天使の知恵

 

 

 

 

4.霊らが天使たちがいる天界へ昇る時、彼らはたれ一人をも見はしない

 

主の聖言―経験から―(静思社『仁慈の教義』に併録)

P106

 

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彼らは以下のことをつけ加えた、即ち、たれ一人自然神学からは霊的な神学へ入ることは出来ないのであり、凡ゆる者は霊的な神学から自然神学へ入ることが出来るのである、それは後の入り方は神の秩序に叶ってはいるが、前のものは神の秩序に反しているためである、なぜなら自然的なものは粗悪で、不純であるに反し、霊的なものは精妙で、純粋であるからである。粗悪で不純なものから精妙で純粋なものへ入ることは与えられてはいないのである。しかし、逆に天使たちはその者たちの下を見下ろして、そこに在る物を凡て認めることが出来るに反し、たれ一人下からは諸天界に在る物を見ることは出来ないのである。実に、天使はその天使自身からは粗雑な霊は認めることは出来るが、しかしその霊はその霊自身からは純粋なその天使を認めることは出来ないのである。それで、しばしば起ることではあるが、このような霊らが天使たちがいる天界へ昇る時、彼らはたれ一人をも見はしないし、また彼らの家さえも見もしないで、そのためその所は人気が無くて砂漠である、と言って、立ち去ってしまうのである。

 

 

 

天界と地獄35

 

この区別のため、一つの天界の天使は他の天界の天使たちの間に来ることは出来ない。即ち、たれも低い天界から昇ることは出来ず、またたれも高い天界から降ることも出来ない。たれでも低い天界から昇る者は不安におそわれて、苦しみさえもし、その近づいて行く者たちを見ることは出来ず、ましてその者たちと話すことは出来ない。またたれでも高い天界から降る者はその知恵を奪われ、言葉がもつれ、絶望してしまう。天界は天使たちの内部にあることを未だ教えられていないで、高い天使たちの天界へ入りさえするならば、高い天界の幸福の中へ入るであろうと信じていたところの最低の天界から来ている若干の者が彼らの間に入ることを許された。しかしそのとき彼らは、いかほど探してみても、非常に多くの者が[彼らのまわりに]いたにも拘らず、その誰一人も見なかったのである。なぜならその外来者たちの内部はそこにいる天使たちの内部と同じ度に開かれておらず、従って彼らの視覚も開かれていなかったからである。まもなく彼らは自分たちは生きているのか、いないのか、殆ど分からないほどの心の苦悶に襲われた。それでも彼らは大急ぎでその後にしてきた天界へ、自分たちに似た者たちの間へ再び来たことを喜び、自分たちの生命に和合した物以上の物を自分たちは今後決して求めはしないと約束したのである。私はまた若干の者が高い天界から降ろされて、その知恵を奪われ、遂には自分自身の天界のいかようなものであるかが分らなくなってしまったのを見たのである。しばしば行なわれることではあるが、主が低い天界から天使たちを引き上げられて、高い天界へ入れられ、これにそこの栄光を見させられるときは、こうしたことは起こらない。なぜならそのときは彼らは先ず準備をして、中間の天使たちにつきそわれ、その天使たちを通して、その仲間となる者たちと連なるからである。これらの事からその三つの天界は相互に極めて明確に区別されていることが明らかである。

 

 

 

天界と地獄209

 

低い諸天界から高い諸天界へ流入することは出来ないが―なぜならこれは秩序に反しているから―高い諸天界から低い諸天界へ流入することは出来るのである。高い天界の天使たちの知恵はまた低い天界の天使たちの知恵に、万が一にまさるようにもまさっている。これがまた低い天界の天使たちは高い天界の天使たちと話すことが出来ない理由であり、彼らは彼らの方を眺めても、彼らを見ず、その天界は頭上に雲のように現れている。しかし高い天界の天使たちは低い天界の天使たちを見ることは出来るが、彼らと話をかわすことは許されておらず、前に述べたように、話をかわせば、必ずその知恵を失うのである。

 

 

 

天界と地獄210

 

 最も内なる天界の天使たちの思考と情愛は、またその言葉は、真中の天界では決して認めるられない、なぜならそれらはそこに在るものをはるかに超越しているからである。しかし主が良しとされるときは、彼らのもとから低い諸天界に焔のような物が現れ、真中の天界に在る思考は最低の天界では光のようなものとして、時には色々な色彩をもった輝いた雲として現れる。その雲、その雲の上昇、下降、形から、彼らの話していることが多少また知られている。

 

 

 

 

 

天界と地獄267

 

 天使たちはかくも大いなる知恵を受けることが出来るのは、彼らの内部は開かれており、知恵は凡ゆる完成のように、内的なものになるにつれて増大し、かくて内部が開かれるに従って増大するからである(*2)。各天使には三つの度の生命が在って、その度は三つの天界に相応している(29−40参照)、その最初の度の開かれている者たちは最初の、または最低の天界におり、第二の度の開かれている者たちは、第二の、または中間の天界にいるが、しかし第三の度の開かれている者たちは、第三の、または最も内なる天界におり、諸天界の天使たちの知恵はこれらの度に従っている。ここから最も内なる天界の天使たちの知恵は中間の天界の天使たちの知恵に無限にまさり、中間の天界の天使たちの知恵は最低の天界の天使たちの知恵に無限にまさっている(前の209、210参照、度とは何であるかについては、38参照)、こうした区別があるのは、高い度の物は個別的なものであり、低い度の物は全般的なものであって、全般的なものは個別的なものに比較すると、一に対する千または万のようなものであって、高い天界の天使たちの知恵も低い天界の天使たちの知恵に対してはそうしたものとなっている。しかも低い天界の天使たちの知恵を同様に人間の知恵にまさっている、なぜなら人間は形体的なものと形体的な感覚の事物との中に在り、人間の形体的な感覚の事物は最低度のものであるからである。このことから感覚の事物から考える者はいかような種類の知恵を持っているかが明白である、即ち、彼らは全く知恵にいないで、ただ科学にのみいるのである(*3)。しかし感覚の事物を超えて考える者、特にその内部が天界の光にさえ向っている人間にはそのようなことはない。

 

 

*2。人間は外なる物から内なる物へと高揚されるに応じて、光の中へ入り、引いては理知へ入って行く、6183、6313。実際に高揚される、7816、10330。外なる物から内なる物へ高揚されることは霧の中から光の中へ引き上げられるのに似ている、4598。人間のもとでは外なる物は神的なものから、更に隔たっているため、それは比較的曖昧なものである、6451、また同じく比較的混乱している、996、3855。内なる物は、神的なものに更に近づいているため、更に完全である、5146、5147。内なる物には巨万の物があるが、その巨万の物も外なる物の中ではただ一つの全般的な物として現れている、5707。ここから思考と認識とはそれが内的なものとなるに応じて明らかなものになる、5920。

 

 

*3。感覚的なものは人間の生命の最も外なる部分であって、人間の形体的な身体的な部分に密着し、そこに内在している、5077、5767、9212、9216、9331、9730。凡ゆる物を身体の感覚から判断し、結論づけ、目で見、手で触れるもの以外には何ものも信じない者は感覚的な人間と呼ばれている、5094、7693。こうした人間は外なるものの中に考え、自分自身の中に内的に考えない、5089、5094、6564、7693。その内部は閉じているため、彼はその中に霊的真理は何一つ認めない、6564、6844、6845。約言すれば、彼は粗悪な自然的な光の中におり、かくて天界の光から発しているものを何一つ認めない、6201、6310、6564、6598、6612、6614、6622、6624、6844、6845。内的には彼は天界と教会との事物に対立している、6201、6316、6845、6948、6949。教会の真理に反したことを確認した学者らはこうした性格のものとなる、6316。感覚的な人間は他の者以上に狡猾で、邪悪である、7693、10236。彼らは鋭く、狡猾に論じはするが、形体的な記憶から論じ、その記憶の中に凡ゆる理知をおいている、195、196、5700、10236。しかし彼らは感覚の迷妄[妄想]から論じている、5084、6948、6949、7693。

 

 

 

 

天界と地獄268

 

 天使たちの知恵はいかに偉大なものであるかは以下のことから明白となるであろう。すなわち、天界では凡ゆる物は伝達されており、天界は凡ゆる善の共同体(コミュニオン)であって、一人の者の理知と知恵とは他の者に伝達されているのである。その理由は、天界の愛はその愛自身のものが他の者のものとなることを願うものであって、そのため天界では誰一人自分の中にある自分自身の善が、また他の者の中にないかぎり、それを善としては認めておらず、そこからまた天界の幸福が生まれており、このことを天使たちは主から得ており、主の神的愛はそうした性質をもたれているということである。諸天界にはこうした伝達が行われていることを私は経験からまた知ることを許されたのである、若干の単純な者たちがときどき天界へ引き上げられたことがあるが、彼らはそこにつくと、また天使の知恵に入り、前には理解できなかった物をそのとき理解し、前の状態では語ることの出来なかった物も語ったのである。

 

 

 

天界と地獄269

 

 天使たちの知恵のいかようなものであるかは言葉では説明することはできない、ただ、若干の全般的な事柄によってのみ説明することができよう。天使たちは人間が一千語を費やしても表現できないものを一語で表現することができ、さらに天使の一つの語の中にも人間の言語では表現することのできない無数の物が存在している。なぜなら天使たちの話す事柄の各々には、人間の科学も決して到達できない知恵の無数のアルカナが絶えず関連づけられて存在しているからである。天使たちはまたその言葉の語で十分に表現できないものを語調(トーン)で補っており、その語調の中には秩序をとった事物に対する情愛が存在している、なぜなら前に述べたように(236、241)、語調により彼らは情愛を表現し、語により情愛から発する思考の諸観念を表現するからである、そうした理由から天界で聞かれる物は表現を絶したものであると言われている。天使たちは同様に一巻の書物の中に記されている凡ゆる事柄をも二、三語で表現することも出来、各語に[心を]内的知恵に高揚させることの出来る物を注ぎ入れることが出来る、なぜなら彼らの言葉は情愛と一致したものであり、各語は観念と一致したものであるから。語もまた、思考の中に含まれている連続した事柄に応じて、無限の方法で変化している。内的な天使たちはまた話している者の生命全体を、[その話す者の]音声[語調]と若干の語のみから知ることができる、なぜなら彼らはその音声からーそれは色々な観念のため語の点では変化してはいるがーその者を支配している愛を認め、その愛にはその者の生命の一切の物がいわば刻み込まれているからである。これらの事から天使たちの知恵のいかようなものであるかが明らかである。彼らの知恵は、人間の知恵に比較すると、万を一に比較するようなものであり、または身体全体の無数の活動力を、その活動力から発して、人間の感覚には一つのものとしてしか見えない活動に比較するようなものであり、または完全な顕微鏡の下に見られる一つの物体の無数の物を、肉眼で見られる一つの不鮮明な物に比較するようなものである。このことを例で説明しよう。一人の天使がその知恵から再生を説明し、そのことについてのアルカナ[秘義]を秩序を追うて数百までも明らかにし、その秘義の各々を、[さらに]内的なアルカナを含んでいる[幾多の]観念で満たし、しかもそのことが始めから終わりまでも行われたのである、なぜなら彼はいかようにして霊的な人が新たにみごもり、いわば子宮内に運ばれ、生まれ、成長し、順次完成していくかを説明したからである。彼は、自分はそのアルカナの数を数千までも増やすことが出来るのであり、今言ったものはただ外なる人の再生についてのみのものであって、内なる人の再生についてはさらに無数のものがあると言ったのである。天使から聞かれたこうした、またそれに似た他の事柄から、彼らの知恵はいかに偉大なものであるか、人間の無知に較べるなら、いかに大いなるものであるかが私に示されたのである。人間は再生とは何であるかもほとんど知っておらず、自分が再生しつつある時の経過の段階を全く知ってはいないのである。

 

 

 

天界と地獄270

 

*6 天的な天使たちは無数の事柄を熟知しており、霊的天使たちよりは測り知れないほど賢明である、2718。天的は天使たちは信仰に関係した凡ゆる物を主から認識しているため、霊的な天使たちのように、信仰から考えたり、話したりはしない、202,597,607,784、1121、1384、1442、1898、1919、7680、7877、8780、9277、10336。信仰の諸真理については、彼らはただ、そうである、そうである、そうではない、そうではない、とのみしか言わないが、しかし霊的天使たちはそれがそうであるか、そうではないかと論じる、2715、3246、4448、9166、10786、そこにあなたらはただ、そうである、そうである、そうではない、そうではないとのみ語りなさいという主の御言葉が説明されている、マタイ5・37。

 

 

 

天界と地獄271

 

第三の天界の天使たちは聞くことにより知恵を完全にされるが、視覚によっては完全にされないことは記すに価しよう。彼らが説教から聞くものは彼らの記憶に入らないで、直接彼らの認識と意志とに入って、彼らの生命のものとなるが、目で見るものは記憶に入り、彼らはそれについて論じ、または話すのである。このことから聞く道は彼らには知恵の道であることが明らかである。これも同じく相応から起こっている、なぜなら耳は服従に相応し、服従は生命のものであるが、目は理知に相応し、理知は教義のものであるから。

 

 

 

 

天界の秘義5202[4]

 

 さらにこれらのことは人間の理解の光の中へは容易には入らない性質のものである、なぜならそれらは再生の秘められた事柄であって、それらについては、(それらは)それら自身においては無数のものであるが、人間はほとんど何ごとも知ってはいないからである。善の中にいる人間は、その幼少期の初期から世におけるその生命の最後までも、その後永遠にいたるまでも、その内部の方面のみではなく、外部の方面でも、各瞬間再び生まれつつあるのであり、しかもそれは驚くべき過程により行われているのである。表現を絶しており、耳で聞いたこともなく、目で見たこともなく、また人間の思いに入ったこともないようなものを含んでいると言われている天使の知恵の大半を構成しているものは、これらの経過である。聖言の内意はこのような事柄をとり扱っており、かくてそれは天使の知恵に適応しており、それがこの知恵から文字の意義へ流れ入ると、人間の知恵に適応したものとなり、そのことにより、善から聖言の諸真理を知ろうと欲している者たちを秘かな方法で感動させるのである。

 

 

 

神の愛と知恵71

 

天使の考えることは真理である、なぜなら彼の理解を明るくする光は神的知恵であるから。