天的なもの

 

霊的

 

 

1.しかしこの意義は理解の思考よりはむしろ意志の情愛へ入るため、明らかにするのは容易ではない

 

 

 

 

1.しかしこの意義は理解の思考よりはむしろ意志の情愛へ入るため、明らかにするのは容易ではない

 

 

聖書19

 

聖言には天的な意義と呼ばれているさらに内的な意義があって、そのことについては前に少しく述べておいたが(6番)、しかしこの意義は理解の思考よりはむしろ意志の情愛へ入るため、明らかにするのは容易ではない。

 

 

 

天界の秘義2275

 

天的なものは内意の中にある真実のものに属した情愛が専ら認められることに在るのである。前のものの中には霊的な天使たちがおり、後のものの中には天的な天使たちがいるのである。後のものの中に、即ち、情愛の中にいる者たちは、その文字が人間により読まれているとき、その文字の意味していることを情愛のみからすぐさま認め、そこから彼は自ら天的な幾多の観念[考え]を形作るが、しかもそれは情愛の中に存在している愛の天的なものが流れ入ってくるハーモニー[調和]に順応して、無限の変化を持っており、またそれは表現を絶した方法で行われているのである。このことから私たちは主の聖言の深い奥所にはいかようなものが含まれているかを認めることが出来よう。

 

 

 

聖書68

 

 聖言の自然的な、または文字的な意義によって人間が天使たちと共になる他の理由は、以下のものである、即ち、人間各々の中には創造から生命の三つの度である、天的な度、霊的な度、自然的な度が存在しているが、しかし人間はこの世にいる限り、自然的なものの中にいるのであって、純粋な真理の中に止まるに応じて、(自然的なものの中にいると)同時に霊的なものの中にもおり、その真理に従った生活に止まるに応じて天的なものの中にいるが、しかしそれでも死後まではその霊的なもの、または天的なものそのものへは入らないのである。しかしこのことについては他の所で更に述べよう。

 

 

 

天界の秘義1451

 

また『ベテル』の意義は天的なものの知識である。天的なものは人間の中へ知識なしにまた知識とともに徐々に入れられるのであって、知識のない天的なものは、すぐ前に言ったように、幼少の頃から子供時代にかけて徐々に入れられるが、知識をもった天的なものは子供時代から成人期にかけて入れられるのである。そして主は『ベテル』により意味されている天的なものにかかわる幾多の知識へ進まれねばならなかったため、ここにアブラムはそこからベテルの東にある山へ進んで行かれたと言われているのである。

 

 

 

天界の秘義1453

 

「海の方にはベテルがあり、東にはアイがあった」ことは主の状態は依然明確なものではなかったことを、すなわち、天的な霊的なものにかかわる知識については依然明確ではなかったことを意味している、なぜなら天的なものの中にいることと天的なものにかかわるいくたの知識の中にいることとは異なっているからである。幼児と子供とは、彼らはその良心に対する愛の中に、相互愛の中に、また無垢の中にいるため、大人以上に天的なものの中にいるが、しかし大人はその中の非常に多くの者は愛の天的なものの中にいないがらも、幼児と子供以上に天的なものにかかわる知識の中にいるのである。人間は愛と信仰との幾多のものを教えられない中は、彼は明確でない状態の中に、即ち、知識の方面では明確でない状態の中にいるのであって、その状態がここに海の方面に、即ち、西にベテルがあり、東にアイがあることにより記されているのである。すでに言ったように、『ベテル』により天的なものにかかわる知識が意味されているが、『アイ』により世的なものにかかわる知識が意味されているのである。天的なものにかかわる知識は、それが明確なものでないときは、『西』にあると言われている、なぜなら聖言では『西』は明確でないものを意味しているからであり、世的なものにかかわる知識はそれが明白であるときには『東に』あると言われている、なぜなら東は西に比較すると、澄明であるからである。西と東にこうした意義のあることを確認する必要はない、なぜならそれはたれにでも確認しなくとも明白であるからである。

 

 

 

天界の秘義1561

 

 「そしてそこにアブラムはエホバの御名を呼んだ」。これはその状態における内なる礼拝を意味していることは前の440、1455番に説明された『エホバの御名を呼ぶこと』の意義から明白である。状態が類似していたためにここにもまた『祭壇』と言われ、前章の8節の場合のように、彼は『エホバの御名を呼んだ』と言われているが、しかし以下の相違があるのである、即ち、それはここに記されている状態は、前の状態に比較するならば、前に記された状態の中に知識が植えつけられると、その知識はそれを澄明なものにするのであって、真理と善とが知識により前の天的な状態に連結されると、その活動は今私たちが取扱っている言葉をもって記されるように記されるのである、なぜなら礼拝そのものは内にある天的なものから発している一種の活動以外の何ものでもないからである。天的なものそれ自身は活動なしには到底存在することは出来ないのである。礼拝はその天的なものの最初の活動である、なぜなら天的なものは礼拝の中に喜びを認めるため、それはその方法をもってそれ自身を表現するからである。愛と仁慈との善はことごとく本質的な活動それ自身である。

 

 

 

天界の秘義1824

 

 霊的な天的なもののみでなく、外的な天的なものと内的な天的なものとが存在している。外的な天的なものは外なる人にぞくしたものであり、内的な天的なものは内なる人に属したものであり、霊的な天的なものはそれらのものから派生したものである。天的なものそれ自身は主に対する愛と隣人に対する愛である。この天的なものは主から流れ入っており、事実内なる人を通って外なる人の中へ流れ入っている。内的な人の中ではこれは内的な天的なものと呼ばれ、外なる人の中では外的な天的なものと呼ばれている。外的な天的なものは善の情愛[善を求める情愛]のすべてであり、否、それはまた善の情愛から発している楽しさの中に、愛の善と仁慈の善とが存在しているに正比例して、天的なものがそれらのものの中にあり、幸福もまたそれらのものの中に存在している。しかし霊的な天的なものは善の情愛を宿している真理の情愛[真理を求める情愛]であり、または善の情愛から生まれている真理の情愛である、かくそれは仁慈を宿している信仰であり、または仁慈から生まれている信仰である。

 

 

 

天界の秘義2275

 

天的なものは内意の中にある真実のものに属した情愛が専ら認められることに在るのである。前のものの中には霊的な天使たちがおり、後のものの中には天的な天使たちがいるのである。後のものの中に、即ち、情愛の中にいる者たちは、その文字が人間により読まれているとき、その文字の意味していることを情愛のみからすぐさま認め、そこから彼は自ら天的な幾多の観念[考え]を形作るが、しかもそれは情愛の中に存在している愛の天的なものが流れ入ってくるハーモニー[調和]に順応して、無限の変化を持っており、またそれは表現を絶した方法で行われているのである。このことから私たちは主の聖言の深い奥所にはいかようなものが含まれているかを認めることが出来よう。