パウロ

 

外観的な熱意摂理

説教家パウロは信仰義認説ではない

 

 

 

1.異邦人のための使徒

2.何とかして死者の中からの復活に達したいのです

3.パウロはインスピレーション[霊感]を受けて話した

4.サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う

5.霊界日記におけるパウロ

6.パウロの刺

7.功績

8.パウロの誇り

9.ペトロ(ケファ)に対する非難

10.主は何度もパウロに現れられた、啓示を受けた

11.天使はパウロに現れた

12.パウロは聖霊に満たされた

13.神は唯一

14.内なる人

15.神殿

16.パウロに対する主の憐れみ

17.ヴァッスーラ

18.すべての人に対してすべてのものになりました

19.他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです

20.神の摂理

21.内部に存在しているこの不潔なものは天使たちの前には現れており

22.囚人

23.負担をかけない

24.主の意図

25.一役演じている老人

26.無報酬

27.奴隷

28.第三天に上げられた

29.青年パウロがわたしを知り

30.わたしに倣う者になりなさい

31.再生

32.真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる

 

 

 

 

 

1.異邦人のための使徒

 

 

使徒行伝13・46−47

 

そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」

 

 

 

 

使徒行伝18・6

 

しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」

 

 

 

ローマ11・13

 

では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。

 

 

 

ローマ12・14

 

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

 

 

 

ローマ15・15−16

 

それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。

 

 

 

ローマ15・18−19

 

キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。

 

 

 

 

2.何とかして死者の中からの復活に達したいのです

 

 

フィリピ3・8−14

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 

 

 

 

3.パウロはインスピレーション[霊感]を受けて話した

 

 

霊界日記6062

 

ツィンツェンドルフは抽象的な観念の中にいたが〔抽象的に考えていたが〕、それは彼がたれかに話しかけているようではなくて、自分自身の中で考えているか、または何一つ他に洩らしはしない友と話しているかのようであった。彼は、自分は主については他の人間について考えるようにしか考えることは出来ないし、主は神であるとは考えることは出来ない、と言ったものの、神的なものが主の中に在る、とは言ったが、それは他の人間のもとに在るような神的なものであるという意味であった。彼はまた、主は非常に単純な方法で話し、賢明には話さなかったが、パウロは更に賢明に話した、とも言った。しかし彼は以下のことを示された、即ち、主は、まさしく予言者たちにより話されたように、幾多の相応したものにより、神的な知恵そのものから話されたのであり、従って、主御自身の神的なもの〔神性〕から話されたのであり、パウロはインスピレーション[霊感]を受けて話したことは事実ではあるが、予言者たちと同じようには話さなかったのであり、予言者たちは一つ一つの言葉もことごとく口授されたのである、しかしパウロのインスピレーション[霊感]は、彼が己がもとにある幾多のものに従って、流入してくるものを受けたということであって、それは全く異なったインスピレーションであり、相応したものによる天界との連結を全く持っていないものである、と。

 

 

 

 

4.サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う

 

 

使徒言行録26・12−18

 

「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

 

 

 

 

5.霊界日記におけるパウロ

 

 

パウロについて

霊界日記4321

 

 彼は長い間やや右の方の前面にいたが、幸福を得ることも出来ることが示されはしたが、しかし機会が与えられる度毎に、絶えず信仰の諸真理に反したことを話した。遂に或る一人の霊が高い所に摘発されたが、彼は自分はパウロを導いているのである、と言った。彼はパウロを、またパウロに属している凡ゆるものを導いている者として非常な自信をもって話し、自らが、いわば、神である、と言明し、主のようにスフィアを吐き出した。しかし彼は、自分自身が、普通の見解に従ってアダムとエバを欺いたかの悪魔そのものであると考えている或る一人の悪魔であった。彼は地獄の洞穴の中へ送られ、そこをぶらつきまわって、遂に私の足下へまっすぐに来て、そこから話した。そこから彼は、雲に包まれて徐々に上って来たが、しかしそれは彼の幻想であった。その際私はパウロが彼と話して、自分は彼の仲間になりたい、二人は共になって、自らを神にしようと言っているのを聞くことを与えられた。それで彼らは共になり、前面の非常な遠方へ連れ立って行き、そこにいる者らを欺こうとしたが、行く先々で斥けられてしまった。更に私は眠っている間に姦通者らにより悩まされたが、この二人はそのことを認めると、その悩ませた者らに力を貸し、極めて頑強に私を下劣な思考の流れの中に閉じ込めたため、私は殆ど自らをそこから解き放つことが出来なかった。これらの姦通者または淫婦らは打たれることにより、または互いに相手に打ちつけられることにより罰せられたが、それが彼らに適した刑罰であり、この二人の者もまた、そのことに関わりを持っていたため、同じ刑罰を受けた。ここからパウロはそうした極悪の性格を持っていることが凡ての者に知られ、また彼がこれまでのその当然の刑罰を免除されたのは或る原因のみから起ったことも凡ての者に知らされた、なぜなら卑しい者は卑しさのために罰しられるからであり、そのことについて私はまた彼と話したのである、彼は今は、ぶらつきまわって、砂地[荒野]に近づいている群れの者らの間にいる。1749年[60歳]7月10日。

 

 

 

たれ一人手段によらなくては、または奇蹟的な方法では善良な者にはならないことについて

霊界日記4322

 

私は或る一人の霊と話し合い―その霊はパウロであったが―たれ一人奇蹟的に善良な者になることは出来ないことを主張した。或る者らは、自分らがすぐにも天界へ挙げられて、主の全能により、天使となることが出来る状態へ入れられることが出来ないことを怪しんだ。しかし以下のように答えられた、即ち、悪は善となることは出来ないし、また、たれ一人、その悪が消散されない中は、または征服されない中は、そこへ入ることも出来ないのであり、そのことはただ、先見されている神的な方法によってのみ遂行されるのであって、奇蹟的には遂行されはしないのである、と。また以下のようにも言われた、即ち、もし悪がその悪魔から取り去られるなら、生命は極めて僅かしか残らなくなり、そのことは、他生では幾多の社会を遠ざけてしまうことにより行われはするものの、奇蹟的に働くことである、と。彼はそのように考えていたため、その幾多の社会が遠ざけられたが、その際彼はその手で這い回る幼児のようにもなって、彼は話したり、または考えたりする方法を知らなくなりもし、ただ、生まれたばかりの赤児のようにその腕を動かすのみとなったのである。もし悪い者が奇蹟的に善良になろうともとめるなら、彼らはそのようになってしまうのである。1749年[60歳]7月10日。

 

 

悪魔その者について、目的から

霊界日記4323

 

或る一人の者は自分自身がアダムとエバをたぶらかした悪魔である、と考えたが、これにパウロは自分自身を接合させたのである。彼は他の一人の霊のように現れて、人間であるかのように、悪いことは話さなかったものの、依然一種の暗黒の状態の中にいた。私は彼の性質について怪しんだ、なぜなら憎悪、復讐、残酷、姦淫は彼からは他の者らから認められるようには認められなかったからであるが、しかし私は、彼はそうしたことは意に介しないで、ただ善と真理とを破壊しようとする目的のみを抱いており、それでそれ以外のものは何一つ彼の意図へは入りはしない、と告げられた。目的が人間を審判(さば)くものであり、この部類の者はそうした目的からけしかけられるため、彼らは悪魔そのものである、なぜなら彼らはその目的を深く隠していて、前に言った、その憎むべき衝動から行動し、手段を、それが冒瀆的なものであれ、聖いものであれ、顧慮しないからである。1749年[60歳]7月12日

 

 

 

パウロについて

霊界日記4412

 

 パウロは使徒たちの中でも最悪な者らの間にいるが、そのことは充分な経験から私に明らかにされている。自己を求める愛が―彼は福音を宣べ伝える以前にその愛に捕えられられていたが、その愛がその後もまた彼のもとに止まっており、彼はその際、大半の時、同じような状態の中にいたため、その愛によりまたその性質により焚き付けられて、擾乱(じょうらん)の場にいようと願ったのである。彼は凡ゆる事を天界で最大の者になろうとし、またイスラエルの全種族を審こうとする目的から行ったのである。

 

彼はその後もそうしたものとして止まったことは非常に多くの経験から明らかになっている、なぜなら私は彼とは他の多くの者の場合よりも多く話したからであり、実に、彼はそうしたものであるため、他生では他の使徒たちはその交わりから彼を斥けてしまい、最早彼を彼ら自身のものの一人として認めてはいないのである。私はまたそのことを以下の事実からも知ったのである、即ち、彼は、凡ゆる物を支配しようと欲している最悪の悪魔共の一人に自らを結びつけて、己が目的を達成するため、誓約をもってこの悪霊に荷担したのである。その他多くの事柄があるが、それを述べるとなると余りに退屈なことになるであろう。もし私がパウロについて知っていることをことごとく述べるとなると、それは数様の紙面に満ちる程にもなるのである。

 

彼が書簡を書いたことは、彼がその書簡に意味されているように思えるものであったという証明にはならない、なぜなら不敬虔な者でさえも良く説教もし、書簡を書くことも出来るからである、話したり書いたりすることと、現実の人柄とは異なっており、そのこともまた彼に言われたのである。更に彼はその書簡の中では、主が言われたことを、その最小の言葉さえも記してはいないし、主の譬え話の一つさえも引照してはいないし、それで彼は―また彼に言われたことではあるが―主の生涯と言われたことからは何一つ受けてはいないのであるが、それでも福音書の中には福音そのものが在るのである。

 

 

 

聖言の文字の意義と偽善者について。パウロについて。

霊界日記4413

 

 己が業に功績を置こうとするため、聖言の内なる意義を何ら意に介しない或る一人の者がいた(それはパウロである)。彼は長い間私から遠ざかっており、また最悪の部類の霊共の間にいた。彼は今は最悪の悪魔共と交わり、今自らのために霊共の或る天界を形作って、これに彼自身から楽しさを、しかし欲情と快楽との楽しさを与えようとした、そのことをまた彼は企てもしたが、彼はそのため更に悪いものとなり、投げ落とされてしまった。その際私は彼に、それは天界ではなく、地獄であると話したが、実際それは黒い地獄に変わったのである。特に彼はその周りに偽善者らを得ようと願ったが、その者らについて私は彼らと話したのであり、私のもとに数日にわたって偽善者らがいたが、そのことを私は歯の痛みにより知ることが出来たのである、即ち、彼らは声も立てないで絶え間なく私を脅迫したが、そのことはパウロから来ていることが認められもしたのである、彼は聖言の内なる意義を憎んでおり、その憎しみの怒りの結果彼の周りに偽善者が引き寄せられているのである、事物はこのように関連づけられているのである、なぜなら偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重するからであるが、そのことは彼らがそこから多くの事柄を取り出し、それを用いて一般人を説得し、かくして自らが敬虔なものとして見えることが出来るためである。

 

 

 

霊界日記4824

 

パウロの書簡には内意がないことは他生では知られているが、しかし教会に属している者たちが、内意を宿している主の聖言に悪を働かないようにと、その書簡が教会内に在ることが許されているのである。なぜならもし人間が悪い生活を送りつつも、聖い聖言を信じるなら、彼は天界に悪を働くからであり、そのためパウロの書簡は許されており、それでパウロは主から一つの譬えも、一片の教義すらも取り出して、それを説明し、明らかにすることを許されはしなかったのであり、彼は凡てのものを彼自身から得たのである。教会は、実に、主の聖言を説明はするが、しかしパウロの書簡により説明しており、そうした理由からまたそれは凡ゆるところで仁慈の善から逸脱して、信仰の諸真理を受けているのであるが、しかし主はそのことを教えられ、仁慈の善が凡てのものとならなくてはならないといった方法で教えられたのである。

 

 

 

霊界日記6074

 

 ツィンツェンドルフらは、旧約聖書の聖言を斥け、福音書を一種の軽蔑をもって読み、パウロ書簡のみを尊重したのである。

 

 

 

霊界日記4561小

 

 パウロは、生きている間は、他生については、ただ世のことを考えるようにしか考えはしなかった。彼はそこには世の栄光が在ると考えて、天界の栄光はいかようなものであるか、またはそれは何か意義のあるものであるか、否かを知りはしなかった。それで彼は、凡ての者を天界へ入れる者は自分であり、主は彼らを自分のために受け入れられる、と考えた。更に、彼は自分は他の者にもまさってそのことに価している、と考えた。その栄光のために、即ち、世的な栄光のために、自分が最大の者になろうとして、かくも多くの危険と刑罰を受けたのであり、従って主が教えられた動機とは異なった他の動機から(多くの危険と刑罰とを買って出たのである)、しかし主は最大のものになろうとする者は(天界に)入りはしないで、最小のものになろうとする者が入るのであり、最後の者が最初の者になる、と教えられたのである。そのため、彼は、幾多の場合、悪霊と悪魔らと共になり、自らのために、全く奈落の天界を作ろうと企てたのであり、かくて彼は聖言の内意を斥けるのである、なぜなら聖言の内意は世の栄光とは対立しており、功績とも対立しているからである。

 

 

 

霊界日記4562小

 

 彼は手もとに一枚の紙を持っているように彼自身に思われており、何であれ、その観察するものを書き記すのである。しかし彼の書き方が私に示された、即ち、端がぐるりと曲がっている幾条もの線により記されるのである。恐らくそうした書き方が、彼らのもとでは、彼らの言語に沿っているのである。そのことが彼に許されているのは、述べられねばならない事柄がそれだけ充分に彼の記憶に刻みつけられるためである。私には彼が再びそうしたものを眺めるか、否かは分からない。もし彼が再びそれらのものを眺めるなら、恐らく、彼には有利な、何かの事柄がその際彼の記憶に思い出されるのである。遂に、パウロは、左の、上方に、彼自身により一つの住居を与えられたが、しかし依然彼は再三騒ぎを起そうとした。遂に、彼は更に低い所へ連れて来られたが、そこでは彼は自分がパウロであったことを知ってはいないのである。

 

 

 

霊界日記4631小

 

 私はパウロと、以下の意味のことを話した、即ち、あなたは天界へ人を入れる者となろうと欲していて、主はあなたが受け入れる者を受け入れなくてはならない、と考えてはいるが、そうしたことは馬鹿気切ったことである、なぜなら天界へ入れられることは気まぐれな楽しさから起るものではなくて、生命から起るのであり、生命は主以外にはたれにも知られていないからである、と。私は以下のことを述べた、即ち、もしあなたが聖言を文字に従って理解されたとするなら、そのことはペテロの務めとなるのである、なぜならペテロに天国の鍵が与えられているからである、と。彼は言った、自分はその鍵を彼から盗んで、それを自分自身に独り占めにしたいのである、なぜなら自分は彼よりも更に働いたからである、と。パウロはペテロに徹底的に反感を抱いており、ペテロは何一つ理解してはいない、それで彼には全く力が無い、と言っている。

 

 

 

霊界日記6062

 

ツィンツェンドルフは抽象的な観念の中にいたが[抽象的に考えていたが]、それは彼がたれかに話しかけているかのようであった。彼は、自分は主については他の人間について考えるようにしか考えることは出来ないし、主は神であるとは考えることは出来ない、と言ったものの、神的なものが主の中に在る、とは言ったが、それは他の人間のもとに在るような神的なものであるという意味であった。彼はまた、主は非常に単純な方法で話し、賢明には話さなかったが、パウロは更に賢明に話した、とも言った。しかし彼は以下のことを示された、即ち、主は、まさしく予言者たちにより話されたように、幾多の相応したものにより、神的な知恵そのものから話されたのであり、従って、主御自身の神的なもの[神性]から話されたのであり、パウロはインスピレーション[霊感]を受けて話したことは事実ではあるが、予言者たちと同じようには話さなかったのであり、予言者たちは一つ一つの言葉もことごとく口授されたのである、しかしパウロのインスピレーション[霊感]は、彼が己がもとにある幾多のものに従って、流入してくるものを受けたということであって、それは全く異なったインスピレーションであり、相応したものによる天界との連結を全く持っていないものである、と。

 

 

 

 

6.パウロの刺

 

 

コリント2・12・1−12

 

わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。

わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。

 

 

 

天界の秘義814

 

彼らが何処から来て、またいかような者であるかが良く知られるために、彼らは送り出される時は一種の指輪を持っていて、それに真ちゅうの刺針のようなものがつけられているが、これを彼らは手で押さえて、ねじ曲げている。これは彼らがこのような性質のものであって、縛られているという印となっている。

 

 

 

天界の秘義5476

 

「さらに、見なさい、かれの血は探し求められています」。これはそこから発した良心の呵責[刺]を意味していることは、『血』の意義から明白であり、それは善または仁慈に加えられた暴行である(374、1005番を参照)。この暴行、またはこの血が探し求められるとき、良心の呵責と呼ばれる内なる不安が生まれるのであるが、しかしこれは罪を犯したとき不安になる者の場合にのみ見られるのである(5470番)。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P278

 

[] この世において霊的心をもつ者が苦しむというのは、真理を味わうことができないために性格が歪み、隠れた罪によって霊的識別力を失ってしまった者たちが誤解するからである。この種の人々は、正しい人間を前にすると違和感を覚えて本能的に敵対せざるをえなくなる。だが、神に敏感な感性と良心をもっているその人は、似た心の人を前にすれば互いに引き寄せあう神の生命をそこに見る。

 

 真のクリスチャンの生命は、切りかかる斧に対して害を加えず逆に芳香を返すサンダルウッド(白檀)にも似ている。神はヘンリー・スソーに対して「あなたは名声の失墜に苦しむだろう。愛と信頼を求めるところ、あなたは裏切りと苦しみをみる」と警告されたが、これは多くのクリスチャンの経験にいえることである。

 

神的預言者、使徒、キリストご自身さえ苦しまねばならなかったこの世において、苦しみを避けたいと思えば真理を拒否し、神から顔を背け、この世と馴れ合いになるしかない。一方、キリストと受難の交わりを共にすることは大きな特権である。やがて定められたときがきて、主と苦しみを共にした人が永遠の栄光に入り、神とともに治めるときがくる。

 

 

 

[]わたしたちは定められた目的地に辿り着く前に痛みと苦しみと誘惑を通らなければならない。このような段階はすべて、霊的生命の成長にとって、未来の幸せにとって必要である。わたしたちがそこを通るよう神が求められているのはそのためである。これが神の計画でなかったなら、神はわたしたちにそれを求めることもなかったであろう。だが、神が求めておられるのであれば、誰がそれに対抗できよう。わたしたちに降りかかる運命はみな喜んで受けとめ、どんな疑いも抱いてはならない。疑いは人と神との間に壁を作り、神の臨在と交わりを楽しむ力を奪ってしまうのである。

 この世にいる限り、わたしたちは痛みと苦しみに耐えなくてはならない。蜜蜂は蜜を集めるばかりではなく、特別な目的のために針も兼ね備えている。美しく香り高いバラのトゲも、意味なく備わっているわけではない。パウロの肉に刺さったトゲもまた、大いなる計画を実現させるために与えられたのだ。わたしたちは創造された永遠の目的を実現するために、このような試練をくぐらなければならないのである。

 

 

 

フィリピ3・10−14

 

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P47

 

彼はまた、断食が自分の性格に決定的影響を与えたといっている。

「四十日の断食を試みるまでは、自分は度々誘惑に襲われた。あなたがわたしについての本を書かれるときには、わたしの弱さも書かなければならない。疲れているときに人々から話しかけられたり、くどくど質問されたりしたときには、きまって苛立ったものである。今もそれが多少はあるが、断食前とは比較にならない。人は、そのようなことには気づきもしなかった。大したことではないというが、それでも自分にとっては、けっして持ちたくない欠点なのだ。これは、多くの困難と猜疑心の原因になったが、逆に、この欠点によって自分を低くすることができたのかもしれない。それは、ちょうど、聖パウロのいった“肉の中の刺”のようなものである。これは、同じものではないか、とよくわたしは思う。あるいは、まだ肉体から脱け切れずにいるためかもしれないが、そうでないことを願いたい。断食前には、また他の誘惑にも悩まされた。飢えや渇きに苦しんだとき、わたしはよく不平を鳴らし、なぜ与えてくださらないのかと主にたずねたものである。主は、いっさい金を携えるなといわれた。だが、お金さえあれば、何でも買えたからである。しかし、断食をしてからは、同様な困難の下でも、“これは父の御心である”、“自分はそれに値する何かをしたのだ”といえるようになった。

 また、断食前の自分は、苦しみを伴うサードゥーの生き方を捨て去り、家に帰って結婚し、楽な生活をしたい、という誘惑にも駆られた。それでも善良なクリスチャンであり続け、神との交わりを保てるのではないかと。だが、断食後に、確かに他の人々にとっては、金や家を持ち楽な生き方をすることは罪ではなくとも、自分に対する神の御心は違うことがはっきりした。主のお与えになったエクスタシーは、どんな家屋敷よりも快い。他のどのようなものにも増して素晴らしい歓喜がそこにあるのだ。わたしの真の結婚相手はキリストである。結婚はよからぬことだと人々にいっているのではない。しかし、すでにキリストとつながれているのに、どうして他の人と結婚できようか』」

 

 

 

 

 

7.功績

 

フィリピ3・10−14

 

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 

 

 

テモテ2・4・6−8

 

わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

 

 

 

天界の秘義1936[]

 

もし人が善行に功績を置くならば、またはそれを利得、名誉、名声のために行うならば、たれ一人その善行のために他生では決して報われはしないということは、またたれ一人悪い行為のためには、もしその者が真に善良な目的から行動しているならば、決して罰せられはしない、その目的からその行為が顧慮されるということは神的な真理である。このこともまた合理的なものによっては信じられることはできないのである、しかしそれは真であるため、合理的なものを信じてはならないのである、なぜならそれは内なるものからその結論を作りはしないで、外なるものからそれを作っているからである。

 

 

 

天界の秘義2273

 

私は人間はもし試練に何らかの功績を置くならば、その者はその試練のために救われはしないとすら言いたいのである、なぜならもし彼がそうしたことを行うならば[もし彼が試練に功績をおくなら]それは以下の点で自己愛から発しているからである、即ち、彼はその試練のために自分自身を祝って、自分は他の者以上に天界に価しているものであると信じると同時に他の者を自分に比較して軽蔑することにより自分自身が他の者よりも遥かに卓越しているものと考えるのであるが、こうしたことのすべては相互愛に反しており、それで天界の祝福にも反しているのである。

 

 

 

天界の秘義2273 []

 

人間が試練の中におかれて征服するさい、その試練には他の者はすべて自分自身よりも価値があり、自分は天界的なものであるよりはむしろ奈落的なものであるという信念が伴っているのである、なぜなら試練におかれている間にはこうした観念[考え]が彼に示されるからである、それで試練の後で彼がこうした考えに反した考えを持つようになるときは、それはその者が勝利を得てはいない[征服してはいない]ことを示しているのである、なぜならその人間が試練の中でもった思考「考え」は、その思考[考え]に向って、その人間が試練の後で持つ思考[考え]がたわめられることが出来るものであり、もし試練の後の思考が試練の中の思考に向ってたわめられることが出来ないなら、その人間はその試練の中で敗北したか、または再びそれに類似した試練に入れられ、ときとしてはそれよりも更に甚しい試練に入れられて、遂には自分は何物にも価してはいないことを信じるといったまともな考えを抱かせられるか、その何れかであるからである。ここから『四十人』によりここでは試練によりその者のもとで善が真理に連結している者たちが意味されていることが明白である。

 

 

 

8.パウロの誇り

 

 

コリント1・4・4

 

自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。

 

 

 

コリント1・9・15

 

だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。

 

 

 

コリント1・15・10

 

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

 

 

 

コリント2・10・13

 

わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。

 

 

 

コリント2・11・5

 

あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。

 

 

 

コリント2・11・16−33

 

もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうですキリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。

 

 

 

コリント2・11・23

 

キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

 

 

 

コリント2・12・1−12

 

わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

 

それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

 

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

 

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。

 

わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。

 

 

 

 

フィリピ2・16

 

こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

 

 

 

コロサイ2・1

 

わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。

 

 

 

ルカ17・9−10

 

命じられたことを果したからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果したら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。

 

 

 

 

9.ペトロ(ケファ)に対する非難

 

 

コリント1 9・5

 

わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

 

 

 

ガラテヤ2・11−14

 

さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向って反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向ってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

 

 

 

 

10.主は何度もパウロに現れられた、啓示を受けた

 

 

使徒言行録18・9−11

 

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

 

 

 

使徒言行録22・6−11、(使徒言行録9・3−9)、(使徒言行録26・12−17)

 

「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。

 

 

 

使徒言行録22・17−21

 

さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』

 

 

 

使徒言行録23・11

 

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

 

 

 

コリント1・11・23

 

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 

 

 

コリント1・15・8

 

そして最後に、月足らずで生れたようなわたしにも現れました。

 

 

 

ガラテヤ1・11−12

 

兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

 

 

 

ガラテヤ2・2

 

エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。

 

 

 

ガラテヤ2・8

 

割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。

 

 

エフェソ3

 

こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは・・・・・。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。

 

 

 

コロサイ1・25−26

 

神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。

 

 

 

11.天使はパウロに現れた

 

 

使徒言行録27・23−24

 

わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』

 

 

 

12.パウロは聖霊に満たされた

 

 

使徒言行録13・9

 

パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。

 

 

 

使徒言行録16・6−7

 

さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。

 

 

 

使徒言行録20・22−23

 

そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。

 

 

 

 

13.神は唯一

 

 

ローマ3・30

 

実に、神は唯一だからです。

 

 

 

ローマ9・5

 

キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

 

 

 

コリント1 8・

 

そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

 

 

 

フィリピ2・6−8

 

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

 

 

コロサイ1・15

 

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生れた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。

 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

 

 

テモテ1・2・5

 

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスたたおひとりなのです。

 

 

 

14.内なる人

 

 

ローマ7・22

 

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内になる罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

 

 

 

コリント2・4・16

 

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

 

 

 

15.神殿

 

 

コリント1・3・16−17

 

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

 

 

 

コリント2・6・16

 

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。

 

 

 

16.パウロに対する主の憐れみ

 

 

テモテ1・1・12−17

 

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。

そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

 

 

天界の秘義6489

 

 主の摂理[主が供えられること]は先見と連結しており、一方は他方無しには在り得ないのである。なぜなら悪は先見されて、善が(それに対し)供えられるからである。そして先見される悪は、主が(それに対して)供えられる処置により、絶えず善へ向けられている。なぜなら神的な善の目的が遍く支配しているからである。かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的が無いなら許されはしないのであるが、しかし人間は、改良されるために、自由を持っているため、自分自身が自由の中にあって悪から善へ向けられるのに堪えるに応じて、(悪から善へ)向けられるのであり、(もし彼が天界へ導かれることが出来ないなら)、極悪の地獄から―そこへ彼は凡ゆる努力を尽くして飛び込むのであるが、その地獄から―更に穏やかな地獄へと向けられるのである。

 

 

 

天界の秘義8391(仁慈の教義)

 

信仰の生活を送る者は日々悔改めている。なぜなら彼は己が中にある悪を反省し、それを承認し、それに対して自分自身を警戒し、主に助けを懇願するからである。なぜなら人間は自分自身からは絶えず落ちているが、主により絶えず引き挙げられているからである。彼は悪いことを欲望をもって考えるときは、自分自身から落ちるのであるが、悪に抵抗し、従ってそれを為さないときは、主から引き挙げられているのである。善の中にいる凡ゆる者の状態はこのようなものであるが、しかし悪の中にいる者らは絶えず落ちており、また絶えず主により引き挙げられている、しかしそれは彼らを凡ゆる地獄の中でも最も悲惨な地獄に落とされないためであり―彼らは彼ら自身からではその全力を尽くしてそこに落ち込むのであるが―かくて実に彼らをさらに和やかな地獄へ引き挙げられるためである。

 

 

 

 

17.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P225

‘98・11・30

 

言っておく、私は使徒パウロの心に啓示を与え、一致の大切さと 皆を結び合わせる平安をもって 霊の一致をどう保つかを分からせた。 我が賜の順位も 同時に理解させた。私の好意を一人ひとりに授け、どのようにでも振り分けると悟らせた。私が高みに昇っては、魅惑して捕らえ、人類に賜を授けたと分からせた。そしてある人に授けた賜は 使徒として、ある人は 預言者として。ある人は、伝道師。ある人は牧者や教師として、皆が共に、一つの心と声をもって、私のからだ、教会を作り上げるためだった。

 

 

 

18.すべての人に対してすべてのものになりました

 

 

コリント1・9・22

 

すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音と共にあずかる者となるためです。

 

 

 

19.他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです

 

 

コリント1・9・27

 

むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

 

 

 

20.神の摂理

 

 

天界の秘義6481

 

 他生に入ってくる霊たちは、神的摂理[神の摂理]は全般的なものではあるが、個々のものの中には働いてはいないという意見を抱いてくる。この意見の原因は、彼らは悪い者が名誉を与えられて、金持ちになり、成功の栄冠をつけるのを見、それをこうした者らはその者ら自身の賢明さに帰してはいるが、以下のことを知ってはいなかったということであった。すなわち、神の摂理は人間の永遠の救いをその目的としており、かくて、この世の人間の幸運を、すなわち、人間の豊かさと卓越とを目的としてはいないのであり、大半の人物はその身体の生命の間では幸福そのものをその豊かさと卓越とにおいているが、事実はそうしたものではない。なぜなら卓越は普通自己愛を生み、豊かさは世を愛する愛を生み、かくて神に対する愛と隣人に対する愛とに反したものを生むからである。それでこうした物は悪い者に与えられ、また善い者にも、もしそれが不適当なものでなく、彼らを天界から引き出さないなら与えられるのである。さらに主は善い者を通してのみでなく、また等しく悪い者を通してもその御目的に備えられているのである。なぜなら主は悪い者をその者の愛そのものを通して動かして、隣人に、国に、教会に良いことを為させられるからである。なぜなら悪い者は卓越することを求め、自分自身の益を求め、そしてそうした物のために、他から正しい熱意のあるものであると見られようと願い、そうした願いから、恰も火で焚き付けられるように、気質の善良なものよりもさらに強く動かされてそうしたことを行うからである。悪い者にはまた、凡ての物は彼ら自身の悧巧さから生まれ、神の摂理などはない、あってもただ全般的なものしかないと信じることも許されているのである。彼らはそれ以外のことは認めようとはしないため、また彼らが公共の善に資する事柄を遂行するようにと、成功もまた彼らの企画に応じて彼らに与えられているが、その成功は、彼らがそれを彼ら自身に帰しているという事実から、彼らを更に刺激するのである。

 

 

 

仁慈の教義202

 

主は人間各々を通して善を生み出されることができ、悪い人間が生み出す悪を善に向けられることが出来るのである。主は悪い人間をその人間自身のために、また世のために善を行うように刺激されることが出来るが、しかしその時でも主はその人間の悪の中へ流れ入られはしないで、その周囲に、その人間の円周の中へ流れ入られ、かくてその者の外なるものの中へ―その人間はその外なるものにより善として見えるように願っているのであるが、その外なるものの中へ―流れ入られるのである。それでこの善は、それが悪である限り、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金を被せた糞であり、それは純金以外のものであるとは殆ど信じられはしないものの、嗅覚の鋭い鼻孔のもとへ持ってこられると、その汚臭が認められたのである。

 

 

 

天界の秘義6489

 

 主の摂理[主が供えられること]は先見と連結しており、一方は他方無しには在り得ないのである。なぜなら悪は先見されて、善が(それに対し)供えられるからである。そして先見される悪は、主が(それに対して)供えられる処置により、絶えず善へ向けられている。なぜなら神的な善の目的が遍く支配しているからである。かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的が無いなら許されはしないのであるが、しかし人間は、改良されるために、自由を持っているため、自分自身が自由の中にあって悪から善へ向けられるのに堪えるに応じて、(悪から善へ)向けられるのであり、(もし彼が天界へ導かれることが出来ないなら)、極悪の地獄から―そこへ彼は凡ゆる努力を尽くして飛び込むのであるが、その地獄から―更に穏やかな地獄へと向けられるのである。

 

 

 

神の摂理257

 

しかしなぜ主はこれを許されたかを今説明しよう。主はそれを人間の救いのために許されたことは否定することは出来ない。なぜなら主なしには救いはないことはよく知られており、それ故主が聖言から宣べ伝えられて、キリスト教会がそれにより建設されねばならなかったからである。しかしこれはその業に熱心な指導者によってのみ為されることができたのであり、その指導者の中にはその表面の熱意が熱情または自己愛で燃やされている者以外の者は見出されなかったのである。この熱情が先ず彼らを刺激して主を知らせ、聖言の真理を知らせたのであり、魔王が『朝の子』(12節)と呼ばれているのは、この最初の状態のためである。しかし彼らは教会の聖い物により支配することが出来ることを認めると、最初彼らを刺激して主を知らせた自己愛が内から迸り出て、遂には自分自身に主の神的な権能を僭取し、主には何ものも残さないほどにも甚だしくなった。これは主の神的摂理によりとどめることは出来なかった、なぜならそのような場合彼らは主は神ではなく、聖言も聖くはないと宣言し、ソツニウス派またはアリウス派となり、かくして全教会を―それは今も、その支配者らの性格は如何なるものでもあれ、従順な人々の許に存在しているのである―破壊したことであろう。なぜならこの宗教に属し、主に近づき、悪を罪として避ける者は凡て救われ、それゆえ霊界では多くの天界の共同体が彼らから形作られているからである。

 

 

 

 

21.内部に存在しているこの不潔なものは天使たちの前には現れており

 

 

天界の秘義9917〔4〕

 

 エレミヤ記には―

 エルサレムは罪を犯した、その不潔はその裾にあった(哀歌1・8、9)。

『裾〔スカート〕の不潔』は行為と業における、引いては最も外なるものにおける(不潔)を意味している、なぜなら最も外なるもの、または最も外部のものは内的なものからその本質を得ており、それで内部が不潔である時は、その不潔は人間の前に現れていないかもしれないが、その最も外なるものもまた不潔であるからである、その不潔が人間の前に現れないことは人間は外なる形を眺め、それで内部を見ないという理由によっているものの、それでも内部に存在しているこの不潔なものは天使たちの前には現れており、他生では外なるものは取り去られるため、そこでは凡ての人間のもとに残らずそれは暴露され、従ってその業の本質の性質がいかようなものであったかが明らかにされるのである。

 

 

 

仁慈の教義202

 

主は人間各々を通して善を生み出されることが出来、悪い人間が生み出す悪を善に向けられることが出来るのである。主は悪い人間をその人間自身のために、また世のために善を行うように刺激されることが出来るが、しかしその時でも主はその人間の悪の中へ流れ入られはしないで、その周囲に、その人間の円周の中へ流れ入られ、かくてその者の外なるものの中へ―その人間はその外なるものにより善として見えるように願っているのであるが、その外なるものの中へ―流れ入られるのである。それでこの善は、それが悪である限り、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金を被せた糞であり、それは純金以外のものであるとは殆ど信じられはしないものの、嗅覚の鋭い鼻孔のもとへ持ってこられると、その汚臭が認められたのである。

 

 

 

 

22.囚人

 

 

エフェソ3・1

 

こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。

 

 

 

エフェソ4・1

 

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、

 

 

 

 

23.負担をかけない

 

 

テサロニケ1・2・9

 

兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。

 

 

 

テサロニケ2・3・7−9

 

あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。

 

 

 

 

24.主の意図

 

 

テモテ1・1・15−16

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。

 

 

 

 

25.一役演じている老人

 

 

結婚愛6

 

しばらくするとすべての食卓は食物の皿で満たされたように見え、その間の小さな場所は菓子を盛った小さな尖塔形のもので飾られた。客人たちは食卓の主人を見ようと期待しながらその周りに立った。期待された人々が間もなく、アブラハムから使徒たちの最後へと順序正しく、行列を作って入って来るのが見えた。(中略)祝宴の後で教父たちは去り、次に遊戯、青年男女の舞踏が始まり、その後で公けの演劇が始まった。(中略)

これらが終わると彼らは再び祝宴に招かれたが、しかしそれには最初の日はアブラハム、二日目はイサク、三日目はヤコブ、四日目はペテロ、五日目はヤコブ、六日目はヨハネ、七日目はパウロと共に、そして十五日目までは順序を追ってその他の者と共に食事をしなければならない、その後再び祝いの行事が座席を変えて、同じ順序で新たにされ、それが繰り返されて永遠に続くという条件があったのである。

この後で天使は一行の人々を呼び集めて言った、「あなた方が食卓で眺められた人はすべて天界の喜びとそこから来ている永遠の幸福とについてあなた方自身と同じように想像しておりました。で、彼らは彼ら自身でその考えの空しいことを認めて、そこから導き出されるためにこのような祝宴の真似事が主から供えられ、また許されもしたのです。あなた方が上席の食卓で眺められた主だった人々は一役演じている老人であって、その大半は百姓で、ひげを生やし、多少の富を持って、他の者よりも高慢で、心に自分たちはこの古代の教父であるという幻想を植え付けられているものです。

 

 

 

真の基督教829

 

 宗教は人間の心の最高の領域に宿り、そこから低い諸領域がその生命と光を得ている。マホメット教徒の心にはマホメットに対する考えが宗教と密接に連なっているため、マホメットを装う者が常に彼らの目に見える辺りに置かれ、彼らが主の在す東方にその面を向けるように、そのマホメットの代理は中央の基督教徒の下に置かれる。これはコーランを書いたマホメットではなく、また常に同一の人間でもない。アルヂェリア人によって捕虜にされマホメット教徒となったサクソニー生れの一人が嘗てこの位置を占めたことがある。彼は基督教徒であった為、彼らに主のことを話し、主はヨセフの子ではなくて神の子であると語った。後にこの人物に他の者が代った。このマホメットを代表する位置はマホメット教徒にのみ見える松明のように焔によって示される。

 

 

 

真の基督教830

 

 コーランを書いた真のマホメットは最早その追随者等には見えない。最初彼は彼等を統べ治めていたが、神のように彼等の宗教のすべてを支配しようと努めた為、ロマ・カトリック教徒の下にある彼のその座席から退けられ、南に追われたことを私は告げられた。或るマホメット教徒の一社会が嘗てマホメットを神として認めるように悪霊にそそのかされたことがあった。その騒擾を鎮めるためにマホメットは下界から連れて来られ、彼等に示された。その際私もまた彼を見たのである。彼は内的な認識を少しも持っていない形体的な霊に似、その顔は極めて暗かった。私は彼が余が諸君のマホメットであると語るのを聞いた。かく言って彼は再び下に沈んで行った。

 

 

 

 

26.無報酬

 

 

コリント1・9・1−18

 

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。わたしを批判する人たちには、こう弁明します。

わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。

 

しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

 

 

 

コリント2・11・8−9

 

わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。

 

 

 

申命記25・4

 

脱穀している牛に口籠(くつこ)を掛けてはならない。

 

 

 

マタイ10・10

 

働く者が食べ物を受けるのは当然である。

 

 

 

ルカ10・7

 

その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

 

 

 

 

27.奴隷

 

 

コリント1・9・19−23

 

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

 

 

 

フィリピ3・10−14

 

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 

 

 

テモテ2・2・9

 

この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。

 

 

 

天界と地獄603注P478

 

奈落の自由は自己と世への愛により、またその欲念により導かれることにある、2870、2873。地獄にいる者はそれ以外の自由を知らない、2871。天界が地獄から隔たっているように、天界の自由は奈落の自由から隔たっている、2873、2874。自己と世への愛により導かれることから成っている奈落の自由は自由ではなくて、奴隷の状態である、2884、2890、なぜなら奴隷の状態は地獄により導かれることにあるから、9586、9589、9590.

 

 

 

 

 

 

28.第三天に上げられた

 

 

コリント2・12・1−12

 

わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。

 

 

 

結婚愛328

 

さて、これが自然的な人間は霊的な人間の考える思いを考えることが出来ず、またそれでそれを話すことも出来ない理由であって、パウロが第三の天界から聞いた事は口にすることが出来なかった(*)と言っている理由でもあります。

 

*コリント後12・4

 

 

 

 

29.青年パウロがわたしを知り

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P216

 

 その後、ほどなくして青年パウロがわたしを知り、彼の心の願いは完全に満たされた。悲しみの中で立ち去る代わりに、彼はすべてを捨ててわたしに従った。そのように、自分自身の義を信頼することをやめ、わたしに従う者は、わたしから真の平和と永遠の生命を得るのである。

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P216

 

 その後、ほどなくして青年パウロがわたしを知り、彼の心の願いは完全に満たされた。悲しみの中で立ち去る代わりに、彼はすべてを捨ててわたしに従った。そのように、自分自身の義を信頼することをやめ、わたしに従う者は、わたしから真の平和と永遠の生命を得るのである。

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P146

 

サンダー・シングは『天界の異象(まぼろし)』という、彼がビジョンの中で示された死後世界の物語を著しているが、しばしばスウェーデンボルグと比較されるに至った。しかし、詳細に検討すると、根本的なところで多くの違いが認められることも事実である。たとえば、スウェーデンボルグは、聖パウロは地獄にいるといった書き方を『霊界日記』の中でしているが、サンダー・シングによれば、聖パウロは最高天にいる。聖三位一体を否定するスウェーデンボルグに対し、サンダー・シングは、天界での幻の中で諸天使から聖三位に関する説明を詳しく受けている。従って、スウェーデンボルグとサンダー・シングの幻視体験は、別個に考えるべきではないかとわたしは思う。

 

 

 

 

30.わたしに倣う者になりなさい

 

 

コリント1・4・16

 

そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい

 

 

 

コリント1・11・1

 

 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

 

 

 

ガラテヤ4・12

 

わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。

 

 

 

フィリピ4・9

 

わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 

 

 

テサロニケ2・3・7−9

「あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。」

 

 

 

 

31.再生

 

 

ガラテヤ4・19

 

わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。

 

 

 

ガラテヤ6・15

 

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

 

 

 

 

32.真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる

 

 

神の摂理14

 

しかしそれが単に外的なものにすぎないことを知らずに、それを聞いて受ける者には、それはそのようなものではない。なぜなら外なる物は凡ての人にその者自身の内なる性格に応じて影響を与えるからである。真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる。遺伝的に自然的な善にいるが霊的な善にいない者の場合には殆どこのことが[前に言ったことが]言われる。なぜなら凡て善と真理の内的なものは霊的なものであり、これは誤謬と悪を斥けるが、単に自然的なものは誤謬と悪とを支持し、そして悪と誤謬とを支持して、しかも善を為すことは矛盾するからである。