買う
天界の秘義5374
「買うために」。これはそこから己がものとすることを意味していることは、『買うこと』の意義から明白であり、それは自己のために得ることであり、かくて己がものとすることである。霊的に得て、己がものとすることは善と真理とにより行なわれるのである。このことに、世では金銀により行なわれるところの、得ることと所有する[己がものとする]こととが相応している、なぜなら霊的な意義では『銀』は真理であり、『金』は善であるからである。ここから『買うこと』は、また聖言の以下の記事におけるように、所有すること[己がものとすること]を意味している―
渇いている者は凡て水のもとに来なさい、また銀を持たない者も。あなたたちは来て、買って、食べなさい。まことに、来て、銀なしに、価なしにぶどう酒と乳とを買いなさい(イザヤ55・1)、またはエレミア記に(13・1、2、11)。
マタイ伝には―
天国は畠にかくれた宝に似ている、人がそれを見つけると、かくしておき、喜びのまなり行って、その持っているものを凡て売って、その畠を買うのである。さらに天国は良い真珠を求めている商人に似ている、かれは行き、その持っているものを凡て売って、それを買った(マタイ13・44−46)。
さらに―
思慮のある処女たちは愚かな者に言った、あなた方は売る者のもとへ行って、自分で買いなさい。で、かれらが買うために行っている間に花婿は来た(マタイ25・9、10)。
天界の秘義5374[2]
『買うこと』は所有[己がものとすること]を意味しているため、それで聖言では銀で買われた物が他の手段で得られた物と区別されていることは当然である。さらに銀で買われた僕らはたれかその者自身のもののようになり、家に生まれた僕のように地位[度]が低かったのであり、それでしばしば共に記されている、例えば創世記には―
あなたの家に生まれた者とあなたの銀で買われた者に割礼をほどこさなくてはならない(創世記17・13)。
またレビ記には―
もし司祭がたれか魂[人]を銀で買うなら、その者とかれの家に生まれた者とはかれのパンを食べなくてはならない(レビ記22・11)。
ここから聖言の『エホバ』によりあがなわれた者(または買いもどされた者)により意味されていることが明らかである、すなわち、善と真理とを受け入れた者が意味され、かくて主の物を己がものとされた者たちが意味されているのである。
天界の秘義5886[4]
霊的な意義では『買うこと』は自己のために得ることであり、『売ること』は遠ざけることであるため、それでマタイ伝には、天界の王国は主により売り買いする者にたとえられている―
天国は畑にかくれた宝に似ている、人がそれを見つけると、かくしておき、喜んで去り、その持っているものを凡て売って、その畑を買うのである。さらに、天国は美しい真珠を探し求めている商人に似ている。かれは貴重な真珠を見つけると、去り、その持っているものを凡て売って、それを買ったのである(12・44−46)。
『天国』は人間のもとにある善と真理とを意味し、かくてそのもとにある天界を意味し、『畑』は善を意味し、『真珠』は真理を意味し、『買うこと』は善と真理を自分自身に得て、自分自身のものとすることを意味し、『その持っているものを凡て売る』は、かれが以前持っていたかれ自身のものを遠ざけることを、かくて悪と誤謬を遠ざけることを意味している、なぜならこれらは自分自身のものであるからである。
[5]ルカ伝には―
イエスはその若いプリンスに言われた、あなたは尚一つの事を欠いている、あなたが持っているものをことごとく売って、貧しい者に分け与えなさい、さすればあなたは天に宝を得るでしょう。そして来て、わたしについてきなさい(18・22)。
内意ではこれらの言葉により、悪と誤謬以外のなにものでもないところの、かれ自身のものである凡てのものは遠ざけられねばならない、そしてそれが遠ざけられたときかれは『天の宝』である善と真理とを受けるにちがいないことが意味されているのである。
[6]同書に以下のように言われていることも同様である―
あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、つきない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。
たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。