自殺
1.スウェーデンボルグ
2.マリア・ワルトルタ
3.サンダー・シング
4.公教要理
5.ルイザ・ピッカレータ
6.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる
1.スウェーデンボルグ
スウェーデンボルグ/霊界日記1336/たま出版P61
ある者はこの世にいたとき短刀を突き刺して自殺したが、彼は憂鬱症から自暴自棄に陥った。彼はこうした状態へ邪悪な霊たちによって駆り立てられたのである。彼は私のところへやって来て、「私は悪霊どもに悲惨に扱われています。私を絶えず挑発する怨霊に私は囲まれているのです」と訴えた。彼のいた場所は低地の、やや左側であった。また彼は、手に短刀をもち、自分の胸へそれを突き当てようとしているように私には思われた。彼はその短刀を手もとから投げ捨てようと懸命に骨折ったが、無駄だった。
自殺した者について
霊界日記1336
ある一人の者は身体の生命の中で自分自身にナイフを突き刺して自殺したが、彼は悪魔の霊共により憂鬱症に駆り立てられ、そのため自暴自棄に陥ったのである。彼は私のもとへ来て、自分は悪霊共により悲惨な処置を受けていると訴え、自分は怨霊共の間におり、怨霊共は絶えず自分を悩ませている、と言った。彼のいる所は低地の、やや左側であった。彼はまた手にナイフを持っていて、それを自分の胸に突き刺そうとしているように私には思えた、彼はそのナイフを手元から投げ棄てようとやっきになったが、出来なかった。
霊界日記1337
なぜなら、私が話されたことではあるが、何であれ死の最後の時間に起るものはことごとく、それが消えて見えなくなるまでは長い間残るからである。1748年[60歳]3月14日
2.マリア・ワルトルタ
ユダ:「では先生、私は何を捨て去ればよろしいですか」
イエス:「おまえの心をかき乱すと分っていることなら何でも。なぜなら、神は平和で、おまえが神の道を歩きたいならば、おまえの知恵、心、肉体にとって平和でないこと、すべてを抹殺すべきです。自分自身を改革することが難しいのは知っています。しかし、私は、あらためて神の子となるように、人間を助けるためにここにいます。しかし、おまえのさきほどの質問に答えます。適切な私の答えがなく、おまえがあやまちに残ったのは私の責任だと言わせないように。自決するのは他人を殺すのと同じです。自分の命であろうと、他人の命であろうと、命は神の賜物で、これを与えた神だけが、いつかそれを切る権利があります。自決する人は、自分の傲慢を告白するもので、傲慢は神に憎まれています」
「傲慢を告白するとおっしゃるのですか。私はむしろ絶望を告白すると言いたい」
「しかし、絶望が傲慢でなくて何でしょう。ユダ、ちょっと考えてみなさい。人はなぜ失望するのですか。さまざまの不幸が集中豪雨のように降りそそぎ、それに自力で打ち勝ちたいと思ってもできないか、もしくは、自分は罪人で神に許されないと考えているからです。
この両方とも、もとをただせば傲慢ではありませんか。じぶんだけで何でもしたいという人は“私にはできないけれどもあなたにはできます。私を助けてください”と神に手を伸ばし、あなたにすべてを期待し、すべてを希望するという神への謙遜がないのです。“神は私をゆるしはしない”と言っているもう一人の人は、神を自分自身と比べて、自分が侮辱した人は自分を許すわけがないと知っているからです。すなわち、ここにも傲慢があります。謙遜な人は、あわれみ、同情し、受けた侮辱のために苦しんでいてもゆるします。傲慢な人はゆるさない。“父よ、私は罪を犯しました。罪深いあわれな子供をゆるしてください”と頭を下げることを知らないからです。
ユダ、知らないのですか。真実な痛悔をしている心、謙遜で善に復活したいという望みの心でゆるしを請うなら、御父からすべてゆるされるのを知らないのですか」
「しかし、ある犯罪は許されてはいない。ゆるされることはあり得ない」とユダが言い返す。
「おまえがそう言うのだし、人間はそう思うから、そのとおりかもしれない。しかし、まことに言うが、“最悪の犯罪”の後でも、罪人が御父の足元に走り寄り―ユダ、そのために御父と言われます。そして、無限に完全な父です―泣きながら、どんな償いも拒まず、失望せず、自分をゆるすようにと請い願えば、御父はゆるしを得るために、霊魂を救うに値するものとなるように、償う方法を与えるはずです」
「それなら、あなたに言わせれば、聖書で自殺して死んだと言っている人々は悪かったのですね」
「だれに対しても、自分に対しても暴力はよくない。その人たちが悪かったのです。ただ、善悪の判断がまだできなかったから、ある時は神からあわれみを受けたと思われます。しかし、みことばがすべての真理をはっきりさせたであろうその時から“絶望して死ぬ人にはゆるされはしない”
ユダ、このことをよく考えなさい。命は賜物の一つで、愛すべきものの一つです。しかし、どういう賜物でしょうか。聖なる賜物ですから、清い心をもって愛すべきです。命は肉体が健全である間、続きます。後には、大なる命、永遠の命が始まります。義人たちにとって幸福、義人でない人にとって呪いの命。命は目的か手段か? 手段です。永遠という目的のために役立たせるべきです。それなら、この世にいる間、命に生きるためと霊に仕えるため、それだけのものを与えるべきです。肉体の“すべて”の欲望を節制すべきです。理性の“すべて”の邪悪な望みを節制すべきです。人間くさい“すべて”の邪欲に、心の節制をすべきです。その代わり、天を目指している“すべて”の憧憬への限りない飛躍、神と隣人への愛、神と隣人に仕える意思、神のみことばへの従順、善と徳に対しての英雄であるべきです。
ユダ、私はおまえに答えました。この説明で十分ですか、納得できますか。いつも真実でありなさい。よく分からないようなら質問しなさい。私は先生でいるためにここにいます」
「はい、分かりました。それで十分です。けれども・・・いま分かってきたことを行うのはきわめて難しい。先生は聖人だからできます。しかし、私は男で、若くて、生命力にあふれているから・・・」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/上P40
それほどの、神のみ業の贈り物に対し人生は感謝して生きるに値する。また生きるものであることを感謝すべきである。世の終わりにならなければ、あがなわれなかったにしても、その感謝を表すべきであった。なぜならあなたたち最初の人間から始まって、今に至るまで、個個の人は違反者で、傲慢で、淫乱で人殺しであるにもかかわらず、神は宇宙の美しさ、宇宙の恵みで楽しむことを今でもゆるしてくれるばかりか、あなたたちがよい子供たちであるかのように、生活をより楽しくするために、すべてを与える。あなたたちが知っていることのすべては、神の光による。発見することも神の指定による。よいことは皆、神より出る。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/下P100
総督館で私が身ぐるみはがれるのをあなたは目にしましたが、それと同じように、神の賜物である命に対して欠かせない尊敬は別にして、すべての人間的なものを脱ぎ捨てて、神が子羊の血によって清めた不滅の服を与えてくださるのを待つべきである。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P42
霊魂はからだの先に死ぬことがある。そして、おまえたちは意識せず、腐敗した霊魂を運んでいるということがありうる。霊魂の死は肉体に感じられない! 花の死と同じように一つの叫びもなく、もがきもしない・・・。疲れた花びらのようにその炎を垂れて消える。時としてはすぐあとに、時としてはずっとあとに、身体は自分の中にうじだらけの屍(かばね)を運んでいるのに気がついて恐怖のために気が狂って、その共存を避けるために自害する、ということもある。しかし、逃れることはできない! 自分のうじだらけの霊魂とともに蛇のうごめく地獄の底に落ちる。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難P294
“罪を犯した人はすべてにおいて恐れの幻を見る”それをつくり出すのは良心である。サタンは心に後悔を起こし得るそういう幻を、落胆と絶望にすりかえる。絶望が最後の犯罪である自殺へと導くのである。ユダは裏切りの金を投げ捨てたが、この行為はただの怒りのみからくる結果で、痛悔の正しい意志に支えられたものではなかった。後悔が心からのものであったなら、その行為には功徳があっただろうが、ユダのしたことは空しいものであった。
私の母は―マリアにおいて話していたのは、私の恩寵また私の名前でゆるしを提供していた私の宝の保管者であった―こう言った。
『ユダ、悔い改めなさい。イエズスはゆるすものです』
そうだとも。私はどんなにユダをゆるしたかったか。ユダが母の足元にひれ伏して、“あわれんでください”とひとこと言ったならば、かのあわれみ深い婦人は負傷者を助け上げるようにして、敵が犯罪をそそのかしたその悪魔的な傷の上に人を救う自分の涙を流し、ユダがサタンに奪われないように、また弟子たちに打たれないように、その手をとって十字架の足元まで連れていき、私の血が罪人たちの中で最大の罪人であるユダの上に、だれよりも早く注がれるようにしただろう。そして、清さと罪との間、自分の祭壇の上に“女司祭”としてマリアは立っただろう。マリアは童貞者たちと聖人たちとの母であると同時に、罪人の母でもあるから。しかし、ユダは望まなかった。おまえたち人間の自由意志の力を黙想せよ。それはすべておまえたちの手に握られている。それによっておまえたちは天国あるいは地獄を得ることができる。罪の中にかたくなにとどまるとはどんなことか深く黙想しなさい。
十字架像は、おまえたちを愛していると言おうとして両手を広げて、はりつけられたままを表す。おまえたちを愛しているがために、おまえたちを打つのを望まない。また、おまえたちを抱くという慰めを自分に拒むことは、私にとっても大きな苦しみである。その十字架につけられたものは、悔い改めて罪から離れる人々にとっては神的な希望のもとだが、痛悔しようとしない人々にとってはどれほどの嫌悪のもとか。冒瀆を吐き、自分自身への暴力を使わせさえする。こういう人々は、かたくなに罪に執着しているがために自分自身の霊魂と体との殺人者となる。そして、人々を救うという希望のために自分が屠られるのを許したあの“柔和なもの”の姿は嫌悪の幻に変わるのである。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P109/529・8
イエズスは、老人に近づいて肩に手を置き、優しく、しかし、きっぱりと言う、「あなたは長い人生で、たくさんのことができました。でも、また欠けているものが一つあります。神から決められた死の時を、一分も早めず、遅らせずに、受け入れることです。あなたは、たくさんのことを諦めてきました。そして、神はあなたを愛しておられます。最も難しいこと、死を望むしかないなかで生きることに、身を委ねなさい。」
3.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P54
あるとき、わたしは霊界において、後悔の叫び声をあげながら狂ったように駆け回っている一人の霊をみた。
そのとき、天使がいった。
「現世でこの人は悔い改めて神に立ち返る機会を幾度となくもったのだが、良心に悩まされるようなことがある度に酒で心の痛みを流し去っていたのだ。彼は財産をすべて使い果たし、家族を没落させ、しまいには自殺を図った。そして今、霊の世界において、まるで狂犬のごとく辺りを駆け回り、自分の失った機会を思って後悔に悶え苦しんでいるのだ。われわれは彼を助ける用意はあるが、彼自身の歪みきった性質が悔い改めを妨げている。罪の記憶は彼にとって常に新しいにもかかわらず、罪が心を硬化させてしまっているからだ。彼は現世では良心の声を忘れるために酒浸りになっていたが、ここでは何一つ覆い隠すものはない。今や、彼の魂は裸になり、彼自身も霊界すべての住民も、その罪深い生活をみることができる。罪に凝り固まった状態にある彼にとっては、他の悪霊とともに闇の中に身を隠し、光の責め苦を少しでも逃れるより、他にとるべき道はない」
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P60
不義密通せる者の霊
わたしは、霊の世界にきて間もない一人の密通者の霊をみた。舌は渇き、疲れた者のごとく垂れ下がり、鼻の穴は膨れ上がり、辺りに拳を打ちつけ、まるで何かの火が内側から彼の身を焦がしているかのようである。その姿はあまりに邪悪で忌まわしく、わたしは思わずめを背けたほどであった。贅沢と快楽のための品々をすべて現世に残し、今、彼は狂犬のごとく辺りを駆け回り、叫び声をあげていた。
「ちくしょう! ここには苦しみを終わらせる死がない。ここじゃ、霊は死なないのだ! そうでなければ、苦しみから逃れようと現世でピストル自殺したように、また自殺してやるのに。だが、ここの苦しみは現世の苦しみよりずっと大きいのだ。どうしたらいいのだ」。彼はこういいながら、似た心の霊たちがいる闇の中へと走り、姿を消してしまった。
聖徒の一人がいった。「汚れた行為ばかりが罪なのではない。汚れた想念、汚れた視線も罪なのだ。この罪は見知らぬ女との姦通にのみいえることではない。妻との間に過ぎた獣的関係をもつこともまた罪である。夫婦は快楽のためではなく、支えあい助けあうため、本当の意味で一緒になるのだ。子供とともに、人類への奉仕と神の栄光に生きるようにするためである。この生の目的から外れる者は姦淫の罪を負うことになる」と。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P99
体の死がこの自然の絆を断ち切るときまで、世を捨てられる人間は誰一人いないのです。事実、神ご自身がこの世の絆を断ち切ることを求めておられません。神は、われわれがその中に生き、動き、存在するがために、この世界をお造りになったのであり、そうでなければ、人間をこの世界に置かれるようなことはなさらなかったでありましょう。神の聖なる目的に従ってこの世のことがらを正しく使い、地上に生きている間に天上の故郷に対して準備することが、神の御心です。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P177
人によっては、悪念の力がはるかに優り、あらゆる希望を失って、絶望のあまり自殺する者もいる。だが、このような人たちは自分を殺すよりも神の御力を借りて、勝利する力と希望を砕くこうした悪念を、むしろ殺すべきである。毒物や殺傷武器を使って自己の生命を奪うのではなく、祈りのような霊的武器を使って悪を根から絶ち滅ぼす必要があるのだ。そうすれば、自分を殺すことなく救い上げ、そのことによって、他の人々が自分を救うための手助けをすることにもなる。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P178
4.利己主義もまた、ある意味での自殺である。神は人助けに使える何らかの素質や能力を誰にでもお与えになっているからだ。われわれは、人助けをしているときに新しい歓びを知り、また自分自身をも助ける。これは内なる存在の法則である。他を助けなければ、この歓びを失うことになる。自分と同じように隣人を愛することがなければ、神に背いていることになる。このような背きによって、霊魂の糧そのものである歓喜が失われ、霊の飢えによってわれわれは自分を殺すことになる。利己的人間は自分の益のために働いていると思い込んでいるが、知らずに自分自身に大きな損失を加えているのである。誰もが心を改めて利己主義を捨て去れば、この世のすべての紛争や諍(いさか)いはなくなり、地球も天国と化すだろう。すべて罪は利己主義からくるのである。「自分を捨て、わたしについてきなさい」と主がご命じになった理由はここにある。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P278
[7] この世においてもかの世においても、心の渇きが神によってしか満たしえないことを知らずにいる人が非常に多い。そのような人たちの中には―哲学者も犯罪者も含め―この世に満ち足りを感じられなくなって自暴自棄になり、自殺を図って人生を終わらせようとする者がいる。これと逆なのが真の神を信ずる者である。霊的経験の中で成長が高まれば高まるほど困難が増してくるため、彼らは現世において非常に苦しむ。俗な心の持ち主はこのことをまったく理解しないため、彼らは手をさしのべるよりも迫害することの方が多い。ところが、彼らは世俗的な野心を否定して神との交わりの中に平和を実現しているので、絶望のあまり自殺するということがない。もっとも、すべて霊の渇きは神の中で満たされるとはいえ、人は友との交わり、共感に憧れる。そして、このような社会的交わりが満たされない場合には、神であり人であるキリストが、社会的性格の交わりばかりか霊的なそれをも満たしてくださる。人の痛みに対する主のご理解は神の性質からくるばかりか、人として苦しまれたときの実体験からきているので、苦しみの中にあるどのような人々にも完全な助けと憐れみをかけることができるのである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P359
神の方法に対抗することをやめ、神の意志に屈服するや、神との調和を回復することの中に平和を知る。自分の意志を捨て去るときに、神の意志をはたすことの中に平和を見る。一方、自分の思いを遂げることに執着していれば、思いが遂げられないばかりか、遂げる力そのものを滅ぼすことになる。神と調和していないからである。言葉を換えれば、自分を捨てる者は、自分自身と神、その他すべてを見出すが、自分を捨てない者は、神の意志に逆らうことによって霊的自殺を図ることになる。
4.公教要理
カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約P238
第五のおきて 殺してはならない
466人間のいのちを尊重しなければならないのはなぜですか。
人間のいのちは神聖だからです。いのちはその始めから神の創造のわざの結果であり、その唯一の目的である創造主と永久に特別な関係を保ち続けます。自らを守るすべをもたない人間のいのちを直接的に破壊することは何人にも許されません。それは人格の尊厳と創造主の聖性に背く重大な行為だからです。「罪なき人、正しい人を殺してはならない」(出エジプト記23・7)。
470第五のおきては何を禁じていますか。
第五のおきては道徳法に反する重大なこととして、次のことを禁じています。
直接的かつ意図的な殺人およびその共犯。
目的または手段として意図された直接的な妊娠中絶、さらにはその共犯。これは破門制裁に値します。人間のいのちは受精のときから、全体として絶対に尊重され、保護されなければならないからです。
直接的な安楽死。これは障害者や病人あるいは瀕死の状態にある人のいのちを、作為によってあるいは取るべき処置を取らないことによって死に至らせることです。
自殺と意図的なその幇助。これは神と自分自身、そして隣人への正しい愛に対する重大な侮辱だからです。その責任については、つまずきを生むことでより重大なものとなりえますし、特異な精神的混乱や極度の怖れがある場合には軽減されることもありえます。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P59
悪魔が私を自殺へと誘惑した時、私は彼らに言いました。「おまえたちにも、私にも、自分の命を破壊する権利は与えられていません。おまえたちにはただ私にもっと利益を獲得させるために、私を苦しめることだけが許されました。でも私の存在を取り去る権能は与えられていません。また心のくさったおまえたちに比べて、私は私の神を常により愛することができるように、また私の隣人を救うためにいつも有益であるように神様のうちに生きたいのです。霊的におまえたちから苦しめられることによって与えられた益を、彼らのために役立てるのです。」遂に彼らにとって何も得られる希望がないのを理解し、むしろ多くの霊魂を失っていくことに気づいた彼らは、私が予期していない時にまた激しい戦いを開始する目的で、長い休憩の時をおくようになりはじめました。
6.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58
新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。