天使の言葉

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.サンダー・シング

3.ファニー・モイスィーバ

4.ヘブライ語

5.天使の言葉は神から来る・・・マリア・ヴァルトルタ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1876

 

 聖言に記されている人間の、王国の、また都[]の名前は、人間が話す言葉のように、それらが上昇する敷居そのもので消滅してしまうのである、なぜならこれらは地的な、形体的な物質的なものであり、他生に入ってくる霊魂はこれらのものを脱ぎ去ってしまい、天界に入る者は全くそれらを脱ぎ去ってしまうからである。天使たちは人物についての観念[考え]はその最小のものすらも保有してはおらず、したがってまたその名前についてはその観念[考え]をいささかも保有してはいないのである。アブラムとは何であるか、イサクとはまたヤコブとは何であるかは、かれらはもはや知ってはいない。かれらは聖言の中にかれらにより表象され、意味されている事柄から自分自身で何らかの観念を作るのである。名前と言葉とはかれらには塵か、または鱗のようなものであって、そうしたものはかれらが天界に入ると抜け落ちてしまうのである。ここから聖言の中の名前によっては現実の事柄以外には何ごとも意味されてはいないことを認めることができよう。わたしはこれらのことについて天使たちと再三話して、その真理についてかれらにより充分に教えられたのである。霊たちが互に話し合う言葉は語の言葉ではなくて、語[言葉]のない人間の思考の観念のような言葉であり、それでそれはあらゆる言語の普遍的なものである。しかしかれらが人間と話しをするときは、その言葉は(前の1635、1637、1639番に言ったように)人間の言語の語[言葉]となるのである。

 

 

 

[]このことについてわたしは霊たちと語ったとき、わたしは以下のように言うことを与えられたのである、すなわち、かれらは互に話し合っているときは人間の言語はそのただの一つの言葉も口に言うことはできない、ましてやいかような名前も口にすることができない、と。かれらの中にはこのことを怪しんで、退いて、そのことをためしてみた者がいたが、しかし帰って来て以下のように言ったのである、すなわち、自分たちはそれを発音することはできない、なぜならその言葉は空気の音により形作られ、身体の器官により発音され、または聴覚器官に通じている内なる道によってそうした器官の中へそれらのものが流れ入ることによって発音されるため、それら[その言葉]は彼らのスフィア[領域]の下方に存在しているほどにも粗悪な、物質的なものであるからである、と。このことからまた以下のことが同じく明らかに認められることができよう、すなわち、聖言の中にある言葉はそのいかような部分も霊たちには達することはできないのであり、ましてその言葉は霊たちの言葉よりはさらに普遍的なものである天使的な霊たちには達することはできないのであり(1642番参照)、さらにそれにもまして天使たちには全く達することはできないのであり(1643番)、その天使たちのもとでは霊たちの最初の観念[考え]はいささかも残ってはおらず、それに代って霊的な諸真理と天的な諸善とが存在していて、その真理と善とはその最小の形においてすらも言い尽くしがたい方法をもって変化しており、一致した連続をもって継続し、関連しており、また相互愛の幸福から極めて快い極めて美しいところの、また主の生命を吹き込まれているため、快いものと美しいものから幸福であるところの表象的なものの始原のものをもっているのである。

 

 

 

天界の秘義2209[]

 

合理的なものは、以下のことを、もしその合理的なものに諮るなら、信じることができようか、すなわち聖言には内意があり、この内意はすでに示したように文字の意義からは極めて遠ざかっており、それで聖言は天界を地に連結するものであり、すなわち、諸天界の主の王国を地上の主の王国に連結するものである(ということを信じることができようか)。霊魂は死後言葉を話さなくても極めて明確に互に他と話しており、しかもそれが人間が一時間も語って表現するものよりもさらに多くのものを一分以内で表現するほどにも豊かなものであり、また天使たちも同じように話し合ってはいるが、しかしそれにはさらに完全な言葉が、霊たちによっては認められない言葉が用いられていることを合理的なものは信じることができようか、また霊魂はことごとく他生に入ってくると、そのように話すことを何ら教えられはしないものの、そのように話す方法を知っているということを信じることができようか。人間の一つの情愛の中にさえも、いなその一つの溜息の中にさえも、決して表現することもできないような、それでも天使たちによっては認識されている無数のものが存在しており、人間の情愛はことごとく、いな、その思考の観念はことごとくその人間の映像となっていて、それはその中にその人間の生涯のあらゆるものが驚嘆すべき方法で含まれているものとなっていることを合理的なものは信じることができようか。巨億の数にのぼるこうしたものは言わずもがなとしよう。

 

 

 

天界の秘義7002

 

なぜなら天使たちは人物のことを話すことは欲しないため、そのように話すからである、それは人物について話すと考えが物事を全般的に観察し、無数の事柄を全体として把握することを妨げられるためである。

 

 

 

天界の秘義7191

 

天使の言葉もまた連続していて、実際終止点はあるが、しかし前に言われていることは後に言われていることに驚くほど関連しているものとなっているのである、

 

 

 

天界と地獄236

 

 全天界の凡ての者は一つの言葉を持っており、いかような社会から来ていようと、また近くにいようと、遠くにいようと、互いに他を理解している。言語はそこでは学ばれないで、各々の者にそなわっている、なぜならそれは彼らの情愛と思考そのものから流れ出ているからである。言葉の音は彼らの情愛に相応し、語である発音された音は情愛から発している思考の観念に相応しており、言語はそのように相応しているため、それはまたそれ自身霊的なものである。なぜならそれは音を発している情愛と話している思考であるから。人は注意するならば、思考はすべて愛の情愛から発しており、思考の幾多の観念は、その全般的な情愛が配分されて出来た多様な形であることを知ることが出来よう、なぜなら情愛がないならば、思考も観念も全くあり得ないのであり、思考または観念の霊魂と生命とは情愛から発しているからである。このことから、天使たちは他の者の性質を、それがいかようなものであるかを、単にその言葉から知るのである、即ち、その者の情愛のいかようなものであるかは、その語調から知り、その者の心のいかようなものであるかは、発音された音、または語から知るのである。賢明な天使たちは、その者を支配している情愛のいかようなものであるかを、ただ一連の言葉からでも知っている、なぜなら彼らは主としてそれに注意を払っているから。各人は種々の情愛を持っていることは知られている、即ち喜んでいる時とか、悲しんでいる時とか、寛大と慈悲を抱いている時とか、誠実と真実である時とか、愛と仁慈にいる時とか、熱意または怒りを持つ時とか、偽り、欺く時とか、名誉を求める時とか、そういった時の情愛は、それぞれ異なってはいるものの、しかしその者を支配している情愛または愛はそうした情愛凡ての中に存在しており、それで賢明な天使たちは、そのことを認めているため、その言葉から人間の状態の凡てを知るのである。それがそうであることは、私は多くの経験から知ることが出来たのである。私は天使たちが他の者の生命をただその者の言葉を聞くのみで明らかにするのを聞いた。彼らはまた言った、私たちは他の者の思考の僅かな観念からでも、その者の生命の凡ゆる物を知るのである、なぜならその観念から私たちは、その者を支配し、凡ゆる物を秩序正しく含んでいる愛を知るからであり、人間の生命の書とはそれ以外のものではない、と。

 

 

 

天界と地獄237

 

この地球上の人間の最初の言語は天使たちの言語に一致していた、なぜなら彼らはそれを天界から得たからである、そしてヘブル語にはそれと一致しているものがあるものがあることを私は告げられたのである。

 

 

 

天界と地獄238

 

 天使たちの言語は愛から生まれる情愛に相応し、そして天界の愛は主に対する愛と隣人に対する愛であるため(まえの13から19までを参照)、彼らの言葉はいかに気品があり、また楽しいものであるかは明白である、なぜならそれは聞く者たちの耳のみでなく、その心の内部をも感動させるからである。ある一人の心の頑なな霊がいて、これと一人の天使が話したが、遂には彼はその言葉に感動するあまりに涙を流し、私はそれに抵抗することは出来ない、それは愛が語っているものであると語り、また自分は以前には一度なりとも涙を流したことなどはないとも言ったのである。

 

 

 

天界と地獄239

 

 天使たちの言葉は彼らの内的な思考から発し、その内的な思考は、その内的な情愛は愛であるため、知恵であり、その愛と知恵とは言葉の中に結合しているため、天使たちの言葉はまた知恵に満ちている。従ってそれは知恵に満ちているため、彼らは人間が一千の語を費やしても表現できないものを、一語で表現することも出来、その思考の観念もまた人間が思いつくことも出来ず、まして表現は出来ない物をも含んでいる。ここから天界で見聞きしたものは表現不能なものであり、耳で聞いたこともなく、目で見たものでもないと言われている。それがそうであることもまた私は経験から知ることが出来たのである。私は時折天使たちのおかれている状態へ入れられて、その状態の中で彼らと語り、そのとき凡てのことを理解したが、しかし私の前の状態へ再び入れられ、かくて人間に特有な自然的な考えの中へ連れ戻されて、自分の聞いたことを思い出そうと願っても、それが出来なかったのである。なぜなら自然的な思考の諸々の観念に適合していないところの、引いてはただ天界の光によらない限り表現出来ず、人間の言葉では全く表現できない無数の物があったからである。天使たちの言葉の源泉であるその思考の諸々の観念も同じく天界の光の変化したものであり、その言葉の音声の源泉である情愛も天界の熱の変化したものである―なぜなら天界の光は神的真理または知恵であり、天界の熱は神的善または愛であり(まえの26から140まで参照)、天使たちは神的愛から愛情を、神的知恵から思考を得ているからである。

 

 

 

 

天界と地獄246

 

 天使たちは人間と話すときはその天使たち自身の言葉では話さないで、その人間の言葉で、またその人間がよく知っている言葉で話し、その人間の知らない言葉では話さない。それがそうであるのは、天使たちは、人間と話すときは、自分自身をその人間に向けて、彼に連結させ、人間と連結することによって、両者は同じ思いを持つことになり、そして人間の思いはその記憶に密着していて、記憶が人間の言葉の源泉となっているため、両者は同一の言葉を用いるためである。さらに、天使または霊は人間のもとへ来て、その人間に身を向けて、彼と連結すると、彼の凡ての記憶の中へ入り、その人間の知っていることを、その言語も含めて、自分自身から[天使または霊自身から]知っているとしか考えないほどにもなるのである。私はこのことについて天使たちと語って、以下のように言ったのである、[即ち]あなたらは私と私の母国語で話していると考えられるであろうが―なぜならそのように見えるからであるが―しかし話すのはあなたらではなくて、私である、そのことは天使たちは人間の言葉を一語も発することはできず(237)、人間の言葉は自然的なものであるが、あなたらは霊的なものであって、霊的な者は何事も自然的なものを生み出すことは出来ないという事実から明らかになるでしょう、と。これに対し彼らは言った、自分たちは自分たちの話している人間と連結するのはその人間の霊的な思考と連結するのであることは知ってはいるが、しかしその霊的な思考はその人間の自然的な思考は流れ入り、その自然的な思考はその人間の記憶に密着しているため、その人間の言語は、その凡ての知識とともに、自分たちには自分たち自身のもののように見えるのであり、それがそうであるのは、主がそうした連結が行われて、人間のもとへ、いわば天界が流入されるのを望まれるからである、しかし現在の人間の状態は異なっていて、そのため最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある、と。私はまたそのことについて霊たちと話したが、彼らは、話しているのは人間であることを信じようとはしないで、それはその人間の中にいる自分たちであると信じ、また人間は自分たちがその人間に話すこと以外のことは何一つ知っているのではなく、従ってその人間の知っている凡ての事は自分たちから発していると信じていた。私はそれはそうでないことを多くの事により証明しようと望みんだが、それは徒労に帰した。霊により誰が意味されるか、また天使により誰が意味されるかは、以下に、霊たちの世界を取扱うとき述べよう。

 

 

 

天界と地獄269

 

 天使たちの知恵のいかようなものであるかは言葉では説明することはできない、ただ、若干の全般的な事柄によってのみ説明することができよう。天使たちは人間が一千語を費やしても表現できないものを一語で表現することができ、さらに天使の一つの語の中にも人間の言語では表現することのできない無数の物が存在している。なぜなら天使たちの話す事柄の各々には、人間の科学も決して到達できない知恵の無数のアルカナが絶えず関連づけられて存在しているからである。天使たちはまたその言葉の語で十分に表現できないものを語調(トーン)で補っており、その語調の中には秩序をとった事物に対する情愛が存在している、なぜなら前に述べたように(236、241)、語調により彼らは情愛を表現し、語により情愛から発する思考の諸観念を表現するからである、そうした理由から天界で聞かれる物は表現を絶したものであると言われている。天使たちは同様に一巻の書物の中に記されている凡ゆる事柄をも二、三語で表現することも出来、各語に[心を]内的知恵に高揚させることの出来る物を注ぎ入れることが出来る、なぜなら彼らの言葉は情愛と一致したものであり、各語は観念と一致したものであるから。語もまた、思考の中に含まれている連続した事柄に応じて、無限の方法で変化している。内的な天使たちはまた話している者の生命全体を、[その話す者の]音声[語調]と若干の語のみから知ることができる、なぜなら彼らはその音声からーそれは色々な観念のため語の点では変化してはいるがーその者を支配している愛を認め、その愛にはその者の生命の一切の物がいわば刻み込まれているからである。これらの事から天使たちの知恵のいかようなものであるかが明らかである。彼らの知恵は、人間の知恵に比較すると、万を一に比較するようなものであり、または身体全体の無数の活動力を、その活動力から発して、人間の感覚には一つのものとしてしか見えない活動に比較するようなものであり、または完全な顕微鏡の下に見られる一つの物体の無数の物を、肉眼で見られる一つの不鮮明な物に比較するようなものである。

 

 

 

天界と地獄282

 

無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受け―それは最内部の天界の天使が近づいてくるとき起ることではあるが―自分が最早自分自身のものではないように自分に思われ、そこから、世のいかような歓喜もそれに較べるとき、取るに足らぬもののようにも思われる歓喜を感じ、その歓喜に恰も我と我が身を忘れるようにも思われるのである。

 

 

 

結婚愛44

 

これに天使的霊は答えた、『天界を見上げなさい、そうすれば答えられましょう』。

彼らはたずねた、『なぜ天界を見上げますか』。

彼らは言った、『そこから私たちは聖言の解釈をすべて得ているからです。聖言は内的には霊的なものであり、そして天使たちは霊的なものでありますため、天使たちがその霊的な意味を教えなくてはなりません。』

 

 

 

霊界日記6049

 

世では大いに考えた或る者らは、例えば、ポルヘムとヴォルフといった者らは、宗教の生活を送りはしなかったからには、物質的にしか考えることが出来なかった。こうした者らの場合、物質的な物を分離しようとする試みが行われたが、それは徒労に終わってしまった。ここから、他生で、こうした人物らは霊的な言語を話しはするが、それでもそれには母国語が極めて多く混入しているため、彼らの出身国が容易に識別されることが出来るのである。しかし霊的に話す者たちは凡て同一の言語を話しており、識別されることも出来ないのである。

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P316

 

 今は言葉の問題があっても、あの祝福の地でわたしたちがお会いするときには、言葉の問題はありません。昨日も申しましたように、今は「スイス人、イギリス人、インド人」と呼ばれても、そのときには、わたしたちはキリストにある一つの民となるのです。

 

 

 

 

3.ファニー・モイスィーバ

 

 

ファニー・モイスィーバ/垣間見た永遠の世界/P46

 

「国籍や母国語に関係なく、全員が理解したのです。天の王国では母国語を思い出す人はいません。誰もが一つの言語を理解するのです。」

 

 

 

4.ヘブライ語

 

 

天界と地獄237

 

この地球上の人間の最初の言語は天使たちの言語に一致していた、なぜなら彼らはそれを天界から得たからである、そしてヘブル語にはそれと一致しているものがあるものがあることを私は告げられたのである。

 

 

 

 

5.天使の言葉は神から来る・・・マリア・ヴァルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷下P68/591・5

 

わたしは世のために聖所となりますが、つまずきの石、大罪人、イスラエルのためには罠と破滅になるでしょう。わたしは、善意の人びとを聖化し、悪意の人びとを転覆させ押しつぶすでしょう。み使いたちの言うことは、短期間しか続かない偽りの言葉ではありません。それはから来ます。真理永遠ですから、その言葉は真理であり、不変です。天使は、『善意の人に平和があるように』と言いました。そして、おお、よ、お前の救い主は生まれました。今、お前の贖い主は、死へと向かっています。だが、から平和を受けなさい。それは聖化と栄光です。そのためには、『善意』が必要です。

 

 

 

結婚愛44

 

これに天使的霊は答えた、『天界を見上げなさい、そうすれば答えられましょう』。

彼らはたずねた、『なぜ天界を見上げますか』。

彼らは言った、『そこから私たちは聖言の解釈をすべて得ているからです。聖言は内的には霊的なものであり、そして天使たちは霊的なものでありますため、天使たちがその霊的な意味を教えなくてはなりません。』