光の天使

 

 

外観的な熱意説教家

婚礼の礼服を着ていない者が一人いた(マタイ22・11)光の子

 

 

 

 

1.招かれた客の中で、婚礼の衣服を着ていないことを発見されて、外の暗黒の中へ投げ出された者

2.外的には光の天使を装っているが、内的には悪魔であるといった者であり、『バベル』と呼ばれている

3.鷲・・・理解を明るくされてはいるが貪欲な人間

4.悪の起源は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用

5.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.招かれた客の中で、婚礼の衣服を着ていないことを発見されて、外の暗黒の中へ投げ出された者

 

 

天界と地獄48

 

 このことからまた、知恵のすぐれている天使は他の者の性質をその顔からすぐに認めるようになっている。天界では誰一人その表情によって己が内部を隠してたばかることは出来ないし、また狡猾と偽善によって決して偽ったり、欺いたりすることも出来ない。偽善者らが己が内部を隠し、またその外部を、ある社会に属している者たちの抱いている善の形で現すように作り、かくして自分自身を光りの天使としてたばかり装うことを学んで、幾多の社会に秘かに入り込むことがときどき起っている。しかしこれらの者はそこに長く止まっていることは出来ない。なぜなら彼らは[そのとき彼らの生命とは]反対の生命が流れ入ってきて、それが彼らに影響するため、内なる苦悶を感じ、責め苛まれ、顔が死人のようになり、生命を奪われるように思われ始めるからである。そのため彼らは、彼らに似た者のいる地獄に向かって急に彼ら自身を投げ下ろして、以後もはや昇ろうとは願わない。これらの者が、招かれた客の中で、婚礼の衣服を着ていないことを発見されて、外の暗黒の中へ投げ出された者により意味されている者たちである(マタイ22・11−13)。

 

 

 

真の基督教569

 

或る悪魔がその狡知によって光の天使の外観を帯びることが出来、最低の天界の或る天使たちの間に現れた。その後ニ、三日して、私は彼を見た。遠方からは彼は豹のように見えた。彼は中間の深淵を越えて、二本のオリーブの木の間に立ったが、その木の芳香も彼には何の影響も与えなかった。これは、如何なる天使もその場に居合わせなかった為である。然し、天使たちが近づくや否や、彼は痙攣を起こして倒れ、その時の有様は大きな大蛇が身悶えしているようであった。遂に、彼は地面の割れ目から逃れ、その朋輩達によって洞窟の中へ運ばれ、そこに間もなく彼自身の歓喜の忌まわしい匂いによって生き返ったのである。

 

 

 

 

2.外的には光の天使を装っているが、内的には悪魔であるといった者であり、『バベル』と呼ばれている

 

 

天界の秘義2973[5]

 

 天的な、また霊的な愛の中にいる者たちのもとでは、善が主から霊魂を通って身体に流れ入っており、そこから身体は光に満ちるようになっているが、しかし身体的なまた世的な愛の中にいる者らのもとでは、善が主から霊魂を通って身体へ流れ入ることはできないので、かれらの内部は暗黒の中に在り、そこからまた身体は、主がマタイ伝に教えられていることに従って、暗黒に満ちるようになっている―

 

 身体の燈は目である、もし目が正しいなら、全身は光に満ちるが、もし目が悪いなら、全身は暗黒に満ちる。それで光が暗黒であるなら、その暗黒は如何に大きいことであろう(マタイ6・22、23)。

 

『目』により霊魂に属している知的なものが意味されている(2701番)。

 

 

 

天界の秘義2973[6]

 

 しかしその内部は暗黒であるが、その外部は光に満ちているように見える者らの場合はさらに悪い。これらの者は外的には光の天使を装っているが、内的には悪魔であるといった者であり、『バベル』と呼ばれている、このような人物のもとで『周囲に』在るものが破壊されると、かれらは真逆様に地獄へ投げ落とされるのである。これらの事柄は、エリコの都により、以下の事柄で表象されたのである、すなわち、祭司たちがその周りを七度まわって、ラッパを鳴らすと、その城壁はくだけ、都が呪いにわたされたのである(ヨシュア6・1−17)。

 

 

 

 

3.鷲・・・理解を明るくされてはいるが貪欲な人間

 

 

神の摂理20

 

悪と同時に真理にいる者は高く飛んではいるが、翼を奪われて落ちる鷲に譬えることが出来よう。それは真理を理解し、語り、教えるにしても、その生活の中に神を顧みない者が死後霊となるとき、その身に起こるところである。彼らはその理解により自らを高く上げ、時には天界へ入り、光の天使を装うが、真理が彼らから取り去られて斥けられると、地獄に沈んで行く。更に鷲はその理解を明るくされてはいるが貪欲な人間を意味し、翼は霊的真理を意味している。かくのごときが己が生活に神を何ら顧みなかった者である。生活に神を顧ることは、この悪またはかの悪は神に対する悪であると考え、そうした理由からそこから遠ざかることを意味するにすぎない。

 

 

 

 

4.悪の起源は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用

 

 

神の摂理15

 

善は真理から、真理は善から分離することが出来、また分離したときも依然善と真理のように見える。なぜなら人間は自主性と呼ばれる行動の能力と合理性と呼ばれる理解の能力を持っているから。人間が外面的には内面的な自分とは異なったものとして見られるのはこの能力の濫用によっている。従って邪な人間は善を行い、真理を語り、悪魔も光の天使を装うことが出来る。しかしこの主題については、「神の愛と知恵」を取扱った著作の以下の記事を参照されよ。悪の起源は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用にある(264−270。

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P119

‘00・8・5

 

あなた自身を見て、そして教えてほしい、我がヴァッスーラ、人が変容したという印は何か?

 

たくさんの印があると思います。

 

たくさんあるというのは正しい、しかし中でも 一番崇高な印とは?

 

聖パウロによれば、それは その人の中にある 神への愛でしょうか、その愛は その人の中であなたご自身の絶え間ない愛を注がれ、霊魂を変容させて霊的な深遠へと進ませ、愛において霊魂が育つよう導きます。こうして霊魂は神格化され、主に与って神となります。

あなたの愛が 神格化させ 悪にそまった私たちの肖りを 神なるあなたの肖りへと 変容させるのです・・・

 

そう! 聖書では「あなたの視線を ヤハウェに据えなさい そうするなら顔は輝こう」とあるが それは、「ヤハウェの似姿に変容する」という意味であって、自己(*)を神に差し出すなら、この最も明らかな変容の印が現れる。 つづけて ほかの印も現れる。 歓び、平安、いや増す愛徳の印が こうして、霊魂は 愛徳を通して 三位一体の神の知識を得られる。 変容した霊魂は 神への愛と 神を知り理解する知識によって 内も外も輝く明かりのようになろう。

 

この世とその闇から開放されて 幸せな霊魂は 私のもとに飛んで来て、我がふところの中(*1)にとどまっている。 愛に燃え、我が甘美に酔わされ、この霊魂は どうしたら三位一体のうちに いっそう深く分け入れるかを 熱心に探し求めよう。 そしてこの上なく優美な花婿なる 私は 我が心の愛の炎に ますます引き寄せ 私どものうちに憩わせて 共に治められるよう その霊魂を私どものうちに浸す。

 

そこで 私が差し出すものを 拒める霊魂がいようか? かつて言ったが 裁きの日には 地上にいたときの愛の程度によって 誰もが量られる。 何か 言うことがあるか?

 

  こう申し上げます:

 「あなたの御恵みは なんと大きいことでしょう。

  あなたは 畏れ敬う者のために 恵みをたくわえ

  たよる者に 人びとの前で それを授けます。」  詩篇31・20

 

そして この世にいまだ執着する人たちには こう言おう、心から、私を選んで、和解するつもりなら、私を呼び求め 私のもとに来て 祈るときは、その声に耳を傾ける。 私を探し求めるなら、見いだそう。私があなたに自らを見つけさせる、そして、あなたと会話し あなたも私と会話する 永えの愛をもって これまでもあなたを愛し、今もなおあなたへの忠実なる愛を保っているがゆえ。

 

だから来なさい、来て 私からあなたを分け隔てているヴェールを はぎ取りなさい。 永遠のいのちをあなたに与える 聖なる者を観想しなさい。

 *意志。  *1親密さをあらわす表現。