教会は主の身体
カリスマ/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.ヴァッスーラ
4.サンダー・シング
5.マリア・ワルトルタ
1.聖書
ローマ12・4−5
というは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互に部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
コリント1・12・27
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
エフェソ1・23
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソ4・11−13
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
エフェソ5・30
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
コロサイ1・24
今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
2.スウェーデンボルグ
真の基督教372
(4)「主と人間との相互的な結合は仁慈と信仰とによって行われる。」
パウロの語る所に従えば(エペソ1・23、コリント前12・27、ロマ12・4、5)教会は基督の身体を構成し、真の基督教徒は凡てこの身体の或る部分に在ることが現在知られている。しかし基督の身体は神的善と真理以外の何であろうか。これはヨハネ伝の主の言葉によって意味されている。「我が肉を食い、我が血を飲む者は我に居り、我は彼に居るなり」(ヨハネ6・56)。主の肉とパンは神的善を意味し、その血と葡萄酒は神的真理を意味している。これが聖餐に関する章に示されるように、それらの真の意味である。人間は仁慈の善と信仰の真理とを持つ限り主の中にあり、主は彼の中に在し給うことが推論される。何故なら、主との結合は霊的であり、霊的結合は、只、仁慈と信仰とによってのみ生まれるからである。聖言の至る所に主と教会との結合が在り、善と真理との結合のあることは聖書に関する章に示された(248−253番)。仁慈は善であり信仰は真理である故、聖言の凡ゆる部分に仁慈と信仰との結合がある。我々は今や主は人間の中なる仁慈と信仰であり、人間は主の中なる仁慈と信仰であると結論することが出来よう。何故なら、主は人間の自然的な仁慈と信仰に於ける霊的な仁慈と信仰であり、人間は主の霊的な仁慈と信仰から発する自然的な仁慈と信仰であり、これらが結合する時霊的自然的仁慈と信仰を生むからである。
真の基督教416(太字は当方による)
主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1・P141
主:そうです、私の体は教会です。ヴァッスーラ、私は 教会を一つにしたい、すべての司祭たちを一つにまとめたい、軍隊のように、救いの軍隊です。私の羊は散らされている。すべての司祭たちは一致すべきです。
ヴァッスーラ:わが神よ、私は個人的にはギリシャ正教の洗礼を受けています。主はどのことを言っておられるのでしょう? カトリックですか、プロテスタントですか、それとも諸派でしょうか? それともほかの宗教のことでしょうか? 敢えてこうお尋ねするのは、それらが存在するからです。
主:ああ ヴァッスーラ、ヴァッスーラ、私は一つです! 私 神は唯一です、我が子たちは 皆私の手によって造られた、どうして私のすべての子どもたちは散らされているのか? 私は一致を望む。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P23
‘87・10・27
♡ 私の目には 全てが同じだ、からだの分裂を私は望んだ覚えがない、私を分裂させてしまったのは、あなた方! あなた方が私のからだをこのようにしてしまった! 不具にして(*)
*一瞬の沈黙があり、イエスは非常につらそうな、悲しみに満ちたお声でした。そんなことを思い出させてしまった自分に、罪悪感を覚えました。
徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P192
教会がキリストの体と呼ばれているのは、キリストとクリスチャンが主人と使用人の関係にあるからではない。それ以上の関係である。クリスチャンはキリストの各部である。彼らはキリストの仲間であるばかりか、キリストご自身を形作っているのだ。主は彼らを通して呼吸されている。
キリストは常に教会に現存するが、目には見えない。人が心の内に崇敬の念を感じ取れば、それは主の臨在をかすかに認めていることである。もっとも、主は自由意志に干渉してまで、無理にその臨在を感じさせようとはなさらない。われわれがその能力に応じて感得することを許されている。実際、主はどんな場合にも強制はなさらず、ただ引き寄せるだけである。
目薬は目の前におかれているときのみ目に見える。それが目に入り、目に清涼感を与え癒しているときには、見ることはできない。同じように、われわれの心を清め、その臨在感で歓びを与えてくださっている主を、見ることはできない。
キリスト者は永遠の生命を持っている。それは、彼の結ばれている神が永遠だからである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P242
8.わたしは今の世においても、わが内に生きる者たちの十字架を共に負い、彼らと受難を共にする。彼らは造られた者、わたしは造り手である。だが、ちょうど肉体と霊魂とが別々のものであっても、体の僅かな痛みが即座に霊に知覚されるほど両者が緻密なつながりをもっているように、わたしは子の生命であり霊であり、子はいわばわたしの体でありその各部である。わたしは彼らの痛み、悲しみを一つ一つ共にする。そして、適ったときに彼らに安らぎを与える。
5.マリア・ワルトルタ
増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/天使館
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音第3巻中/天使館
1945年6月28日
「皆聞きなさい。祈る時はこう言いなさい、『天に在すわたしたちの父よ、あなたの御名が尊まれますように。あなたの王国が天にあるように地に来ますように。あなたの御意思が天において行われるように地において行われますように。わたしたちの日々のパンをきょう与えてください。わたしたちに負いめのある人をわたしたちが赦すように、わたしたちの負いめを赦してください。わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください』と。」
イエズスは祈るために立ち上がり、皆は注意深く、感動して彼に倣った。
「友人たちよ、他に必要はありません。これらの言葉の中に、霊のため、肉と血のために人間が必要とするあらゆるものを黄金の輪の中でのように封じ込めています。これをもって、あの人にまたこの人たちに役立つものを祈り求めなさい。そしてもしあなたたちが求めることを行うなら、永遠の命を得るでしょう。数々の異端の大波も幾世紀にわたる時の流れもこれを侵食することが無いほど完全無欠な祈りです。キリスト教はサタンの噛み傷とわたしの神秘的肉の多くの部位によって小間切れにされるでしょうし、キリストの神秘的体、すなわち、地球がある限り、唯一で真の教会となるであろう使徒承伝の教会のうちに結ばれている全信徒によって捧げられるあのキリストの神秘体となるであろうような完全な身体を発注するという中身の無い欲望のうちに分離され、はがされ、独立した細胞になるでしょう。しかし、これらの分離された小さな部分、したがってわたしの子供たちを養うために、わたしが母なる教会に残すであろう賜物を持っていない小さな部分は、それでもキリストに対する礼拝と祭礼を行って、常に彼らの誤謬によって、自分たちはキリストに由来する、と想起するでしょう。それはともかく、彼らもまたこの普遍的な祈りで祈ることでしょう。この祈りを頻繁に思い出しなさい。絶え間なくこの祈りを黙想しなさい。この祈りをあなたたちの行動で示しなさい。自分を聖化するために他に必要はありません。たとえ教会も無く、書物も無く、異教徒たちの只中に独りでいても、この祈りによって、すでに黙想すべき人知のすべてを有しており、この祈りによって彼の心の中に開かれた一つの教会を有するでしょう。彼は守るべき規律と確実な聖化を保持するでしょう。