無知
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
4.サンダー・シング
1.聖書
箴言10・10
嘲りのまなざしは人を苦しめる。
無知な唇は滅びに落とされる。
箴言10・14
知恵ある人は知識を隠す。
無知な者の口には破滅が近い。
箴言12・15
無知な者は自分の道を正しいと見なす。
知恵ある人は勧めに聞き従う。
箴言12・16
無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。
思慮深い人は、軽蔑されても隠している。
箴言12・23
思慮深い人は知識を隠す。
愚かな心はその無知を言いふらす。
箴言13・16
思慮深い人は皆知識に基づいてふるまう。
愚か者は無知をさらけ出す。
箴言14・1
知恵ある女は家庭を築く。
無知な女は自分の手でそれをこわす。
箴言14・3
無知な者の口には傲慢の杖。知恵ある人の唇は自分を守る。
箴言14・29
忍耐によって英知は加わる。
短気な者はますます無知になる。
箴言15・2
知恵ある人の舌は知識を明らかに示し
愚か者の口は無知を注ぎ出す。
箴言15・5
無知は者は父の諭しをないがしろにする。
懲らしめを守る人は賢明さを増す。
箴言15・14
聡明な心は知識を求め
愚か者の口は無知を友とする。
箴言15・21
意志の弱い者には無知が喜びとなる。
英知ある人は歩みを正す。
箴言17・7
子を奪われた熊に遭う方が
愚か者の無知に会うよりましだ。
箴言18・13
聞き従う前に口答えをする者
無知と恥は彼のため。
箴言19・3
人は無知によって自分の道を滅ぼす。
しかも主に対して心に憤りをもつ。
箴言20・3
争いにかかわらないのは立派なことだ。
無知な者は皆、争いを引き起こす。
箴言22・15
若者の心には無知がつきもの。
これを遠ざけるのは諭しの鞭。
箴言24・7
無知な者に知恵は高尚すぎる。
城門で口を開くべきではない。
箴言24・9
無知の謀は過ちとされる。
不遜な態度は人に憎まれる。
箴言27・3
石は重く、砂も目方がかかる。
無知な者が不機嫌なのはどちらよりも重い。
箴言27・22
無知な者を臼に入れて
穀物と共に杵でついても
無知は彼を去らない。
箴言29・9
知恵ある人が無知な者と裁きの座で対すると
無知な者は怒り、嘲笑い、静まることがない。
エレミヤ4・20−22
「破壊に次ぐ破壊」と人々は叫ぶ。
大地はすべて荒らし尽くされる。
瞬く間にわたしの天幕が
一瞬のうちに、その幕が荒らし尽くされる。
いつまで、わたしは旗を見
角笛の響きを聞かねばならないのか。
まことに、わたしの民は無知だ。
わたしを知ろうとせず
愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく
善を行うことを知らない。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義1453
「海の方にはベテルがあり、東にはアイがあった」(創世記12・8)ことは主の状態は依然明確なものではなかったことを、すなわち、天的な霊的なものにかかわる知識については依然明確ではなかったことを意味している、なぜなら天的なものの中にいることと天的なものに関わる幾多の知識の中にいることとは異なっているからである。幼児と子供とは、彼らはその良心に対する愛の中に、相互愛の中に、また無垢の中にいるため、大人以上に天的なものの中にいるが、しかし大人はその中の非常に多くの者は愛の天的なものの中にいないながらも、幼児と子供以上に天的なものにかかわる知識の中にいるのである。人間は愛と信仰とのいくたのものを教えられない中は、かれは明確でない状態の中に、すなわち、知識の方面では明確でない状態の中にいるのであって、その状態がここに海の方面に、すなわち、西にベテルがあり、東にアイがあることにより記されているのである。すでに言ったように、『ベテル』により天的なものにかかわる知識が意味されているが、『アイ』により世的なものにかかわる知識が意味されているのである。天的なものにかかわる知識は、それが明確なものでないときは、『西』にあると言われている、なぜなら聖言では『西』は明確でないものを意味しているからであり、世的なものにかかわる知識はそれが明白であるときには『東に』あると言われている、なぜなら東は西に比較すると、澄明であるからである。西と東にこうした意義のあることを確認する必要はない、なぜならそれはたれにでも確認しなくとも明白であるからである。
天界の秘義1557
「ベテルとアイの間の」(創世記13・3)。これは知識の天的なものと世的なものとを意味していることは知識による知恵の光である『ベテル』の意義と(1453番参照)世的なものから発した光である『アイ』の意義から(それもまた1453番に述べられた)明白である。そこに言われていることから、主の状態はその時いかようなものであられたかを認めることができよう、すなわち、それは子供のようなものであったのである。そして子供の状態は世的なものが現存しているといったものである、なぜなら世的なものは真理と善とがいくたの知識により天的なものとは何であるか、世的なものとは何であるかを知らない中は天的なものと世的なものとを区別することはできないからである。知識は全般的で明確でない観念[考え]を確実なものにするのであって、観念[考え]が知識により明確にされるに応じて、益々世的なものは分離されることができるからである。
天界の秘義1557[2]
しかしそれでもその子供のような状態は、それが無垢なものであるため、聖いものである。無知はその中に無垢が存在しているときは、聖いものを決して排除しはしないのである、なぜなら聖いものは専ら無知の中に宿ることができるのであって、もしそれが無知の中に宿ることができないならば、人間は聖いものを持たないのである。理知と知恵の最高の光の中にすら存在している天使たち自身のもとでさえも、聖いものはまた無知の中に宿っているのである、なぜならかれらは自分たちは自分たち自身では何事も知っていないのであり、自分たちが知っていることはすべて主から発していることを知りまたそのことを承認しているからである。かれらはまたかれらの記憶知、理知、知恵は主の無限の知識、理知、知恵に比較するならば無に等しいものであり、かくてそれは無知であることを知り、また承認もしているのである。自分が知っている物の彼方には、自分の知らない無限のものが存在していることを承認しない者は天使たちがその中に宿っている無知の聖いものの中には宿ることはできないのである。
天界の秘義1557[3]
無知の聖いものは他の者以上に無知であるということにあるのではなく、人間は人間自身では[人間自身によっては]何ごとも知っておらず、自分の知らないものは自分が実際知っているものに比較するなら無限であるということを承認することにあり、とくにそれは人間が記憶と理解の事柄を天的なものに比較するなら、すなわち、理解の事柄を生命の事柄に比較するならほとんど無価値なものに見なすということにあるのである。主については主は人間的なものを神的なものに連結しつつあられたため、秩序に順応して進まれたのであり、そして主は今初めて、主が子供であられたとき持っておられたような天的な状態に到達されたのであって、その状態の中には世的なものもまた現存していたのである。主はこの状態からさらに天的な状態へ進まれることによりついに幼児の天的な状態の中へ入れられ、この状態の中で主は人間的な本質を神的な本質に完全に連結したもうたのである。
天界の秘義7502〔4〕
それが実情であることは何人も啓示によらなくては知ることは出来ないのである、なぜなら人間は他生に存在する事柄は啓示によらなくては知らないのであり、また人間は聖言から信仰に属した諸真理と諸善とを探求しようとは殆ど願っていないため(なぜなら人間は真理を真理自身のために、ましてや生命〔生活〕のためには、何ら愛していないからである)、それでこうした事柄は彼に啓示されていないからであるが、それでもそれは聖言の内意には示されているのである(しかもそれは連続したものと経過との各々の方面でも示されているのである)。それで教会の人間は聖言から真理を知ろうとする情愛を何ら持ってはおらず、ただ世的な理由から、自分自身の教会の教義的な事柄が真であるか、誤っているかを確認しようとする情愛しか持っていないため、彼は死後の状態については何事も全く知らないし、天界についても何事も知らないし、地獄についても何事も知らないし、人間のもとに何が天界を作るかを、また何が地獄を作るかを知りさえもしていないのである。否、人間は甚だしく無知であるため、たれでも天界へ入れられることが出来、或る者はその者がその者自身に僭取している力により、天界へ入れられることが出来、或る者は、自分はいかような生活を送っているにしても、主の慈悲により天界へ入れられることが出来ると、教えもし、信じもしていて、殆どだれ一人、天界は人間にはその者が世に生きている間に送る仁慈と信仰の生活〔生命〕により与えられ、この生命は存続することを知ってはいないのである。こうした事柄を言ったのは信仰のみを告白して、信仰の生活を顧みない教会のそうした人間の性質を明らかにするためである、なぜならこうした者が、ここの、また以下の記事のエジプト人により表象されている者らであるからである。
スウェーデンボルグ/信仰3
しかし一般的には霊的な、または神学的な問題は超自然的なものであるため、たれにもそれは把握出来ないと言われている。しかしながら霊的な真理も自然的な真理と全く同じように充分に把握されることが出来るものであって、たとえそれが明らかに把握されないにしても、それでもそれを聞くとすぐに、それは真であるか、真でないかを認めることが出来るのである。このことは特に真理に感動する情愛の持主に言われるのである。(中略)
スウェーデンボルグ/信仰9
盲目的信仰は改革派の多くの者のもとにもその後も長く生きのこったのである。それは彼らは仁慈から信仰を分離してしまったためである。なぜならこの二つのものを分離する者らは必然的に真理には無知となって、何かがそうしたものであることを内的に全く承認などしないで、ただそれがそうであるという考えに信仰という名を与えようとするからである。
これらの者らにもまた、無知こそ教理の安全弁となっているのである。なぜなら神学上の問題は理解を超越しているという信念とぐるになって無知がのさばっているかぎり、彼らは何を言ってもノーと言われる心配もなく、その教えは真であって、彼ら自身にはそれが理解されていると信じられることができるからである。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2/P120
無知は恥ずかしいことではありません。疑問を解く機会があるにもかかわらず、無知のままでいることこそ恥です。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P143
自分に欠けた何かを完成させることが神の創造の目的ではない。神はそれ自身完全である。それでも創造されるというのは、創造そのものが神のご性質だからである。神は生命をお与えになる。それは、生命の分け与えが、生命溢れる神の力と活動の本質そのものだからである。また、創造によって人を幸せにし、その生き生きとした臨在によって真の歓びを与えることが神の愛の本質である。被造物からわれわれが引き出す幸せには限りがある。神のみが人間の心の必要に完全にかない、それを完全に満たしてくださるのだ。人がこの歓びを知らないとすれば、それは神への無知か不従順、反逆の結果である。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P144
子供は、そこに隠された真理について何も知らずに、「神」という言葉をただ言葉をただ言葉として発音するだけかもしれないが、心が成長してゆくにつれ、その言葉の意味について、少なくとも何かを考え理解し始める。同じように、どれほど学識があろうと、霊的生活において初心者にすぎない者は、「肉となったことば」つまりキリストを、ただの歴史上の偉人か預言者の類(たぐい)ぐらいにしか考えず、神についてそれ以上思い巡らすことはない。だが、霊的経験の中で成長し、主の臨在を楽しむにつれて、キリストは神の化肉であり、「神のご性質が余すことなく完璧に体に宿られている」(コロサイ2・9)こと、「主の中に生命がありその生命は人の光であった」(ヨハネ1・4)ことを悟るのである。