霊的

 

イスラエル

 

 

 

1.聖書

2.霊的なもの

3.真理に対する情愛

4.死後の生命について、天界と地獄について、約言すれば、霊的な事柄について

5.霊的に考えることは理知的に、または合理的に考えること

 

6.霊的な者

7.基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいない

8.その言葉を聞くのみで悲哀とともに憂鬱感に襲われ、嫌悪の念が掻き立てられる

9.敗北する者

 

10.霊的な真理

11.人間は再生によって霊的となる

12.そうした事柄を知り、話すことは霊的なことではなくて、そうした事柄について生きることが霊的なこと

13.霊的な者の心労

 

 

 

 

1.聖書

 

 

コリント1・2・12−15

 

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、““霊””に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

 

 

 

 

2.霊的なもの

 

 

天界の秘義61

 

信仰の諸々の知識に関わる凡ての物は霊的なものと呼ばれ、主と隣人とに対する愛に属した凡ての物は天的なものと呼ばれ、前のものは人間の理解に属し、後のものはその意志に属している。

 

 

神の愛と知恵100

 

 太陽として主から発する熱と光とは高い意味では霊的なものと呼ばれるものであり、それらは一つのものであるゆえ、単数の霊的なものと呼ばれる。それ故霊的なものが以下の頁に記される時は、この二つのものがともに意味されている。かの世界の凡てが霊的なものと呼ばれるのはこの霊的なものから起っている。この霊的なものを通して、かの世界の凡ての物はその起源とまたその名とを得ている。その熱と光とは霊的なものと呼ばれている、なぜなら神は霊と呼ばれ、霊としての神は発出する霊的なものであるから。神は、神自らの本質そのものにより、エホバと呼ばれたもうが、しかしその発出するものにより天界の天使と教会人とを生かし、明るくされている、従って生かすことと明るくされることとはエホバの霊により行われると言われている。

 

 

 

神の愛と知恵374

 

「意志と理解の心臓と肺臓との相応があり、従って心の凡ての物と身体の凡ての物との相応がある」。これは新しい事柄である、それは、霊的なものとは何であるか、霊的なものは如何に自然なものと相違しているかが知られていないゆえ、現在にいたるまで知られておらず、それ故相応とは何であるかも知られていないのである、何故なら霊的な物と自然的な物との間に相応が在って、相応によってそれらは連結しているからである。霊的なものとは何であるか、または自然的なものと霊的なものとの相応は何であるか、それ故相応とは何であるかは、現在まで知られていないと語ったが、しかしこれらは知ることが出来よう。情愛と思考とは霊的なものであって、それ故情愛と思考の凡ての物は霊的なものであることを知らない者がいようか。

 

 

 

神の摂理71

 

人間はその好むままに自由に考え、意志する[欲する]ことが出来るが、その考える所を凡て自由に言ったり、またはその意志する所を自由に為したりすることは出来ないことは良く知られている。それ故ここに意味されている自由は、霊的な自由と自然的な自由が結合している時以外は、霊的な自由であって、自然的な自由ではない。なぜなら考え、意志することは霊的なものであるが、語り行うことは自然的なものであるから。

 

 

 

天界の秘義916[2]

 

教会はそれが仁慈からまたは仁慈の善から行動する時霊的なものと呼ばれ、それはそれが仁慈の無い信仰を持っているという時は決して霊的なものと呼ばれはしないのである。なぜならその時それは教会でさえもないからである。なぜなら信仰の教義は仁慈の教義でなくて何であろう。そして信仰の教義は人間はその教えることを為さなくてはならないということを除いては何を目的とするであろうか。それはその教えることを単に知りまた考えることで在り得る筈はなく、その教えることは為さなくてはならないということのみである筈である。それ故霊的教会はそれが信仰の教義そのものである仁慈から行動する時始めて教会と呼ばれるのである。または、それと同一事ではあるが、教会の人間はそのとき始めて教会となるのである。丁度それと同じように、戒めは何のためにあるのであるか、それは人間がそれを知るためではなく、その戒めに従って生きるためではないか。なぜならそのとき彼は、主の王国はもっぱら相互愛とその幸福とに在るからには、彼自身の中に主の王国を持つからである。

 

 

 

天界の秘義916[3]

 

仁慈から信仰を分離し、救いを仁慈の善い業のない信仰に在るとする者は、その兄弟のアベルを、すなわち仁慈を殺すカインのやからである。そしてかれらは死骸のまわりを飛びまわっている鳥のような者である。なぜならこうした信仰は鳥であり、仁慈の無い人間は死骸であるからである。かくて彼らは基督教世界に良く知られているように、悪魔のように生活し、隣人を憎悪し、迫害し、その生涯を姦通に費やし、しかも救われるために、彼ら自身のためにまた似而非良心を形作るのである。人間は野獣のような生活をしていても、救われることが出来るということを聞いて、それを納得するにまさって快適なことが彼に在り得ようか。異教徒すらそれは誤っていることを認めており、その多くの者は基督教徒の生活を見ているため、基督教徒の教義を忌み嫌っているのである。こうした信仰の真の性質は、基督教世界における生活以上に忌まわしい生活はどこにも見出されないという事実からもまた明白である。

 

 

 

天界の秘義1442

 

「モレの樫の木の杜に」。これは最初の認識を意味していることもまた順序[秩序]から明白である。エホバが主にその天的なものの中に現れたもうや否や、主は認識に到達されたことが明白である、すなわち認識はことごとく天的なものから発しているのである。認識とは何であるかは前に述べまた示しもした(104,202,371,483,495,503,521,536,865番)。たれでも天的なものに来るとき主から認識を受けるのである。最古代教会の人々のような天的な人になった者たちは、前に言ったように(125,597,607,784,895番)、凡て認識を受けているのである。霊的な人になった者たちも、すなわち、主から仁慈を受ける者も、認識に類似したものを得ており、またはその者が仁慈の天的なものの中にいるに比例して、明るさには多少の相違のある、良心の指示を得ているのである。仁慈の天的なものはこうしたものを伴っているのである、なぜならそのものの中にのみ主は現存されており、そのものの中に主は人間に現れたもうからである。このことは幼少の頃からエホバに向って進まれ、エホバと連結し、結合され、かくて二人は一人のものとなられた主にあってはいかに真実であったに違いないことであろう。

 

 

 

 

3.真理に対する情愛

 

 

天界の秘義3264

 

「サラの下婢、エジプト人のハガルがアブラハムに生んだところの」。これは記憶知の情愛[記憶知に対する情愛]へ注がれる神的な流入から霊的な人が生まれることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『生むこと』の意義は存在するようになることであり(2621、2629番)、『エジプト人ハガル』の表象は外的な人の生命であり(1896、1909番)、『下婢[下女、女中]』の意義は外的な人のものであるところの記憶知と知識とに対する情愛である(1895、2691番)。『サラの下婢』と言われているのは、サラにより主の神的な真理が表象され、それに記憶知に対する、また真理の知識に対する情愛が服従しているためである。イシマエルにより霊的な人が表象されているため、『サラの下婢、エジプト人ハガルがアブラハムに生んだところの』というこの言葉により、記憶知に対する情愛へ注がれる神的流入から霊的な人が生まれたことが意味されていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義3264[2]

 

 人間の合理的なものはこのようにして生まれることについては189、1896、1902、1910、2094、2557、3030、3074番を参照されたい、従って霊的なものはこのようにして生まれるのである、なぜならこのことは合理的なものの中にのみ可能であるからであり、それ故霊的な人と合理的な人とはほとんど同一であって、霊的な者たちは単に理性の性質とその理性から由来して彼らの間に行きわたっている生命の性質とに従って彼ら自身の間で相違しているのみである。彼らが生まれることまたは再生することは幾多の知識の序愛へ注がれる神的な流入から発していることもまた前に見ることができよう(1555、1904、2046、2063、2189、2675、2691、2697、2979番)。イシマエルについて前に述べられもしまた示されもしたことを参照されたい、即ち、彼により未だ神的なものでなかったところの主の最初の合理的なものが表象され(1893番)、後に真に合理的なものが、または霊的なものが表象され(2078,2691番)、そのことにより主の霊的な教会が表象されたのである(2699番)。

 

 

天界の秘義5639[2]

 

霊的なものは自然的なものに対してはいかようなものであるかをさらに簡単に言っておかなくてはならない。なぜなら基督教世界にいる者たちの大半は霊的なものの何であるかを全く知ってはいないからであり、その言葉を聞くとためらって、たれもその何であるかを知らないと独り言を言うのである。霊的なものは、人間にあっては、その本質は、自己のためではなくて、善と真理とのために善と真理とを求める情愛そのものであり、また自己のためではなくて、公正で公平なもののために公正で公平なものを求める情愛である。人間がこれらの情愛から自分自身の中に歓喜と楽しさとを感じるなら、ましてや幸福と祝福とを感じるなら、それは彼における霊的なものであり、それは自然界から来ないで、霊界から、または天界から来ており、即ち、天界を経て、主から来ているのである。それでこれが霊的なものであって、それが人間を支配すると、それはその人間の考え、欲し、行う一切のものを動かして、いわばその一切のものを色づけしており、その思考とその意志の行動に霊的なものを帯びさせ、ついにはこれらのものもまた、彼が自然界から霊界へ入るときのように、彼の中に霊的なものとなるのである。約言すると、仁慈と信仰に対する、即ち、善と真理に対する情愛が、歓びと楽しさと共になって、特にそこから生まれてくる満足と祝福と共になって―そうしたものが人間の中に内的に感じられて、彼を真の基督教徒とするのであるが―霊的なものとなるのである。

 

 

 

天界の秘義5639[3]

 

 基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいないのは、彼らが信仰を教会の本質的なものとして、仁慈をその本質的なものとしていないためである。従って信仰に関心を持っている少数の者は仁慈についてはたとえ考えるにしても殆ど考えはしないため、またはその何であるかも殆ど知らないため、それで知識がないため、仁慈のものである情愛も認識されることは出来ないのであり、仁慈の情愛の中にいない者は霊的なものの何であるかを到底知ることは出来ないのである。特にこのことは、殆どたれ一人何ら仁慈を持っていない現今に言われるのである、なぜなら今は教会の最後の時であるからである。しかし全般的な意味では『霊的なもの』は善のみでなく真理に対する情愛を意味しており、それゆえ天界は霊界と呼ばれ、聖言の内意は霊的意義と呼ばれているが、しかし特定的には善に対する情愛のものであるものは天的なものと呼ばれ、真理に対する情愛のものであるものは霊的なものと呼ばれていることを知らなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義5965[2]

 

天界の光の中にあるものは霊的なものと呼ばれている。なぜならこの光の中にあるものはその中に善の情愛[善に対する情愛]と真理の認識[真理を認識すること]を持っているからである。この光は主から発しているため、この善の情愛と真理の認識はこの光の中にあり、それで霊的な善と真理の中にいる者たちは教会の内なるものの中にいるのである。なぜなら彼らはその頭の方面では天界の中にいるからである。しかし世の光の中に在るものは自然的なものと呼ばれ、この光の中に在るものは「それ自身の中には」善の情愛と真理の認識を持ってはいないで「それ自身の外に」それを持っているのである。

 

 

 

 

4.死後の生命について、天界と地獄について、約言すれば、霊的な事柄について

 

 

新しいエルサレムの教義9

 

こうしたものがその性質となると、彼は天界の物を何ら顧みない、なぜなら地的な愛の享楽とその愛から発して快いものとなる悪に彼はそのとき全的に占有されるからである。またそのとき彼が死後の生命について、天界と地獄について、約言すれば、霊的な事柄について耳にする事柄は、いわば彼の外に在って、それが当然存在していなくてはならない彼の内には存在しなくなるのである。

 

 

 

天界の秘義4286[5]

 

しかしこれまで言ったこうした事柄は特に以下の理由から必然的に漠然とした事柄のように思われるに違いない、即ち、霊的な人とは何であるかは僅かな者にしか知られていないのであり、天的な人とは何であるかは殆どたれにも知られていないのであり、従って霊的な人と天的な人との間に何らかの区別があることは知られてはいないのである。このことが知られていない理由は愛と仁慈の善はまた信仰のものである真理は明確に認識されてはいないということであり、そしてこれらのものは純粋な仁慈がもはや何ら存在していないため認識されてはおらず、何ものも存在していないところには何ものも認識されはしないのである。他の理由は人間は死後の生命に属している事柄については、かくて天界の事柄については殆ど関心を持ってはいないで、身体の生命に属している事柄については、かくて世に属している事柄については非常な関心を持っているということである。もし人間が死後の生命に属している事柄について、かくて天界の事柄について関心を持つなら、彼は右に言われたことをすべて容易に把握するであろう、何故なら人間はその愛しているものは容易に吸収し、把握もするが、愛していないものを吸収し、把握するのは容易ではないからである。

 

 

 

 

5.霊的に考えることは理知的に、または合理的に考えること

 

 

天界と地獄464

 

しかし他生で霊が霊界にいるときは、霊は自然的には考えないで、霊的に考えるのであって、霊的に考えることは理知的に、または合理的に考えることである。

 

 

 

 

6.霊的な者

 

 

天界の秘義2691

 

ハガルの声が聞かれたと言われているのは、霊的な人の状態が取り扱われているためである。その子供またはイシマエルにより霊的な教会の人間が表象され、かれの母ハガルにより真理の幾多の知識を求める情愛が表象されており、それが悲哀を抱いたものなのである。人間の合理的なものは記憶知の情愛[記憶知を愛する情愛]を母としてそこから生まれるが(1895、1896、1902、1910、2094、2524番)、しかし人間の霊的なものは、教義から、特に聖言から発している真理の幾多の知識を求める[愛する]情愛から生まれている。霊的なものそれ自身がここではその『子供』であり、真理の幾多の知識の情愛が『ハガル』である。

 

 

 

天界の秘義2706

 

『子供』が真理の方面の霊的なものを意味していることは前に言ったところであるが、しかしここでは彼は霊的な教会の人間を表象しているために霊的なものである者たちを意味しており、また霊的な教会そのものを意味しており、普遍的な意義では主の霊的王国を意味している。なぜならここに『その子供』が真理の方面の霊的なものを意味していると言われているように、たれかが霊的なものであるものを意味していると言われるときは、そこには霊的なものである者たちが意味されていることが含まれているからである。なぜなら主体のない霊的なものは存在しないからである。抽象的な意義で言われている他のすべての事柄の場合も同一である。

 

 

 

天界の秘義2715

 

霊的な人間の意志の部分は悪以外の何物でもなく、悪がそこから不断に知的な部分、すなわち思考の中へ流れ入ってくる。霊的な者は天的な者のようには主に対する愛を持っていない。

 

 

 

天界の秘義2861

 

13節からこの節までの前の記事には、霊的な者が主の神的な人間的なものによる救われたことが取り扱われ、実に教会の中で善の中にいる者たちが取り扱われている。これらの者は、聖言を持ち、かくて信仰の諸真理を持っているため、真に霊的なものになることが出来る者たちである。教義の真理が生命の善に連結することにより人間は霊的なものとなるのである。霊的な性質はことごとくここから発している。しかし教会の外にいる諸国民は、聖言を持っておらず、かくて信仰の諸真理を持っていないため、彼らは世に生きている限り、たとえ仁慈の善の中に生きてはいるものの、信仰の諸真理を教えられない中は、依然真に霊的なものではない。そしてこれらの国民の中の大半の者はこの世では教えられることが出来ないため、相互愛と服従の中に生きた者たちは主の摂理と慈悲の下に他生で教えられ、そのときは信仰の諸真理を容易に受け入れて、霊的なものになるのである。(これらの国民の状態と運命とは他生ではこのようなものであることは、前の2589−2604番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義6854〔2〕

 

しかしこの節と以下の諸節の内容の内意には、更に大きな秘義が含まれており、それは教会には未だ知られていないため、明らかにしなくてはならない。『霊的な者』と呼ばれている者たちは、霊的な者とは知的な部分の方面のみが再生することが出来るが、意志の部分の方面では再生出来ないのであり、そのためその知的な部分に新しい意志が主により植え付けられ、その意志が彼らの教会に属した信仰の教義的な物に順応している者であるが、こうした者たちが、即ち、こうした霊的な人間がただ主が世に来られたことによってのみ救われたのである。その理由は、神的なものは―それは主が来られる以前では神的な人間的なものであったが、その神的なものは―天界を通り過ぎて、彼らのもとへ達することが出来なかったということである、なぜなら彼らの教会の教義的なものの大半は真理ではなく、従って意志のものである善は善ではなかったからである(6427番を参照)。これらの者は主が来られることによってのみ救われることが出来、かくてそれ以前では天界へ挙げられることが出来なかったため、それで彼らはその間低地に、そこの、聖言では『坑』と呼ばれている所に留め置かれたのである、その地は誤謬が存在している幾多の地獄に包囲され、その地獄により彼らはその時大いに悩まされはしたものの、尚主により守られていたのである。しかし主が世に来られ、御自身の中の人間的なものを神的なものになされた後では、その時主はそこの『坑』にいた者たちを救い出されて、天界に挙げられ、彼らからまた、第二の天界である霊的な天界を形成されたのである。このことが主が低い領域へ降られて、縛られている者たちを救い出されたことにより意味されているのである。

 

 

 

7.基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいない

 

 

天界の秘義5639[2]

 

霊的なものは自然的なものに対してはいかようなものであるかをさらに簡単に言っておかなくてはならない。なぜなら基督教世界にいる者たちの大半は霊的なものの何であるかを全く知ってはいないからであり、その言葉を聞くとためらって、たれもその何であるかを知らないと独り言を言うのである。霊的なものは、人間にあっては、その本質は、自己のためではなくて、善と真理とのために善と真理とを求める情愛そのものであり、また自己のためではなくて、公正で公平なもののために公正で公平なものを求める情愛である。人間がこれらの情愛から自分自身の中に歓喜と楽しさとを感じるなら、ましてや幸福と祝福とを感じるなら、それは彼における霊的なものであり、それは自然界から来ないで、霊界から、または天界から来ており、即ち、天界を経て、主から来ているのである。それでこれが霊的なものであって、それが人間を支配すると、それはその人間の考え、欲し、行う一切のものを動かして、いわばその一切のものを色づけしており、その思考とその意志の行動に霊的なものを帯びさせ、ついにはこれらのものもまた、彼が自然界から霊界へ入るときのように、彼の中に霊的なものとなるのである。約言すると、仁慈と信仰に対する、即ち、善と真理に対する情愛が、歓びと楽しさと共になって、特にそこから生まれてくる満足と祝福と共になって―そうしたものが人間の中に内的に感じられて、彼を真の基督教徒とするのであるが―霊的なものとなるのである。

 

 

 

天界の秘義5639[3]

 

 基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいないのは、彼らが信仰を教会の本質的なものとして、仁慈をその本質的なものとしていないためである。従って信仰に関心を持っている少数の者は仁慈についてはたとえ考えるにしても殆ど考えはしないため、またはその何であるかも殆ど知らないため、それで知識がないため、仁慈のものである情愛も認識されることは出来ないのであり、仁慈の情愛の中にいない者は霊的なものの何であるかを到底知ることは出来ないのである。特にこのことは、殆どたれ一人何ら仁慈を持っていない現今に言われるのである、なぜなら今は教会の最後の時であるからである。しかし全般的な意味では『霊的なもの』は善のみでなく真理に対する情愛を意味しており、それゆえ天界は霊界と呼ばれ、聖言の内意は霊的意義と呼ばれているが、しかし特定的には善に対する情愛のものであるものは天的なものと呼ばれ、真理に対する情愛のものであるものは霊的なものと呼ばれていることを知らなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義5965[2]

 

天界の光の中にあるものは霊的なものと呼ばれている。なぜならこの光の中にあるものはその中に善の情愛[善に対する情愛]と真理の認識[真理を認識すること]を持っているからである。この光は主から発しているため、この善の情愛と真理の認識はこの光の中にあり、それで霊的な善と真理の中にいる者たちは教会の内なるものの中にいるのである。なぜなら彼らはその頭の方面では天界の中にいるからである。しかし世の光の中に在るものは自然的なものと呼ばれ、この光の中に在るものは「それ自身の中には」善の情愛と真理の認識を持ってはいないで「それ自身の外に」それを持っているのである。

 

 

 

 

8.その言葉を聞くのみで悲哀とともに憂鬱感に襲われ、嫌悪の念が掻き立てられる

 

 

天界の秘義5006[2]

 

 しかし霊的なものでない自然的な真理が霊的な自然的な真理に連結しようと欲したと言うことは何を意味し、また何を含んでいるかは現今では秘義である、それは主として霊的な真理とは何であるか、霊的でない真理とは何であるかを知ろうと切望し、または願う者は殆どいないためであり、彼らは霊的なという言葉を殆ど進んで聞こうとは欲しない程にもそのことについては知ろうとはしないのである、なぜなら彼らはその言葉を聞くのみで悲哀とともに憂鬱感に襲われ、嫌悪の念が掻き立てられ、かくしてそれは斥けられてしまうからである。こうしたことは実際起こることもまた私は示されたのである。私は心でこうした事柄を考えていると、基督教国から幾人かの霊たちがその場に現れたが、彼らはその時彼らがかつて世でその中にいた状態の中へ入れられたのである。彼らは霊的な善と真理とを単に考えるのみで悲哀を感じたのみでなく、反感から非常な嫌悪を覚えて、自分たちは世でへどを吐かせるようなものを自分たちの中に感じると言ったのである。しかし私は以下のように彼らに話すことを与えられたのである、それはあなた方の情愛が単に地的な、身体的な、世的な物に固定されてしまった結果である、なぜなら人間はそうしたものに溺れてしまうと、天界のものを嫌悪するからである、あなた方は聖言が読まれている礼拝所に再三行かれたが、それは天界のものである事柄を知ろうとする願いからではなく、幼い子供時代から身につけた何か他の願いからであったのである、と。このことから現今の基督教国の性質のいかようなものであるかが明らかとなったのである。

 

 

 

天界の秘義5006[]

 

その原因は―全般的に言って―現今の基督教会は信仰のみを宣べ伝えて、仁慈を宣べておらず、かくて教義を宣べ伝えはするが、生命を宣べておらず、そして生命が宣べ伝えられないときは、人間は善の情愛を全く抱かなくなり、善の情愛を全く抱かなくなると、真理の情愛もまた全く抱かなくなるということである。天界の事柄について幼い頃から知っていた事柄よりも何かさらに多くの事柄を聞くことが大半の人物の生命の歓喜に反しているのはこうした理由によっているのである。

 

 

 

天界の秘義5006[]

 

それでも事実は、人間はこの世におけるその活動によって天界のものである事柄の中へ導き入れられるためにこの世にいるのであり、この世における彼の生命は死後の彼の生命に比較するならば一瞬にも当らないということである、なぜなら死後の彼の生命は永遠であるからである。しかし死後生きることを信じる者は僅かしかおらず、そうした理由からもまた、天界の事柄は彼らには全く取るに足らないものとされている。しかし私は以下のことを確実に宣言することが出来るのである、すなわち、人間は死後直ぐに他生に入り、この世における彼の生命はそこにも全くそのまま継続し、それはこの世で持っていたと同じ性質を持っているのである。そのことを私は知っているため、それを主張することが出来るのである、なぜなら私は身体の生命の中で私の良く知っていた殆ど凡ての者とその死後も語って、生きた経験からいかような運命が各人を待っているかを、すなわち、その生命に応じた運命が彼を待っていることを知ることが出来たからであるが、しかしこのような性質の者たちはその事柄さえ信じないのである。

 

 

 

 

9.敗北する者

 

 

天界の秘義2689[3]

 

 主により善と真理との情愛の中に留め置かれ、かくて改良されて霊的なものになる者たちはたれであるか、また霊的なものになることが出来ない者らはたれであるかを明らかにするため、私たちは簡単に以下のことを述べよう、すなわち、たれでも子供時代に、善と真理とに初めて浸透しつつある間は、彼は両親や教師から話され、教えられるものは真であるという肯定的な観念[考え]の中に主により留め置かれているのである。霊的な人間になることが出来る者たちにあっては、この肯定的なものは幾多の知識(scientifica et cognitiones)により確認されるのである。なぜなら彼らが後になって学んで、その肯定的なものに一致しているものは何であれこの肯定的なものに徐々に入り込んできて、それを確実なものにし、しかもそのことが益々行われて、ついには情愛にさえも至るのである。これらの者がその信じている真理の本質に順応して霊的な人間になり、試練において征服する者たちである。しかし霊的な人間になることの出来ない者の場合はそうではない。これらの者はその子供時代の間では肯定的なものの中にいるけれど、その後それに続いてくる時代には疑惑を容認し、かくて善と真理の肯定的なものを侵害し、成人期になると、否定的なものを容認して、誤謬の情愛[誤謬を求める情愛]にすら至るのである。もしこれらの者が試練に入れられるならば、彼らは全く敗北してしまうのであり、そうした理由から彼らは試練を免じられているのである。

 

 

 

10.霊的な真理

 

 

天界の秘義5008[7]

 

 このことから究極的な霊的な真理は自然的な人から見られたさい、いかような性質のものであるかが明らかである、すなわち、それは上着のようなものであり、この上着が取り去られると、自然的な人と霊的な人とはいささかも一致していないし、従って霊的な人は自分自身を自然的な人から防禦する手段となるものを何一つもはや持ちはしないのである。このことがヨセフがその上着を棄て去ったとき逃れて、外に出ていったことにより意味されているのである。なぜなら単に自然的な人は内的な事柄を承認しないのであり、それで外的なものが取り去られ、また取り上げられると、その両方の者は直ぐにも分離してしまうからである。さらに、自然的な人は、霊的な人が究極的な真理を確認するに当ってその手段とする物を凡て誤謬と呼ぶのである、なぜなら霊的な光のものである事柄を自然的な光から見ることは不可能であるため、かれは自分が確認するものは実際そうしたものであるか、否かを認めることはできないからである。このことは[自然的な光から霊的な光のものであるものを見ることは]秩序に反しているのである、しかし自然的な光の中に在る物が霊的な光から見られなくてはならないことは秩序に順応しているのである。

 

 

 

 

11.人間は再生によって霊的となる

 

 

真の基督教603

 

 人間の心は三つの領域に分割されている。最低の領域は自然的なものであり、中間の領域は霊的なものであり、最高の領域は天的なものである。人間は再生によって最低の、即ち、自然的な領域から、更に高い即ち霊的の領域に挙げられ、それにより天的な領域へ挙げられる(心の三領域については次項を見られよ)。再生しない人間は自然的と呼ばれ、再生した者は霊的と呼ばれるのはこの理由による。それ故、再生した人間の心は霊的な領域に挙げられ、そこから、低い即ち自然的な心のうちに起るものを、高い位置から観察するように観察することは明白である。

 

 

 

真の基督教607

 

人間は再生によって霊的となるが、これは彼が天使のようになることを意味しない。彼は霊的自然的となる、それ故ちょうど言葉の中に思考があり、或は行動の中に意志が在るように、彼の自然的なものの中に霊的なものがあるのである。

 

 

 

神学論文集P72

 

質問「なぜ私は哲学者であることから選ばれたのですか。」

 

答え。このことの原因は以下のことであったのです。すなわち、現今啓示されつつある霊的な事柄は自然的に、また合理的に教えられ、理解されることが出来るのであります、なぜなら霊的な真理は自然的な真理と相応しているものを持っているからですが、そのことは霊的な真理は自然的な真理の中に終結しており、自然的な真理の上に基礎づけられている為であります。人間の凡ゆる物に、同じく地の凡ゆるものに、凡ゆる霊的なものが相応していることは「天界と地獄」(87−102及び103−115番)に見ることができましょう。そうした理由のため、私は主により先ず幾多の自然科学へ導き入れられ、かくて準備されたのであり、実に、1710年から1744年に至るまで準備されたのであり、1744年に至って天界が私に開かれたのです。人間はことごとくまた自然的なものにより霊的なものへ導かれます。なぜなら人間は自然的なものとして生まれ、教育により道徳的なものとされ、後に、主から再生することにより霊的なものとなるからです。

 

 

 

天界の秘義3995[2]

 

 このことが今極めて多くの者が仁慈の諸善は信仰の果実であると言っている理由である、なぜなら再生の初めにはそのように見えるのであり、彼らはその外観からこの結論を引き出すからである。また彼らは他のことは知りもしないのである、なぜなら再生しつつある者は僅かしかおらず、また再生したところの、すなわち、善の情愛の中におり、または仁慈の中にいるところの人間以外にはたれ一人そのことを知ることは出来ないからである。善の情愛から、または仁慈からそのことは明らかに見られ、また認められることが出来るが、しかし再生していない者は善の情愛、または仁慈とは何であるかを知りさえもしないで、それについては、彼らには無縁なもの、または彼らの外側に在るものについて論じるように論じており、そうした理由から彼らは、信仰は仁慈から発しているにも拘らず仁慈を信仰の果実と呼んでいるのである。

 

 

 

 

12.そうした事柄を知り、話すことは霊的なことではなくて、そうした事柄について生きることが霊的なこと

 

 

霊界日記5933

 

そうした事柄を知り、そうした事柄について話すことは霊的なことではなくて、そうした事柄について生きることが霊的なことである。

 

 

 

 

13.霊的な者の心労

 

 

天界の秘義7217

 

「心の苦しさのあまり*」

 

*または『息切れがして』

 

これは、絶望に近い状態の理由により、を意味していることは、『心の苦しさ』の意義から明らかであり、それは絶望に近い状態である、なぜならこうした状態にいる者たちは心が苦しむからである。この状態はパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷、即ち、彼らは煉瓦を作る藁を彼ら自身で探さなければならないという重荷により意味されていることは、前章の終わりに示されたところである。心の苦しさは絶望に近い状態を意味していることは、絶望に近い状態にいる者たちは内なる心労をなめ、その時は事実息切れがするという事実から

認めることが出来る。外なる意味ではこの状態〔息切れの状態〕は胸が押さえつけられて、そのため謂わば呼吸困難に陥ることであるが、内意ではそれは信仰に属した真理と仁慈に属した善とを剥奪されるために生じる心労であって、そこから絶望に近い状態が起きるのである。(呼吸が圧迫される状態と信仰の真理と仁慈の善とを剥奪されて起きる心労とは、心における霊的な原因から生じる身体内の自然的な結果として、相互に相応していることは、前に示したことから認めることが出来よう、97、1119、3886、3887、3889、3892、3893番)。霊的な真理と善とを剥奪されると、こうした心労が生まれ、従ってこうした苦しさが生まれることは、信仰と仁慈とにいない者によっては信じられる事は出来ない、なぜならそうした者は、こうした理由で苦しむことは心が軟弱で病んでいるからであると考えるからである。その理由は、彼らは実質的なものを何一つ信仰と仁慈に置かず、それでその霊魂と天界とに属するものにも置かず、単に富と卓越することにのみ置き、かくて身体と世の事柄にのみ置いているということである。彼らはまた(以下のように)考えるのである、『信仰と仁慈とは単なる言葉でなくて何であろう。良心でさえもが何であるか。こうしたものにより苦しい思いをなめることは、人間が愚かにもその空想から作り出したものから自分の中に見るものにより、即ち、何ら存在もしていないのに、何か存在していると想像しているものにより苦しめられることと同じである。富と高い地位は私らは目で見ることが出来、またそれらはそこから提供される快楽から存在していることを私らは知っている、なぜならそれらは私らの全身をのびのびとさせ、また充分な喜びをそこにかき立てもするからである』。このように単に自然的な人間は考え、またこのように実際彼ら自身の間では話しているのである。しかし霊的な人間はそのようには考えはしないのである、なぜならこうした者たちはその霊の中に、かくてその霊に属したものの中に、即ち、信仰と仁慈の中にその主要な生命を得ており、それで自分自身が信仰と仁慈との諸真理と諸善とを剥奪されると信じると、死の苦悶をなめている者のようにも、悶えるのである、なぜなら彼らは己が前に霊的な死を、即ち、堕地獄を見るからである。前に言ったように、単に自然的な者にはこうした人物は心では弱く、病的なものであるように見えはするが、しかし彼らは強く、また健康なのであり、之に反し単に自然的な者らは自分自身には強く健康なものであるように思われ、また〔事実〕身体の方面では強く、健康ではあるものの、霊の方面では、〔即ち〕霊的には死んでいるため、全く弱いのである。もし彼らが自分はいかような種類の霊を持っているかを見ることが出来るなら、それがそうであることを承認するであろう、が、彼らは死んでしまうまではその霊を見はしないのである。