天使の身体

 

 

 

 

天界の秘義6135[3]

 

 純粋な意義では『身体』は愛の善であることは、天使たちから非常に明白である、なぜならかれらはその姿を現わすと、愛以外の何ものでもないと信じられるほどにも、愛がかれらから注ぎ出され、しかもそれがかれらの全身から注ぎ出されるのであり、その身体もまたその愛から発する光のために光り輝いて見えるのである。なぜなら愛の善はそれ自身から光を放出する焔であり、光はそこから派生している信仰の真理であるからである。これが天界の天使たちの性格であるからには、主御自身は―この主から天使たちは愛の一切を得ており、その神的愛は太陽として現れて、そこから天界全体はその熱を得ており、その中にいる凡ての者はその天界の熱、すなわち、その愛を得、かくてその生命を得ているのであるが、その主御自身は―いかようなものであってはならないのであろうか。そのように現れているものは主の神的人間性であり、そこからこれらの凡ての物が存在しているのである。このことから主の『身体』により意味されていることが、すなわち、神的愛が意味されており、それは主の『肉』によっても同様に意味されていることが明白である(3813番を参照)。さらに主の身体そのものは、栄化されたもうたときは、すなわち、神的なものとされたもうたときは、それ以外のものではないのである。それ以外の何を私たちは無限なる神的なものについて考えねばならないであろうか。

 

 

 

天界と地獄481

 

形体的な愛である者らは粗野で、すすけて、黒く、不具になって現れるが、天界的な愛である者たちは、瑞々しく、明るく、端正で、美しく現れる。彼らはまたその思考、感情の点で全く異なっており、天界的な愛である者たちはまた理知的で、賢明であるが、形体的な愛である者らは愚鈍で、いわば頓馬である。

 

 

 

 

天界と地獄74

 

再三また私は彼らに以下のように告げたのである。即ち、基督教世界の人々は天使と霊たちとについては全く無知で盲目であるため、彼ら[天使と霊]は生命を若干宿したエーテルのようなものであるとしか考えられないところの、形のない心、純粋な思考であると信じており、彼らはこのように天使と霊には、人間のものは、考える力以外には何一つ与えていないため、天使と霊は目がないから、見はしない、耳がないから、聞きはしない、口も舌もないから、話はしないと信じている、と。これに対し天使たちは世の多くの者のもとにはっこうした信念があり、それは学者たちの間にひろまり、また、驚いたことには、祭司たちの間にもひろまっていると言った。彼らはまたその理由も話した、すなわち、指導者であるものの、天使と霊たちについてこうした考えを最初に持ち出した学者らは天使と霊を外なる人間の感覚的な考えから考えたのである。そしてこうした考えから考えはするが、内的な光から、また各人に植え付けられている普通の考えから考えない者らは、こうした考えを考案せざるを得ないのである、それは外なる人の感覚的な考えは自然の内に在るもの以外のものは何一つ、すなわち、上に在るものは何一つ、引いては霊界のものは何一つ考えないという理由によっている。これらの指導者に導かれて、そこからこうした天使についての誤った考えが、自分自身から考えないで、自分を指導してくれる者から考えるところの他の者たちへひろがったのであり、先ず他の者から導かれて考えて、その考えを自分の信念とし、後には自分自身の理解をもってその信念を観察する者は容易にそこから後退することはできず、それで大半の者はそれに黙従してその信念を確認している。彼らは更に、信仰と心の単純な者は、天界からその者の中に植え付けられているものを博識によって消滅させてはおらず、また形のない物を何ら考えていないため、天使たちをそのようなものとは考えてはいないと言った。こうした理由から教会では天使たちは、それが彫刻であれ、絵画であれ、人間以外のものとしては表されてはいないのである。天界から植え付けられているものについては、彼らは、それは信仰と生命との善にいる者たちのもとへ流れ入っている神的なものであると言った。