婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。

(マタイ22・11)

 

 

 

1.聖書

2.婚礼の礼服を着ていない者

3.貧しい者、不具者、足なえ、盲目の者

4.街路

5.ヴァッスーラ

 

 

1. 聖書

 

 

マタイ22・1

 

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」

 

 

 

マタイ22・12−14

 

王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。

 

 

 

2.婚礼の礼服を着ていない者

 

 

天界の秘義2132

 

 婚礼の衣装を着ていない者もまた入ってきて、外に投げ出されたと聖言に言われていることについては、(マタイ22・11−13)、このことの実情のいかようなものであるかもまた示されたのである。その身体の生命の間に自分自身を光の天使に装うことの出来る欺瞞に滲み込んでいる者がいるが、彼らは他生ではこうした偽善的な状態の中にいる時は、自分自身をまた最も近くの天界の社会へ入り込ませることが出来るのである。しかし彼らはそこには長くは止まらない、なぜなら彼らはそこに相互愛のスフィアを認めるや否や、恐怖と戦慄におそわれ、我と我が身を下に投げつけ(その時それは霊たちの世界では彼らがあたかも投げ落とされたかのように見えるのであるが)、ある者は湖に、ある者はゲヘンナに、ある者は何か他の地獄へ落ち込むのである。

 

 

 

天界の秘義5954[4]

 

『婚礼の着物を着ていない者』によりたれが意味されているかは2132番に見ることができよう。

 

 

 

真の基督教380

 

 唇では主を贖罪者、救い主として尊敬するものの、心では彼を単なる人間として認めている者がいる。彼等は蜜を塗った唇をもっているが、その心は苦味に満ち、その言葉は砂糖であるが、その思いは毒であり、彼らは毒蛇が一杯入っている饅頭のようなものである。若し、彼等が祭司であるならば、平和な国民の旗を立てて航海して行くが平和な船が近づくと、黒い旗をかかげ、船を捕らえ、船員を奴隷にして売りとばす海賊のようなものである。彼等はまた善悪を知る木の蛇のようなものである。彼らは光りの天使のように装い、手にはその善悪を知る木から取ったものではあるが、生命の木の黄金の果実のように見える林檎を持ち、これを提供して言う「神汝らがこれを食らう日には汝等の目開け、汝等神の如くなりて善悪を知るに至るを知りたまうなり」(創世記3・5)。その犠牲はこれを食うや、蛇に従って地獄に行き、そこに彼と共に住む。近くには、アリウスとソツヌスの林檎を食った凡ゆるサタンがいる。これらは婚礼に出席したが式服を着けていなかったため、外の暗闇に投げ出された者によって意味されている(マタイ22・11,12,13)。

 婚礼の服とは神の子、天地の神、父と一なる者としての主に対する信仰である。唇をもって主を尊ぶが、しかし心では彼を単なる人間として認める者らが他の者達を説きつけて、自らが考えるように考えさせようとするならば、霊的殺人であり、その最悪な者は霊的食人種である。何故ならば、人間の生命は主に対する愛と主に対する信仰から発するが、若し主は神なる人であり、人なる神であるとの信仰と愛とのこの要素が取り去られるならば、彼の生命は死に変わるからである。かくして人間は羊が狼に食い尽くされるように殺されるのである。

 

 

 

真の基督教686

 

 我々の贖罪者、主なる神は聖霊と火とをもって洗礼を授け給うと聖言に言われている。これは主は人間を信仰の神的真理と愛または仁慈の神的善とによって再生させ給うことを意味する(684)。聖霊、すなわち信仰の神的真理によって再生した者達は、天界で火即ち愛の神的善によって再生した者達から区別される。前者は白い麻布の衣を着た霊的な天使であり、後者は紅色の衣服を着た天的な天使である。霊的な天使は以下の如く記されている。「彼らは白く潔き細布を着、子羊に従う」(黙示録19・14)「彼らは白き衣を着て我とともに歩まん」(3・4)而して主の墓場の天使たちは白く輝いた衣服を着ていた(マタイ28・3.ルカ24・4)細布は聖徒達の義を意味する(黙示録19・8)。白衣と細布の衣は神的諸真理を意味する(「黙示録の啓示」379番)。

紅色は愛の色である故、天的天使たちは紅色の衣を着ている。愛は赤く色づけられて愛を意味する霊的な太陽からこの色を得ているのである(「黙示録の啓示」469、725番)。衣服は真理を意味するため、婚礼の衣装を着ないで結婚の式場に来た人間は外の暗きに投げ出された(マタイ22・11−13)。

 

 

 

天界と地獄48

 

 このことからまた、知恵のすぐれている天使は他の者の性質をその顔からすぐに認めるようになっている。天界では誰一人その表情によって己が内部を隠してたばかることは出来ないし、また狡猾と偽善によって決して偽ったり、欺いたりすることも出来ない。偽善者らが己が内部を隠し、またその外部を、ある社会に属している者たちの抱いている善の形で現すように作り、かくして自分自身を光りの天使としてたばかり装うことを学んで、幾多の社会に秘かに入り込むことが時々起っている。しかしこれらの者はそこに長く止まっていることは出来ない。なぜなら彼らは[その時彼らの生命とは]反対の生命が流れ入って来て、それが彼らに影響するため、内なる苦悶を感じ、責め苛まれ、顔が死人のようになり、生命を奪われるように思われ始めるからである。そのため彼らは、彼らに似た者のいる地獄に向かって急に彼ら自身を投げ下ろして、以後最早昇ろうとは願わない。これらの者が、招かれた客の中で、婚礼の衣服を着ていないことを発見されて、外の暗黒の中へ投げ出された者により意味されている者たちである(マタイ22・11−13)。

 

 

 

天界と地獄180

 

しかし真理にいない者は婚礼の衣服を着ていないと言われている、例えばマタイ伝には、「王が来た時・・・婚礼の衣服を着ていない者をそこに見た、で、彼はその者に言った、友よ、あなたはどうして、婚礼の衣服を着ないで、ここに入って来たのか。それ故彼は外の暗黒の中へ投げ出された」(マタイ22・11−13)。主はその神的真理により天界と教会とに連結されるため、婚礼の家により天界と教会が意味しており、そこからまた主は聖言では花婿と夫と呼ばれ、天界は教会と共に、花嫁と妻と呼ばれている。

 

 

 

黙示録講解195ロ(11)

 

 『婚礼の着物』は、真理と善とに関わる知識から発しているところの、霊的な人間の理知を意味しているが、『婚礼の着物を着ていなかった者』は偽善者を―彼は道徳的な生活により霊的な生活を偽装してはいるものの、単に自然的な者であるに過ぎないのであり、そうした偽善者を―意味し、『その手足を縛ること』は、その者が霊的な人間に似たものを身につける手段としたところの、聖言から身につけた幾多の知識を剥奪してしまうことを意味し、『外の暗黒へ投げ出されること』は、悪から誤謬の中にいる者らの間に、を意味している(なぜなら『外なる暗黒』は悪から発した誤謬を意味しているからである)。

 

 

 

 

天界と地獄579

 

こうした魔鬼は、その詐欺と狡知とを暴露されると、蝮のように見える。

 

 

神の摂理

 

これらの者は自分を光の天使に装う悪魔により意味され、また結婚の席上、結婚の衣服を着ないため外の暗黒へ投げ出された人間により意味されている(マタイ22・11−13)

 

 

 

 

3.貧しい者、不具者、足なえ、盲目の者

 

 

黙示録講解652ニ(31)

 

 さらに、教義の真理を意味しているとしての『街路』の意義から主が寓話の中で以下のように言われた理由もまた明白である―

 

その家の主人は速やかに都の街路と開いた所へ出て行き、貧しい者、不具者、足なえ、盲目の者を連れて来るように命じた(ルカ14・21)。

 

『貧しい者、不具者、足なえ、盲目の者』は自然的な意味におけるそうした者たちを意味しないで、霊的な意味におけるそうした者らを、すなわち、聖言を持たなかったような者たちを、それ故真理には無知であり、善を欠いていたものの、真理を―それを手段として、善に到達できるような真理を―望んでいたような者たちを意味しており、そうした者たちは主の教会が後にその者たちのもとで設立された異邦人[異教徒]であったのである。

 

 

 

天界の秘義2336[]

ルカ伝には―

 

その家の主人は言った、急いで都[]の街路と小道に出かけて行き、貧しい者や不具者や足なえや盲人をここに連れて来なさい(ルカ14・21)。

 

文字の意義に止まっている者はこのことからその僕があらゆるところに行かねばならない、そのことが『街路と小道』により意味されており、またかれはあらゆる者を連れてこなくてはならない、そのことが『貧しい者や不具者や足なえや盲人』により意味されているということ以外には何ごとも理解はしない。

しかしこの言葉の各々はその中に深い秘密を含んでいるのである、なぜならそれらは主の御言葉であるからである。かれは『街路と小道に行かねばならない』ことはかれは純粋な真理を、または善から輝き出る真理をまたは善が輝く手段となる真理をあらゆるところで探し求めなくてはならないことを意味しているのである。

かれは『貧しい者や不具者や足なえや盲人を連れてこなくてはならない』ことは、古代教会でそのような者と呼ばれた者たちを、信仰の方面ではそのような者ではあったが、しかし善い生活の中にあり、かくて主の王国について教えを受けねばならない者たちを―かくて未だ教えを受けていない諸国民を意味しているのである。

 

 

 

4.街路

 

 

天界の秘義2336[]

 

『街路』は真理を意味したため(マタイ6・2,5、ルカ13・26,27に現れているように)、街路で教えることがユダヤ人の間の表象的な祭儀であったのである。予言者の書では、『街路』は、それが記されているところでは常に、その内意では真理か、または真理に反したものか、その何れかを意味している。

 

 

 

天界の秘義2336[]

 

 エゼキエル書には―

ネブカドネザルはその馬の蹄であなたの街路をことごとくふみにじるであろう(エゼキエル26・11)。

 

これはツロを肩っており、ツロにより真理の諸知識が意味され(1201番)、『馬の蹄』は真理を歪める記憶知を意味している。

 

ナホム書には―

 

戦車は荒れ狂い、道をここかしこと馳せまわっている(ナホム2・4)。

 

『戦車』は真理の教義を意味しているが、それは誤謬が真理に代って存在しているときは『街路に荒れ狂う』と言われている。

 

ゼカリア書には―

 

エルサレムの街路には尚年老いた男と年老いた女とが住み、都の街路は少年と少女に満ち、かれらはその街路に遊ぶであろう(ゼカリア8・4,5)。

 

これは真理のいくたの情愛とそこから生まれてくる楽しさと喜びとを語っている(その他、たとえばイザヤ24・11、エレミア5・一,7・34,49・26、哀歌211194814、ゼパニア3・6)。

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P8

‘90・10・20

 

ヴァッスーラ、婚姻の祝いの諺(*)を思い出させよう ♡ 娘よ、多くの者が呼ばれているが、選ばれるのはわずかです。 信仰は私の与える恵み、信仰を持つのも 与えている恵みによる。 今の時代は 恵みと慈悲の時代。 今の時代はあなた方の上に 我が聖霊が降り注がれる時代。 今の時代は我が聖霊が あなた方を重い背教から引き上げ、婚姻を結ぶ時代です。 時代の悲惨さは もうあなたから剥げ落ちるであろう。 私自身の手でその弔い布を脱がせ 婚姻衣装をまとわせるであろうから。 私の悦びを感じなさい 我がヴァッスーラ! この来たるべき出来事を すでに歓んでいるのを感じなさい! 我が聖霊は地上を訪れ 火をもたらそう、もうすでに燃え上がっているならとどんなに願うか! 今や我が聖霊が婚姻を結ぶ時: 今こそあなた方の平和の君は 地上の隅々に 僕たち、ご自分の天使たち、預言者たちを送られ ご自分の宴に そして王国に友人たちを招いて 天からのマンナを与えようとされる時 ♡ 私の再臨を宣言するために我が使者たちを 真の正しさのうちに はるばるその戸口まで送っている、しかし彼らの多くはこの者たちを ペテン師として扱い 信じなかった、ほかの者たちは私からの名誉の前に 人の名誉をおいた。 あなたを招いたのに私を拒み、懇願したのに顧みようとせず、私のあらゆる嘆願を無視して 愛の差し出すものを拒絶した、それゆえあなたの社会が拒んだ者たちで 我が家を満たし 彼らに我が王国を与え あなた方皆を混乱させよう、私は彼らに視力を返してやり 癒そう、彼らを中に入れるために 戸を広く開ける。 我が使いたちは通りやおおやけの広場で 声をあげて呼ばわり、街角ごとに出逢う亡骸が招かれる、そして私について知らされたことない人びとが私を見る、私について聞いたことない人びとは聴いて理解しよう。 私を探し求めたことない人びとによって 私は見い出され、あなたに我が聖なる顔を顕したと同じように、娘よ、私にたずねたことない人びとにも 私自身を顕そう。 私の霊を あなたは要らないと言う! 私の手にする我が心も ほしがらない! 起る前に、今こう伝える、実際起った時に 私は在りて在る者 を信じるように:

我が王国はあなたから取り上げられ あなたが卑劣で愚かな民と呼んで、社会から締め出した人びとに与えられる そして単純な頭と呼ばれている人びとによって 我が家は建て直され 復興し、この者たちこそ、その愛をもって我が家の廃墟と荒れ果てたすべてを修復させる者たち、彼らを牧し 慰めるのは我が聖霊・・・高慢な者たちの砦はじきに塵の山となって崩れ落ちる・・・義は支配しよう。 この羊飼いたちのために、その改心のために祈りなさい。 祝福されりょうに、我が子よ、もうすぐ戻って来る、間もなく顔と顔を合わせて私を見るであろう。 私は在る

 

*マタイ福音書22・1−14.

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P247

‘91・10・29

 

まことに言うが 間もなく私は愛の輪となるようにすべての国たみを集め 我が霊は あなた方のうちに宿って 見えない者たちに見える視力を与える、与えられる光とは: 我が卓越した光だからです。 しかし自分たちの霊に富を蓄えた者たちにとって 我が光に入って来るのはなんと難しいか! 知者が光の中まで浸透し その深淵を見い出すのはなんと難しいか! 彼らにとって我が王国に入るのはなんと難しいか! はっきり言う、あなた方の社会に拒まれた者たち そしてあなた方にふさわしくないと呼ばれる者たちのほうが 彼らより先に入って来よう。 そう! 善と悪の区別がつかない、左手と右手の区別もわきまえない者たちが! 私と食事をともにするようにと 今までも 今でもずっと皆を招きつづけている、しかし多くは私の招きに応えないで、その寛大な呼びかけを嘲笑(あざわら)ってはねつけた そして来たいと望んだほかの人も、その教えによってつまずかせた ♡ このすべてを 結婚披露のたとえ話に比べてみるとよい(マタイ福音書22・1−14)

             私は戻って来る(*)

 

 

  第二の聖霊降臨。霊の流れ。ヨエル書3。

 

 

そして彼らは震え上がろう。 この長い歳月 誰を拒んでいたかを悟ったなら 彼らは震え上がろう。 彼らは我が霊を否認して 自分自身の霊に導かれるのを自らに許した、我が光を否認して 自分たちの光に従った、英知が与えた天来の知識を否認して 二流の哲学と自分たちの合理的知識を選んだ。

           ― 彼らは背教している ―

我が霊、光と知識を 拒んだがゆえ。 彼らからは我が王国を取り上げ その実をみのらせる民に与えよう。 そして私自身の者たちとしてこの民を迎え入れ ともに来て同じ家に住まうようにと求めよう。 事実この時はもう来ている。 私はそばに いかがわしい者たち、どの街角にもたむろする、ふさわしくない、無の中の無でしかない、みじめな者たち、そして私の名を聞いたことない者たちを 引き寄せようと決めた。 私を愛したことないみじめな者たちのほうに行き 彼らを 愛に国たみ、聖なる国たみとする、そして彼らは私の誉れとなろう ♡ 彼らは生ける神の司祭、アーメンの司祭と呼ばれ、この司祭職の上に 我が教会を建て直そう、これらの心のうちに あなた方皆を一致させ、こうして我がからだは憩う ♡ 時が訪れた、そして誰も この我が聖霊の時を 止められない。 世界が足元から崩れて行き、王国が倒れ 町々が塵の山と化してゆくのが左手に見え、山々が崩れ去るのを右手に見るなら、それは我が聖霊の 油注ぎが始まった徴だと 知りなさい。 私自身の手で形造った教え子たちが、我が名によって 恐れなく宣教するのを見たなら、自分たちの誘惑に打ち勝って、彼らを引き裂かないように、むしろその足音を 識別しなさい、私はこれらの聖徒たちを遣わしつづけ その道すじで 我が分断されたからだの部分を集めさせよう、そして誰も、不潔の霊たちさえも 彼らを妨げられないであろう、むしろアーメンがその師であると知って その前に打ち伏そう ♡