聖言を研究する者

 

エフライムメモ

聖言は明るくされている者によらなくては理解されない

聖言による照示・啓示明るくされると心から喜ぶ

商人買う売る

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.聖母から司祭へ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄393

 

 世で名誉や利得のためではなくて、生命の用[益]のために、自分自身のためにも、他の者のためにも、聖言を愛して、その中の真理を熱心に求めた者たちは天界では教会の仕事に携っている。これらの者は用を愛し、用を求めるに応じて、そこに明るくされ、知恵の光の中におり、その光の中へまた天界の聖言から入って行くのである。天界の聖言は世のように自然的なものではなくて霊的なものである(前の259を参照)。これらの者は説教者の務めを果たし、そのことでも神の秩序に従って、明るくされているため、知恵で他の者に優っている者たちは高い地位にいる。

 

 

 

啓示による黙示録解説161

 

現今では人間は礼拝さえ守っておれば、いかような真理を知っているかは、いかようでもよい事柄とはなってはいないか。そして真理を学んで、それに従って生きようとの目的から聖言を探求する者は殆どいないため、それで礼拝については、それが死んでいるか、生きているかについては何事も知られてはいないものの、それでも人間自身は礼拝の性質に従って死んでいるか、または生きているか、その何れかになっている。もしそうでないなら、聖言は、またそこから来ている教義は何の役に立つであろうか、また教訓書のみでなく、安息日と説教とは何の役に立つであろうか、否、教会と宗教とは何の役に立つであろうか。礼拝は凡てその初めでは自然的なものであり、その後聖言から来ている諸真理とその諸真理に従った生活により霊的なものとなることは知られている、なぜなら人間は自然的なものとして生れているが、社会的な、道徳的なものになり、後には霊的なものになるために教育されるからである、なぜならかくして人間は再び生れるからである。

 

 

 

啓示による黙示録解説255

 

が、真理をそれが真理であるためか、またそれが人間の自己のみでなく、その隣人に対しても、霊的生命の用に役立つために、知ろうとする情愛から聖言を研究した者たちは異なっていた。これらの者が天界へ上げられ、かくて光の中へ―神的真理はそこではその光の中に在るのであるが―入れられるのを私は見たのであり、同時に彼らはその時、永遠の生命である天使の知恵とその浄福の中へ挙げられたのである。

 

 

 

天界の秘義4453

 

『商いをすること』が知識を得ることを、またそれを他に伝達することを意味していることは、天界では聖言がその内意に従って認められているが、そこでは商いをすることが出来ないためである、なぜなら天界では金、銀、またはこの世の商売の手段となるといった他のものは何一つ無いからであり、それで聖言に『商いをすること』が読まれるときは、そのことは霊的な意義で理解されて、商いに相応した事柄が認められるのであり、それは―全般的に言って―幾多の知識を得てそれを他に伝達することであり、特に述べられている対象により指示されているものの知識を得てそれを他に伝えることである。

 

 

 

天界の秘義3436

 

彼が途方に暮れる所では、他の記事から理解を与えられる。

 

 

 

天界の秘義4368[2]

 

なぜなら天界的なものである二つの情愛が存在しており、すなわち善の情愛と真理の情愛とが存在しているからである(そのことについてはすでに時折取り扱ったのである)。真理の情愛[真理に対する情愛]はひとえに善から発生している。情愛そのものはこの源泉から来ている、なぜなら真理は真理自身からは生命を得ないで、善から生命を受けており、それで人間が真理により感動する時は、そのことは真理から来ているのではなくて、その真理に流れ入って、その情愛そのものを生み出しているところの善から発しているのである。このことがここに『情愛が導入されるための情愛の相互的なもの』により意味されているものである。教会の内には主の聖言に感動して、非常に苦労しながらそれを読んでいる多くの者のいることは知られているが、それでも真理を教えられることを目的としている者は僅かしかいないのである、なぜなら大半の者はその者自身の教理に止まっていて、その教理を聖言から確認することが彼らの唯一の目的となっているからである。これらの者は真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるように見えはするが、しかしその中にはいないのである、なぜなら真理について教えられることを、即ち、真理とは何であるかを知ることを愛し、その目的から聖書を研究することを愛する者のみが真理の情愛の中にいるからである。善の中にいる人間、即ち、隣人に対する仁慈の中にいる者を除いては、まして主に対する愛の中にいる者を除いてはたれ一人この情愛の中にはいないのである。これらの者のもとには善そのものが真理へ流れ入っていて、その情愛を生み出しているのである、なぜなら主はこの善の中に現存されているからである。このことは以下の例により説明することが出来よう。

 

 

 

天界の秘義6222[2]

 

教会の知的なものと意志により意味されることを説明することが必要である。教会の知的なものとは信仰の真理の何であるかを、また仁慈の善の何であるかを聖言から認識することである。聖言の文字の意義は、何であれ人間がその抱いている教理をその意義から確認するといった性質のものであることは知られており、そのことは聖言の文字の意義は真理を受け入れる全般的な器であるためであり、またこの器の性質は真理を受けない中は透明なものを通して現れるよういは現れないためであり、かくてそれは単に全般的なものであるにすぎないで、人間が個々のものと単一なものとを適当に受け入れるためには、先ず人間により学ばれねばならないためである。聖言の文字の意義は、人間がその抱いている教理を何なりとその意義から確認するといった性質をもっていることは、教会にこれまで存在してきたところの、また今も尚存在しているところの極めて多くの異端から非常に明らかであって、その異端の各々はその徒党連により聖言の文字の意義から確認されており、実に彼らがそれは真理であると徹底的に信じているほどにも確認されており、以後天界から真理そのものを彼らは万が一聞くとしても、その一片も受け入れようとはしないのである。

 

 

 

天界の秘義6222[3]

 

 その理由は彼らは教会の知的なものを持っていないということである、なぜなら教会の知的なものは、人間が聖言を読んで、一つの記事を他の記事と入念に比較する時、何を信じ、何を為さねばならぬかを認識することに在るからである。この知的なものは主によって明るくされている者の中にのみ、基督教世界においてもまた明るくされている者と呼ばれている者の中にのみ見出されることが出来るのであり、この明るくされること[照示]は、名声と栄誉のためではなく、生命と用とのために、真理を知ろうと欲する人間の中にのみ見出されることが出来るのである。この明るくされることそのものは人間の知的なものにより受け入れられるのである、なぜなら明るくされるものは人間の知的なものであるからである。このことは知的なものを殆ど持っていない者は聖言からそのようなものを到底認めることが出来ないで、その者が明るくされている者と信じている者を信じているという事実から極めて明白である。更に再生している者たちは、明るくされることが出来る知的なものを主から受けることを知られたい。知的なものに流れ入って、それを明るくするものは主から発している天界の光である、なぜなら知的なものはそれ以外の源泉からはその光を、その視覚を得ないからであり、従ってその認識を得ないからである。

 

 

 

 

結婚愛18

 

 その一行の者の天使は、それを聞くと、賢人たちに言った、(中略)

最初創造された人間は、知恵とその愛を与えられましたが、それは自分自身のためではなく、それを自分から他の者に伝えるためでした。ここからたれ一人ただ自分自身のために賢くなり、ただ自分自身のために生きるのではなくて、それと同時に他の者のために賢くなり、他の者のために生きるということが賢人の知恵の中に刻みつけられております。ここから社会が生まれているのであって、でないなら、社会は存在しないでしょう。他の者のために生きることは用を遂行することです。用は社会のきずなであって、善い用と同じほど多く、数々は無限です。神に対する愛と隣人に対する愛に属した霊的な用があり、人間が住んでいる社会と共同体に対する愛に、またその仲間と同胞に対する愛に属した道徳的な、社会的な用があり―その仲間と同胞との間に彼は住まっているのですが―世とその必要な物とに対する愛に属した自然的な用があり、高い用のために身体の保存を求める愛に属した身体の用もあります。この凡ての用は人間に刻み付けられて、順序を追って、互いに他に従っており、そしてそれが共存しているときは、一は他のものの中に存在しているのです。霊的な最初の用の中にいる人は、その後に来ている用の中にもまたいて、これは賢い人々です。しかし最初の用の中にはいないが、第二の用の中にいて、そこからその後に来ている用の中にいる者は、さほど賢い人々ではなく、その外的な道徳性と社会性とによって賢い人々であるように見えるに過ぎないのです。第一の用にも、第二の用の中にもいないで、第三の用と第四の用の中にいる者たちは全く賢くはなく、彼らはただ世を愛し、世のために自分自身を愛していますだめ、事実は悪鬼です。そして単に第四の用の中にいるに過ぎない者は凡ての中でも最も賢明ではないのです。なぜなら彼らは自分自身のためにのみ生きており、もし他の者のために生きるにしても、それも自分自身のためであるため、悪魔です。

 

 

 

 

 

 

2.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1981.3.25

 

そして、そのみことばを思いめぐらし、熱心に理解しようとつとめる。