ネフィリム
天界の秘義557
信仰の教義的な物を己が諸々の欲念に浸し、その結果また自己愛の結果、他と比較して自分は偉大なものであるという恐るべき確信を抱いた者らが『ネピリム』により意味されている(四節)。
天界の秘義581
『ネピリム』により自分自身が高尚であることと卓越していることを確信し、そこから聖い真のものを尽く軽視した者が意味されていることは前後に述べられていることから明らかである。すなわち、かれらは信仰の教義的なものを己がいくたの欲念の中に浸してしまったのであり、そのことが『神の子らは人の娘達の所へ入って、かの女らはかれらに子を生んだ』により意味されているのである。自己とその諸々の幻想に関わる信念はその中に入って来る夥しい物に応じてまた増大し、ついにはそれは消滅しなくなり、それに信仰の教義的なものが附加されると、その時かれらは最も強固な信念の原理から聖い真のものをことごとく軽視して、ネピリムとなるのである。
洪水以前に住んだ種族はその最も恐るべき幻想により(それはかれらから有毒な窒息させるスフィアとして注ぎ出されるのであるが)凡ての霊を殺し、これを窒息させるといった底のものであって、そのため霊達は考える力を全く剥奪され、半ば死んだようにも感じるが、主が世に来られて霊達の世界をその有毒な種族から解放されなかったならば、何人もそこに存在することはできなかったのであり、従って主により霊達を通して支配されている人類も死滅してしまったであろう。それゆえかれらは今は地獄の謂わば霞んだ濃い色の岩のようなものの下に、左足の踝の下におかれており、かれらもまたそこから上に登ろうとは些かも企てはしていない。かくして霊達の世界はこの最も危険な一味から解放されているのであるが、かれらとその最も有毒な信念のスフィア[霊気]については主の神的慈悲の下に今後述べよう。
これらが『ネピリム』と呼ばれ、聖い真のものを凡て軽視するやからである。聖言には更にかれらについて記されているが、しかしその子孫は『アナキム』、『レパイム』と呼ばれたのである。かれらが『アナキム』と呼ばれたことはモーセの書から明らかである―
わたしたちはまたアナクの息子ら[子孫]、ネピリムの息子ら、ネピリムをそこに見た、わたしたちはわたしたち自身から見ると蝗のようであり、また彼らの目にもそのように見られた(民数記13・33)。
かれらは『レパイム』と呼ばれたこともモーセの書に明らかである―
エミ人が前にモアブの地に住んだ、この民は偉大で数多く、丈が高く、アナク人のようであった。この民はまたアナク人のように、レパイムと呼ばれたが、モアブ人はこれをエミ人と呼んだ(申命記2・10、11)。
(中略)
あなたは死んだ者にくすしいことを示されましょうか。レパイムは起きて、あなたを告白しましょうか(詩篇88・10)。
これも同じくレパイムの地獄について語っており、かれらは起き上がって、その信念の非常に恐るべき毒を霊たちの世界のスフィアに感染させることができないことを語っている。しかし人類はもはやこうした恐るべき幻想と信念に感染しないように主により定められている。洪水以前に生きた人々は、未だ知られていない理由からそれに感染することができる性質と資質とをもっていたのであるが、そのことについては主の神的慈悲の下に今後述べよう。
天界の秘義583
ネピリムは自己愛[自己を求める愛]から『力ある人間』と呼ばれていることは聖言の種々の記事から明らかであり、そこではこうした者は『力ある者』と呼ばれている、例えばエレミヤ記には―
バベルの力ある者は戦うことを止めてしまった、彼らはその囲いの中に座り、その力は衰え、女のようになってしまった(51・3)。
ここでは『バベルの力ある者』は自己愛に食いつくされた者を意味している。
天界の秘義736
ノアまたはこの新しい教会の人間については、かれはその最古代教会から得たものを単純に信じたような性格のものであったのであり、その最古代教会から得たものとは教義の事柄であって、それは『エノク』と呼ばれた者たちにより集められて、教義的な形のものとされていたものであった。そしてかれは『ネプリム』と呼ばれた、死滅してしまった洪水以前の者らとは全く異なった資質をもっていたのであり、この洪水以前の者らは、信仰の教義的な事柄を醜悪な欲念の中に浸してしまい、かくして恐るべき信念を考案し、他の者からいか程教えられ、その確信の誤謬を示されても、そこから退こうとはしなかったのである。現今にもまた資質または性質を異にした人間がいるのである。一方の資質または性質の人々は容易に再生するが、他方の資質または性質の人々にはそれは容易ではないのである。
天界の秘義1266
死滅した洪水以前の者らは左足のくびすの下の或る地獄の中にいる。一種の霧のような岩があって、その岩でかれらはおおわれているが、それはかれらの恐るべき幻想と信念から放出されているものであり、それによってかれらは他の地獄から分離され、また霊たちの世界からも遠ざけられているのである。かれらはそこから這い出そうと絶えず努力はしているが、ただ努力するのみで這い出すことはできない、なぜならかれらは、もし万が一にも霊たちの世界へ入りこみでもするなら、その恐るべき幻想によりその信念の発散物と毒気とにより、善良な者を除いては、その出会う凡ゆる霊たちから、考える能力をとり去ってしまうといった性質をもっているからである。そして主が、肉の中へ来られることによって、霊たちの世界をこの極悪の一味から解き放たれなかったならば、人類は死滅してしまったことであろう、なぜならそのときはいかような霊も人間のもとにいることはできなかったであろうし、しかも霊たちと天使たちとが人間のもとにいないなら、人間は一瞬も生きることはできないからである。
天界の秘義1267
かれらの中でその地獄から執拗に外へ這い出そうと試みる者らはその仲間からむごくとり扱われる、なぜならかれらは凡ゆる者に対し、その仲間に対してさえも、かれらを殺しかねない憎悪にとりつかれているからである。かれらの最大の歓喜は互に他の者を服従させて、互に他の者を屠殺してしまうことである。他の者よりもさらに執拗にあくまでも外に這い出ようともがく者らはその霧のような岩の下へさらに深く追いおとされてしまう、なぜならかれらをかりたてているものは、すべての者を破壊しようとするその生来の狂った熱情であるからである。かれらはその出会う者らをことごとく捕えてしまうために、その者らを布片の中に包みこんで、その者らには一種の海のように見えるものの中へその者らを投げこんでしまうか、それともその者らに残酷なしうちを加えるかしている。
天界の秘義1268
わたしはその霧のような岩の方へ、守られながら、連れて行かれた。(こうした霊どもへ連れて行かれることはあちらこちらと連れて行かれることではなくて、その間に介在している霊たちと天使たちのいくたの社会により行われるのであって、その人間は依然同じ所にとどまっているのであるが、しかもそれはかれには下へ降らされるように見えるのである。)わたしはその岩へ近づくにつれて、わたしの背中の下の辺りが寒気にしめつけられるように感じたのである。そこからわたしはかれらの信念について、またかれらは身体の生命の中で主についていかようなことを信じていたかについて話した。かれらは、自分らは神について非常に考えはしたが、しかし自分らは神は存在しない、しかし人間が神である、それで自分ら自身が神である、と自分ら自身に説きつけたのである、自分らはこうした信念を自分らの夢により自分ら自身の中に確認したのである、と答えた。かれらが主に反抗して抱いた幻想については下に述べよう。
天界の秘義1270
間もなくいく人かの者がその地獄からつれ出されたが、しかし主はかれらがわたしに何の危害も加えることができないように、霊たちと天使たちとを間におかれていた。かれらはかの深淵から前の方へ出てきたが、かれら自身には、いわばその岩の中の洞窟を通って、そこから上の方へと前の方へ向ってその道を切り開いて行くように思えたのである。ついにかれらは上の方から左の方へと現れたが、それはかれらがそこから、それで遠方からわたしへ流れこむためであった。わたしは以下のように告げられたのである、すなわち、かれらは頭の右側へ流れ入ることは許されてはいるが、しかしその左側へ流れ入ることは許されてはいない、そして頭の右側から胸の左側へ流れ入ることは許されてはいるが、決して頭の左側へは流れ入ることは許されていない、なぜならもしそうしたことが起るなら、かれらはそのときは恐るべき、致死的なかれらの信念をもって流れ入ってくるため、わたしは破壊されてしまうからである、それに反し、もしかれらが頭の右へ流れ入って、そこから左の胸へ流れ入るなら、それは欲念により流れ入ることになるのである、と。これが流入の実態である。
天界の秘義1272
その後でかれらの女たちがいかような服装をしているかをわたしは示された。かれらは頭にまるい黒色の帽子をつけていたが、それは前の方が尖塔のように突き出ていた。かれらの顔は小さかったが、その男たちはあら毛をはやして、毛深かった。わたしはまたかれらがその子供たちが非常に多くいることをいかに誇っているかを、またかれらが何処へ行こうと必ずその子供たちをともに連れて行き、子供たちはかれらの前で曲線をつくって歩いて行くありさまも示された。しかしかれらは以下のように話されたのである、すなわち、獣もまた、その最悪のものでさえも、ことごとくその子供らには愛をもっているから、そのことはかれらの中に何か善いものがあるという証明になりはしない、もしかれらがかれら自身とかれら自身の光栄を求めるかれらの愛から子供たちを愛さないで、共通の善のために、人間社会が増大するようにとの意図から愛したとするなら、とくに、もしかれらが、天界が子供たちにより増大するために、かくて主の王国のために、子供たちを愛したとするなら、そのときは子供たちに対するかれらの愛は純粋なものであったであろう、と。
天界の秘義1673[2]
最も恐るべき誤謬の信念は洪水以前に生きた者らのもとに、とくに『ネプリム』と呼ばれた者らのもとに存在したのである。これらのネプリムは他生ではその接する霊たちから考える能力をその信念によってことごとく奪い去ってしまい、そのためその霊たちはその霊たち自身にはほとんど生きていないように思われ、まして真の事柄を何ら考えることができないようにも思われるといった性質をもっているのである。なぜなら、前に示したように、他生には凡ての者の思考は伝達されていて、それでこのような説きつけるものが流れ入ってくると、それは他の者の中に考える力をことごとくいわば殺してしまわないわけにはいかないのである。こうした者らが主がその子供時代の最初期にそれに反抗して戦われて、しかもそれを征服されたところの邪悪な種族であったのであり、そして主が世に来られることによりかれらを征服されなかったならば、現今地上には一人の人間も残されなかったのである。なぜなら人間はことごとく主により霊たちを通して支配されているからである。