死んだ霊魂と共に、わたしの個別審判(私審判)を受けるためにわたしのもとに来る。終末における復活では、彼の肉は、死んだ霊魂の重みを再び取り戻す。その霊魂と共に完全に死滅するために。他方、地上において肉に打ち克った者は、個別審判を受けるために生きた霊魂を具備してわたしのもとに来るが、天国に入ることによってその生命はいや増す。
煉獄の霊魂もまた『生きている』。病んでいるが生きている。罪滅ぼしを達成すれば、その病から癒え、生命が存在する所に入れるだろう。わたしの生命と、揺ぎ無く結ばれて生きている彼らの霊魂は、終末の復活においては肉を栄光化するために、また、ちょうどわたしが肉と共に生きているように、完全に肉をもって生きるために、肉をとるだろう。
第一の死と第二の死について語られ、その結果として、第一と第二の復活について語られるわけはそこにある。光のこの永遠の所有―あなたたちは天国では神を所有し、神は光である―に、人間は己れの意志で到達しなければならない。ちょうど己れの意志で光と楽園の喪失を欲したように。わたしはあなたたちを助けるが、意志はあなたたちの意志でなければならない。
わたしは誠実だ。わたしはあなたたちを自由な者に創造し、自由にさせておく。また、もし人間の自由意志に対する神のこの敬意を感嘆すべきものだと思うなら、これをもって悪を行わず、これを悪用しないことをいかに本分とすべきか、また主なる神に対してあなたたちの崇敬と感謝と愛をいかに尽くすべきかがわかるだろう。
自由意志を悪用、乱用しなかった者に、わたしは言う。『天でのあなたたちの住まいは万端整っているし、わたしはあなたたちがわたしの幸福の中にあるようにと、熱く燃えている』と」。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P131
わたしは栄光化された肉をまとい、敵を相手取る最後の戦いにそなえて人々を集めるためにやって来て、栄光化された肉の輝かしいマントで身を装い、最後の審判を受けるために復活する人々の身体を裁くだろう。霊となることを望まなかった諸々の肉に永遠の死の宣告を与えたあと、わたしは永遠に天に戻るだろう。父はアダムにおいて、言語を絶する美で物した美しい人体の創造をもって、子はそのわざによる、アダムの子孫のための贖罪をもって、聖霊はその聖化の行為をもって、父と子と聖霊の名作がそのうちで栄光化されるであろう光り輝く民の、光り輝く王は天に帰るだろう。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P177
あなたたちは、ヨハネの書物のなかに『死者を裁く時』という言葉を読むとき、死者とは、すでに、もしかしたら、何世紀にもわたって、そこに足を踏み入れる時のみ誰かは気づくであろう神秘の別の領域で時を過ごした人々のことを指していると考えなさい。 そうだ。 死とは、魂が地上とは異なる別の地帯に移住することを意味している。だがヨハネの言葉にはもっと深い意味がある。彼の語る死者たちは、肉によれば生者たちでありえても、見る目を持つ者には実は死者たちなのだ。
彼らにはいかなる復活もありえないだろうから、この人々はまったくの死者たちなのだ。神に対して死んでいる彼らは、神は永遠の生命であるから、生命をすなわち神を所有する幸福に未来永劫あずかることが出来ないだろう。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P179
しかしそうでない人々、とりわけその行動によって地とそこに住む弱い人々を破滅に導いた人々は、わたしの爛々たる眼差に射竦められて深淵になだれ落ちるだろう。悪が存在するのは避けがたいことなのだが、悪のしもべと管理者となった者たちは永遠に呪われなければならないからだ。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P215
そのためにこの究極の福音宣教は、時宜に適った時に新しい方法で実現されるだろうし、光と生命を今か今かと待ち侘びる人びとは、イエズスとマリアという二人の贈り主のみが知っている方法で、余すところなく、完全にそれを享受するだろう。ただ自分のために闇と泥、異端と、神に対する、またマリアに対する憎しみを選んだ者のみが、すなわち死者である前にすでに死者であり、腐敗した霊魂、サタンとその手下たち、すなわち反キリストの先駆者たちと彼自身に売られた霊魂たちは、来たるべき者が来るであろう時、泥と闇と責め苦と永遠の憎しみに呻吟することになろうが、いかにも正義に適ったことではないだろうか。
天使館・霊のパン第4号P25
人生のあらゆる状況において、何と多くの人たちが、ユダを真似て、サタンに自分を渡し、永劫の死に遭遇していることか!
5.サンダー・シング
A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/ミルトス/P294
自分の伝記への品評
スンダル・シングは、1924年12月に行われた恒例のマンクガート・キリスト教会議では主席講師でした。マンクガートはインド中央部のライプールから80キロのところにあります。会議ではアメリカ福音伝道協会、ディサイプル教会、メノナイト派教会、そしてペンテコステ派教会の信徒たちが結集しました。川に浮かぶ小島に、竹のマットを敷いて設けた臨時の小屋で開かれた集会には、1500人から2千人の信徒たちがやって来ました。
H・A・フェラベンド博士は、そのときの様子について次のような個人的な思い出を寄せてくれた。「わたしたちのテントへ彼をお茶に招き、それからストリーターの著作『サドゥ』に出て来る彼の意見について質問をしました。わたしの記憶が正しければ、最終的には悪魔でさえ救われるだろう、という趣旨のことをスンダル・シングが言ったというのです。スンダル・シングは『わたしがもしそう思っているとしたら、福音伝道に出かけて苦労する必要がどこにあるでしょうか』と答えました。そして、その本の出版前には一章しか目を通したことがなく、内容について抗議をしたけれど取り合ってもらえなかった、と言いました。彼は実際、この本は人々が求めているものだと言われたのです。真実は自ずと非難をはねのけるだろう、と彼は言いました。わたしはそれ以降ストリーターへの尊敬の念を失い、その本を人に薦められなくなりました。控えめに言っても、彼はサドゥを誤解しているに違いありません。彼の伝記として認められるのは、パーカー夫人の著書だけだとスンダル・シングはわたしに言いました」
徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P21
しかし、地獄の中にさえ神は救いの道を開かれ、たとえ何百万年かかろうと、いつか地獄にいるほとんどの者がキリストの元に引き上げられるよう、聖徒たちを通して導きが与えられている、とも述べている。
徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P62
この世の言葉には限界があるため、われわれはこういえるのみである。罪人の霊魂はどこにいようと、どんな方法をとろうと、常に一瞬たりとも止まらない苦しみの中に居続ける。光なき炎のごときものが永遠にこの者たちを苛み続ける。それでも、彼らは焼き尽くされず、炎も消えることがない。今しがた起こった出来事をみていた霊がこういった。
「これがついには清めの火になるものだろうか?」
地獄と呼ばれる霊の世界の暗部にも多くの段階と層があり、霊が苦しみの中で過ごす場所も、罪の性質と性格によりさまざまである。神がすべての者をご自身のもの、みえざる神の形であられる御子の似姿に創造されたことは事実であるが、罪との結びつきによって人はこの似姿を損ない、醜く邪悪なものに変えてしまったのである。彼らは実際、霊体の一種をもってはいるが、それは吐き気を催すほど恐ろしい姿をしている。真の悔い改めと神の御恵みによって回復されなければ、彼らは、この恐ろしい姿の中で永遠に苦しみ続けるに他ない。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P116
神は、悪人が悔い改めず、永遠に地獄で滅び失せる定めにあることを知っているので、この世にあっては望むものを何でもお与えになるのだ。それとは逆に、信仰厚き者はこの世では軽んぜられ、多くのものを奪われ、幾多の苦しみを受ける。それは、あたかも神が“敬虔であれ、注意深くあれ。罪の病から癒やされたときには永遠の天国に迎え入れる”といわれているかのようである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P210
神または神の民が、罪人たちを天界から締め出し地獄に突き落とすなどと思ってはならない。愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである。自らを地獄に突き落とすのは罪人自身の誤った生活である。生が終わり天界と地獄が迫ってくるはるか以前に、善悪の性質に応じて各人の心の中で自分自身の天界か地獄が形作られている。それゆえ、あの永遠の苦しみから救われたいと切に望む者は、心底悔いて心をわたしに明け渡すがよい。わが現存と聖霊の働きによって、永遠に神の御国の子供となるためである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P210
蛾は、炎の焼き尽くす力も考えずに、明るさだけに魅せられて炎に飛び込み命を失う。それと同じく、人もまた罪の恐るべき破壊力を考えず、偽りの光ばかりに幻惑されて永遠の滅びへ突き進む。だが、わが光は罪人を死から救い、彼に生命と絶えることなき幸せをもたらす。人は、わがまことの光という尊い賜物を受けられるように創造されているのである。
6.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P151
‘89・3・29
主よ、地獄に行く霊魂たちを哀れに思います。地上では私たちの一人として、同じようだったでしょう。地獄から連れ出す方法が何かあり、そして変えられるなら・・・
悪より善を選ぶ自由を与えた、懇願し 愛を呼びかけたが、悪のほうを選んでしまった、
しかし主よ、まだ機会があってもよくはないでしょうか・・・
子よ、彼らが完全に私を否定したのを あなたは知らない。 最後まで彼らを愛している。 悪魔に導かれ従うほうを選んだ、死後までも彼らの前にいたが、少しの躊躇もなく 進んで悪魔のあとに追従(つい)て行った、全く彼らが決めたのであり、いつまでも地獄にいるほうを選んだのだ。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P275
‘88・8・9
♡♡ 戦いは終わっていません、どの日も 毎日どれほど多くの霊魂が地獄に落ちていくかを知ったなら! その数は警戒すべきほど多いのです・・・ (私はどういう人びとかお尋ねしました) 枢機卿もあれば・・・(*)幼い子どもまで。
*聖母は躊躇なさり 御心のうちに痛みが感じられました。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P78
‘88・11・21
最愛の子どもたちよ、私はあなた方の聖なる母、全人類の母です、まこと愛する者たちよ、イエスは言葉で言い表せないほど 苦しんでおられ、今 第二の御受難のさ中におられます! 私どもの心がいかに 苦しんでいるかを感じて下さい・・・今日大きな戦いが展開しているのです。 サタンは狂暴に攻撃を仕掛け 聖ミカエルは神の天使たちとともに戦っています。地上はこの大きな戦いの震動を感じとっていますが、私にはあなた方の祈りが必要です、愛する者たちよ、決して祈りを止めないように・・・祈って下さい まこと愛する者たちよ、この暗やみの中で 光り輝く天使のようになるのです、霊魂の贖いのため、改心のために まこと愛する者たちよ 祈りなさい、あなた方一人ひとりを当てにしています・・・自分の子たちが永遠の火に向って進んで行くのを見た母親が どう感じるかをどうぞ理解して下さい、そして愛する者たちの何人かがこの永遠の炎に落ちて行くのを見てどのように感じているかを・・・この黙想をしてくれるなら 私をもっとよく理解できるでしょう ♡ 私のメッセージを終えるに当たって あなた方を 父と子と聖霊の御名によって祝福します ♡ 来て、イエスを慰めて下さい・・・
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P199
‘89・7・5
しかも、まっしぐらに永遠の亡びへと向かう これほど多くの霊魂たちを見るのは はるかに痛みが大きい・・・ 分かってほしい 我が子よ、私に比べ あなたの苦しみは何でもないと。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P17
‘89・10・10
十字架から叫ぶ私の声に耳を傾けなさい 無数の霊魂たちが間断なく永遠の滅びに落ちて行く、いのちをもたらす霊の呼びかけに耳を澄ましなさい。 あなた方のくに民は心が粗野となり 知識の泉から離れてしまった
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P10
‘99・2・2
これほど多くの霊魂たちが永劫の火に向っていくのを 全善と慈悲なる者は見るに耐えなかった。
7.ファニー・モイスィーバ
ファニー・モイスィーバ/垣間見た永遠の世界/P58
著者のコメント
人びとの中にはこのように言うかもしれません。「真に神が憐れみ深いなら、可哀想な人間の魂をどうして永遠の地獄に突き落としたりするだろうか。」
神ご自身が、このような災いから魂を救うために、天からお降りになったことを、人びとは忘れて、こうした言葉を呟くのです。主が地上に降りられたのは、サタンを打破る十字架のしるしによって、神の輝かしい栄光の国へ至る道を示すためでした。
こんな疑問も起こるかもしれません。
「神はどうしてサタンの存在を許しているのか、なぜ、サタンの存在を造ったのか。」
サタンは、純粋な天使として創造されました。しかし、その後自らの意志によって神から離れたのです。純霊としてサタンは今も生きているのです。同じように、人間も生まれた時には清く無垢ですが、成長するに従って神の戒めから離れ、神の御旨を拒むようになったのです。自らの意志によって邪悪になり、反逆したのです。そのような人が死後に裁きを受けるのは避けられないことです。
マタイ福音書25・41には次のように記されています。「それから、左側の者に向かって、『呪われた者たち、わたしを離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火に入れ。』」
このような福音書の聖霊に鼓舞された言葉があるにもかかわらず、邪悪な人びとは、地獄での刑罰を避けるために与えられたキリストの教えに逆らい、地獄の存在さえ信じようとはしません。しかし、地獄は存在するのです。
幾人かの懐疑論者は、地獄での刑罰は永遠には続かないとしています。しかし、ヘブライ人への手紙1・8に「神よ、あなたの王座は世々とこしえに。あなたの王国の笏は公正の笏。あなたは義を愛し、不義を憎んだ。」と書かれていることを思い起こして下さい。また、ヨハネ黙示録20・10に「彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこは、あの獣と偽預言者とがいる所である。この者どもは、昼も夜も、永遠にそこで苦しめられるのである。」と書かれていることを思い起こしてください。
8.メジュゴリエの証言者たち/シスター・エマニエル
メジュゴリエの証言者たち/シスター・エマニエル/ドン・ボスコ社/P77
ヴィッカ
『ゴスパ、』私たちは尋ねました。『この人々は地獄から出ることができるのですか?』
聖母
『地獄は決して終わらないでしょう。地獄にいる人々はもう神から何一つ受けることを欲しません。彼らは永遠に神から離れていることを自由に決断したのです。神は御自分を愛するように誰をも強制することがおできになりません。』
9.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P63
あなたは、大部分の人間たちがわたしに対して行う数かぎりない侮辱に気づきましたか? 多かれ少なかれ皆不義の道を歩いています。そして彼らのうちの非常に多くはそれに気づくこともなく、ますます悪のほうへと傾き、地獄の混乱の淵へと落ち込んでいくのです。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P137
このようにしてこの秘跡は、私たちの身体が栄光のうちに復活することを私たちに思い出させるのです。ちょうど主が秘跡の状態を中止されることによって、神なる御父のもとに座を占められるように、人間の魂も現在の生活を終わった時、天の神の懐のもとに永遠の住みかを有するために移り住むでしょうから。いっぽう私たちの身体はちょうど食されたあとの聖別されたパンのように、死後ほとんどもうその存在をとどめないほど消耗されてしまいます。そのあと全能の奇跡によって全世界の復活の時にその霊魂とともに私たちの身体も生命を得て、もし善人ならば神の永遠の祝福を楽しむために、その反対の場合には神から離れ、もっとも辛い永遠の責め苦を苦しむのです。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P138
さてこの神聖な光を持たない霊魂たちはいったいどうなることでしょうか? もしこの問いに答えなければならないとしましたら、あまりにも長くなるでしょう。しかしもし主がそれをお望みになるようでしたら、また他の機会にいたしましょう。ただ前述いたしました、愛の対象について主が私に知らせて下さった他のことについて、少しお話しするだけにとどめておきたいと思います。
主は今のところただ、輝く光をもった霊魂と一致した身体は永遠に神と一致するであろうということ、いっぽうこの愛の犠牲の秘跡にあずからなかったために光が欠乏し、まっ黒に濃い霧がかかった霊魂といっしょになった身体は、お恵みの光なしに、もっとも深い暗黒の中に投げ捨てられ、沈められてしまうであろうということ、また彼らの偉大な贈与者にたいして意識的に実行された恩知らずのわざに応じて、暗闇の王ルチフェルの奴隷として、もっともひどい苦しい永遠の拷問のもとにおかれるであろうということを私に理解させて下さいました。
10.ネフィリム
天界の秘義581
『ネピリム』により自分自身が高尚であることと卓越していることを確信し、そこから聖い真のものを尽く軽視した者が意味されていることは前後に述べられていることから明らかである。すなわち、かれらは信仰の教義的なものを己がいくたの欲念の中に浸してしまったのであり、そのことが『神の子らは人の娘達の所へ入って、彼女らは彼らに子を生んだ』により意味されているのである。自己とその諸々の幻想に関わる信念はその中に入って来る夥しい物に応じてまた増大し、ついにはそれは消滅しなくなり、それに信仰の教義的なものが附加されると、その時かれらは最も強固な信念の原理から聖い真のものをことごとく軽視して、ネピリムとなるのである。
洪水以前に住んだ種族はその最も恐るべき幻想により(それは彼らから有毒な窒息させるスフィアとして注ぎ出されるのであるが)凡ての霊を殺し、これを窒息させるといった底のものであって、そのため霊達は考える力を全く剥奪され、半ば死んだようにも感じるが、主が世に来られて霊達の世界をその有毒な種族から解放されなかったならば、何人もそこに存在することはできなかったのであり、従って主により霊達を通して支配されている人類も死滅してしまったであろう。それゆえかれらは今は地獄の謂わば霞んだ濃い色の岩のようなものの下に、左足の踝の下におかれており、かれらもまたそこから上に登ろうとは些かも企てはしていない。かくして霊達の世界はこの最も危険な一味から解放されているのであるが、かれらとその最も有毒な信念のスフィア[霊気]については主の神的慈悲の下に今後述べよう。
天界の秘義1267
かれらの中でその地獄から執拗に外へ這い出そうと試みる者らはその仲間からむごくとり扱われる、なぜならかれらは凡ゆる者に対し、その仲間に対してさえも、かれらを殺しかねない憎悪にとりつかれているからである。かれらの最大の歓喜は互に他の者を服従させて、互に他の者を屠殺してしまうことである。他の者よりもさらに執拗にあくまでも外に這い出ようともがく者らはその霧のような岩の下へさらに深く追いおとされてしまう、なぜならかれらをかりたてているものは、すべての者を破壊しようとするその生来の狂った熱情であるからである。かれらはその出会う者らをことごとく捕えてしまうために、その者らを布片の中に包みこんで、その者らには一種の海のように見えるものの中へその者らを投げこんでしまうか、それともその者らに残酷なしうちを加えるかしている。
11.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P350
死ぬべき騙された人々よ、何をしていますか。何のために生きていますが。私たちの人生の目的は神に面と向かって会うこと、神の永遠の光栄および神との交わりであることを実感していますが。何を考えていますか。誰があなたの判断を邪魔したり励ましたりしていますか。もし、あなたがこの本当の祝福と幸福を逃すなら、何を求めますか。この世の苦しみは短く、その報いは無限の栄光です。罰は永遠です。
12.天界と地獄との間には越ゆることの出来ない大いなる深淵が置かれている
真の基督教569
かくして、天界は善の愛の凡ゆる諸々の変化に応じて、極めて微細な区別をもって排列され、地獄も同様に悪の愛の凡ゆる諸々の変化に応じて排列されている。この理由から、天界と地獄との間には越ゆることの出来ない大いなる深淵が置かれている。何故なら、天使たちは吐気、病気、昏倒を引き起こす地獄の匂いに堪えることが出来ず、同じことが悪魔共に、若しその悪魔が両者の間に介在する深淵を越えるならば起こるからである。
13.ドレックス教授
天使館/天使のパン14号P38
ドレックス教授への救い主の御言葉
1970年9月4日早朝の主の御言葉
ますます多くの司祭たちが私の童貞聖母マリアから背を向け、数え切れないほど多くの信者が教会の不忠実な息子たちの誘いに従い、永遠に失われるという大きな危険の中にいる。
天使館/天使のパン15号P37
『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1971年5月7日早朝の主の御言葉
聖福音を説教し、神の掟への道を示し、私の贖いの恩寵を若者たちに教える代りに、このような司祭たちは、偽りの預言者たちの空しい知恵や思い込みによる偽りの傲慢について若者たちに語っている。こうした全てが生ける反キリストであり、真のキリストである私とその教会とは反対の立場に立っている。しかし最後には、ルシファーとその手下たちは永遠の地獄で終りを迎えるであろう。
天使館/天使のパン16号P38
『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉
1973年5月4日早朝の主の御言葉
しかし、神の恩寵と信仰を捨てる者たちは、地獄からの解放をただ空しく永遠に叫び続けるであろう。その金切声は福音書の中で語られている地獄の場から叫ぶ金持ちの嘆きの声のように段々小さく消えてゆくであろう。(注:ルカ福音書16・31参照)。
14.人間は死後再生するか?・・・幼児または少児の頃他界した者達
真の基督教729
聖餐に与るに足る程成長しない中に他界する者は洗礼を通し主によって天界に入れられる。何故なら上述したように、洗礼は基督教会へ導き入れることであり、霊界の基督教徒とつらなる手段であるから。霊界では教会と天界とは同一の物である。それ故かの世界で教会へ入れられることはまた天界へ入れられることである。幼児または少児の頃他界した者達は主の特別の配慮の下に教育され、再生し、かくして主の子等となるのである、何故なら彼らは他の如何なる父をも知らないからである。
基督教会の外に生まれた嬰児と少児達は、主に対する信仰を受け入れた後、彼らの宗教を奉じている人々に宛てられている天界へ、洗礼以外の手段によって入れられ、基督教天界に在る者と混入しない。実に、凡ゆる国人は、もし、神を認め、正しく生活するならば、救われるのである。何故なら、凡ゆる人は霊的に生まれ、それ故贖いの益を受けることが出来、主は彼等凡てを贖い給うたからである。主を受ける者達、即ち、主に対する信仰をもち、悪を避ける者達は「神の子」「神より生まれし者」(ヨハネ1・12、13、11・52)と呼ばれ、また「御国の子」(マタイ13・38)「後継者」(マタイ19・29、25・34)と呼ばれている。主の弟子達はまた「子達」(ヨハネ13・33)と呼ばれ、凡ての天使もそのように呼ばれているのである(ヨブ1・6、2・1)。
15.奈落の者らは匡正されることは出来ない
天界の秘義7342
意志のことが言われるときは、愛の情愛が意味されるのである、なぜなら人間の意志はそれ以外の何ものでもないからである。この情愛が人間を支配するものである、なぜなら愛の情愛が人間の生命であるからである。もし人間の情愛が自己と世を求める情愛であるなら、そのとき彼の全生命はそれ以外の何ものでもなく、また彼はそれに抵抗することも出来ないのである、なぜならそれは自分自身の生命に抵抗することとなるからである。真理の原理は何ごとも遂行はしないのである、もしこれらの愛の情愛が主権を持っているなら、それは真理を己が側に引き入れて、それを誤謬化してしまい、もしその真理が充分にそれを支持しないなら、それを斥けてしまうのである。ここから、主が霊的な愛を、即ち、隣人に対する愛の情愛を導入されない限り、真の信仰の原理も人間のもとには何ごとも全く遂行はしないのであり、その人間がこの情愛を受け入れるに応じて、信仰の諸真理も受け入れるのである。この愛の情愛が新しい意志を作るものである。この凡てから今や、もし意志が抵抗するなら、人間はいかような真理も決して心にかけはしないことを認めることができよう、従って奈落の者らは悪を求める情愛、または欲念の中にいるため、信仰の諸真理を受けることは出来ないのであり、従って匡正されることは出来ないのであり、そこからまた悪い者は為しうる限り真理を誤謬化してしまうことが起こっている。
16.木は倒れた所に横たわる
コヘレトの言葉11・3
雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。
南風に倒されても北風に倒されても
木はその倒れたところに横たわる。
聖ヴィアンネの精神P233
不幸なことですが、私共はこの世でまず一致していない限り、天国で一緒になることはないでしょう。死は何も変えません。樹は倒れた処にいつまでも倒れています。
神の摂理277(a)
人間は改良されるためには悪から導き出されねばならぬことは明白である、何故ならこの世で悪に在る者は世を去った後もその状態に止まり、それ故もし悪が世で取り除かれないならば、それは後になっても取り除かれることは出来ないからである。木は倒れた所に横たわるように、人間の生命もまた、人間が死ぬと、同じ性質を以って存続する。さらに人間は凡てその行為に従って審判される、それはその行為が彼に持ち出されるのでなく、彼は再びその行為に帰り、以前行ったように行い続けるからである。何故なら死は生命の継続であって、ただ人間はその時は改良されることは出来ないという相違があるに過ぎないからである。改良は凡て完全に行われ、即ち、第一原理と究極部とに同時に行われるのであり、究極部は、人間が世にいる間に、第一原理に応じて改良されるが、その後には改良されることは出来ない、何故なら人間が死後携えて行く生命の究極部は静止して、彼の内部に一致するようになり、即ち、二つは一つのものとして活動するからである。
天界の秘義2228
全地球の中のあらゆる人間が『地のあらゆる国民』により意味されていないことはたれにでも明白である、なぜなら彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、すなわち、仁慈の生命に達した者のみが救われるからである。
天界の秘義2228 [2]
このすべては信仰の何であるかを、すなわち、それは仁慈であることを示している、なぜなら信仰の教義のものであると言われているものはことごとく仁慈に導くのであって、仁慈の中にそれらのものはすべて含まれており、仁慈からそれらのものはすべて派生しているからである。霊魂は、身体の生命の後では、その霊魂の愛のあるがままに止まるのである。
天界の秘義7186〔3〕
霊的な教会に属し、低地にいる者たちは取り憑かれて悩まされることから徐々に自由にされるのであって、直ぐには自由にされないのは、彼らに密着している幾多の悪と誤謬はそれ以外の方法では遠ざけられることは出来ないし、また幾多の善と真理もそれに代って導き入れられることも出来ないためである、なぜならそのことは状態の多くの変化により行われ、かくて徐々に順次行われるからである。人間は天界へ直ぐにも導き入れられることが出来、そしてそれは全く主の慈悲から行われると信じている者は甚だしく誤っているのである。もしそれが可能なら、地獄にいる者はすべていかようなものであろうと天界へ挙げられるのである、なぜなら主の慈悲は凡ゆる者に及んでいるからである。しかし以下のことが秩序に従っているのである、即ち、たれでも世で送ったその生活〔生命〕を携えて行き、他生におけるその者の状態はその生活〔生命〕に順応しており、主の慈悲は凡ての者のもとへ流れ入ってはいるが、しかしそれは多様に受け入れられており、悪の中にいる者によっては、斥けられ、世で彼らは彼ら自身の悪を染み込ませたため、その悪を他生でもまた保有しており、他生では矯正もまた不可能となるのである、なぜなら木はその倒れた所にとどまるからである。この凡てから、善の中に生きはしたものの世への愛と自己への愛に属している粗悪な不純なものもまた最もっている者たちは、そうしたものが除かれない中は、天界にいる者たちと交わることが出来ないことが明白である。この凡てから取り憑かれて悩まされることから自由にされることは徐々に順次行われることが明白である。
真の基督教720
主は不当に近づく者等に対して天界を閉じたもうと想像してはならない。これは何人に対してもその生涯の終に至るまで決して行い給わない。事実は人間が信仰を斥け悪しき生涯を送ることによって自ら天界を閉じるのである。それにも拘らず、彼は悔い改めと回心の可能性の中に維持されている。何故なら、主は絶えず凡ゆる人間の許に臨在し、「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて、彼と共に食し、彼もまた我とともに食せん」(黙示録3・20)と語り給いつつ受け入れられることを切に求め給うからである。それ故戸を開かないその責めは人間自身にある。然し、死後事情は異なる。その時天界は生涯の終わりまで不当に聖なる食卓に近づいた者等には閉ざされて、開かれることは出来ない。何故なら、その時彼らの内的な心は固定し、変更され得ないからである。
黙示録講解128
「征服すること」は幾多の悪と誤謬とに抵抗し、それらのものを己が敵として飼い馴らし、征服することであるためである。しかしたれ一人その者が世におけるその生命の終わりに至るまでさえも真理に対する霊的な情愛の中に確乎として止まらない限り、征服はしないのである。その時はその業は完了[終結]するのである。なぜなら人間はその者がその時あるがままのものとして、すなわちその生命[生活]がその時点に達するまであったままのものとして永遠に止まるからであり、死はそれを完成するものである。
結婚愛524[2]
どのような者の生命も死後変化することは出来ない、なぜならそれはその者の愛と、引いてはその者の業とに応じて組織されているからである。
17.悔改めは死後は不可能
天界と地獄527
天界の生活に反した生活を世で送った者らに天界の生活を植えつけることは不可能であることを私は多くの経験から証することが出来る。自分たちは死後神の真理を天使たちから聞いたら、たやすくそれを受け入れ、それを信じ、異なった生き方をし、かくして天界へ入れられることが出来るであろうと信じた者がいた。しかしこのことは非常に多くの者に試みられはしたが、それでもそれはそうした信念を抱いていた者に限られていたのであり、その者らにそれが許されたのは、悔改めは死後は不可能であることを彼らに知らせるためであったのである。そのことを試みられた者の中には、真理を理解し、それを受け入れるように見えた者もいたが、しかし彼らはその愛の生命に帰るや否や、それを斥けて、それに反したことを言いさえもしたのである。ある者はすぐにそれを斥けて、聞こうとはしなかった。ある者は、世から得た自分の愛の生命が自分から取り去られて、天使の生命が、または天界の生命がそれに代って注ぎ入れられるように願った。そのことも許しにより為された、が、彼らの愛の生命が取り去られると、彼らは死んだ者のようになって臥し、もはや知覚を持たなくなった。こうした、また他の種類の経験から単純な善良な者たちは以下のことを教えられたのである、すなわち、霊は各々頭からくびすまでその愛と同一のものであり、従ってその生命と同一のものであるため、いかなる生命であれ、その生命は死後も決して変化することは出来ない、悪い生命は善い生命に、または奈落の生命は天使の生命に決して変質することは出来ず、この生命をその反対のものに変質することはその霊を破壊することである、と。奈落の霊を天界の天使に変えるよりは、夜のふくろうを鳩に変え、みみずくを楽園の鳥に変える方がやさしい、と天使たちははっきりと言っている。人間は死後もその生命が世であったその状態にとどまることは前にそのことを取扱った章に見ることができようことが出来よう(470−484)。これらの事から今や誰一人直接的な慈悲から天界に迎えられることは出来ないことを認めることが出来よう。
18.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P241
「御父の聖旨に従う聖なる天使たちに、私たちは天の住居と、神である私たちを見る喜びとを与える。私たちの友情を永遠に所有することにする。天使たちが私の御母を元后と認め、仕え、随行し、何処へでもいつでもお連れし、御母の命令全てに従うべきことを命令する。私の、完全な聖なる意志に反抗する悪魔たちを私は追放し、罰し、私の御母、諸聖人、義人を見させない。悪魔たちの住居を下の穴、即ち、光の通らない暗黒の恐怖に満ちた地球の中心と定める。高慢と頑固により選んだ結果であり、暗黒の中で永遠に消えることのない火により焼かれることになる。」
アグレダのマリア/神の都市/P243
「これらの者たちは私に敵対し、悪意に凝り固まり、私の与える養子権を破棄したので、私は彼らに私の光栄を相続させない。彼らを私の御母、天使たちや諸聖人から分け離し、彼らが自由意志で仕えたルシフェルや手下たちのいる永遠の地獄の火の中に落とす。彼らが地獄から這い上がれるチャンスを決して与えない。ああ、御父よ、人間と天使の頭、裁判官としてこの宣言を誓い、私の臨終に於ける契約とします。各人は、各人の行為に従い、御身の審判に従い、報いを受けます。」この祈りは聖母の御心の中にしっかり伝わりました。聖母の御取次や御自分から率先されるお世話を通して、この契約が施行されることは、その時、そして過去、未来全てに及んでいます。