説教家

 

パウロ

聖言を研究する者教える

 

 

 

 

1.説教家はすべて主の霊的王国から来ている

2.凡ゆる教義の本質的なものは、主の神的な人間的なものを承認すること

3.邪悪な説教家でさえ敬虔な熱意に似た熱意を以って時として行う

4.英国人たちとその説教者たちについて話し合ったことについて

5.信仰のみについて

6.真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる

 

 

 

 

 

1.説教家はすべて主の霊的王国から来ている

 

 

天界と地獄225

 

 説教家はすべて主の霊的王国から来てはいるが、天的王国からは誰一人来ていない。彼らが霊的王国から来ているのは、そこの天使たちは善から諸真理におり、説教はすべて諸真理から発するためである。天的王国からは説教者は一人も来ていないのは、そこでは彼らは愛の善にいて、その善から諸真理を見、認めはするが、諸真理については話さないためである。天的王国の天使たちは真理を認め、見はするけれど、そこにも説教がなされている、なぜなら説教により彼らはその知っている諸真理を明らかにされ、以前知らなかった多くの真理により完全にされるからである、即ち、彼らはそれを聞くとすぐに、またそれを承認し、かくてそれを認めるのである。彼らはその認める真理をまた愛し、それに従って生きることによって、それを自分の生命のものとしている、即ち、真理に従って生きることは、主を愛することであると、彼らは言っている。

 

 

 

天界と地獄226

 

 説教者は凡て主から任命され、そのことによって説教の賜物を与えられており、他のいかなる者も神殿で教えることは許されていない。彼らは説教者と呼ばれて、祭司とは呼ばれない。彼らは祭司と呼ばれない理由は、天界の祭司階級は天的王国であるということである、なぜなら祭司階級は主に対する愛の善を意味して、その善の中にその王国にいる者たちはいるからであるが、天界の王権は霊的王国である、なぜなら王権は善から発している真理を意味し、その真理の中にその王国にいる者たちがいるからである。

 

 

 

主の聖言3(仁慈の教義に併録)

 

 最低の天界と中間と最高の天界の、三つの天界があり、最低の天界では彼らは自然的なものである、しかし彼らの自然的なものは、中間の天界のものである霊的なものか、第三の天界のものである天的なものか、その何れかのものから派生しているのである。第二の天界では彼らは霊的なものであり、第三の天界では彼らは天的なものであり、また霊的で、天的と呼ばれている媒介的な天使たちもおり、これらの者たちから多くの者は最高の天界における説教者となっている。

 

 

 

天界と地獄393

 

 世で名誉や利得のためではなくて、生命の用[益]のために、自分自身のためにも、他の者のためにも、聖言を愛して、その中の真理を熱心に求めた者たちは天界では教会の仕事に携っている。これらの者は用を愛し、用を求めるに応じて、そこに明るくされ、知恵の光の中におり、その光の中へまた天界の聖言から入って行くのである。天界の聖言は世のように自然的なものではなくて霊的なものである(前の259を参照)。これらの者は説教者の務めを果たし、そのことでも神の秩序に従って、明るくされているため、知恵で他の者に優っている者たちは高い地位にいる。

 

 

 

2.凡ゆる教義の本質的なものは、主の神的な人間的なものを承認すること

 

 

天界と地獄227

 

 彼らの説教の規準となっている教義は凡て生命〔生活〕を目的としており、一つとして生命〔生活〕の無い信仰を顧ない。最も内なる天界の教義は真中の天界の教義よりも更に知恵に満ち、真中の天界の教義は最低の天界の教義よりも理知に満ちている、なぜなら教義は各天界の天使たちの認識能力に順応したものとなっているからである。凡ゆる教義の本質的なものは、主の神的な人間的なものを承認することである。

 

 

 

3.邪悪な説教家でさえ敬虔な熱意に似た熱意を以って時として行う

 

 

天界の秘義379

 

 これらのことが意味されていることは前に述べたところから明らかであり、『呪われる』ことは善に反感を持つことであることは既に示した(245番)。なぜなら不法と憎むべきことは、または憎悪は人間を背かせるものであり、かくて彼は下の方のみを眺め、即ち、身体と地の事のみを眺め、かくて地獄に属した物を眺めるからである。このことは仁慈が追放され、消滅してしまう時生まれてくる、なぜならその時主を人間と結ぶ絆は切断されてしまうからである、それは仁慈のみが、または愛と慈悲のみが我々を主に連結させるが、仁慈の無い信仰は決して我々を主に連結させはしないためである、なぜなら後のものを単なる知識であって信仰ではなく、奈落の一味自身が持っているものであって、それにより彼らは善良な者を巧みに欺き、自分自身を光の天使に装うことが出来るからであるが、こうしたことは最も邪悪な説教家でさえ敬虔な熱意に似た熱意を以って時として行うのが常であるが、その唇から言われるものほどにその者らの心から遠いものは何一つありはしないのである。

人の言葉なり、または同意なりが、その人の意志または意図から発していないときは、それがいかような性質のものであろうと、たれもそれを尊重しないことをたれでもその者自身の経験から知っているのに、記憶の内の信仰のみが、またはそこから発した思考が何か益をもたらすことが出来ると信じる程にも薄弱な判断力しか持っていない者が在りえようか。人の言葉なり同意なりを楽しいものになし、人間を人間に結びつけるものは意志または意図である。意志こそ真の人間であり、その欲しない思考または言葉ではない。人間はその性質と性向を意志から得ているが、それは意志が彼を動かすからである。しかしもしたれかが善いことを考えるなら、信仰の本質である仁慈はその思いの中に在るが、それは善を為そうとする意志がその中に在るからである。しかしもし彼が自分は善いことを考えていると語りつつも、邪悪な生活を送るならば、悪以外の何ものをも到底欲することは出来ないのであり、それで信仰は存在していない。

 

 

 

天界の秘義6914〔3〕

 

 しかし彼らがいかようにして悪を公然と為すことを抑えられたかもまた私は知ることが出来たのである。彼らは外なる束縛の中に即ち、名誉と名声とを失う恐怖の中に、天界のその領域の中で財産を失って、地獄へ投げ込まれる恐怖の中に留めおかれ、またその時彼らに単純な善良な霊たちが結合していたのである、このことは、世の人間の場合にも当てはまるのであり、彼らは内部では悪魔ではあるものの、それでもそうした外なる拘束によって尊い公正なものを装うことの中に、また善行の中に留め置かれているのであり、彼らはそのように留め置かれるためには、単純な善の中にいる霊たちが彼らに結合しているのである。それが主が来られる以前天界の低い領域の中にいた悪い者の実態であり、その時彼らもまた彼ら自身の愛から真理を語り、善を為すように強制されることが出来たのである、そのことは悪い祭司、実に最悪の祭司の場合とも異なってはいないのである、即ち、彼らは内部では悪魔ではあり、彼らの聴聞者の心を感動させて敬虔の念を掻き立てる程の熱烈さと熱意を装って彼ら自身の教会の教義的な事柄を説くことは出来るものの、それと同時に自己と世とを求める愛の中にいるのである。なぜなら名誉と利得を求める思いが彼らの内部をあまねく支配しているものであって、その火から彼らは焚き付けられて説教をしているからである。彼らと共にいる者らは悪霊であり、また彼らと同じような愛の中におり、それで彼らと同じような考えの中にいて、彼らを導いている者らは悪霊どもであり、これらの者に単純な善良な霊が結合しているのである。この凡てから主が来られる以前天界の状態のいかようなものであったかを認めることが出来よう。

 

 

 

真の基督教146(3)

 

然し、虚偽の愛がその熱意或は激情の中に隠れているならば、その時それは木に閉じ込められ、爆発して、家を焼き尽くす火のようなものである。それ故、聖言の聖さと主の神性とを否定する方々は、願わくば前述した袋を背中から取り下ろし、それを家に在って自由に開かれるように開かれんことを。さすれば明らかになるであろう。イザヤ書の暁の明星によって意味され、而してバビロンに属しているところの者が、特に自らをイエスの会の会員と呼ぶ者達が、教会に入る時、更に講壇に登る時、しばしば地獄的な愛から発する熱意によって力づけられ、天界的な愛によって熱意を与えられる者達よりも更に激烈に、論じ、更に深い呻き声を立てることを私は非常に良く知っているのである。更に下記(155番)に見られ得るように、他に二つの精神的な活動があって、これが教職者に感動を与えているのである。

 

 

 

真の基督教381

 

偽善者は時としては、説教家になる。その時、彼は小児および青年時代に信仰について学んだものを記憶に留めているが、信仰に関する彼の考えは今は霊性を欠き、それ故、それに基づく彼の説教は空虚な饒舌である。それは真面目に聞こえるかも知れないが、それは自己と世に対する彼の愛が聴衆を雄弁を以って魅了しようとの欲望をもって彼をたきつける故である。偽善的な説教家が講壇を降り、家に帰ると、信仰に関する己が説教と聖言からの引用とを嘲笑し、恐らくかく独言するであろう、「俺は水の中へ網を投げ入れて、かれいと貝とを生け捕った」と。何故なら、これが彼の会衆の中で、真の信仰を持つ凡ての者に対して、彼の抱いている見解であるからである。

 

(中略)

 

偽善的な教職者は老練な喜劇役者、道化者、俳優であり、彼らは王、大公、大僧正、監督の役目を演ずることが出来るが、その芝居衣装を脱ぎ捨てるや否や、淫売窟に行って、娼妓と交わる。

 

(中略)

奇妙なことではあるが、彼はその聖職に従事し、聖言によって真理を教えている時は地獄に向かって戸が閉じられる故、彼らは自分ではそれを閉じていると想像するが、家に帰ると戸は天界に向かって閉ざされる故、何物も信じないのである。徹底した偽善者は悪魔が天使を嫌忌するように、真に霊的な人間を嫌悪する。彼らはこの世に住んでいる間は、このことに気づかないが、それは死後、彼らが由って以って自らを霊的な人間として通用させることの出来たその外的なものが取り除けられることによって明らかにされる。しかし私は「羊の粧して来れども内は奪い掠むる狼」(マタイ7・15)のような霊的偽善者は、天界の天使に如何ように現れるかを語ってみよう。彼らは手で歩いて悪魔に祈り、これを賛美し、空中で雨靴を打ち叩き、かくして天に向かって音を立てる軽業師のように現れるが、自らの足で立つと、その眼は豹のように歩み、口は狐のようであり、歯は鰐のそれの如く、信仰については禿鷹同様いささかもこれを持たない。

 

 

 

神の愛と知恵397

 

彼はただ独りになると、その霊から考えるのであるが

 

 

 

神の摂理298(イ)

 

「人間自身の理知は、その者の意志が悪である時は、誤謬以外には何物も見ず、それ以外の物は何一つ見ようとは欲しないし、また見ることも出来ない」。 これは霊界にしばしば証明された所である。凡ての人間は霊となると―それは死後彼が物質的な身体を脱ぎ捨てて、霊的な身体を着ける時起こるが―彼の生命の二つの状態、即ち外なる状態と内なる状態へ交互に入れられる。彼は外なる状態にいる時は、丁度合理的な賢明な人間が世で行うように、合理的に、賢明に語り、行動し、また道徳的な社会的な生活に関わる多くの事柄を他の者に教えることも出来、もし説教家であったなら、霊的な生活に関わる教訓も与えることが出来る。しかし彼がこの外なる状態から引き出されて、その内なる状態へ入れられ、外なるものが眠って、内なるものが目覚めると、もしその当人が悪であるなら、光景は一変する、彼は合理的なものでなくなって、感覚的になり、賢明でなくなって気違いになる、なぜなら彼はその時自分の意志の悪とその歓喜から、即ち自分自身の理解から考えて、誤謬以外には何物も見ず悪以外には何物も為さず、邪悪は知恵であり、狡猾は深慮であると信じ、彼自身の理解に導かれ、彼自身が神であると想像し、その心のすべては邪悪な術策で満たされる。こうした狂気を私は再三眺めたのである。私はまた霊たちが一時間内に二度も三度も交互にこれらの状態に入れられるのを見たが、その時彼らは自分の狂気を見、それを承認する気持ちになったものの、合理的な、道徳的な状態に止まろうとはしないで、自分から進んでその感覚的な、狂った内なる状態へ帰ったのである、なぜならそれが彼らの生命の歓喜であったため、彼らは、それを他よりも愛したからである。邪悪な人間はその外観の下にこうした性格を持ち、その内なる状態が明らかにされると、このように変形することを誰が信じよう。この経験は人間がその意志の悪から考え、行動する際の彼自身の理解の性質を示すに充分である。善良な者の実情は異なり、彼らはその外なる状態からその内なる状態へ入れられると、更に賢明に、更に道徳的になるのである。

 

 

 

悪い説教家でもまた確信[信念]と似而非なる熱意をもって説くことが出来ることについて

霊界日記3200

 

更に、私たちが集会でもっている熱意の状態へ入れられた或る一人の者がいたが、霊たちは、その者の熱意は自分らには到底堪えることが出来はしないようなものである、と言った。その性質は私には歯の悪臭により表象された。1748年[60歳]9月19日

 

 

 

霊たちの目的とそこから発している生命について、また記憶について

霊界日記4324

 

そうしたことは多くの説教家のもとで見られはするが、しかし彼らの外なるものが取り去られるや否や、彼らはもはや知られなくなって、異なった人物になり、その目的と愛とがむき出しにされるのである。

 

 

 

他生には身体の中に在ったような外なる物はなく、内なるものが在ることについて

霊界日記4325

 

彼らは、その見せかけの中に生きている間は、内部では悪の中にいたにも拘らず、尊敬すべき者のように見えはしたのであり、或る説教家の場合はそうしたものであったのである、彼らは、自分らは外なるものの中にいる間は、説教もし、教えもし、善いことを行いもした、と言ったのである。彼らはこのように、聖言の幾多のものを適用することにより、世にいる間に話したように、良く話したが、しかし内なるものの中へ入れられるや否や、悪魔であることが見られたのである、なぜならそのとき彼らの目的が明らかになり、それは自己の栄誉、富を求め、憎悪、邪悪に満ちた物であったからである。彼らが、そうした外なるものの中にいる間は、そのことを知りはしないことは驚くべきことである、なぜなら彼らの思いはそうしたもので夢中になっているからである、しかしその外なるものが遠ざけられるとき、それはことごとく暴露されるのである。1749年[60歳]7月16日。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244

 

私はこの世が偶像崇拝とならないように、何時までも話し続ける。そのために選んだ人々に、私のことばを繰り返せと言い残す。神の霊が話されるから、知恵ある者は、人間に理解できないことをも理解する。また学者は私のことば、構文、場所、道具などを研究するだろうが、“選ばれた人々”は、このような研究に時を費やさず、ただ愛に満たされて、みことばを聞く。

そして彼らは、話すのが愛であると理解するであろう。彼らは学者たちの美辞麗句、あるいは偽予言者、または自分で実行してもいない教えを教える偽教師の教えを、私から与えられる単純な真理のことばと区別できるだろう。世間は愛を行う彼らを憎むだろう。世間は光である私を憎み、光の子らを憎み、同時に自分の罪を受け入れてくれる闇を好んでいるからである。

私の羊たちは私を知る。未来の羊も私を知る。私が先達として歩む血と苦しみにも従い、私の後を歩む。それは人間の霊魂を知恵へ導く道である。それは正義を教え、世間とサタンの闇を照らし、探し求める人を道と、真理と、命へ導く血と涙の道である。霊魂は何よりも自分たちを命、真理、正しい道へ導いてくれる人を必要とする。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/天使館第3巻上P138 /171・3

 

偽預言者や間違ったことを教える学者たちを警戒しなさい。彼らは羊の皮を被ってあなたたちのもとに来るが獰猛な狼であり、聖者を装ってやって来るが神を嘲笑する者たちであり、真理を愛すると言いながら嘘を常食としています。彼らについて行く前に、彼らを仔細に観察しなさい。

 

 

 

 

4.英国人たちとその説教者たちについて話し合ったことについて

 

 

霊界日記6050

 

 

 

 

5.信仰のみについて

 

霊界日記4261

 

 

霊界日記4262

 

 

 

 

6.真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる

 

 

神の摂理14

 

しかしそれが単に外的なものにすぎないことを知らずに、それを聞いて受ける者には、それはそのようなものではない。なぜなら外なる物は凡ての人にその者自身の内なる性格に応じて影響を与えるからである。真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる