外観的な熱意
天界の秘義2689[4]
しかしかれらが疑惑を容認し、その後否定的なものを容認する真の原因はかれらの悪の生命の中に見出されねばならない。悪の生命の中にいる者らはそれ以外のことを行うことはできないのである。なぜなら前に言ったように人間各々の生命はその者の情愛または愛であり、その情愛または愛のあるがままにその思考もあるのである。悪の情愛[悪を求める情愛]と真理の思考[真理を考える思考]とは決して連結はしないのである。こうした連結の外観がその中に存在している者らのもとでも[悪の情愛と真理の思考とが連結しているように見える者らのもとでも]実際にはそのような連結は存在していないで、たんに真理の思考が真理の情愛なしに存在しているにすぎないのであり、それでこうした人物のもとでは真理は真理ではなくて、たんに音声のようなもの、または何か口先のみのようなものであり、そこには心情が欠けているのである。このような真理は最悪の者でさえも知ることができるのであり、時としては他の者よりも良く知ることができるのである。ある者のもとにはまた、それは純粋なものであるとしかたれも考えることができないといった性質をもった真理の確信[真理についての確信]が見られるが、それでもそれはもし善の生命が存在しないならそうしたものではない。すなわち、それは自己を求める、または世を求める愛であって、その愛から、かれらはそれを激烈な外観的な熱意をもってさえも弁護し、いな、それを受け入れない者を、または自分と同じ様に信じない者を弾劾しさえもするといった確信が生まれてくるのである。しかしこの真理は、それが発生してくる源泉である各人における原理[主義]と同じ性質をもっており、自己を、または世を求める愛が強くなるに応じて強くなっている。それは実にそれ自身を悪に密着させもするが、しかしそれに連結させはしない、それでそれは他生では根絶してしまうのである。善の生命の中にいる者たちはそれとは非常に異なっている。これらの者のもとでは真理それ自身はそれ自身の土地と心情とをもっており、主からその生命を得ているのである。